”インシャ・アッラー(イン・シャーアッラー)”とは「神の思し召しのままに」「神の御心のままに」「神が望むのであれば」「きっとそうなりますように」といった意味です。
ムスリム(イスラム教徒)が未来を語る時によく使う間投詞ですね。”インシュアラー”と表記することもあります。
英語の綴りでは、”inshallah”ですが、オリジナルのアラビア語表記では、إن شاء الله (’in šā’ allāh 日本語音写:インシャラー)です。アラビア語は慣れていないと見づらいですね。
下記の画像のようになります。
*以下、”インシャラー”とつなげて表記していきます
ちなみに、”アッラー”は固有名詞の神の名だと思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなく、アラビア語で”神”という普通名詞です。英語で言う、大文字のGODです。
”アッラー”は、ユダヤ教で言うヤハウェ(ヤーヴェ)、キリスト教で言う「父なる神」と同じ意味です。ただし、ヤハウェの位置づけについては当サイトでは異論があるのですが、興味のある方は下記の記事をご参照ください。
*参考記事:ヤハウエとエロヒムは別の神である – 民族神と最高神を区別したほうが良い理由
さて、この”インシャラー”の何が問題になるかと言うと、ムスリムと何か約束事をしようとしても、約束がかんたんに破られる危険性があるということなのですね。
たとえば、「明日、8時にここで待ち合わせしましょう」と提案して、ムスリムから「オッケイですよ、インシャラー」と返されたとします。
そこで、大丈夫かな?と思いつつ、翌朝8時に待ち合わせ場所に行っても、そのムスリムは見事に来てないことがある。
後日、彼に問い質すと、
「いや、私は”インシャラー”と付け加えたはずだ。約束の時間に行けるかどうかは”神の思し召し(インシャラー)”によるのだ」
と返されてしまうわけです。
これが成立するのであれば、まあ遊びの約束事ならまだいいですけれど、ビジネスとなると大問題になってしまいますよね。いや、大問題以前にビジネス取引はこわくてとても出来ないという…。
そういうわけですので、(オイルマネーを除いた)イスラム圏が今ひとつ経済発展していかないのは、このインシャラーの問題があるから、と言っても過言ではありません。
そこで今回はこのインシャラーについてどう考えるべきなのか?
インシャラーの根底にある思想まで踏み込んで、ネオ仏法的にひとつの回答を示してみたいと思います。
なお、イスラームに関連する用語としては、ひと昔前まで、
- 宗教名:イスラム教
- 開祖:マホメット
- 聖典:コーラン
と表記していた時代もありましたが、近年の傾向を取り入れて、なるべく原語に近い表記を採用してまいります。
- 宗教名:イスラーム
- 開祖:ムハンマド
- 聖典:クルアーン
となります。
インシャラーの根拠
クルアーンの典拠
インシャラーについては、クルアーン(コーラン)の下記の記述に根拠があります。
何事でも、「わたしは明日それをするのです」と断言してはならない。「アッラーが御好みになられるなら。」と付け加えずには。あなたが忘れた時は主を念じて、「わたしの主は、これよりも正しい道に近付くよう御導き下さるでしょう。」と言え。(『クルアーン』18章23−24節)*太字は高田
*なお、クルアーンの日本語翻訳版は基本的に、日本ムスリム協会出版の『日亜対訳聖クルアーン』を用いることにします。
イスラームの信仰箇条、”予定”
典拠としてはこの通りなのですが、「クルアーンの一箇所にそう書いてあるから」という以上に、インシャラーは、イスラーム思想の根本に触れています。
それが何かというと、”予定”と言われる信仰箇条です。
ムスリム(イスラム教徒)には、6つの信仰箇条と5つの実践項目があるとされています。それを”六信五行”と言います。*スンナ派の場合
一応、まとめておきますと、下記のとおりです。
- 六信:アッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定
- 五行:信仰告白(シャハーダ)・礼拝(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハッジ)
