革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
作者・出展:塚本邦雄・『水葬物語』
読み方:かくめいかさくしかによりかかられてすこしずつえきかしてゆくぴあの
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短歌もご多分にもれず槍玉に挙げられました。
- 五七五七七の叙情性への逃避
- 短詩型であるがゆえに情報量が少なく、近代的な批判性を欠く
ということで、短歌は芸術になりえない。
いわば、「第二芸術」である、と。
この批判を受けて、歌人は真面目に落ち込んでしまったわけです。
俳句も同様の批判を浴びたのですが、
俳人の反応は、
「今まで第三芸術だと思っていたのに、
第二芸術まで格上げしてもらえて、ありがたい」
という洒脱なもの。
歌人の生真面目ぶりとの対照が面白くって、
同じ短詩型文学でも、ほんとに歌人と俳人では
性格に違いがあって面白いです。
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掲出歌は、そうした第二芸術論に対するアンチテーゼ。
まずは、批判1の
「五七五七七の叙情性への逃避」
に対しては、五七五七七を句跨り(くまたがり)で分断して
叙情性を切り捨てることで対応しています。
掲出歌を、五七五七七のリズムであえて読んでみると、
革命歌/作詞家に凭より/かかられて/すこしづつ液/化してゆくピアノ
となります。
冒頭がわかりづらいですが、「革命歌の作詞家」ということでしょうね。
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まず目を引くのが、「液化してゆくピアノ」のシュルレアリスム。
塚本邦雄以前にも、短歌にシュルレアリスムを取り入れる歌人はいたのですが、
絵画的なシュルレアリスムというだけではなく、「液化してゆくピアノ」
が象徴表現(暗喩)になっていることに注目したいです。
つまり、作詞家(この場合は歌人を指していると解釈しています)の
怠惰・無能さによって、革命の音楽が無駄に流れていくさま、
を「液化してゆくピアノ」と象徴的に表現しているわけです。
怠惰・無能さというのは、「凭よりかかられて」というイージーな
ポーズによって解釈されます。
*この歌を、「ピアノが液化して革命歌が広がっていくさま」との
新解釈も読んだことがありますが、僕は「凭よりかかられて」の
イージーさに、やはり作詞家に対するナナメ目線を感じるのです。
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つまり、こうした象徴表現によって、
第二芸術論批判2の、
「短詩型であるがゆえに情報量が少なく、近代的な批判性を欠く」
へのアンチテーゼとしているわけですね。
象徴主義によって、
キチンと批評性は担保できますよー、と。
つまり、掲出歌は作者第一歌集『水葬物語』冒頭の一首なのですが、
冒頭の、たった一首で、作品をもって、第二芸術論への反論を完了
しているわけです。
おそるべし、塚本。
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もう一度、音韻(おんいん)を再検討してみます。
革命歌/作詞家に凭より/かかられて/すこしづつ液/化してゆくピアノ
これ、明らかに、<カ>音が意図的に盛り込まれていますね。
五七五七七をたんに分断するのではなく、
初句冒頭・末尾の<カ>:「革命歌」
三句冒頭の<カ>:「かかられて」
結句冒頭の<カ>:「化してゆくピアノ」
というふうに、確信犯的に使われていると思われます。
塚本を破調の歌人と捉える向きも一部ありますが、
とんでもなくって、これほど定型に敏感な歌人はいません。
定型に敏感だからこそ、効果的に、「コワせる」わけです。
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この、カ音の連なりを味わっていくと、軍靴のひびきのように思えてきます。
つまり、短歌は無為・無能であるかもしれないけれど、
現実の革命の音=軍靴は聞こえないか?
との問いかけではないかと。
・・・といった歌評(かひょう=歌の批評)は寡聞にして、
聞いたことないんですが、おそらく、
塚本はこの効果も狙って作ってると思いますよー。
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まあ歌の意味、つまり、マルクス主義的革命を期待する意には
時代を感じるな、と差し引いて考えても同調しかねるのですが。
歌人(作詞家)の批評性のなさをいったん受け入れ
(つまり、作詞家の怠惰・無能さにより、
ピアノ=革命の音楽は液化して流れていってしまうので)
つつも、歌のテクニック・技法でもって、
「いや、違う。近代的批評性はある!」
と反批判してしまう技量にはやはり脱帽してしまいます。
塚本の性格では、
「いや、違う。近代的批評性はある!・・・(少なくとも僕の歌にはね)」
の、( )付きかもしれませんが。笑
とまれ、おそるべき超絶技巧です。
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