築城はあなさびし もえ上る焔のかたちをえらびぬ
作者・出典:葛原妙子・『原牛』「劫」連作より
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弘前を旅した際に、弘前城を詠んだ一連の歌のなかの一首。
一読、五七五七七の形式を放棄している。
歌壇では、一般に、第三句欠落の歌、のひとつとして
知られているが、それほど単純なものでもないと思う。
意味の切れ目でリズムをチェックすると、
築城は/あなさびし/もえ上がる/焔のかたちを/えらびぬ
五五五八四
となっているので、僕としては破調の一首として読んでいる。
とはいっても、第二句「あなさびし」のあとに、
一字空けしているところをみると、第二句の直後の
空白こそ、何らかの問いかけがあるのは確かでしょう。
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「あな」は、詠嘆なので、
築城はあなさびし
は、
「築城というものはああ、なんとさびしいものであるか」
ということですね。
そして、やはり「幻視の女王」と呼ばれた真骨頂が現れているのが、
後半部分、
もえ上る焔のかたちをえらびぬ
です。
天守閣に至るまでの城のカタチに、炎の姿を視ている。
いずれ、攻め落とされ、阿鼻叫喚の炎に包まれる運命を。
つまり、
築城=城を築くという行為自体が、すでに滅びを含んでいるのだと、
葛原は幻視しているわけです。
すこし哲学的に言えば、
存在は滅びを含んでいる
存在は時間を内包している
ということでしょうか。
一連の中には、
城主は高きにのぼる軍兵のよするまぼろしを四辺に置きて
ルビ:軍兵=ぐんぴょう
という歌もあります。
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同じように弘前城に観光へ行っても、
1.絵葉書を繰るように見るだけか
2.深く歴史に思いをいたして鑑賞するか
3.存在の本質にまで踏み込んで視るか
こんな違いがあるように思えます。
こころの内部にどれだけひろい空間、感性を
開拓しているか、の違いでしょうか。
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