無我について、今回は実践論的な観点で書いてみます。
死後、群魂の中に溶け込んでしまうわけではない
無我について、一般的に勘違いしやすいのが、「自我を滅却するのだから、個性がなくなってしまうこと?」という解釈かな、と思います。
実際、マインドフルネスから(宗教的な母体であるところの)テーラワーダ仏教の教義に踏み込んでいくと、やはり、この「無我」の問題に突き当たります。
ところが、テーラワーダ仏教の教義が釈尊の真意から離れているとろがある、というのは別記事で書きました。
*参考記事:三法印の解釈すべてに問題がある – テーラワーダ仏教批判①総論シリーズ
実際に、とくに欧米人ですね。欧米人は伝統的にデカルト的な「自我」を大切にしている伝統がありますので、「無我で個性が(自分が)無くなってしまう!?」というところで、かなりの抵抗感があるようです。
そして、マインドフルネスを辞めて、また禅に戻っていく人も多い、と聞いています。
ここにある問題というのは、やはり、無我になる→自我の滅却→自分がなくなってしまう!?という恐怖感なのかな、と思います。
神的実在と”一如(いちにょ)”になる、という考えや修行法を重視するのは仏教でもキリスト教でもイスラームでも、あるいは、さまざまなスピリチュアルでも、ありがちなパターンではあり、それはもちろん優れたことではあります。
ただこれだけでは、一如(全体)と自己の関係がはっきりと説明できていないところに若干、不満が残りるところです。
あるいは、人は死後、「群魂(ぐんこん)のなかに溶け込んでしまう」という解釈のスピリチュアルもあるようですね。
これもせっかく、一個の個性としてかけがえのない人生を生きてきたのに、死後、その個性が無くなってしまうの??という不安を引き起こすものでしょう。
単に一体化する、一如化する、あるいは群魂に戻ることが優れているのであれば、なぜ世界は最初から”一如のみ”の有り様ではなかったのか?二度手間ではないか?というふうに、さまざまな個物が存在することに説明がつけられないのです。
まずこの、「群魂に溶け込んでしまうかどうか?」についてちょっとご説明しておきますね。
結論から申し上げると、
人間のように一人ひとりの個性が(生前に)しっかりとできている存在が、死後、肉体がなくなったからと言って、無個性の群魂の中に溶けてなくなってしまうということはありえません。
人は肉体の死の後も、基本的には生前の個性・アイデンティティを保持して霊界に住むことになります。
また、そうであるからこそ、各個人の霊格と個性に基づいて、十界のような階層世界が存在しているわけです。
*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論
無個性になってしまうのであれば、「色々な霊界がありますよ」という論が成り立たなくなってしまいます。
肉体の死後、群魂に溶け込んでいってしまうのは、個体差(個体としての個性)があまり進んでいない生物に限ります。
代表的なものとしては、「虫」なんかそうです。
よく空中に、うわーん!といった感じで、群れて飛んでいる虫がありますが、これはもう地上にありながら群魂のなかにあるようなものですね。
そういう意味では、鳥類なども群魂的な魂へ移行するものが多いかな、と思います。
ただ、とくに哺乳動物とか、比較的、個体差が多い生物に関しては、群魂の中に帰してしまう、というところまではいかないと思います。
ここらへん、「どこからどこまで?」というのはあまりデータをとっていないので、なんとも言えないところがありますけどね。
無我は個性がなくなるということではない
まあこの点については、基礎理論的には、いくつかの記事で書いてきました。
*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す
要は、実在(全体/一如)の一部として、私たちという個別的な現象がある。そして、現象同士でさまざまな矛盾(葛藤・争い・驚き)が生じます。
ところが、時間の経過とともにそうした矛盾も解決されることによって、「智慧の増量」が起きると。また、その智慧を他者に与えていくという「慈悲の増量」も起きます。
現象相互でこうした智慧×慈悲の増量が起きるということは、私たちを含むところの全体である実在にとっても、智慧×慈悲の増量をもたらす。
そして、それこそが、「実在がわざわざ自らの内部に個別的な現象を作った理由」ということでしたね。
なので、
もし現象が無個性化してしまうのであれば、文字通り「個性ある現象」を生じさせる必然性がなくなってしまうわけです。
最初から最後まで「実在おひとり様」でいれば良いわけですよね。
そうした基礎理論から、「私たち一人ひとりの実存としての無我」を考えてみますと、やはり、「個性は大事に伸ばしていくべきである」という結論になります。
