ワンネス、仏教、宇宙。そしてネオ仏法の悟りへ

Oneness Buddhism

ワンネス(oneness)とは、その名の通り、「ひとつであること」を意味します。

私たち一人ひとりの人間も、動植物も鉱物も、それぞれ”違い”があり個性を持っていますが、そうした相違性・分離性を超えたところに、大いなる宇宙的な意識があり、その宇宙意識のもとでは一体である、という在り方を指します。

ワンネス

ワンネスという言葉は、一般的にはスピリチュアルの世界で使われることが多いと思いますが、ソクラテス・プラトン以来のギリシャ哲学や、さまざまな宗教、あるいは現代の量子力学まで、そうした「個別性を超えた一体性・全体性」を求める営みであったとも理解することができるでしょう。

ただ、ワンネスというのは言葉としては美しいのですが、それが具体的にどうした在り方を指すのか、あるいは、どうしたらワンネスの感覚を得る(ワンネス体験)ことができるのか、ということになると、究極の難しさを含んでいる概念であるとも言えます。

そこで今回は、ワンネス(oneness)とは具体的にどのようなものなのか、とくに仏教を手がかりにしながら、従来のワンネス理解を更新・アップデートするレベルまで考察してみたいと思います。

目次

実在性にも段階がある

現象と実在について

当サイト(ネオ仏法)では、「現象界=この世、実在界=あの世、と理解してください」と申し上げています。

そして、現象界は仮の世界であり、実在界が私達が住むべき本当の場所であると。

現象界におけるさまざまな出来事も、しょせん「仮のもの」であり、それらの「仮の体験」を通じて、新たな経験・知見を得ることが現象界に生まれてくる目的なのだと。

そこで得られた「新たな経験・知見」こそがむしろ「実在」であって、文字通り、実在界に持ち越していくことができる永遠の宝である、ということです。

そうした経験・知見(→智慧)こそが、無常の風が吹いても吹き飛ばされないところの真実在であります。

この智慧を拡げる行為が慈悲であり、「現象界において慈悲を発揮する行為」が本来の仕事であり、人生の意義なのです。

もちろん、これは真理であり、むしろ、これらの知識をきっちりと押さえるだけで、必要かつ十分(すぎる)な理解になっていきます。

*というか、ここまでハッキリと簡潔に、「人生の目的と意義」を説明されということは歴史上、稀なることです。

まあでも、ギリシャ哲学プラトンもこの「現象と実在」の関係を、「イデアこそが真実在であり、私たちが遭遇している事象はすべてこのイデアの影に過ぎないのだ」と言っています。

「イデア」といったふうに、使っている言葉は違いますが、内容的にはまったく同じことを言ってます。

しかし、言葉というものはほんとうに難しいもので。

言葉そのものは真理ではなく、真理をそこはかとなく指し示しているに過ぎないんですね。

しかし、入り口としてはまず言葉で語るしかないので、いろいろな方向から「これが真理」「あれが真理」という言い方をしているわけです。

上記の「現象と実在」の関係もそうです。

便宜的に、二分法でお話していますが、本当はこれよりも、もっともっと深いものがあるんです。

視覚的にまずはイメージしてみます。

たとえば、池の中心部にぽちゃん!と石を落としたとしますね。

そうすると、石が落ちた地点から順に、さざ波A→さざ波B→さざ波C…といったふうに連鎖していき、最終的に、岸辺に到着します。

さざ波

仮に、さざ波Dで岸に到着するとしましょう。

すると、さざ波Dは、さざ波Cがなければ存在していない、ということで、

「さざなみDは現象に過ぎず、さざ波Cこそが実在である」

という考え方ができます。

ところが、そのさざ波Cもじつは、さざ波Bが引き起こしている、というふうに考えると、

「さざ波Cは現象であって、実在にあらず。さざ波Bという実在の影に過ぎない」

という言い方もできます。

ということは…、さざ波Cというのは、

さざ波Dに対しては実在であるけれども、さざ波Bに対しては現象、という二重性を持っていることになりますね。

これは、以前、「実在性には諸段階がある」ということで、コップのたとえか何かでお話したことがあるかと思います(思い出したら、リンク貼ります)。

この、さざ波理論(?)をずっと敷衍(ふえん)していくと、「では、究極の真実在は、池に落ちた石のぽちゃん!である」ということになります(笑)。

もちろん、この把握もひとつの真理(の把握の仕方)であります。

この「石ぽちゃん!」側を強調すると、まあ宗教でいえば、一神教になりやすいんですけどね。

しかし。

大乗仏教の哲学の到達地点は、

  1. 現象 – 実在の二元論
  2. 実在の諸段階論

をさらに突き抜けていくんです。

結論を先取りして申し上げますと、

「現象即実在、実在即現象」

という認識に至ります。

これがつまり、般若心経で言うところの、

「色即是空 空即是色」

なんですけどね。

現象即実在、実在即現象

「コップの哲学」ふたたび

前項では、「実在性に諸段階がある」ということを書きました。

この点について、復習を兼ねてもう少し詳しくお話してみます。以前、どこかの記事で使った「コップの哲学」をベースにとりますね。

眼の前に、何の変哲もない透明なガラスコップを思い浮かべてください。

コップそのものは、「現に目の前にあり、手にとって触れる」ものですから、「実在である」と思ってしまいます。

コップ

しかし、コップは永遠に存続するものではなく(無常)、また、コップはコップ自体では存在できません(無我)

コップを作るためには、さまざまな素材があり、また多くの人の手を介して、「いまここに」ありますが、実際は、少し重量や空気の条件が変わっただけでも、コップは壊れていくでしょう。

ゆえに、さまざまな条件が集まって、たまたま「いまここに」現象としてコップが現れているだけである、という意味で、「無我なのです。

時間論としての「無常」、存在論としての「無我」、この縦軸と横軸が交差した一点に、「いまここ」のコップがたまたま現象として現れている、ということです。

**
ちなみに、

この「時間において無常」「存在において無我」という2つの軸を理解することによって、執着(執われ)から離れることができます。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。

**

このようにコップは実在しているかに見えて、じつに儚い存在であるわけですが、

しかし、この眼の前にあるコップが仮に壊れたとしても、「コップの設計図」があれば、また同じコップを作り出すことができます。

そういう意味では、目の前のいちいちのコップよりも、「コップの設計図」がむしろオリジナルである、ということで、「より実在性が高いと言えますね。

しかし、

「コップの設計図」すら消えてしまったら??

