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無我と無私の違い – 実践論としては、無我=無私の理解で良い理由

無我 無私 違い

無我と無私については、字面も似ていますし、無我(我が無い)、無私(私が無い)ということで、意味的にもほとんど同じに見えるでしょう。

ただ、ネットで検索すると、「無我と無私は違う」という意見が大半ですし、また、無我は仏教用語であり、無私はどちらかというと「公のために、天下国家のためにどのように生きるか?」という文脈で使われることが多いですので、

用語が由来しているところのフィールドが違う、ということで、「やはり、無我と無私は違うのではないか?」という結論になりそうです。

違い

もっとも、このテーマは「まあ、どっちでも良いんじゃない?」ともなりそうで、そんなに本質的な問題でもないようにも思えますが、私が考えるに、とくに新時代のアップデートされた仏法という視点からはかなり重要な問題を内包しているように思えるのですね。

そういうわけで、今回は、「無我と無私はどう違うのか?」というテーマで深堀りして考えてみたいと思います。

まず、無我と無私を簡略化して比較してみる

”無我”については、これはご存知の通り仏教用語でありまして、「無我とはなんぞや?」という、まあ禅問答な公案にもなりそうな、「我とはそもそも何であるか?」というふうに、まず、”我”という存在の分析に重点が置かれています。

その後、「では、仮に”我がない”として、どのように生きるべきなのか?」という実践論に入っていくという順序になっております。

一方、”無私”については、”私”の分析についてはほぼスルーされていまして、「”私”はある、存在する」という暗黙の前提条件から、「でもしかし、私を空しゅうして生きることが大事なのだ」というふうに、いきなり実践論的に切り込んでいくところに特徴があるようです。

両者を比較すると、まずはそういう違いがあると言えるでしょう。

仏教的な”無我”とは何であるか?伝統教学に即して考えてみる

そういうわけで、まずは、”無我”について検討してみないと、実践論としての「無我と無私」の違いについて、比較できる土壌に立つことができません。

なので、とりあえずは仏教の伝統教学に即して”無我”を考えてみることに致しましょう。

”私”は存在しない!?

無我というのは、文字通りには、「我が無い」と書きます。

デカルト的な「我思う故に我あり」に慣れた近代人からすると、けっこうエキセントリックな思想なのですよね、無我は。

我思う故に我あり

もちろん、日常的(現象的)な意味での我(=自分)というのは体感的にも”有る”と言えるでしょう。

ただ、突き詰めた上での”我”はあるといえるのかどうか?

もし”我”が絶対的に確かなものとして存在するのであれば、

  • それ自体で存在し、
  • 永遠不滅である

という特徴を備えているはずです。哲学的にはこうした存在を”実体(じったい)”と表現します。

そうした”実体”としての”我”はあるのかどうか?

仏教はこの問題について、”否”と答えます。

”私”という存在も、不変なものではなく、肉体細胞ひとつとっても時々刻々と変化しています。

また、私たちの生は、空気や水、大地など、さまざまな関係性のなかでかろうじて存在しているわけですよね。空気がなくなっただけで、数分後には死んでしまうでしょう。

そのように考えると、私たちは普段、自分の存在を自明のこととして理解しておりますが、実際はそうではなく、

  • それ自体では存在できず、
  • 永遠不滅でもない

さきの定義で言えば、「実体ではない」儚い存在であると言えるでしょう。

仏教教学ではさらに、私たち人間の肉体のパーツや精神作用を細かく分析して、それぞれの構成要素さえも実体ではない、仮のものである、という立場をとります。

これを五蘊皆空(ごうんかいくう)などと言ったりしますが、今回は深入りしないようにしましょう。

*参考記事:照見五蘊皆空 – カント認識論よりすごい?”五蘊”

仏教があえてこうした”無我説”を唱えたのは、当時のインドの歴史的背景もあります。

当時はバラモン教のウパニシャッド哲学で説かれている「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想が優勢だったわけです。

”梵”というのは梵天・ブラフマンということですが、至高神と言ってもいいですし、あるいは「究極の宇宙的原理」と言ってもいいでしょう。

梵天

そうした宇宙的原理と、私たち個別的な存在つまり今問題にしている”我”ですね、この両者は突き詰めていけば一体である、ということです。かんたんに言えば、これが梵我一如の思想です。

大乗仏教の時代になると如来蔵(にょらいぞう)とか悉有仏性(しつうぶっしょう)の思想が出てきますので、少なくとも大乗仏教的には、梵我一如の思想はとくに奇異に感じられないのですけどね。

ただ、仏陀・釈尊が梵我一如に対し、アンチテーゼ的に”無我”を打ち出したのは、もっと別の理由があります。

要は、「ブラフマンも我も一体である、同質である」と言ってしまうと、これは表面的に解釈すると傲慢な人間が出来上がってしまう危険性もあるわけです。

そしてそうしたいわば「価値の高い我」に執着を感じ始める…。ここにまたひとつの大きな陥穽を仏陀は読み取ったのですね。

そして執着の結果、苦しみが生じる、というのは、これまた仏教理論の根本です。

したがって、”無我”の思想は、「存在の分析の結果、不変的実体としての”我”は無い、という結論に至った」ということではありますが、

仏陀としてはその前段階として、「なにゆえに、人は”我”に執着して苦しみが生じているのか?」という現実問題、実践論的な観点から考察を始めていると言えるかもしれません。

その後、”我”という「存在の分析」に進んでいくという順序です。

”私”は有るとも言えるし、無いとも言える!?

