芸術と哲学の関係 – イデーの模倣としてのアート

芸術の哲学

ネオ仏法では、音楽や絵画など芸術・アート全般も「真理スピリチュアルの表現形態のひとつ」、という位置づけをしています。

まず、真理(実在)というものが先立ち、その具体的展開(現象)として政治や経済、学問、芸術などのさまざまな人間的営みがある、という解釈です。

ネオ仏法ではいろいろ言っているようですが、この「実在 – 現象」という枠組みそのものは一貫しております。

なぜ、この点をまずハッキリさせているかと言いますと、芸術、まあ芸能などのエンターテイメントも含まれますが、

芸術そのものがまったくそれ自体で独立しているジャンル、というふうに位置づけてしまうと、「とにかく売れている方が偉い」という発想に行ってしまうからです。

やはり、芸術もまた、それ自体では存在できない。他の現象および真実在との関係性において存在している、ということで<無我>なわけですね。

プラトン的に言えば、「哲学的真理、哲学的イデー(イデア)の模倣が芸術である」と言えそうです。

ロシアの文豪トルストイも、

美と愉悦(よろこび)とは、善に依存することなしに、ただ美と愉悦そのものとしては、ーー 厭わしいものである。私はこの事がはっきりした。そしてそれらのものを棄て去った。

と述べております。

「善に依存することなしに」という言葉は若干、古めかしく聞こえるかもしれませんが、当サイトの言葉で言えば、「真理スピリチュアルに基づいたものでなければ」というふうに読み替えてよろしいかと思います。

また、アウグスティヌスは『告白録』において、以下のように述べています。

芸術家の魂を通してその巧みな腕に委ねられたこれらの美しいものは、魂を超えており、わたしの魂が日夜喘ぎもとめているあの美そのものに由来するからです。しかし外的な美を作るひとたちも、それを追い求めるひとたちもあの美から判断基準を引き出しますが、しかしそこから使用の基準は引き出しません。この使用の基準もそこにありますが、彼らはそれが見えません。(『告白録』第10巻第34章)

告白録

芸術はその根本において、<真実在>の美をモデルにしているが、一方、「どのような価値基準で制作をしているか?」については、<真実在>の基準を無視しがちである、ということですね。

このように、芸術・芸能を真実在との関係性で位置づけておくと、おのずから、「どういった芸術・芸能が真理から見て優れているのか」ということが判定できますし、

また、そうした仕事をしている方々にとっても、「芸術を通して自利利他の菩薩行を行っていくためにはどうしたら良いか?」という指針を得ることができるようになります。

法の哲学、政治哲学…などと同様に、芸術においても、哲学的な基礎づけ、方向づけが大事であるということです。それゆえの、「芸術の哲学」が今回のテーマです。

目次

作品の真理価値と芸術家の霊格

「霊格を上げていくための公式」がそのまま当てはまる

上述したように、「芸術も真理スピリチュアルの下部構造である」という理解で行くのであれば、

芸術家の作品の高さ・低さ、および、芸術家の霊格というものも、特殊に考える必要はなく、真理スピリチュアリズム一般の法則が当てはまることになります。

「霊格を上げていくための公式」というのを以前、ご紹介したことがあります。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします(「菩薩になるための公式とは?」参照)

まずは、

智慧×慈悲=霊格(仕事量)

というシンプルな公式です。

縦軸に「智慧」、横軸に「慈悲」という四角形の面積を想像するとイメージしやすいかもしれません。

ただ、この公式はイメージしやすく表現したもので、実際のところ、智慧と慈悲が両方ともマイナス(=非天国的)であった場合は、マイナス×マイナスでプラスになってしまうじゃないか…という欠点があります。

なので、数式的により正確に表すと下記の公式になります。

(智慧の質+慈悲の質)×(智慧の量+慈悲の量)=霊格(仕事量)