それは、「こういうコップを作りたい」というアイディアがあれば、また同じ設計図を書くことができます。

そしてまた個別のコップを再生産することができます。

ゆえに、「コップのアイディア」のほうが、「コップの設計図」よりも、さらに実在性が高い、ということになります。

ちなみに、「アイディア」の語源はギリシャ語の「イデア」であり、これはそのままプラトンが使ったイデア論のイデア、ですね。

さて次に、

「コップのアイディア」すら消えてなくなってしまったら、どうする??

そもそも、誰がいつ、どういうキッカケでコップというものを発明したのでしょうか?

それは、「こういう、水分を入れる容れ物があれば便利だろうな」という、いわば、「利便性」を基礎に考えられたはずです。

ゆえに、コップのアイディアよりも、さらに上位概念(=実在性が高い)として、「利便性」を挙げることができます。

ではではでは(いつまで続くんだ・笑)、

「利便性」って、何のためにあるんでしょう??

それは、

「便利であったら、幸せだろうな」という智慧と慈悲の思いから発しているわけですよね。

したがって、「利便性」のさらに上位概念(=より実在性が高い)として、「智慧と慈悲」が置かれることになります。

「智慧と慈悲」からは、利便性以外にも、「こういう美しいものがあったら、みな幸せだろうな」という「芸術性」も発していきます。

そして、「芸術」の理念から、さまざまな、絵画とか詩や音楽などのアイディアが出てきて、だんだんと、個別の作品となっていくわけです。

この智慧と慈悲の存在、を仏教では、「久遠実成(くおんじつじょう)の仏陀」と呼んでいたり、まあ仏教の宗派でもさまざまな呼び名がありますし、

世界宗教でいうところの、「根本神」はこのような、智慧と慈悲の究極の存在である、と考えられているはずです。

したがって、宗教的に言えば、「さまざまな現象の奥の奥にある究極の実在」として、根本神、根本仏が想定されているわけですね。

根本仏

コップに例を戻しますと、

現象としての個別なコップ→コップの設計図→コップのアイディア(イデア=理念)→利便性→智慧と慈悲 という流れで、今一応、究極の実在にたどり着きました。

すでに上述いたしました「さざ波理論」でいうと、

池の中心に石をぽちゃん!と落として、さざ波が生じると。

そして、順に、さざ波A→さざ波B→さざ波C→さざ波D、で岸辺に着くとします。

それぞれのさざ波を、上記のコップに当てはめてみると、

  • 石ぽちゃん!:智慧と慈悲
  • さざ波A:利便性
  • さざ波B:コップのアイディア
  • さざ波C:コップの設計図
  • さざ波D:ひとつひとつのコップ

ということで、ようやく岸辺に着いて、「いまここ」の個別的なるコップができあがってきます。

もちろん、利便性の下には、「コップのアイディア」だけでなく、ありとあらゆる「便利な、個別的なアイディア」が存在しますね。

なので、これはコップから始めなくても、「紙粘土」でもなんでも良いのです。

人間について言えば、「さまざまな悪を犯す存在」であるから、実在の一部であるとは考えにくい、とする向きもあるかもしれません。

しかし、人間は修行(修道)によって、自らの神性(仏性)を輝き出すことができます。

そうしますと、神性(仏性)の顕現の度合いによって、霊格が決まり、その霊格の高みこそが「実在性をどのように顕現させているか」という度合いでもあるのです。

神性(仏性)の顕現には当然、遥かに長い時間がかかります。悠久の時を修道しなければいけません。

それは同時に、自らの実在性を高めていく段階なのです。

このように、「時間がかかること」を考慮に入れますと、人間とは(あるいは存在一般は)「時間的存在である」と定義することができます。

対して、遍在する一者である究極の至上神(根本仏)は、実在そのものであり、時間をそのうちに包含している存在である、と定義することができるでしょう。

現象:実在=色:空

上記の例をもう少し突っ込んで考えてみましょう。

たしかに、「実在性には段階がある」。そして「究極の実在として、智慧と慈悲の想いが想定され、それが宗教的には久遠実成の仏陀と呼ばれている」ということは真理でしょう。

もちろん、究極の実在の名称は他の名前でも構いません。というか、名前そのものには、「区別する」という働きがありますので、本来、究極の実在に、「名付け」というものは馴染まないのです。

区別」があるのであれば、それはイコール、「究極ではない」ということでもありますからね。

そういうわけで、老子は、「なんとも名付けようがないが、仮に「道(タオ)と呼ぶ」としているわけです。

話をまたコップに戻します。

コップそのものは、「水分を入れる容れ物があれば便利だろうな」という思いから、個々のコップのアイディアが出来上がり、さらに、個々のコップの設計図を書いた人がいて……、という順序であることは上述したとおりです。