しかし、注意点としては、
個性を伸ばすにあたり、それが自我意識に基づいたものになってしまうと、苦しみになってしまう。幸福論から遠ざかってしまうということです。
自我意識とは、
- 自分と他人は別々の切り離された存在である
- 自分は大いなる存在(実在/一如)とは関係がない
という価値観です。
そして、この二つの価値観がなぜ生じてしまうかと言うと、やはり、「肉体を持っていると、自分と他人、自分と全体が別の存在に見えてしまう」という事実に起因しています。
そして、その価値観が存在の不安を引き起こしているわけです。
なので、いろいろな宗教で語っている
- 人間は神仏の子
- 他人とも本来は一体である
というのは、上記の価値観を打ち消して、幸福論へ誘うためなのですね。
ただ、宗教用語で語られると、なんだか抵抗がある、非論理的である…という近現代人のために、より思弁的(論理的)な哲学で語る必要性がでてきた、ということです。
個性を伸ばしつつ、無我に至るコツとは
肉体的な自我意識が存在の不安を引き起こす、と書きました。
そうすると不安を抱えた人間は、「自らをハッキリと定義したい」という欲求に駆られます。
「自分が何者なのか、ひとことで言ってくれよ」という思いです。
そこで多くの人が陥る安易な方法としては、
- 極端な意見に付き従う
- 極端な行動をとってみる
- 極端な(人目をひくような)ファッションを身にまとってみる
という方向です。
たとえば、中学生・高校生が校舎の裏でタバコを吸っているとか、あれは、やはり大きくは、存在の不安から来ていると思うんです。
「自分が何者なのか、はっきりと自分に納得させたい」という思いです。
なので、「周りから見ても、アナタは〇〇ですね」と言われやすい、分かりやすい「記号」に頼ることになります。
あるいは、ロリータファッションなどもそのパターンが多いかも(ロリータファッション好きの読者がいたらゴメンナサイ)、です。
「ロリータ的価値観に同意した上で、原宿へそうした服を買いに行く」という順序というより、「服を買って着てみたら、個性が手に入った気がした。安心感がある。だから、自分はロリータである!」みたいな、
こうした順序になっていることが多いかもしれません。
しかし、こんな安易な方法では、存在の不安が解消されるわけはなく、「まだありのままの自分ではないのでは?」と悩み続けることになります。
これは、根本原因としては、
「他者から〇〇と認定されることが個性」という考え方ですね。いわば相対観。
しかし、
「他人がどう思おうと、顰蹙(ひんしゅく)を買おうと私は貫きますよ!」という「勘違いアドラー的」な(笑)、まあ、ちょっと前に流行った「自分軸」ですね。
この自分軸も、いまだ「自分 – 他人」という相対観にとらわれているという意味で、まったく解決にならないんですよ。
*参考記事:”自分軸”で生きるのは難しい – 真理スピリチュアルが提唱する”絶対軸”とは?
このようにつらつらと考えていくと、
やはり、ネオ仏法基礎理論であるところの、
- 実在は現象することで自らの本質を開示する、それが幸福論である
- 現象(私たちひとりひとりです)は、実在(一如)の一部として、実在の発展(智慧×慈悲の増量)に貢献していくことが自己実現であり、同時に幸福論である
という論点に戻ってきます。
この2. の論点というのは、たとえば、明治維新の志士たちが「天下国家のため」と言っていた「無私」とほぼ同じことだと気づきますね。
仏教書を読んでいると、「無我と無私は違います」と書いてあるものもありますが、まあそれは「仏教哲学の範疇」にこだわっているからそうした結論になるわけで、
もっと深く「無我」への考察を深めると、「無私と同じことだな」ということに気づきます。
内村鑑三が、
自分は日本のために、日本は世界のために、すべては神のために
と語った、この精神です。
これはキリスト教徒としての自負を述べているわけですが、「実践論的無我」という意味で、けっこうこの言葉がぴったりきます。
まあ、「日本」でなくても良いのですが、人はみなそれぞれ自らの「持ち場」「仕事」「役割」がありますね。
そのなかで、
たとえば、
「自分はAという仕事を通じてA業界のために、A業界は社会ために、社会は世界のために」
という意識ですね。
そうした意識においては、没個性どころかむしろ、「使える奴!」ということで、ある意味、尖っていることすら必要とも言えます。
なので、没個性どころか個性を伸ばしまくる方向です。
結論としては、
無我観に基づいて、自らの個性を伸ばし、付加価値を創出していく。世界に奉仕していく。それが実践論としての無我である。
ということになります。
個性というのは、作為的に「作る」というよりも、こうした「全体のための自分はどうあるべきか?」と考え、実践していく過程で自然に現れてくるもの、だと思います。
コメント