智慧の質/慈悲の質

上記の公式から分かることは、まず順序として、「智慧の質」と「慈悲の質」をまず担保するが大事、ということです。

智慧の質というのは、(芸術で言えば)作品に接する人の魂を高みにいざなう性質、ということになります。

これが逆に、作品に接する人の魂を堕落させるさせる方向であると、「智慧マイナス」の状態になってしまいます。

そうすると、作品が世の中に拡がれば拡がるほど、「世界に害悪を撒き散らしている」ということになり、世の評価がどうであれ、これは実在界の観点からは、「努力逆転の法則」に見事に当てはまってしまうことになります。

ひらたく申し上げれば、「売れれば売れるほど(有名になればなるほど)、深い地獄界へ赴く」という下方圧力がかかることになるわけですね。

地獄文学

上述のアウグスティヌスの言葉はまさにこのことを言っているわけです。真理の”使用基準”を満たしていない。

これは実際は、現代社会ではかなり観察できる現象です。

小説やドラマなども地獄的な要素が多く入っていると、刺激的であるとか、ストレス発散になる(?)ということなのか、けっこう売れてしまう傾向があります。

そうすると、現象界(この世)では「有名作家」ということになりますが、実在界(あの世)へ還ってみると、真っ暗な世界で愕然とする、みたいな。そういうふうになっていきます。

なので、まずは、「智慧の質」ですね、

智慧の質のところを、まずは地獄ではなくて天国的な質に仕上げていくということ。マイナスではなくてプラスの状態に持っていくこと、がなにより先決です。

そして、その次の段階として、

天国的な智慧であるにしても、その智慧が真理としての奥深さをどれだけ持っているか?という観点です。

ここのところ、たとえばですね、

「頑張れば道は開けます!」くらいの智慧であれば、まあ天国的ではあり、「智慧プラス」の状態ではありますが、しかし、このくらいだと、「中学生でもこのくらいのことは言えるよなあ」という若干、浅い側面はありますね。

そこのところを、なぜ、道が開けるのか?をさらに突き詰めて、

たとえば、「想念の法則性」についてきっちりと説明が付けられているのであればけっこう智慧の質は高まりますよね。

あるいは、実際はこの世では「道が開けない」という場合もありますので、そうしたときに、「どういう思考方法で切り抜けていけばいいのか?」という知恵まで含まれているのであれば、これはさらに「智慧の質が高い」ということになるでしょう。

さらにさらに、

「それでは、そうした「想念→自己実現のプロセス」の背後にある神仕組み、ですね。至高神の意思のようなところまで説明できれば、さらに智慧の質が高くなります。

これはもう究極に近いレベルで、このレベルまで来ると、その芸術家は同時に哲学者でもある、という状態になるでしょうけどね。

このように考えてくると、

智慧といっても世間的な経験知では不十分で、やはり、芸術の上位概念であるところの真理スピリチュアルそのものをどれだけ勉強しているか?理解しているか?腑に落ちているか?ということが大事になってくることが分かります。

つまり、十界論でいうところの、「声聞」の修行が大事、ということになります。まずは真理の勉強です。

*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論

やはり、質が伴ってこその量、という順番になります。

それから、「慈悲」は「拡げたいという思い」と考えると分かりやすいかと思いますが、

拡げる動機が「自分自身が他者と比べて有名になりたいから」という自我の思いが中心になっていると、やはり危ういところがあります。

もちろん、私たち一人ひとりが、「現象」として個性を持っているということは、「自己を伸ばしていきたい」という思いがでること、これは必然的なことでありますけれど、

自己を伸ばすことが他者にも資することになるのか?そういう思いを持っているか?そして、その思いがどれだけ純粋であるか?というところがチェックポイントですね。

ここのところが、慈悲の質、ということになります。

それでは、

  • 智慧の質はプラスなのだけど、慈悲の質が若干、自我意識が強すぎた、少しマイナスだった…という場合
  • 純粋な慈悲の思いはあったけど、ちょっと勉強不足で智慧マイナスのことを言ってしまった、という場合