しかしよく考えてみれば、

「こういうコップがあれば便利だろうな」という理念・アイディアだけで止まっていたら、これは実際上、何の意味もないことになります。

コップは、最終的に、現に目の前に置ける=使えるコップとして機能することによって、はじめて、「コップであること」を自己実現しているわけです。

したがって、「現象と理念」、あるいは、当サイトの言葉に戻すと、「現象と実在」は別個のものではなく、

むしろ、「現象する」ことによって「実在は実在として在ることができる」という側面からも真理は観察されうる、ということになります。

現象

つまり、

  1. 現象と実在は異なるものではなく、実在は現象と異なるものではない
  2. 現象はそのまま実在であり、実在はそのまま現象(として顕現することによって実在で有り続けることができる)

ということです。

これ、すなわち、

  1. 色不異空 空不異色
  2. 色即是空 空即是色

という般若心経の言葉、そのままイコールとして理解することができます。

というか、まさに今回のテーマであるところの、「現象と実在」の関係を「空(くう)」という概念で語っていくのが般若心経であります。

もっとも、「空」という概念そのものは、上記の図式でいうところの「実在」という範囲を超えて、上記の図式全体、すなわち、「現象と実在が不可分に働いている様(さま)」を指すこともあります。

「空」が理解し難いのは、こうした多義性をもっているからなんですけどね。

また、一般的には、「空」というのは、「無我」とほとんど同義で使われます。

それ自体として存在できないのであるから、自ずからの性質を持たない、ゆえに「空性」である、ということから「空」の理解をしていくほうが、むしろ一般的でしょう。

なので、私が言うような、実在=空、という等式はむしろ異端的(?)であって、

空は「一切の存在が、そのもの自体では存在できず、かつ変転変化している。したがって、実体(=それ自体で永遠に存在するもの)などというものはない!」というのが一般的な、「空」理解でしょう。

しかしココのところは、仏法が本当の意味でアップデートしていくための、最重要なポイントですので、また別稿で詳述いたします。

とりあえずは、

空性(くうしょう)が真実である→第一義的な存在のあり方である→実在である

という流れで、ざっくり押さえておいて頂ければ、と思います。

しかし、いろいろな角度から、空を検証していくと、次第に、言わんとしていることが何であるか、理解が進んでくるはずです。

ついでにもうひとつ、申し上げておくと、

ヘーゲルの難解な言葉として知られている、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という物言いですね。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。これ、すなわち、「空即是色 色即是空」

と理解すればスッキリすると思われます。

大乗仏教の頂点は、「諸法実相」「事事無礙法界」

上記の通り、「現象即実在 実在即現象」=「色即是空 空即是色」というのは、般若経典をベースに表現した図式です。

しかしこのことは、般若経典以外でも他の言い方で語られています。
*歴史的には、般若経典が先なんですけどね

法華経では、「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉で語られています。

この場合の「法」とは「存在」という意味です。

「もろもろの(現象的)存在はすなわち実相の実現に他ならない」という思想です。

また、華厳経では、「事事無礙法界(じじむげほっかい)」という理解の仕方をします。

個別的な現象を「事」として、その個別的な現象の背後にある実在を「理」としてはじめは捉えていきます。

段階論としては、

  • 事法界(じほっかい):われわれが経験しているところの現象
  • 理法界(りほっかい):現象の背後にある実在
  • 理事無碍法界(りじむげほっかい):「実在から現象へ」「現象から実在へ」、融通無碍(ゆうずうむげ)に働いている様。また、このような存在のあり方
  • 事事無礙法界(じじむげほっかい):現象と実在は一体不可分に在る、という認識。むしろ、現象そのものが自在に働いている様こそが実在であるという認識

といった順序で、最後の「事事無礙法界」に至って、やはり、「現象即実在 実在即現象」の悟りに到達しています。

ポール・サイモンの曲、「サウンド・オブ・サイレンス」に、「地下鉄の言葉は賢者によって書かれている」という歌詞があったかと記憶していますが、

あらゆる現象が実在と一体不可分に働いているのであれば、当然、地下鉄の落書きも真理の表れである、という結論になりますよね。

落書き

このように、大乗仏教および大乗仏典をベースに構築された仏教哲学はかなーり深遠な真理に到達していることが分かります。

実在も現象も一如(いちにょ)であるという思想です。

まさに、事事無礙法界の思想は、「地球文明の思想・哲学の究極の到達点である」ということができるかと思います。

なぜ、「色即是空」「事事無礙」「諸法実相」であるのか?

「色即是空」(般若経)、「諸法実相(法華経)」、「事事無礙法界」(華厳経)で大乗仏教の哲学は頂点を迎えた、と書きました。

*大乗仏教の哲学としては、重要な「唯識(ゆいしき)」の哲学がありますが、論のベースは共有していますので、今回は省いています。

さて、

私は今回の記事でも、「しかししかし!」とか「そもそも」という言葉を多用していますが、やはりここでも、

しかししかし!とまだ突き詰めてみたいのです。

そもそも!

そもそも、なんで、現象と実在が融通無碍に在るのか?何のために?

という問いです。より根源的な目的論です。「何のために?」という。

この問いこそが大乗仏教の哲学を超え、ハイデガーの哲学も超えていく契機になっていきます。

ちなみに、ハイデガーは「20世紀最大の哲学者」と呼ばれています。

そういう意味では、21世紀の哲学はハイデガーを超えていくことによって達成されることになりますね。

「なぜ、現象と実在は即して在るのか?」

これはいわば、エネルギーの循環でもあるんです。

実在という根本エネルギーが、さまざまに現象することによって、実在としての本質を発揮している。また、発揮できるからこそ、まさに「実在である」ことそのものが担保される

だって、発揮できなければ、慈悲ではなくなってしまいますからね。

「色即是空 空即是色」という文脈からは、

菩薩は文字通り、菩提心をもって空性・般若の智慧を理解し、涅槃を得ることができる。これは、般若心経の本文にあるとおり、

心無罣礙(しんむけいげ)無罣礙故(むけいげこ)無有恐怖(むうくふう 遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃(くうぎょうねはん)

ということです。

しかし、菩薩はその涅槃に安住しない。

衆生の救済のために、再び、色(=物質)の世界に戻ってくる。すべての衆生を悟りの彼岸に渡すために。

ということですね。こういう「色即是空 空即是色」の解釈の仕方もあります。

とても有り難い話ではあるのですが…。

では、なぜ、菩薩が居て、迷える衆生が居るのか?

