祈りが叶わない場合、どう考えるべきか – 願いが叶わない理由

祈り 叶わない

俗に「貧・病・争」と言いますが、人は苦難・困難に直面すると、神仏など自らを超えた存在に目を向け、祈りや願掛けをしたりします。

まあ、「貧・病・争」でなくとも、ある程度、信心深い人、あるいは、初詣などの機会には祈願をすることもありますね。

ただ、そうした祈り・祈願をしても、「叶わなかった」と思われる場合もあります。私にもあります。

そうした場合、どのように考えたら良いのか?祈りは単なる気休めなのか、本当に神仏に届いているのか?さらに、祈りの原理とはそもそも何か?そうしたことについて今回は書いていこうと思います。

目次

祈りの原理

真摯な祈りは必ず届いている

祈りが本当に届いているのか?不安に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、結論から申し上げると、それが真摯な祈りである限りは必ず神仏に届いています。

ただ、たとえば伊勢神宮で天照大神に祈願をした場合、よほどのことがない限り天照大神が直接、祈願を聞き取り・・・というわけではないと思いますが、天照霊団というべき神人たちの誰かが祈りをキャッチして、祈願を聞き届けます。

伊勢神宮

通常は、霊的には「バイブレーション一致(波動理論)」という法則が働いていますので、心のバイブレーション(波動/波長)が同程度でないと、接触が不可能なのですが、真摯な祈り・祈願の場合は、神人(天使あるいは菩薩など)がその祈りをキャッチし、働きかけを始めるという原理が働いているのです。

波動理論については下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

実際は、真摯な祈りの場合、自らのバイブレーションが一気に引き上げられ、一時的にせよ天使・菩薩に近い心境になりますので、「バイブレーション一致」の法則は守られているのですけどね。

人は本当は肉体だけの存在ではなく、本質的には霊的存在なのです。いや、霊こそが実在であり、肉体など物的存在は影のようなものであると言い切って良いのです。

そして、霊の本質は生命そのものであり、心そのものなのです。

そして、心は常に一定のバイブレーションを発しているのです。というか、バイブレーションこそが心そのものであると言っても良いでしょう。

そのバイブレーションの人生を通した平均値がその人の霊格を決定してます。

*参考記事:霊格の段階(魂のレベル・階層)一覧と霊格を上げるための公式とは?

神的実在、あるいは、その僕(しもべ)である天使たち、菩薩たちはいつも人間たち、いや全生命への愛に満ち溢れています。

ですから、自らの子とでも(あるいは弟妹)いうべき人間が苦難・困難に陥った時、「なんとかしてあげたい」という思いを常に持っており、働きかけをしようとしているのですね。

そういう意味では、「祈願をする前」からすでに神的実在、天使・菩薩たちは何らかの動きをしているのが事実です。

ましてや、真摯な思いで人間が祈る時、その祈りを彼らが放っておくわけはないのです。

真摯な祈りとは?

それでは、真摯な祈りとは何でしょうか?

逆に言えば。「真摯でない祈り」とは自我我欲に基づいた祈りのことです。

「自分の願えさえ叶えればいい」「ライバルを蹴落とせばそれでスッキリする」・・・云々、と自分のことばかりを考えて、他の人や同胞、社会のことが視野に入ってこないこと、これが自我我欲です。

これを聞けばたいていの人は思い当たるかもしれません。

しかし、本当の祈りとは、本当に神仏に喜ばれる祈りとは、自分を利しつつ、他の人や社会を良くしていこうという思いに基づいている願いであるべきなのです。

仏教用語で言えば、「自利利他(じりりた)」です。

自分を利する過程で、他の人をも利していく、社会全体をも利していく。そうした精神が大事ということですね。

神仏の前で己を空しくし、謙虚な心でもって、真正な信仰心でもって、自利利他の祈りを成していく。これが真摯な祈りなのです。

祈りが叶えられない場合、どう考えるか?

ただ、真摯に祈りを捧げた、祈願をしたのにも関わらず、「願いが叶えられなかった」という場合があります。

その場合、どう考えるべきなのか?いくつかのケースを見ていきましょう。

本当に真摯な祈りであったか?