とりあえず、「質」においては、この2つのパターンが考えられますが、この場合はどうなるか?というと、

かんたんに申し上げれば、「相殺」ということになりますね。

つまり、プラスもあったけどマイナスもあったということで、引き算してどのくらい残るか?天国領域へ留まれるか?あるいは、若干、地獄領域へ足を踏み入れるか?という判断ですね、

このような相殺された判定になってくると思います。

なので、冒頭で、「芸術も無我である」ということを述べましたが、

これは芸術そのものの位置づけもそうなのですが、芸術に取り組む人=芸術家(アーティスト)の実践論としても無我修行が要請される、ということになるでしょう。

自我意識を去って、どれだけ純粋な思いで作品に取り組めるか?

いわば、「神の世界計画に奉仕の気持ちで、”芸術の側面”で参画していく感覚」です。

そして、「天の国の実現」をより大きなものにするために智慧を深めていく、という精神的態度ですね。

これがまず肝要なところであると思います。

このように、まず、質を担保して、次に量にとりかかるという順番です。

智慧の量/慈悲の量

智慧の量としては、真理といっても色々な側面がありますので、これをどれだけ多角的に説明できるか?作品に込められるか?といったことがポイントです。

さきの例で言えば、「想念は現象化するという法則性を説明できれば智慧の質が高くなる」と申し上げましたが、現象化するにあたり、「現世だけでなく、来世も含めてみる」という観点もあります。

そうすると、作品としては、「輪廻転生モノ」ということになるでしょうけど、これは、単に現世のみの「想念の法則性」とはまた別の価値が出てきますね。

輪廻転生を理解することで、はじめてほんとうの意味での「自由と平等」の概念を腑に落とすことができます。

*参考記事:自由と平等の矛盾・対立を解消するのは”輪廻転生”の思想

これは、やはり作品に込められている智慧の量が増えた、ということになるでしょう。

つぎに、慈悲の量ですね、これは、これはいわば「マーケティング思考とその実践」ということになります。

文字通り、拡がりをできるだけ最大化していく、ということですね。

以上、ざっくりとではありますが、芸術(アート・芸能)においても、作品の真理価値。それから芸術家としての霊格向上のために、

  • 智慧の質:真理価値がどれだけ高いか?
  • 慈悲の質:どれだけ無私な思いで(単なる自己発揮にしない)取り組めるか?
  • 智慧の量:もっと智慧のストックを増やせないか?
  • 慈悲の量:どれだけ拡げられるか?(マーケティング志向)

という4つの観点を大事にしていくこと。

その際に、「まず質を担保していくこと」が大事ということを述べてみました。

芸術(アート)の真理価値を引き上げる方法

さて、「芸術の哲学」の公式的なところはこれで出揃ったと言えそうですが、「実際、どうしたらいいのか?実感が湧きにくい」という方のために、手法的な観点からいくつか具体例を挙げてみます。

1)写実的手法

写実的手法というのは、この場合、「自然界をそのまま写す」ということではなくて、真理価値があると思える対象をそのまま作品に定着化していく方法です。

音楽で言えば、バッハの『マタイ受難曲』など、直接的に聖書に依拠した作品ということになります。

絵画で言えば、フラ・アンジェリコの『受胎告知』とか、これも聖書に題材を採ったものですね。

受胎告知

あとは、仏画とか仏像などもいわば、直接的・写実的な手法です。

この写実的手法は、題材的にはすでにベースになるものがありますので、比較的取り組みやすい方法であると言えるでしょう。

ただ、上記のように、すでに過去にいろいろな作品がありますので、現代において、真理価値およびある程度のエンターテイメント性(つまり、受け入れられやすさ)の両立を考えると、やはり一工夫は必要でしょう。