えっちらおっちら時間をかけて衆生を彼岸に渡していくくらいなら、仏は最初から「菩薩だけ、菩薩オンリー」の世界にすればよかったじゃないか、という疑問です。

あるいは、上述した「エネルギー循環」の理論で行くならば、「何のために循環している必要があるの?」という疑問。

般若心経が言うように、「不生不滅 不増不減」=「(新たに)生じることもなく滅することもない、増えることもなく減ることもない」という、

これが究極の真理であるならば、「全体は減らない増えないのに、エネルギーだけがぐーるぐる循環しています」と。それ、何の目的があるのですか?という疑問、問題提起です。

ここの「なぜ?」という問題提起こそが、じつは、「ネオ仏法は小乗も大乗も超えていく」という領域のまさに入り口なんです。

目的

実在は「現象する」ことによって本質を開示する

目的論的世界観を認める

ここの項目が、ネオ仏法が大乗仏教を超えていくための中心論点のひとつになります。ここが非常に重要なところです。

今まで、

  1. 現象と実在は異なるものではなく、実在は現象と異なるものではない
  2. 現象はそのまま実在であり、実在はそのまま現象として顕現することによって実在で有り続けることができる

というお話をいたしました。

次に、「そもそも論」として、

なにゆえに、「実在と現象」という形態が存在しているのか?そこに何か合目的的なものがあるのか?

ということをお話していきたいと思います。

「合目的的」であること、まあ目的論ですね。世界はなにゆえに存在しているか?実在と現象はなにゆえに在るのか?

こうした「目的論」というのは、本来、仏教に馴染まないものである、といろいろな仏教書に書かれています。

根拠としてよく挙げられれているのが、

  1. 仏教の「仏」は、セム型一神教(ユダヤ・キリスト教など)の神と違って、世界創造を行わない
  2. 釈尊は、苦からの脱却とその実践を説いたのであって、世界の成り立ちとか個の実存に関わらないところには興味を示さなかった

といった論点でしょうか。

しかし、「釈尊が語らなかった」ということと、「仏が世界創造を行わない」というのは別問題だと思います。

もっともこう言うと、「師に握りこぶしはない」という仏典の言葉を引用して、「釈尊はすべてを包み隠さず語った」という反論も一見、成立するように思えます。

*「師に握りこぶしはない」=握って隠しているものはない、すべてを語ったという意味

ただこれはですね…いくら仏陀・釈尊と言えども、ほぼ45年間、インドのガンジス川流域を中心にした布教活動という制約があったわけで。

「師に握りこぶしはない」というのは、「当時のインドの時代性と地域性を考慮した上で、必要な教えは全部説いた」という意味なんです。

そもそも、仏教では、因果の理法を認めておりますが、これは時間軸における原因 – 結果の連なりのことですね。

ということは、原因と結果の連鎖をさかのぼっていけば、「世界」の存在に関しても第一原因というのはあったはず、というのは論理的に導き出せることです。

なので、釈尊が語らなかった、というのはあくまで「当時の状況を鑑みて、力点を置かなかった」ということであって、釈尊が知らなかった、という意味ではないんですよ。

まあ今回はここにはこれ以上、深く立ち入らないようにします。

あくまで、「ネオ仏法」としては、セム型一神教が唱えるような目的論的世界観というのも認める立場を取る、ということです。

*もっとも、「天地創造」「最後の審判」の内容をそのまま受け取っている、という意味ではありません。

そして、そうした立場をとること自体が、キリスト教・イスラム教を宗教哲学的に総合していくひとつの契機になっていくと思います。

「実在 – 現象 」の目的論の解明

以下、「神」と言った場合、宗教で言うところの「根本神」「全知全能の神」という意味で使います。哲学的には、実体(=それ自体で存在するもの、真実在)という意味に使います。

「神とは何か?」「実体(本当に存在するもの)とは何か?」といった究極の存在について考える時、私たちは、

自分 → 神(実体)

といったふうに、神(実体)を対象化して捉えようとします。

しかし実は、そもそも、真実在を考えるときに、「対象化」という思考方法自体がすでに矛盾をはらむことになります。

何故というに…、(漫画かイラストで書くと分かりやすいのですが)、

「私」(あるいは「あなた」)が、「根本神とは!」と指さして考えるとしますね。

*ここのとこ、頭の中でも良いので、指さしているところを想像してみてください。

神

すると、その「神」は全知全能であり、一者であるはずなのに、指さした部分(=神)以外の領域は除外されてしまいますよね?

まず、指を指しているところの「私」が神の領域ではなくなってしまいます(イラストであれば、空や草木などの背景も神の領域ではない、ということになります)。

そうすると、これは少なくとも、「私」を除いたところの神、という図式になってしまって、「根本神」としての全知全能性がその時点で失われることになります。

*「神」という表現でなくて、「実体」とか「真実在」、といった言葉でも良いです。

したがって、神は、

私 – 神

という、主体 – 客体 の二元論的な図式で思考する対象ではなくて、指さしている自分(背景・自然物なども)をも包含する存在と考えなくてはならない、ということになります。