繰り返しますが、六信のなかの”予定”ですね、これは”天命”あるいは”定命”と翻訳されることもあります。
”予定”であるということは、「唯一の全能の神(アッラー)は全てをご存知であり計画されるのだから、あらゆる出来事もアッラーの意思に依っている」ということになります。
つまり、人間の自由意志などは錯覚で、全ては神の意のまま(予定)で動いているという思想ですね。
”予定”と”人間の自由意志は矛盾するというテーゼ
クルアーンでも”自由意志”の位置づけはむずかしい
上述した”予定”の信仰箇条があるからこそ、「インシャラー」で、もし約束事が守れなかったとしても、その守れなかったことそのものもアッラーの意思による。したがって、人間には責任がない、という論理になっているわけです。
すべてがアッラーの意思であるならば、そもそも人間の自由意志が介入する余地はないということになってしまいます。自由意志がないからこそ、責任がない、ということですからね。
それでは、イスラームは人間の自由意志を認めてないのか?ということになりますが、別の文脈では「自由意志」を認めなければおかしなことになってしまうクルアーンの記述もあるのです。
たとえば、セム的一神教に共通する「最後の審判」に関するクルアーンの記述は下記のとおりです。
(それは)人間が飛散する蛾のようになる日。また山々が、梳かれた羊毛のようになる(日である)。それで、かれの秤が(善行で)重い者は、幸福で満ち足りて暮らすであろう。だが秤の軽い者は、奈落が、かれの里であろう。それが何であるかを、あなたに理解させるものは何か。(それは)焦熱(地獄)の火。(「恐れ戦く章」4−11節)
かんたんに言えば、善行を積んだものは楽園へ、悪行を行ってきたものは地獄へ、という図式ですね。これは宗教的にはとても分かりやすい論理ではあります。
ところが、人間の行為によって来世の行き先が決まるということは、逆に言えば、人間の自由意志を認めているということにもなります。少なくともそのようにも解釈ができます。
意志のあるところに責任があるから、ということですね。
もっとも、人間の
- 善行→楽園
- 悪行→地獄
個々の人間がどちらの道を進むかまで、アッラーが”予定”していた、というところまで”予定”を徹底すると、人間の自由意志は実質的に否定されることになってしまいます。
インシャラーの問題は、カルヴァン主義の予定説とまったく同じ
ここまで”予定”の思想をつきつめてみると、宗教を勉強した方であれば、「どこかで聴いた話だな?」と思い当たることでしょう。
そう、これはまさしく、キリスト教プロテスタント(カルヴァン主義)の「予定説」あるいは「二重予定説」です。これとインシャラーの問題の本質とは実はまったく同じなのです。
*カルヴァン主義(カルヴィニズム)によれば、「救いに選ばれる者と滅びに選ばれる者は予め神によって決定されている」という「二重予定説(二重決定論)」の立場をとります。
カルヴァン主義の予定説の根本にあるのは、神の全能性です。
ところが、人間の自由意志とそれに基づく行為によって神の審判が変わってしまうということは、別の角度から見れば、「人間が神を左右することができる」ということで、神の全能性・絶対性に齟齬をきたしてしまうのです。
ゆえに、予定説をつきつめて考えると、「人間の自由意志とそれに基づく行為によって救いは左右されない、救いは神の自由な選びによる」という論理になるわけですね。
この思想の構造というのは、繰り返しますが、インシャアッラーの問題(信仰箇条である”予定”がその根底にあること)とまったく同じです。
ここには明らかに「神の絶対性と人間の自由意志は矛盾する」というテーゼが存在しているのです。
”予定”と自由意志は矛盾を含みつつもより上位の概念で両立しうる
今まで述べてまいりましたように、”予定”と”自由意志”に矛盾がある以上、あるいは、自由意志が予定に収斂されてしまう以上、人間の自己責任が回避される論理が成立してしまうことになります。
キリスト教神学でもイスラーム神学(タウヒード)でも、この件については、なかなか明確な答えを出すことができていません。
実は、ネオ仏法では今回の記事以前に、この問題に回答を出しております。回答というのは、「予定と(人間の)自由意志は両立しうる」という論理です。