仏画・仏像など、古い作品ではルックス的には当時の美意識を反映しているものになっていますので、現代人がみても(一般的な意味で)ルックス的に美しい!とはなかなか思えないところがありますね。

美意識はやはり時代性や地域性で変遷していくものです。

なので、思い切って現代の美意識に合わせた外見・スタイルに変えてしまうのも有効な方法になるでしょう。

以前、どこかの記事で、真理が説かれるときは

  1. ゴールデンルール的な真理:時代性や地域性に左右されない永遠の真理
  2. 対機説法的な真理:説法の対象者や、時代性・地域性を考慮して方便として説かれる真理

の2つの説かれ方があると申し上げました。

この、2.の対機説法的な真理を1,のゴールデンルール的な真理と混同すると、ここに原理主義が生まれて、現代社会と齟齬をきたすことになります。

たとえば、「一日の決まった時間に礼拝する」ということを現代において絶対化すると、飛行機のパイロットが航行中に敷物を拡げて礼拝を始めてしまう…ということになり、乗客としてはじつに不安ですよね(笑)。

なので、2.対機説法的な真理は、文字通り、時代や地域でイノベーションしていったほうが良いのです。

これをやらないと、思想・宗教としても耐用年数を迎えることになります。

なので、芸術において、美的感覚/美意識を現代人の感覚に沿うようにアップデートを行うことは、「2.対機説法的な真理」に相当することになります。

もちろん、1.ゴールデンルール的な真理 」を担保しているのが前提ですが、この2つの真理を両立させることによって、むしろ、その当該の真理というものは、イノベーションされ、さらに現代において説得力を増すものになっていくことになるでしょう。

放置しておけば、耐用年数を迎えたかもしれない思想・宗教を、芸術のちからで延命させることができた、ということになりますので、これはむしろ、圧倒的な善/功績となる可能性が高いですね。

2)象徴的手法

象徴的手法というのは、神的実在を暗喩として表現して、鑑賞者を真理へいざなう力をもたせる方向性です。

そもそもクラシックの絶対音楽では文字通りコトバが入れられませんので、写実というのは難しい方向性になりますね。

しかし、たとえば、ベートーヴェンの第5交響曲『運命』を聴いてみると、第1楽章から最終楽章までの流れで、「苦悩を克服して歓喜に至る」というのは、ある程度、誰にでも実感させるパワー/説得力はあるでしょう。

「真理の質」ということで言えば、第九交響曲『合唱』では、「真の意味での宗教性に基づいた人類愛」ということで、『運命』よりさらに真理価値が高いのではないかと思います。

交響曲第9番「合唱」

絵画においては、たとえば、ピカソのキュビズムなども真理価値が高いのではないかと思っています。

ひとりの人間の表情を多面的に表現してる作品であったりしますが、キュビズムは「認識の多様性」を表現しているとも受け取れます。

ここのところは、仏教の認識論にも通じるところがあるのではないか?と思っています。

つまり、私たちは外界をそのまま受け取っているわけではなく、認識というフィルターを透過した影像を観ているに過ぎない、ということです。

*参考記事:「六根、十二処、十八界 ー 仏教の認識論 ー

これはかなり高度な哲学的真理です。

キュビズムはこうした「認識の多様性を二次元平面で表現している」、とも解釈できそうです。

同じピカソの『アビニョンの娘たち』は、「キュビズムの先駆的作品」と呼ばれていますが、美術史的な価値はまた別にしても、私には、「諸行無常」を表現しているように受け取れます。

アビニョンの娘たち

ごく一般的な意味での美や官能性(タイトルから想起されるところの)からすると、発表当時はピカソの理解者ですら拒絶反応を引き起こしたようですが。

これは作品の持つ強烈な異化作用によるものでしょう。

同化作用であれば、「なるほどー、納得できる。共感できる」という方向性ですが、異化作用の場合は、鑑賞者の感性に揺さぶりをかけ、物事の本質についての思い込みを覆していく方向性をとることになります。

