ネオ仏法の射程距離
現在、小乗仏教の問題点を洗い出しているところで、これが一段落したら、大乗仏教の洗い出しを行っていきます。
なぜこういうことをやっているかというと、
- 小乗仏教と大乗仏教の対立を解消したい
- さらに、仏教と他宗教の対立も解消したい
- 対立を解消するだけではなく、仏法というものを宇宙時代にふさわしい体系へとイノベーションしていきたい
という狙いがあるからです。
かけ声だけで、「みんな仲良くしましょう!」というだけでは、文字通り、お題目で終わってしまいます。
受け取る側がどのような受け取り方をするか?という問題は残るにしても、少なくとも、私のほうで理論的なベースは現代と後世に向けて遺しておきたい、という願いがあります。
また、こうした理論を提示していく過程で、ほんとうの意味での「地球レベルに相応しい宗教哲学」が完成していきます。
今現在、私が見たところ、地球の歴史上で最も深い真理に到達しているのは、
東洋においては、
- 般若経をベースにした中観派(ちゅうがんは)および、無著・世親(むじゃく・せしん)らが創始・発展させた唯識(ゆいしき)学派。および、それらを総合した華厳(けごん)教学
西洋においては、
- カントからヘーゲルに至るドイツ観念論哲学。および、ハイデガーの哲学
このあたりだと思います。
*「生まれ変わり」を考えると、実はほぼ同一の魂が転生して仕事をしているケースも多いのですが
そして、これらの達成、真理への認識と把握はですね、地球が誇るべき達成であって、この点においては、他の惑星や星団の追随を許さないレベルにあるんじゃないかと思っています。
よく、「宇宙人からのメッセージ」ということで、いろいろな霊界通信ならぬ宇宙通信が紹介されていますが、正直、思想レベルで見るならばそれほどのレベルとは思えないんですよね。
「想いは実現する」に毛が生えた程度の思想であって、そのあたりに憧れやコンプレックスを持つ必要はさらさらない、と思います。
なので、「宇宙があなたの願いをかなえてくれる♡」などという言葉を聞いたら、みなさんは、「いえ。地球のがレベル高いんで。地球でなんとかしますわ」と切り返すといいです(笑)。
ま。しかし、ですね。 ここでひとつ、大言壮語を吐いておきましょう。
ネオ仏法は、この「大乗仏教の哲学」および「ドイツ観念論/ハイデガーの哲学」をさらに追い越していくつもりです。
というか、私自身の認識のなかにおいては、すでに追い越しています。
骨格はすでに出来上がっていますので、あとは、肉付けですね。具体的に、さまざまな事象にどれだけ対応できるか、記述できるか、というところが勝負ポイントになっています。
ただ、口で「追い越すぞ!」と言ってるだけではしょうがないですので、今から実際に追い越してみせます。
小乗仏教の洗い出しから初めてゆっくり、と考えていたのですが、(もちろんそれも順にやっていきますが)、まずは先にアウトラインだけでも書いていきます。
これ、いわば、私の遺書(?)みたいなものです(笑)。この思想を公にして、人類の遺産にするために生まれてきましたんでね。
現象と実在について
スピリチュアル的には、よく、「現象界=この世、実在界=あの世、と理解してください」と申し上げています。
そして、現象界は仮の世界であり、実在界が私達が住むべき本当の場所であると。
現象界におけるさまざまな出来事も、しょせん「仮のもの」であり、それらの「仮の体験」を通じて、新たな経験・知見を得ることが現象界に生まれてくる目的なのだと。
そこで得られた「新たな経験・知見」こそがむしろ「実在」であって、文字通り、実在界に持ち越していくことができる永遠の宝である、ということです。
そうした経験・知見(→智慧)こそが、無常の風が吹いても吹き飛ばされないところの真実在であります。
この智慧を拡げる行為が慈悲であり、「現象界において慈悲を発揮する行為」が本来の仕事であり、人生の意義なのです。
もちろん、これは真理であり、むしろ、これらの知識をきっちりと押さえるだけで、必要かつ十分(すぎる)な理解になっていきます。
*というか、ここまでハッキリと簡潔に、「人生の目的と意義」を説明されということは歴史上、稀なることです。
まあでも、ギリシャ哲学プラトンもこの「現象と実在」の関係を、「イデアこそが真実在であり、私たちが遭遇している事象はすべてこのイデアの影に過ぎないのだ」と言っています。
「イデア」といったふうに、使っている言葉は違いますが、内容的にはまったく同じことを言ってます。
しかし、言葉というものはほんとうに難しいもので。
言葉そのものは真理ではなく、真理をそこはかとなく指し示しているに過ぎないんですね。
しかし、入り口としてはまず言葉で語るしかないので、いろいろな方向から「これが真理」「あれが真理」という言い方をしているわけです。
上記の「現象と実在」の関係もそうです。
便宜的に、二分法でお話していますが、本当はこれよりも、もっともっと深いものがあるんです。
視覚的にまずはイメージしてみます。
たとえば、池の中心部にぽちゃん!と石を落としたとしますね。
そうすると、石が落ちた地点から順に、さざ波A→さざ波B→さざ波C…といったふうに連鎖していき、最終的に、岸辺に到着します。
仮に、さざ波Dで岸に到着するとしましょう。
すると、さざ波Dは、さざ波Cがなければ存在していない、ということで、
「さざなみDは現象に過ぎず、さざ波Cこそが実在である」
という考え方ができます。
ところが、そのさざ波Cもじつは、さざ波Bが引き起こしている、というふうに考えると、
「さざ波Cは現象であって、実在にあらず。さざ波Bという実在の影に過ぎない」
という言い方もできます。
ということは…、さざ波Cというのは、
さざ波Dに対しては実在であるけれども、さざ波Bに対しては現象、という二重性を持っていることになりますね。
これは、以前、「実在性には諸段階がある」ということで、コップのたとえか何かでお話したことがあるかと思います(思い出したら、リンク貼ります)。
この、さざ波理論(?)をずっと敷衍(ふえん)していくと、「では、究極の真実在は、池に落ちた石のぽちゃん!である」ということになります(笑)。
もちろん、この把握もひとつの真理(の把握の仕方)であります。
この「石ぽちゃん!」側を強調すると、まあ宗教でいえば、一神教になりやすいんですけどね。
しかし。
大乗仏教の哲学の到達地点は、
- 現象 – 実在の二元論
- 実在の諸段階論
をさらに突き抜けていくんです。
結論を先取りして申し上げますと、
「現象即実在、実在即現象」
という認識に至ります。
これがつまり、般若心経で言うところの、
「色即是空 空即是色」
なんですけどね。
次回はこのあたりに切り込んでいきます。
このシリーズ、真面目に、「色即是空 空即是色」よりも上の認識に行きますからね。ふつうに「守護霊とは!」とかの話しよりは難しく感じられるかもしれませんが、
カントもヘーゲルもハイデガーも、般若も華厳も唯識も超える!って宣言していますので、これは、
- 高田が、気が狂っているか(←わりと可能性が高い説もあり・笑)
- みなさんが歴史的瞬間を目のあたりにしているのか
このどちらかです。なので、楽しみに思える方は楽しみにしていてくださいね。