上述しましたように、”無我”は「我は実体ではない」ということで否定をした釈尊ですが、一方では、自己の大切さを説いてもおります。

「我は無いのに大切ってどういうこと!?」となりそうですよね。

実はこれは、「有るとか無いというのは、そもそも何であるか?」という”そもそも論”に関わってくる問題なのです。

上述した「我は無い」というのは「永遠不滅の実体としては無い」という意味なのでした。言葉を変えれば、「究極の実在という観点からは”無い”と言える」ということです。

一方で、実存的・日常的な意味では私たちの体感でも、「自分は有る」「我は有る」と言えますよね。これは言葉を変えれば、「現象という観点からは”有る”と言える」ということです。

まとめますと、”我”は、

  • 実在という観点からは無いと言える
  • 現象という観点からは有ると言える

というふうに、まさに”有無の中道”で見ていかないと本質が見えなくなってしまいます。

中道

ここらへん、仏教教学でも「有るか無いか?」に囚われていて結構、分かりづらくなっています。

そもそも、あらゆる意味で我=自己が存在しないのであれば、「何のために修行するの?」という修行論のベースが崩れてしまいますので、そういう意味でも、「我は無し」のみに固執するのもひとつの辺見(へんけん)となってしまうのです。

*辺見:偏ったものの見方

「無我だから魂はない」は誤り

「仏陀・釈尊は無我を説いたのだから、いかなる意味でも永遠不滅の魂、実体としての魂を否定した」というのが仏教学の大きな潮流のひとつとなっております。

ここのところが無我説の最大の陥穽であり、否、仏教学の最大の陥穽であると私は思っています。

実際のところ、虚心坦懐に仏典を読めば、来世・あの世の話はいっぱい出てきます。これは読めば誰でも確認できることです。

また、仏陀の基本説法に、三論(さんろん)と呼ばれる「施論戒論生天論(せろんかいろんしょうてんろん)」というものがあります。

  • 施論:施しをして(善いことをして)
  • 戒論:戒を守れば(悪いことをしなければ)
  • 生天論:来世は天界に生まれることができる

という実にシンプルな説法です。これは在家向けの基本説法なのです。

これは結論部分が「天界に生まれる」となっていますので、明確に”あの世””来世”を認めていますよね、釈尊は。

要は、近代以降の科学万能主義、唯物論の蔓延、宗教への不信感などで、「魂ナンテアルハズガナイ」という思い込みが先に来ているわけですよ。偏見ですね。

この偏見を吟味しないで、いろいろと教学を無理くりに操作するから無我=無霊魂説などが出てくるのです。

日本の近代仏教学におけるこうした偏見の源泉については、『「空」論 空から読み解く仏教』(正木晃著)がよく喝破していると思いますので、興味ある方には一読をお勧めいたします。

「空」論

また、ネオ仏法でもこの問題はひとつのテーマとして詳述しておりますので、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

かくて、無我と無私は同じ意味になる

さて、”無我”が上述しましたように、「実体としては無いが、現象としては有る」というものであるとすれば、実践論的にはどのような展開になるでしょうか?

結論的に言えば、

  • 実体としては無い→自分に執着するなかれ
  • 現象としては有る→自己を伸ばし、魂の向上を目指せ

ということになります。

”無我”は大乗仏教的には”空(くう)”の思想として、よりダイナミックに展開していきます。

上記のように、「自分に執着せず、自己を伸ばしてゆく」というのは立派な生き方ではあるのですが、まだどこか、自分のことだけを考えているきらいがありますよね。

それこそが大乗仏教が出現してきた理由でもあるのですが、要は、「もっと他者や社会のことを考えるべきでは?」というふうに、いわば”利他”にもっと重点を置くべきではないか、ということです。

考えてみれば、”無我”というのも、「私たちはそれ自体では存在できない。さまざまな関わりの中でかろうじて”有る”ように見えているだ」という、いわば、”関係性”の思想ですよね。

そうであれば、「自ら主体的に関係性をより良いものにしていく」というポジティヴ無我があっても良いはずです。いわば、「無我な愛」です。

無我な愛

いえ、仏陀は本来、慈悲や布施の大切さを説いていましたので、そうであってこそ、仏教の本質に近づいていくことができるのだ、と言えるでしょう。

ネオ仏法が提唱する”ポジティブ無我”および”ポジティブ三法印”によって、仏教が現代にもその意義を見失っていない、否、むしろ現代から未来にかけての中心的な思想的役割を果たすことができるであろうと考えています。

*参考記事:ワンネス、仏教、宇宙。そしてネオ仏法の悟りへ

ポジティブ無我に至ってはじめて、「”我”に執着せず、自己を伸ばしていき、その伸ばした自己でもって他者や社会のために生きる」という強力な実践論に転化していきます。

  • 自己を伸ばしていき:智慧
  • 他者や社会のために生きる:慈悲

というふうに、「智慧と慈悲に生きる」ということです。

このように単に哲学的な”我”の分析にとどまらず、実践論としての”無我”を突き詰めていくと、

「実体としての我は無いが、現象としての我は有る。それは仏の一部としての我であるということだ。そして、仏の一部としての我は自己にとらわれず、かつ自己を伸ばしつつ、理想社会の建設に邁進していくのだ」

ということになります。

下線を引いた部分をつなげると、「我は自己にとらわれず理想社会の建設に邁進していく」となりますよね。

そうすると”無我”の思想は、「私を空しゅうして天下国家のために尽くす」という”無私”と同じことになっていきます。

かくて、新時代の実践論としての無我は無私と同じである、という結論になります。

 

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