『アビニョンの娘たち』のスケッチ段階では、時間の経過を象徴するところの、水夫(一箇所に定住しない→過ぎ去ってもの)および、骸骨(死)が配置されていたようです。

しかしこの道具立てでは説明的すぎるとピカソは思ったのかもしれませんが、完成画では葡萄らしきものが手前に配置されています。

絵画における葡萄の象徴としては、「イエスの贖(あがな)い」あるいは単純に「秋」ということになるらしいのですが、

西洋では、四季は「冬春夏秋」の順ですからね。時間的な経過としてはやはり「晩年」ということになります。

そうしたときに、「外見的な美や官能性はどうなっていくか?」。

まあこのようにコトバで解釈していくと無粋なところがあるのですけど、

私の解釈としては、『アビニョンの娘たち』は異化作用によって鑑賞者に驚きを与え、感性に揺さぶりをかけ、「外観としての美や官能性は移ろいゆくもの、無常である」という主題性があるのではないか?と受け取っています。

もっとも、解釈の多義性を許容しているのが芸術であって、逆に解釈の幅を狭めてしまうと説明的・押しつけ的になってしまい、芸術としての深みが損なわれますからね。

なので、上記の解釈が絶対的に正しい、ということではないです。

ただ、いずれにせよ、鑑賞者の認識に変容を迫ってくる作品ではあろうかと思います。

こうした象徴主義的方向は、無限の表現の余地がありそうです。

ネオ仏法で言っているような真理をいかに<芸術的に>表現できるか、たとえば、

  • 「一即多多即一」を象徴的に絵画で表現したらどうなるか?
  • 現象界での心境が実在界でのどこの世界に通じているか?(十界論)その変容を動画作品にできないか?
  • 弁証法(中道的発展)をイラストで、あるいは音で表現できないか?

とか、ですね。

私が理屈をこねるよりも、むしろ作品に接したほうが真理スピリチュアルを腑に落とせてもらえる、ということあれば、これは嬉しい方向性ですね。

芸術・アート系の人も”戦略””を学んだほうが良い

某アーティストを定点観測してみた

地元のフェスティバルで見かけた某女性アーティスト(歌手)を4-5年くらい定点観測していたことがあったのですよ。

ちょうど個人的に、ビジネスとかマーケティングに興味があった時期だったので、「売れるアーティストと売れないアーティストはどう違うのか?」ということを研究してみたかったのですけどね。

その女性歌手は、ルックスもスタイルも良くて、歌はまぁまぁ…といったところでしょうか。

アーティストとは言っても、アイドルに近い立ち位置です。

その後、その女性アーティストはどうなっていくのかな?と、たまーにブログやYoutube、オフィシャルサイトなどでチェックしていたのです。

楽曲と演奏は、解散した有名バンドの元メンバー2名が提供(参加)しておりまして、ライブの演奏でもその元メンバーがバックバンドとして参加していました。

なので、売れる要素としては充分といえば充分なのですが…、私は見ていて、「難しいだろうな…」と思っていました。

なぜというに、

  • 容姿・スタイルが良くて
  • 歌がそこそこで
  • 楽曲が良い

というアーティストは他にもいくらでもいるからです。

きびしい言葉で言えば、「代替が効く」ということ。

もちろん、「売れる/売れないではなくて、やりたいことをやっているだけ」ということでしたら、良いと思いますが、そのアーティストは明らかにメジャー志向だったのですよ。

私がそのアーティストを知る以前からの経歴を合算すると、12年ほど頑張っていらっしゃったようですが、30歳目前で引退を表明されました。

12年というと結構な年月で、「思いは実現する」の法則から言えば、実現しても良いくらい頑張られたと思いますが、やっぱり「今回の人生」というだけの観点だと実現しないこともあります。