詳しくは下記の記事をご参照ください。
*予定説と自由意志は本当に矛盾するのか?- 因果律をも包含する<絶対神>
意志の発出論
上記の記事をお読み頂ければ、神の絶対性に由来する”予定”と人間の”自由意志”は矛盾しない、両立しうる、ということがお分かりになるかと思いますが、今回の記事でもきちんと記述しておくことにします。
ポイントは、自由意志とはそもそも何であるか?その発出ポイントを探ることにあると考えます。一言でいえば、「意志の発出論」です。
アッラー(神)は全体である
まずは、「アッラー(神)は全体である」というテーゼに取り組みます。
ちなみに、ですが、”アッラー”というのはイスラーム固有の神ではなく、遍在する神・普遍の神です。固有名詞の神ではなく、普通名詞の神。英語で言う大文字の”God”を指します。
ゆえに、(少なくとも)ユダヤ教・キリスト教の神、セム的一神教の神と同一です。聖書で、ヤハウェとかエロヒム、天の父、として表象されている神ですね。
実際に、アラビア圏のキリスト教の聖書でも、神は”アッラー”と呼ばれています。
しかし、アッラーは”超越神”であるので、”遍在神”ではないのでは?というご意見もあろうかと思います。
実はここのところが、「アッラーは全体である」を理解するポイントになります。
クルアーンで該当の箇所を探してみましょう。
東も西も、神の有(もの)であり、あなたがたがどこに向いても、神の御前にある。本当に神は広大無辺にして全知であられる。(2章「雄牛」115節)
ここで記述されているのは、文字通り、「アッラーは(自然界も含めて)全てのすべてである」という啓示です。
逆に、”超越神”という存在を考えてみましょう。
人間や自然界のさまざまな個物を離れた超越神…超越神とはだいたいこのようなイメージかと思います。
しかし考えてみれば、このイメージにおいては、アッラーとアッラー以外の存在が明確に区別されています。言葉を換えれば、これは「アッラー以外の領域がある」ということになってしまいます。
アッラー以外の領域があるということは、これは「アッラーは全てのすべて」ではないことになってしまいますよね?
そうすると、
アッラー ⇔ アッラー以外の領域
という図式になり、アッラーは相対化されてしまうことになります。アッラーの絶対性が損なわれてしまう。
ゆえに、アッラーが全能の神であり、全てのすべてであるのであれば、「人間や自然界の存在、あらゆる個物」をも包含する存在であるはずなのです。そうであってこそ、「全てのすべて」であると言えるでしょう。
ゆえに、まずここにおいて、「アッラーは全体である」というテーゼが導き出されます。
哲学的に言えば、「真理は真理であるがゆえに全体である」のです。これはヘーゲル哲学とも軌を一にします。
イスラームの文脈から言えば、これはかなり珍奇な思索と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
が、実際は、イスラームのスーフィズム(イスラーム神秘主義)において、とりわけ12−13世紀に”存在一性論”として展開されてきた思弁哲学です。
*イスラーム神秘主義は、”神秘”であるだけではなく、高度に哲学的・思弁的な一派を含みます。
”存在一性論”とは、かんたんに言えば、まさに「神のみが一であり全体なのだ」という思想なのです。
全体意志と個別意志
それでは次に意思(意志)の問題に移って参ります。
アッラーが全体であるとすれば、人間や自然界の存在、あらゆる意志をもった個物もアッラーに包含されることになります。
…ということは、意志の問題においても同様であることが推測されます。
アッラーの意志を仮に”全体意志”と呼ぶことにしましょう。そして、私たち個別的存在の意志は”個別意志”と呼ぶことにします。
私たち個別的存在がアッラーに包含されているとすれば、意志においても、私たちの個別意志はアッラーの全体意志に包含されているはずです。
集合の式で表すと、
A(個別意志)⊂ B(全体意志)
となります。
全体幸福意志に包含される個別幸福意志
それでは具体的に、全体意志と個別意志はどのような関係になっているのか?さらに深く考察してみましょう。