神は、私という「主体」をも含んでいなければならない。

一言でいうと、

神は全体である

あるいは、

真理は全体である

というテーゼが導き出されることになります。

つまり、神(真理)は私たちの外にある存在ではなく、私たち個別の存在を包含する全体である、と考えなくてはなりません。

これは一般に汎神論(はんしんろん)と言いまして、西洋哲学ではスピノザがこうした神概念を提示しました。そして、ヘーゲルに影響を与えています。

しかし、「神(真理)は全体である」として、それでは、次に全体と個別の構図はどうなっているのか?という問題が思い浮かびますね。

ワンネスにおける、神的実在と私たち個別的存在の関係性です。

そこのところは大乗仏教の哲学で説かれているように、

  • 個別的な存在はそれ自体では存在することができず、縁起によって「現象」として仮に在ることができる
  • この「現象」は、無常であり、無我であるのだから、「無い」とも言える
  • 縁起の無限の連なりの”総体”が根本仏である

ということになるでしょう。

ちなみに、無常・無我をともに縁起として整理・把握し直したのが、

  • 無常…時間論的縁起
  • 無我…存在論的縁起

というネオ仏法の考え方です。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

ここの大乗仏教の哲理は相当に高度な真理で、実在と現象の構造が解明されてはいますね。

しかし、

「なにゆえに、実在と現象があるのか?」あるいは、「なにゆえに、実在は現象しているのか?」という目的論にいまだ答えることができておりません

ワンネス理論においてもそうです。仮にワンネス体験をして一体化の経験をしたとしても、「それではなぜ、最初から一体化していなかったのか?」という疑問に答えることができていませんでした。

「神(真理)の内部に、人間やら動物やら植物やら…さまざまな個別的な存在がなぜ在るのか?しかも、意思を持って…?」、「現象しなくても、実在は実在のまま、静かに一者でいれば良いのでは?」という問いです。

先ほどのスピノザ的な汎神論の世界図をもう一度、思い起こしてみましょう。

神が全体である、という、非常に静謐(せいひつ)なイメージです。

ここで、神(全体)の総量を仮に数値で100としましょう。

もし、神が神のままで、実体は実体のままで、静かに一者であり続けるのであれば、100は永遠に100のままです。動きがないですからね。

ところがもし、その神が「発展」を望んだら?どうする?

どうやって、100を101、102…と増やしていくことが出来るでしょうか?

実はここのところ、ひらたく言えば、神が神自身を増量(発展)するためにはどうしたら良いか?という問いが、「現象」の意義を解明する鍵になるんです。

結論から言ってしまえば、神は中道、あるいは弁証法を発明した、ということです。

弁証法の図式を思い浮かべてください。

正 – 反

から、

 合

正 -反

という道筋をたどるのでした。

*参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい

そして、合というのは、正と反を足して二で割ったようなものではなく、生と反の本質部分を保存しつつ(つまり、矛盾は矛盾のままでありつつ)、より高次な概念で総合されたもの、ということでしたよね。

弁証法

矛盾を包含しつつ統合する、ということで、このことを京都学派の哲学者、西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と言いました。

正 – 反 の数値を仮にそれぞれ1としますと、合計は、1+1=2になります。

ところが、正- 反が総合されて合に至ると、合計の数値は2以上のものになります。

なぜなら、合は正と反を依然として含んだ上でさらに上位の概念を生み出しているからです。付加価値といっても良いです。

これは、この世では男女のありかたに象徴的に現れています。

男性と女性が2人でそれぞれいるだけだと、合計は2人です。当たり前ですね。

ところが、男女が結婚すると、子どもが生まれる(ときもあります)。

すると、なぜか合計は3人になりますね。

ここのところが、まさに今、私やあなたが存在している理由になるのです。

神、至高神は、お一人様でいらっしゃると100は100のままで増量していくことができない。したがって、神は自己の内部に現象を起こすことにした(つまり、個別的な、個性ある存在をあらしめた)。その図式が弁証法であり、弁証法とは中道のことである。

神は自らを現象させることによって、弁証法的発展を意図した。

ということです。

たとえば、

神=100の図式でいうと、

100がまるっと100であるのではなく、個別的な1を100個創造して100に置換した。

そうすると、各部分で弁証法的なダイナミズムが惹起され、1+1=2ではなく、1+1=3となる構造ができる。

各部分において、増量が起きるということは、それは同時に、全体も増量されるということですよね?

もう少し分かりやすいたとえ話をしてみます。

あなたという存在が100としましょう。

あなたの身体の「内部」で細胞分裂が起きて、細胞が1個増えるとします。すると、あなたという「全体」も100から101に増量しますよね?

これと同じことです。

現象というダイナミクスを引き起こすことにより、実在そのものが拡大(増量)していくことができる

これが、実在がわざわざ現象していることの意味、目的論です。

…おわかりになりましたでしょうか?

これでもたぶん、一般の哲学書に比べれば相当わかりやすくご説明していると思うのですが…。

今回の記事のポイントで、大乗仏教の哲学を超え得た、ということになると自負しています。

やはりどうしても、哲学的になってしまい、読むのもしんどいところがあるかとは思いますが、今申し上げている内容は、地球の歴史時代を通じて、「かつてここまで説かれたものはない」という領域に踏み込んでいます。

ワンネス、宇宙そして空(くう)

ワンネス(実在)の発展の内実は、「智慧×慈悲の総量を増やすこと」

今までの内容をざっとまとめておきます。

  • 実在(根本神・根本仏)は主体を含むところの全体である
  • 実在は「現象する」ことによって、自らを発展させている
  • その発展の法則が弁証法であり、仏教で言うところの中道である

ということでした。

実在・根本神・根本仏…とかいろいろな言い方をしていますが、内容は同じことです。最近では「ワンネス」とも言われていますね。

このワンネスということについても、「みな、本来ひとつなんだ」「自分も他人も一体なんだ」というあたりの理解で止まってしまうと、

「その根拠はなに?」「なぜ、ワンネスなのに、一人ひとり個別の存在が必要なわけ?」ということが分からなくなり、浅いものになってしまいます。

なので、ワンネスは根本のあり方ではあるのだけど、やはり静的なものではなく、内部に様々な個別的な現象(私たち、動植物、鉱物…などなど)を包含して、動的なダイナミクスを引き起こしているわけですね。