先ほど、「代替が効く」と言いましたが、これは逆に言えば、「差別化が不十分だった」ということになります。

要は、「このひとじゃなければダメ!」という要素が少なかったのかな…?という印象です。

全般的に、アーティスト系の方はやはり、戦略的思考に欠けるきらいがあります。

「芸術・アートに戦略なんて不純!」という意識が働くのかもしれませんが、「売れる=自分の表現をひとりでも多くの人に届けられる」という意味で言えば、やはり、売るための戦略はないよりはあったほうがいいですね。

もちろん、真理スピリチュアル的には、内実が真/善を含む作品であることが望ましいということは言うまでもないです。

余談めきますが、上記のことと関連して、芸術・アート系の方がなにか政治的発言をされる場合、かなり見識が甘いケースが多々あります。

彼ら/彼女らの意見の逆さまが9割正解!と言ってもいいくらいの外し方レベルです。

芸術・アートはもちろん優れて専門的な知識・技術が必要なのは言うまでもないですが、実際は、政治もそうなのです。高度な専門知識・技術と見識が求められます。

なので、勉強しないで、感覚だけで、「とにかく戦争には反対!」「環境問題を優先!」と主張してしまうと、(それが実際に政策に取り入れられた場合)、彼ら/彼女らの思惑とは逆に事態が進んでしまったります。

要するに、芸術系の方は心情的に、政治・軍事系を苦手としているケースが多いのです(逆に、優秀な軍人は洋の東西を問わず、詩才・文才があったりするんですけどね)。

ということは、芸術・アート系の方が戦略やマーケティングを学べば一歩・二歩抜きん出る可能性が高い、とも言えそうです。

Perfumeの分析

一方、数年前からPerfumeというグループが個人的にも好きなんですけどね。

Perfumeも下積み時代は長かった(なにせ小学生からなので)のではありますが、「近未来テクノポップ路線」に舵を切ってからブレイク。

その後、もう10年くらいですか。さまざまな記録を塗り替えつつ、かつ飽きられずに第一線で活躍されています。

最近のPVを観ていると、風格すら漂っていますね。

で、これは彼女たちの努力ももちろんですが、やはり所属事務所の戦略、それから、楽曲を提供している中田ヤスタカさんの知見が大きかったと思います。

Perfumeのメンバーは、もともとテクノポップのことは全然知らなくて、むしろその路線に抵抗があったらしいのですけどね。

彼女たちのYoutubeインタビューをぼんやり観ていたら、「あ、成功の秘訣はココかな。なるほどなあ」と思えるところがいくつかありました。

そこらへん、ご紹介していきたいと思うのですが、ここはやはりネオ仏法ですので(笑)、真理スピリチュアルと多少絡めながら、ですかね。

以前、「上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違い・対立を乗り越えるネオ仏法」という記事で、「ポジティブ三宝印」という思考方法をご紹介しました。

その中で、「ポジティブに主体的に無常を引き起こす」ということで、イノベーション理論のお話をしています。

ざっくり復習してみますと、

  1. 経営学者ドラッカーのイノベーション:過去の成功体験を体系的に廃棄し、再構築する
  2. 経済学者シュンペーターのイノベーション:異質なものを結合して新しい付加価値を生み出す

