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I Me Mine(私が、私に、私の)
“I Me Mine”というのは、ビートルズのラストアルバム”Let it be”に収録されているジョージ・ハリスンの楽曲です。
“I Me Mine”は和訳すれば「私が、私に、私の」となります。
インドの楽器シタールだけではなく、インド哲学そのものに深い洞察を得ていたハリスンらしい歌詞ですので、ご紹介したいです。
人のの”弱さ”の理由がここに書かれている、と言っても過言ではないと思います。
なお、この曲は、ビートルズ解散の危機の中で、なかば強引にリーダーシップをとっていたポール・マッカートニーへのあてつけ、と考えるのが通説です。
「ポールよ、あんたは、年がら年中、I me mine (私が、私に、私の)だ」
と、当時、自我マックスであったポールへのあてつけの歌詞、ということで、映画” Let it be”を観ていると、なおさらこのことが実感できます。
ポールへのあてつけなのに、サビ部分の目立つ高音部は、”私”全開のポールがハモをとっているのがなんとも可笑しいのですが。
ただ、ジョージ・ハリスンは「自分も含めて、自分のことばっかりだ」「うんざりだ」という趣旨で歌っている(後年、インタビューでそのように釈明しています)と思われますので、やはり歌詞に説得力が感じられます。
英語歌詞全文と、Youtube動画(動画はなく、演奏だけです)、それから、高田による和訳を載せておきます。
英語歌詞
I Me Mine
All through the day
I me mine, I me mine, I me mine
All through the night
I me mine, I me mine, I me mine
Now they’re frightened of leaving it
Everyone’s weaving it
Coming on strong all the time
All through the day
I me mineI-I-me-me-mine
I-I-me-me-mine
I-I-me-me-mine
I-I-me-me-mineAll I can hear
I me mine, I me mine, I me mine
Even those tears
I me mine, I me mine, I me mine
No-one’s frightened of playing it
Everyone’s saying it
Flowing more freely than wine
All through the day
I me mineI-I-me-me-mine
I-I-me-me-mine
I-I-me-me-mine
I-I-me-me-mineAll I can hear
I me mine, I me mine, I me mine
Even those tears
I me mine, I me mine, I me mine
No-one’s frightened of playing it
Everyone’s saying it
Flowing more freely than wine
All through your life
I me mine(composed by George Harrison)
演奏
日本語訳
一日中、
”私が、私に、私の”
一晩中、
”私が、私に、私の”
ほら、”私”から離れるのをこわがっている
誰しも、”私”を織り上げることで手一杯なんだ
いつだって、”私”が強くなっていく
24時間、
”私が、私に、私の”
だ私- 私が- 私に- 私の
私- 私が- 私に- 私の
私- 私が- 私に- 私の
私- 私が- 私に- 私の聞こえてくるのは、
”私が、私に、私の”
流す涙さえ、
”私が、私に、私の”
誰しも、”私”を再生するのに余念がない
みんな、”私”って言ってるよ
ワインよりたやすく流れ出してくるのさ
一生、
”私が、私に、私の”
だ(以下、2番の繰り返しなので省略)
人間を弱っちくする自我
釈尊の「執着を去れ」
釈尊は、生老病死を始めとした人生の苦しみの原因は”執着にある”と説きました。
*参考記事:四諦八正道の覚え方とわかりやすい解説 – “涅槃”の理解がカギ
執着というのは、何に執着するのかと言うと、結局は、”ワタシ”に関わるものすべて、と言えるでしょう。
いわゆる、”自我”です。
それだからこそ、「いっそ、”ワタシ”=自我を捨てたらどうか?」と釈尊は提案しているわけです。
これが、”無我”です。
無我というのは、
「一切の現象はそれ自体では”在る”ことができないではないか、ゆえに無我であるのだ」
というふうに、存在論的分析というふうに哲学的にも捉えられますが、
釈尊のすごいところは、このいわば”体系哲学”を、個人の幸福という”実存哲学”へと実践的に展開していることです。
*この点、ヘーゲル以降、「体系哲学を知ったところで個の幸福にとって何だというのだ?」という疑問から、実存哲学へ舵を切った西洋哲学は、やはり釈尊には敵いません。
仏教は、少なくとも当サイトで展開しているところのネオ仏法は、
「現象は無我である」という体系哲学と、「ゆえに、執われから離れよ」という実存哲学を総合していくことができます。
”私”がなくなれば、”私が、私に、私の”(=I me mine)もなくなります。
ゆえに、執着の結果である苦しみからも逃れられます。
だから、自我を滅却することが大事だ、と釈尊は説いていたわけです。
きわめてシンプルな論理でしょう?
哲学的であると同時に実践的です。これが仏法です。
パウロの「弱いときに、強い」
次に同じテーマと思われるものをキリスト教で見てみましょう。
私が弱いときにこそ、私は強いからです
(第二コリント12:10)
これはパウロの言葉です。短い一節ですがじつに含蓄があります。
聖書ではたびたび、私たちの”高慢さ”への警告が説かれています。
「私が弱いときに」というのは、なにかの苦難に出会い、私たちのつまらないプライドが打ち砕かれ、自我が弱くなっているときです。
自我が打ちくだかれてはじめて、へりくだり=謙譲の状態へ移行することができます。そのようなときにこそ、神の御下にあり、神の子としての私、真なる私が目覚め、「私は強い」というふうになることができます。
それゆえに、
- 「私がよわいときにこそ」の私:偽我
- 「私は強いからです」の私:真我
という構図になっています。
このパウロの言葉は、「執着の主体/対象である私(自我意識)こそが苦しみの根源である、ゆえに無我であれ」という釈尊の教えと軌を一にしていると思います。
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。
(ヤコブ4:6)
さて、ここで、
私は、あなたは、今、「なにを苦しんでいますか?何が問題になっていますか?」という問いを受けたとして、「私は〇〇、私に〇〇、私の〇〇」というかたちで、思いつくものを列挙してみましょう。
たとえば、
- 私の評価
- 私のお金
- 私の自己実現
- 私のインスタ映え
- 私の容姿
- 私の容貌の衰え
- 私の体重
- 私の将来
- 私の子どもの出来
- 私の夫の出世
- 私の妻の美しさ
- 私の運勢
- 私の霊的出世
- 私の年金はどうなるか?
- 私は税金を払い過ぎでは?
- 私に給付金がいつ来るか?
- 私の昇給は?最低賃金は今年上がるのか?
- 私の老後の備えは?
- 私の不安・恐怖
- 私のうつ病
- 私はADHD
- 私はコロナに感染するか
- 私はマスクをしたほうがいいのか?必要ないか?
- 私はマスクをしないとして、周囲からどう思われるか?
- ”私の”ネオ仏法?
といったあたりです。
さあ、あなたの、「私」を列挙してみましょう!
真理を楽曲のタイトルや歌詞に込める
さて、ジョージ・ハリスンのビートルズ解散後、第一弾のアルバム名は、”All Things Must Pass“でした。
直訳すると、「一切は過ぎ去っていく」ということですから、これは”諸行無常”をモロに言っているわけです。
”諸行無常”をタイトルにしてしまうなんて…日本人は恥ずかしくてなかなかここまでできないでしょう。
、逆に、恥ずかしがらずに正面突破すれば、ポピュラーミュージックでも差別化につながっていくかもしれませんね。
*参考記事:芸術と哲学の関係 – イデーの模倣としてのアート
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