ダイナミクス

このダイナミクスにより、個別の現象も発展すると同時に、ワンネス自体も発展していくという図式になっています。

さて、ではその「発展」の内実に迫ってみましょう。

ネオ仏法では、人生の意味とミッションを「智慧の獲得と慈悲の発揮」と定義しています。そして、一生を通したスピリチュアルな仕事量は、まさしく、智慧×慈悲という公式で表すことができます。

上述したように、「現象の発展はすなわち実在の発展である」ということを考慮に入れると、私たち一人ひとりの「人生の意味とミッション」というのは、じつは同時に、実在(ワンネス)の目的とミッションにリンクしているはずです。

個々の現象の発展の内実というのは、結局、「智慧×愛」で生み出された「新たな付加価値」ですからね。

なので、ワンネス(実在)の発展(=付加価値)というものも、結局は、智慧×愛の総量エネルギーが増幅されていくということ、と定義することができます。

智慧×慈悲の総量を増やす目的とは?

ここでさらに踏み込んで、「なぜ、智慧×慈悲の総量を増やしているのか?」ということを考えてみたいと思います。

以前、下記の記事で、「仏教の教えの印」であるところの「三法印(さんぽういん)」と縁起の関係を考察してみました。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

復習してみますと、

  • 諸行無常:時間論的縁起→智慧の獲得
  • 諸法無我:存在論的縁起→慈悲の発揮
  • 涅槃寂静:無常・無我を立脚点とした幸福論

ということになります。

ということは、

私たちの一人ひとり(現象)の実存が、「智慧の獲得と慈悲の発揮により、真実の意味での幸福を感じている」ということになりますので、

ワンネス(実在)もやはりパラレルに、「智慧と慈悲の総量を増やす(発展)ことによって幸福論を担保している」ということになります。

つまり、「究極のそのまた究極」を突き詰めていくと、(真実の意味での)幸福論に至ることになります。

これは、究極の福音でもあるでしょう。ワンネスが、宇宙が、私たち現象が、結局は幸福を目的として在る、ということになるからです。

幸福

空理論の新展開

ここで、仏教および仏教学で言われている空(くう)の論理を更新してみます。

空については、伝統的には以下のような理解の仕方をしているでしょう。

「縁起、つまり、「相依って存在している」ということは、物質であれ心の作用であれ、それ自体で存在できるものはひとつもない。世界に実体として存在しているものは何一つ無い。それが、空である」

と。

私は従来からのこの空理解を一概に否定するつもりはありません。

しかし、一方で、この伝統的な仏教の空理解はトータルなものでもない、と思うのです。

結局のところ、空すなわち「空っぽ」ということとほとんど同義になってしまいます。

これはこれで、「空なのだから執着する必要はない」という効能はありますね。

しかし、ここまでずっと読んでくださった方はもうお気づきかもしれませんが、従来の空理解はあくまで「現象面」だけに着目した空理解で止まっているのです。

なるほど、個々の現象としては、「一切皆空」が真理でしょう。

しかし、現象の総体であるところの全体、「現象する」ことによってその本質を実現しているところの真実在(究極のイデア)は、やはり、「空っぽ」ではなくて、文字通り、「実在する」のです。

「空っぽ」ではなくて、「有る」ということです。

まとめてみましょう。

  • 現象としての個々の存在は、その本質において空性(くうしょう)である。しかし、空とはすなわち、時間論的にも存在論的にも縁起であることであり、それは、智慧と慈悲に関わってくる。
  • 空=縁起の構造をさらに分析すると、弁証法的なダイナミクスと理解できる(仏教的には、「中道」)。
  • 実在は、空のダイナミクス(弁証法/中道)によって、智慧と慈悲の総量を増やしており(=発展)、その究極の目的は真の意味での幸福論である。

したがって、

実在面に着目すると、空は「有る」。現象面に着目すると、空は「無い」。

ここにおいても、やはり、「有無の中道」で理解するのが正解、ということになります。

従来からも、「真空妙有(しんくうみょうう)」すなわち、「真に空を観察すると、妙なる有が現れてくる」という思想がありました。

が、真空妙有は、上記で述べたような存在論というより、「仏の智慧と慈悲が観じられる」「菩薩の使命が現れてくる」といった実践面での理解が主眼でした。

それももちろん真実ですが、今回、私が述べたいのは、実践面というだけではなく、「存在論」としても真空妙有は成り立つ、ということです。

この空理解の更新で、『般若心経』の観自在菩薩の悟りを超えたのではないかと思います。
*具体的な確認作業は、また改めて『般若心経』のセミナーなどで解説していきたいと思います。

西洋/東洋哲学の「実体」概念も更新する

空理論の新展開は以上のとおりですが、空理論の更新はすなわち、従来、哲学で議論されてきた「実体」の定義を更新していくことでもあります。

ソクラテス以前より、「本当に存在するもの」としての「実体」がさまざまに議論されてきました。

実体は、

  1. そのもの自体で存在することができる
  2. 変化の背後にあって変化しないもの
  3. 永遠不滅の存在

と大きくはこの3つで議論されてきたことと思います。

そして、もちろん仏教学では、「仏教は、一切の実体の存在を否定した」という解釈になっていますが、ここのところもやはり、「現象面で見たところの存在の実体性を否定した」ということであり、

現象を展開させているところの実在は、やはり存在するということです。

「変化の背後にあって変化しないもの」というところから出発するから混乱するのであって、

むしろ、変化を内包しつつ(ダイナミズムを自らのうちに生成させる)己を開示しているのが実在=実体、という理解の仕方です。

あるいは、「不変」ということにこだわるのであれば、「変化の仕方、ダイナミズム展開の仕方=弁証法/中道という法則性がむしろ不変であり普遍である、というふうに更新していけば良いですね。

今回の項目も前回に引き続き、ネオ仏法の山場にあたります。

ポジティブ三法印への展開

長い論考になっていますので、ここまでの話を整理してみましょう。

  • 実在が現象している究極の目的は幸福論にあること
  • 空理論の新展開として、「実在面と現象面の双方向から空を理解していくこと」
  • いっそ、実体概念(定義)を更新してしまう提案

について、書いてみました。

従来の三法印(さんぽういん)解釈をチェックしてみる

さて、この項目では、私たち一人ひとりが「現象している」ということを踏まえつつ、実人生において最大の収穫を得るために、はどうしたら良いのか?