ということでした。この2名の思想をご紹介しましたが、Perfumeのケースに当てはめてみましょう。

1.過去の成功体験の体系的廃棄から再構築へ

– アイドルは格好良くてもいい

ご存知の方も多いと思いますが、Perfumeの楽曲を制作しているのは中田ヤスタカさんです。

テクノポップ路線に移行する際、「アイドルにしてはカッコ良すぎる」という反対意見があったそうです。

それで、中田ヤスタカさんが、「なぜ、アイドルは格好良いといけないのか?」と直談判されたそうです。

「アイドルは可愛くなければ」というのもひとつの思い込みですよね。

現に私は格好良い女性の方が好きで…、まあ私の好みはどうでもいいのですが(笑)。

でも少なくても、高田祥ひとり分の需要を創造したのは事実ですね。

– わかりやすい音楽でなくても良い

最初にブレイクした「ポリリズム」という曲は、曲名通り、なんだか複雑なリズムを使っています。

で、これにも反対意見があったようなのですが、やはり中田ヤスタカさんが説得に行かれたそうです。

「今の若い人は、オンラインで貪欲に音楽を聴いていて耳が肥えている。むしろ先取りしているくらいでないとダメ」といった感じのご意見だったと記憶しています。

– 感情表現をしようとすると、感情が表現されないことがある!という逆説

私が一番感心したのはこの点です。

やっぱり、「歌い上げ系」じゃないですけど、想いを伝えるためには想いを込めて歌ったほうがいいのだろう、と私も思っていました。

ところが、またまた、中田ヤスタカさんのご意見では、…なんという言い方だったかな…Youtubeのインタービューか何かを観ていて知ったのですが、出どころを忘れてしまったのですが、

要は、「感情を込めようとすると、えてして元の感情と違う方向へ行きがち」というご意見だったと思います。

思わず知らず演技がかってしまい、オリジナルの感情が加工されてしまう、ということなんですかね。

これは本当に卓見だと思いますね。

実際、Perfumeのメンバーには、「なるべく感情を込めないように」と歌唱指導しているらしく(彼女たちは当初、この点にいちばん反発していたらしいのですが)、

しかも、録音では電話BOXみたいなところに入って歌わされる、という。

さらに、歌う順番はじゃんけんで決めてるとか(笑)。

しかし、ですね。

中田ヤスタカさんの歌詞がそもそも良い、とうのもありますが、Perfumeの歌唱はけっこう、「実存に刺さってくる」ところけこうがありまして。

一例を挙げれば、この曲。気が向いた方は聴いてみてください。

Perfume – edge ⊿ – mix

5:35のあたりからの歌詞で、

誰だっていつかは死んでしまうでしょ
だったらその前にわたしの
一番硬くてとがった部分を
ぶつけてsee new world
say yeh!

これなんか、ドキッとしましたね。

歌詞を見ないで聴いていると、see new world のところが、「死ぬわ」と聴こえてしまい(意図的なのかもしれません)。

本当は誰もが逃れられない(それでいて見ないふりをしている)「死」に向き合って、そこから逆照射して「生」を考えること。

そして、「一番硬くてとがった部分をぶつけて」=自分としては何を世に為しうるのか?

という問いかけは、すぐれて深い哲学性を感じます。

そしてそのことが実は、see new world (=新しい世界を見る)ということにつながっていく。

釈尊の仏教も「生老病死」の解析から始めていますし、ハイデガー哲学の存在の分析もやはり「死」を契機に実存を考えていきますね。

・・・

などということを考えさせるパワーがあるんだな、と(個人的なことかもしれませんが)。

無機質な歌い方が、なおさら、切迫感を感じさせるという逆説もありそうです。

– 口パクでも良い

「口パクでも良い」ということで言えば、他のアイドルでも同じではないか…?ということになりそうですが、

私がPerfumeから受ける感触はそれら他のアイドルとはまるで違うものです。

つまり、「歌がそれほど上手くない上に、ダンスもやらなければいけないので、口パクにする」というのが一般的なあり方ですね。

もちろん、Perfumeもそうした側面はあるかもしれません。

しかし、Perfumeの口パクは、じつは、「自己表現とはそもそも何であるのか?」という問いかけに関わってくるように思えます。

E-Girlsなどに対しても、よく、「彼女たちはアイドルじゃない、アーティストだ!」とか「いやいや、アイドルでしょ!」など、いろいろ言われたりしていました。

ここのところの発想の根本にある考え方は、

  • アイドルは、表現者というよりも、憧れられる対象/ステイタスに過ぎない
  • アーティストは、自作(作詞・作曲など)で自己表現をしている存在
  • したがって、アイドルよりはアーティストのほうが格上である

という価値観がありますね。

ところが、そもそも、「自己表現」って何なのでしょうか?

