柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか

柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか
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戦後最大の詩人の予言

柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか(塚本邦雄『森曜集』)

読み:かきのはなそれいごのそらうるみつつひとよゆうせいはもえているか

「今回、日本に生まれてくることは、すごく貴重な経験。宝の山の中にいるようなもの。なので、平凡に生ききっただけでも大成功!」と僕は述べているのですが、

見逃しがちな宝の種類として、詩のジャンルがあります。

散文詩でも見どころは沢山ありますが、短歌などの韻文(いんぶん/音とリズムを重視する詩の形式)に、”宝”がけっこう埋蔵されていると思うんですよ。

*他、箏(こと/一般には”琴”と書きますが)などの現代音楽版にも優れたものが沢山あります。

斎藤茂吉なども押さえておきたいところですが、戦後で言うと、掲出歌の作者である、塚本邦雄(つかもとくにお)はどうしても味わっておきたい歌人(かじん)です。

えー。。

当たってるかどうか、100%自信はあるわけでないですが、

  • 柿本人麻呂(『万葉集』を代表する歌人)→斎藤茂吉
  • 藤原定家(『新古和歌集』『百人一首』選者・歌人)→塚本邦雄

という転生になっていると思いますよ。笑

上の句を読む

短歌は、五七五七七のリズムになっています(これを、定型(ていけい)と言います)が、最初の五七五を「上の句(かみのく)」、残りの七七を「下の句(しものく)」と呼びます。

まずは、上の句の、

 柿の花それ以後の空うるみつつ

ですね。

6月になって柿の花が咲いたと。

 

 

 

 

 

そして、その後、空が湿り気を帯びてきた。

という、なんてことのない平々凡々の情景です。

イメッジとして、柿の花を思い浮かべ、そして次に、カメラがズームアウトしていくように、背景の空が潤(うる)んでいく様子を思い浮かべてみてください。

下の句を読む(現代版、本歌取り)

下の句では一転して、

 人よ遊星は炎えてゐるか

の問いかけに変貌しています。
*遊星=惑星=地球です

この黙示的とも言うべき、問いかけの鋭さ

何が鋭いかって言うと、この言葉、アドルフ・ヒトラーの、

 パリは燃えているか?

を下敷きにしていると思われるからです。

快進撃のドイツ軍も、連合軍のノルマンディー上陸作戦後、占領地のパリも失いかけました。

ヒトラーはもともと絵描き希望だったので、パリに執着があったんですね。

なので、パリを失うくらいなら、燃やしてしまえ!と指令を出した(実行はされてません)、

そして、

 パリは燃えているか!?パリは燃えているか!?

と、側近に問いかけ続けるんですね。

和歌では、本歌取り(ほんかどり)という手法がありまして、それは、古歌をベースにして歌を作るというものです。

オリジナリティとしてどうなのよ?という意見もあるかもしれませんが、

本歌取りは、古歌をベースにすることにより、古歌の情景や味わい、あるいは下敷きになっている物語を読者に想起させ、歌をダブルイメッジにする効果があるんですね。二重の奥行きを作るというオリジナリティです。

現代短歌では、もはや、こういった本来のカタチでの本歌取りはほとんどされないですが(歌人・高田は相当やりましたけどね)、

掲出歌は、この新しいカタチとしての本歌取りですね。

ヒトラーの叫びを二重写しにしている(現代版・本歌取り)わけです。

柿の花 土塀の上に こぼれけり   正岡子規

なんて句もありまして、柿の花については、「こぼれる」という句がよくくっつくんですよ。

柿の花の形状と、「こぼれる」というのは、きわめて暗示的ですね。

塚本邦雄は、年齢的には、じつは戦中派で、呉の海軍工場から原爆のきのこ雲を実際に目撃しているようです。

一首全体を味わってみる

さて、そうした知識をベースにしつつ、もう一度、一首全体を味わってみましょう。

 柿の花それ以後の空うるみつつ

平凡な…一見、平凡な。まさしく”日常”です。

 空うるみつつ

カメラがズームアウトして、柿の花が小さくなり、潤んでゆく空が全景に…。

そして、

 人よ遊星は炎えてゐるか

一転して、炎に包まれる地球が現れる!

この、黙示的とも言うべき問いかけ。

黙示的というのは、「人よ」の部分です。

「人類よ」、という神の視点(塚本の場合、魔王か?)からの問いかけでもあるわけです。

そして、ヒトラーが「パリは燃えているだろう?燃えているべきであろう?」と叫んだように、

地球が燃える(戦火に包まれる)運命を甘受せよ、と。

リズムでいうと、

 柿の花/それ以後の空/うるみつつ/人よ遊星は/炎えてゐるか

というふうに、五七五八のバリエーションになっています。

このね、結句(一番最後の句)の、六音ね、ココがポイントで、

七音で落ち着くはずの短歌が、六音で、ぶつっと切れているわけですよ。

この、一音の空白の大きさ、と言ったらどうでしょう。

ここにこそ、読者のイマジネーションを喚起させる起爆装置になっているように思われます。

仮に、7音にして、

 人よ遊星は炎えてゐるかな

なんてやったら、もう一首全体の味わいが、ぶちこわしになるのがお分かりになるのでは?

短歌とは、一音、一表記ですべてが生きるか死ぬかの芸術形式なんです。

それから、今度は、音でチェックしてみましょう。

 柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか

  • 冒頭の「柿」の、カ音
  • 結句の「炎えてゐる」の、カ音

が見事に響き合っています。

そもそもカ行音はインパクトありますが、このインパクトのために、冒頭と結句以外は、比較的おとなしいサ行音とラ行音などで流していますよね。

塚本は”定型の鬼”なので、これは確信犯ですよ。

つまりこの歌、短歌なのでたった31音に過ぎませんが、この「たった31音」のなかに、どれだけの超絶技巧が組み込まれていることか

 

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