そして、新時代に適合する仏法(ネオ仏法)はどうあるべきか?ということで、「仏教の教えの印」と言われている三法印の更新(アップデート作業)を行っていきます。

三法印(さんぽういん)は、

  • 諸行無常(しょぎょうむじょう)
  • 諸法無我(しょほうむが)
  • 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

の3つです。

従来の仏教および仏教学の解釈では、

  • 諸行無常:一切の事象は変転変化していくこと
  • 諸法無我:一切の事象はそれ自体で存在することはできない
  • 涅槃寂静:無常・無我の理を悟り、執着を断つことによって、輪廻から解脱する

ということになっております。

これらの解釈は、小乗・大乗を通して、ベースの部分は変わっていないでしょう。

もちろん、大乗仏教では、「涅槃に安住せず、現世に戻り救済業にいそしむ菩薩」(無住処涅槃・むじゅうしょねはん)ということで、涅槃観により積極的な意味合いをもたせております。

また、「諸法実相」の思想で、「この現象界もやはり仏・真理の現れである」というふうに、現象界にプラスの意味合いを持たせることには成功していると思います。

しかし、

では、仏教が小乗・大乗を問わず、近代以降の文明に思想的な根拠を与えることができているか?というと、はなはだ心もとないのが現状ですね。

むしろキリスト教のほうが、プロテスタンティズム以降、現象界の発展の原動力になってきたことは周知の事実です。

これは、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘したとおりです。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

現代仏教思想の最先端であっても、「近代以降の西欧型文明・競争的世界観が限界を露呈している状況で、仏教が示す「関係性の世界観」を見直す意義は大きい」ということで、せいぜい、補完的な方向性を示すだけにとどまっているのではないか?と思います。

その理由は、諸法実相の思想であっても、あるいは、華厳経学の事事無礙法界(じじむげほっかい)の思想であっても、「世界はこのように有る」という、いわば、「存在の様態」の説明でとどまっている、というところにあると思われます。

しかし、ネオ仏法では、「実在(仏)は「現象する」ことによって自己開示をしていく」という立場をとりますので、文字通り、「現象界」により積極的な根拠を与えていくことができる、ということになります。

そのための基礎理論として、三法印解釈のアップデートですね、これを行っていきたいと思います。

ポジティブ三法印への具体的展開

具体的には、下記の記事ですでに基礎理論の準備はできています。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

この記事に基づいた三法印解釈は、

  • 諸行無常:変転変化していくという時間論→原因結果の連鎖→智慧の獲得
  • 諸法無我:それ自体では有ることができないという存在論→関係性の連鎖→慈悲の発揮
  • 涅槃寂静:無常・無我の理を悟り、「実在」の視点から「現象していく」幸福論

ということになりますね。

従来の三法印解釈はたとえば、

  • 諸行無常:全ての事象は変転変化の中にある
  • 諸法無我:全ての事象はそれ自体で有ることはできない

という、いわば、「受け身の三法印」ですね、言い換えれば、「パッシブ三法印」(英語に直しただけですが)。

「世界は(時間は)そのように有る」という受け身の世界観です。

しかし、私たち一人ひとりには「現象する」存在として、自由意志が与えられています。そうであるならば、時間論においても存在論においても、主体性に基づいた解釈があっても良いはずです。

具体的には、

  • 諸行無常:主体的に変転変化を起こしていく(時間論)
  • 諸法無我:主体的に関係性を構築していく(存在論)

という主体性に基づいた解釈です。

主体的

ポジティブ無常

諸行無常からは、仮に「ポジティブ無常」と命名してみます。主体的な諸行無常。「自ら、諸行に無常を引き起こしていく」ということです。

もっとも、無常を引き起こしていくと言っても、「良い無常、悪い無常」があるのは言うまでもありません。

仏教の基本姿勢は、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)で説かれているように、
*七仏通誡偈:過去七仏が説いた教え=永遠の真理

  • 諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く(なく)
  • 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い
  • 自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす
  • 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり

ということですから、ポジティブ無常とは、「良い無常を引き起こす」ということになりますね。

これは、

  • ミクロのレベルでは、良き自己変革をなすこと
  • マクロのレベルでは、世の中の役に立つようなイノベーション・発明をなしていくこと

ということになります。

イノベーションという概念は、オーストリアの経済学者、シュンペーターが初めて定義したものだと思います。

具体的には、

  1. 新しい財貨の生産
  2. 新しい生産方法の導入
  3. 新しい販売先の開拓
  4. 新しい供給源の獲得
  5. 新しい組織の実現

と5つ挙げられていますが、シュンペーターにおけるイノベーションは、「異質なものの結合で新しい付加価値を創出する」というところに主眼があるように思われます。

その後、経営学者のドラッカーも「イノベーションを引き起こす7つの機会」について語っています。

  1. 予期せぬ成功と失敗を利用する
  2. ギャップを探す
  3. ニーズを見つける
  4. 産業構造の変化を知る
  5. 人口構造の変化に着目す
  6. 認識の変化をとらえる
  7. 新しい知識を活用する