ネオ仏法をずっと読んでいらっしゃる方であれば、「自己とは何であるか?」ということだけをとってみても、無限の深まりがあり、そんなにかんたんに片付けられる問題ではない、と気づくはずです。

なので、「作詞作曲を自分でやっていればアーティスト。さらに歌も上手いにこしたことはない」というほどかんたんな話ではないわけです。

ところが、アイドルとアーティストの境目のポジションにいて、(よりステイタスの高い?)アーティスト寄りに売り出そう!という場合、

「せめて作詞だけでもやる」ということで、かろうじて、「アーティスト権(?)」を獲得するアーティスト(?)もいらっしゃいますね。

しかし結局のところ、

こうした歌とか芸術に限らず、すべての仕事は、「付加価値を創造し、それを需要者へ提供し、対価を得る」というところに本質があるのではないでしょうか。

そのように考えると、

大切なのは、「どれだけの付加価値を提供できるか?」ということであって、「表現が自己のものであるか、分業で表現するのか?」というのは、本質的な問題ではない、ということになります。

なので、Perfumeの場合、

  1. 楽曲(作詞作曲編曲):中田ヤスタカ
  2. 振り付け:振付師さん(この方も固定のようです)
  3. 戦略:所属事務所
  4. 映像:PV製作者
  5. パフォーマンス/キャラクター:Perfume

という分業ですね。

もちろん、この分業は事実上、他のアイドル/アーティストも結局は同じようなことをやっているのではありますが、

Perfume(Perfumeグループというべきか)の場合は、その「分業体制に専念することによって、トータルの付加価値を最高度まで上げていく」という方向性が確信レベルで高いのです。

なので、「作詞作曲をやっていないからアーティストではない。自己表現ではない」という思考ポジションとは別次元にいます。

だから、口パクでも風格を漂わせることができる。

逆説的に、イメージとしては、「どうも普通のアイドルとは違う、Perfumeは明らかに表現者である」という方向へ行っていると思います。

これは、「表現というのは、(一般的な意味での)自己表現である必要はまったくない」という革新性です。

これも、大きなイノベーションだと思いますね。

2.異質なものを結合して新しい付加価値を生み出す

– 近未来テクノポップ+アイドル

これはまあ、書かなくても誰でも分かることですね。

しかし、言うは易く行うは難し、で。なかなか思いつかないところです。

Perfumeと同じ事務所に所属しているBABYMETALというグループも、「アイドル(ゴスロリ?)+ヘビーメタル」の組み合わせで世界的にブレイクしました(このグループも個人的に好きです)。

きゃりーぱみゅぱみゅも中田ヤスタカさんの曲ですよね。彼女も独特な世界観を持っていますが…。

しかし、きゃりーぱみゅぱみゅ よりPerfumeのほうが息が長い気がするのはなぜか?(今後は分かりませんが)、ということを考えてみると、

「テクノポップ」と「アイドル」というのが、両方とも王道的なものとして認知されている、というあたりかな、と思います。

つまり、王道A×王道Bの組み合わせ。なので、飽きがこないんですかね。

きゃりーぱみゅぱみゅ。のほうは若干、趣味性に流れすぎているのかな?というところで、そういう場合、飽きられやすい側面があるのかもしれません。

彼女自身も今、新しい方向性をを模索しているのではないでしょうか。

テクノポップということで言えば、70年代からのYMOファンも反応しますからね。

Amazonのレビューを見ていると、オジサンたちが恥ずかしそうにコメントしているのが見ていて可笑しいのですが(私もそうなんですが・笑)。

まあこれは、「アイドル」という側面だけからは決して開拓できなかった新顧客層を開拓した、ということでもありますよね。

これは明らかに、需要の創造です。

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