アリストテレスの倫理学を待つまでもなく、私たちの意志は最終的には”幸福”を意思しています。
ペヤングソースやきそばを買いにコンビニに行く時、「歩く」という行為は「ペヤングソースやきそばを食べたい」という感覚を志向しています。
さらに「ペヤングソースやきそばを食べる」という行為は、「美味しいから」とい感覚を志向していますね。
そして、「美味しい」という感覚は、それが「幸福だから」という最終的な感覚、すなわち文字通りの幸福意志であるわけです。
私たちはときに、幸福を意志しながらも、結果として不幸を選んでしまうこともありますが、それはあくまで錯誤の結果であって、幸福そのものを意志していることには変わりありません。
そこでもう一度、上記の式に戻ります。
A(個別意志)⊂ B(全体意志)
個別意志が最終的に幸福意志であるということは、B:アッラーの全体意志も幸福意志であることになります。
そうすると、
A(個別幸福意志)⊂ B(全体幸福意志)
という式に還元することが可能となります。
個別にせよ、全体にせよ、「幸福」を最終的に志向しています。幸福を”良し”(It is good)としているということ、これは幸福こそが絶対善であるということです。
神義論への最終回答(絶対善と相対善/相対悪)
ところで、私たちはなにゆえに錯誤するときがあるのか?言い換えれば、不幸あるいは”悪”を選択してしまうのはなぜか?
この問題は、「全能の神が創られた世界に、なにゆえに悪が存在するか?」という神義論の問題でもあります。
この問題についても、ネオ仏法は最終回答をすでに示しています。
*参考記事:神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?
詳しくはこの参考記事をお読み頂ければ、と思いますが、かんたんに言えば、「私たちは時間的存在である」ということなのです。
ある一定の時間的経過のなかで、幸福を意志しながらも錯誤によって不幸(悪)を選択してしまうときがあります。
しかし、その一時的な不幸(悪)も最終的には、悠久の時間的経過の果てに絶対善に回収されていくことになるのです。
たとえていえば、多摩川の水は海に注いでいきますね。というか、河口において現に海に注いでいます。これが多摩川の目的、絶対善に相当するとします。
ところが、川の一部分を取り上げてみると、一時的に岩などにぶつかって逆流現象を起こしている場合があります。これが一時的な悪、言い換えれば、相対悪なのです。
また別の例えを示しておきましょう。
ここに迷路があるとします。迷路であったとしてもきちんと出口はあります。その出口が幸福=絶対善です。
ところが、私たちは錯誤によって迷うときもありますね。これが相対悪です。あるいは、迷わずに出口へ続く道を選ぶことができる場合もある。これは相対善です。
相対悪よりも相対善を選んだほうが(その時間的経過の中での)幸福感も増しますが、仮に相対悪に落ち込んだとしても、それは長い時間的経過の果てに絶対善につながっていきます。
迷路で迷った(相対悪)としても、壁を伝っていけば必ず出口(絶対善)には繋がっているでしょう?そういうことなのです。
私たち個別的存在は言い換えれば時間的存在であるがゆえに相対善と相対悪の間を右往左往していますが、アッラー(神)は時間を包含している存在、絶対善であるのです。
これが世界と真理の構造です。
それではなぜ、アッラーは私たち個別的存在をわざわざ「創造」されたのか?
これについてもネオ仏法では回答を出していますが、この問題については本記事のテーマから逸れていきますので、下記の記事をご参照ください。
*参考記事:ワンネス、仏教、宇宙。そしてネオ仏法の悟りへ
かくて、”予定”と”自由意志”は両立する
さて、ここまでの話で、私たち個別的存在の意志(個別幸福意志)、これは言い換えれば自由意志ですね。この自由意志はアッラーの意志(全体幸福意志)に包含されることが分かりました。
したがって、最終的には”インシャラー”だとしても、ある時間的経過のなかでの私たちの自由意志には「相対善か相対悪か」の責任を負うということになるのです。
すなわち、ここにおいて、「予定と自由意志は矛盾しない、両立する」が証明されたということになります。
コメント