ドラッカーのイノベーションは、「過去の成功体験を体系的に廃棄し、構築し直す」というところに主眼があるようです。

イノベーションと企業家精神

それぞれの個別具体的な理論までは今回は立ち入りませんが、

少なくとも方向性として、「ポジティブ無常」が現代的な経済学・経営学の方向性とも合致させることができる、ということはご理解頂けるのではないかと思います。

これは、宗教学的に言えば、「労働の聖化」にあたります。

いずれにせよ、「ポジティブ無常」においては、イノベーション=革新、つまりまずは、智慧の獲得に関わってきます。

これはむろん、個人におけるイノベーションすなわち自己変革においても同様です。

ポジティブ無我

「智慧を拡める行為が慈悲」というネオ仏法の定義で行けば、「ポジティブ無我」は、「ポジティブ無常」で獲得された智慧を広げる、ということで、よりマーケティング志向に関わってくるでしょう。

そういう意味でも、現代のマーケティング理論とも整合をとれますし、いやむしろ、マーケティング理論に方向性を与える働きがあります。

マーケティングにも、「良いマーケティング」と「悪いマーケティング」がありますからね。

良いもの(製品・知識)を戦略的に拡散させれば、やればやるほど天国的なマーケティングになりますが、悪いものを(製品・知識)を戦略的に拡散させれば、やればやるほど地獄的なマーケティングになります。

従来のマーケティング理論では、この「良い/悪い」の前提がほぼ無視されている状況でしょう。

「ポジティブ無我」によって、マーケティングに善悪の価値基準の理論的基礎づけを提供することができるようになります。

そもそも、こうした倫理的基礎づけが宗教や哲学の仕事であったはずです。

ポジティブ涅槃

  • ポジティブ無常:主体的に変化を引き起こしていく→智慧
  • ポジティブ無我:主体的に関係性を構築していく→慈悲

ということで、

ポジティブ涅槃は、智慧×慈悲の公式により、個人の心理的安寧(従来の涅槃解釈)にとどまらず、私達がいま住んでいるところの現象界を積極的に仏国土へ変えていくこと、

そして、そうした営為に参画することそのものが真の幸福論である、という定義となります。

そうすると、個人や企業、共同体・社会において、つまり、現象界における各々の現象において、智慧×慈悲=仏国土が推進されるということは、すなわち、実在(仏)そのものの智慧×慈悲の総量が増えていくことに合致していきます。

これすなわち、仏国土の拡大、ということになりますね。

このことは、「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく」シリーズ各編の議論の流れからもぴたりと整合性がとれます。

以上が、三法印の新展開ということになりますが、ひとつ注意点があります。

それは、ポジティブ三法印は、従来の三法印解釈を廃棄しているわけではなく、むしろ、ベースにしている、ということです。

*もっとも、「輪廻からの解脱が涅槃である」という解釈は、「迷いの輪廻からの解脱が涅槃である」という解釈へ変えています。

やはり、現象界に生きる私たちとしては、「無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である」ということ。

すなわち、「無常な世界において常住を望んだり、自我意識に執われていると、それは苦しみである」という真理も忘れてはいけないと思います。これがベースです。

まず、マイナス心理の状態をプラマイゼロにして、それから積極的な段階に進むのが順序、ですね。

ポジティブ三法印については、ここを起点に無限の各論が出てくると思います。

以上、おもに伝統仏教の理論を手がかりにしながら、それを新時代向けにアップデートしつつ、ワンネス(Oneness)すなわち一なる全体(実在)とそれを構成しているところの私たち個物(現象)の関係性および目的性まで解明してみました。

ここまでお読みいただいた方はもうお分かりかと思いますが、ワンネスと言っても、いわゆる、「ノン・デュアリズム(非二元論、不二一元論)」というような、二元論(あるいは多元論)を抹消した一元論ではない、ということです。

あくまで、一元の<内部>に様々な個性が<多>として光っている、そして、一(イチ)そのものがダイナミックに生成発展していくというイメージです。

ネオ仏法の思想に賛同してくださる方が、おのおのの持ち場・専門分野で各論を開花させて頂ければ嬉しいです。

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コメント

コメント一覧 (7件)

  • >チャッピ様

    コメントありがとうございます♪

    言葉そのものでは一挙にトータルな真理を指し示すことができないです。

    ただ、パズルのひとつひとつのピースを説明することはできますので、
    それを繰り返していけば、次第に読み手に真理の全体像を提示することは可能だと思っています。

    愛は結びつける力で、別の言葉で言えば、縁起でもありますから、
    宇宙の根本法則でもあると言えると思います。

    縁起が張りめぐされている全体像が宇宙であるとするならば、
    愛はすべての全てであるとも言えます。

    そして、この記事に書かれているように、神的実在(宇宙)が拡大し続けているのだとすれば、
    それはすなわち、愛が自己展開をしている姿だとも言えますね。

    菩薩はそのための主体的な実行部隊です。

  • ここまで分かりやすく言語化できるのってすごいですね。
    言葉そのものは概念のようなものであるがゆえに
    真理そのものを表せないと思いますが
    愛って結局突き詰めると何なんでしょうかね?
    菩薩を体現し続ければ理屈抜きでただそうだと
    わかるのかな?なんて想像してます(笑)

  • 個人崇拝をするつもりはありませんのでご安心を!私は真理を愛する者です。

  • ありがとうございます。

    私に限らず個人崇拝をする必要はない、と言いますか、それは辞めておいたほうがいいと思いますが。

    私というフィルターを通して受け取っているところの真理を信じてくだされば、と思います(^^)

  •  私は,高田さんが極めて正常な方で,歴史的瞬間を目撃している方に賭けます!「ネオ仏法」が,世界を変えてくださるように,祈ります。

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