ここは上述したことの確認なのですが、人は肉体を持っていると、なかなか自我我欲から抜け切ることは難しいものです。

本来であれば、ふだんの日常生活から真理、神的実在の摂理に従って、日々を送ることが理想なのです。

ですから、祈願の時だけ、「殊勝な心構えで」というのもなかなか厳しいものがあるでしょう。

そうした日々のあり方を反省すると共に、「本当に真摯な、謙虚な、信仰心に基づいた、自利利他の精神をともなった祈りであったかどうか」を今一度、チェックしてみてください。

真摯な祈り

実際は、我欲に基づいた祈りであっても、祈りの結果は出ることはあります。

ただ、それは祈りのバイブレーションが、「あさって」の方向を向いてしまい、当サイトでいうところの「呪術系スピリチュアル」の世界に通じてしまったケースです。

*参考記事:真理スピリチュアルと呪術スピリチュアルの違い

その場合、地獄的なものでないにせよ、天狗や仙人といった天国の正統でない存在が祈りをキャッチして、願いを叶えようとします。そして叶ったります。

天狗

ですが、「天狗の高転び」という言葉があるように、そうした成功は長続きするものではありません。

また、この世とあの世を貫いて、人間の本質は”心”であるがゆえに、あの世へ還っていくときにそうした我欲の心を持ち越していってしまうことになり、神的実在の目から見てマイナスが入ることがあるのです。

日本人はとりわけ、すべてにおいて曖昧と言いますか、信仰というものについてもしっかりしたところが不足しがちですので、やはり、「その祈りが本当に真摯なものであったか?」について再度、チェックしてみましょう。

祈りの結果は時間や場所がずれる場合がある

ここのところが、「祈りが叶わない」と思われる最大の原因の一つです。

地上の人間からしたら「すぐに願いが叶って欲しい」「この時期、この場所で願いが叶って欲しい」というのが文字通り、人間心ですが、神的実在・菩薩・導きの霊人たちから観ると、地上の人間の願い通りの時期や場所でない方が良い、という判断がなされる場合があります。

やはり、実在界(あの世)の立場からは、地上の人間では思いも及ばない広い視点を持っていますので、「この時期、この場所のほうがベターである」「そのほうが地上人の霊的進化に相応しい」と判断される場合があるのですね。

地上で肉体をまとって生活を送っているのはあくまで「霊性進化」が目的なのです。

参考記事:人生の意味とミッションとは?

ゆえに、その霊性進化に相応しい実現の仕方というものがあるのです。

また、霊界と地上とでは時間の流れ方が違う、というのも一つの理由です。

まず、霊界において物事が成就し、その後に、地上界に結果が現れてくる、という順序なのです。

この霊界と地上界での「事情の違い」というのもやはり時期や場所がずれる原因になっているのです。

ですから、祈願をするときは、「時期や時間、場所などはお任せいたします」という虚心坦懐な思いが大事なのです。

地上界での努力が足りない場合

神的実在・菩薩・導きの霊などに祈願をしても、「祈願をしっぱなし」、自分は実現に向けてまったく努力をせず、遊び呆けているだけ・・・では、やはり祈願は叶わないことがあります。

そもそもこの地上に肉体をもって生まれるのは、霊性進化のためなのでした。

なので、「祈願が叶えばそれでいい」というわけではないのです。

人生において、さまざまな苦難・困難に出会うのも、それを魂の砥石として霊性に磨きをかけるためなのですね。

磨きをかける

そのためには、自ら苦難・困難に立ち向かう、自助努力の姿勢が大事です。

自力があっての他力です。

「成すべきことを成した上で、あとは天にお任せする」という姿勢ですね、こうしたあり方が「神に愛される人間」であるための要件なのです。

そもそも祈りが叶わない方が良い、というケースがある

ここも大事なポイントです。

上述したことに少し関係しますが、地上界から「叶って欲しい」と思っていても、天上界からみて「これは叶わない方がこの人のためになる」と判断されることがあるのです。

やはり、人生の意味はどこまでいっても「霊性進化のため」であるのです。

祈願・願いが叶うことによって、霊性進化が阻害されるようであれば、それはやはり「叶わない方がベターである」という判断が下される場合があるのですね。

地上から見ると「なんと無情な」とか「お布施返して欲しい」などと思いがちでありますが、仮に祈りが叶わなかったとしても、別の方向から神的実在・菩薩・導きの霊人からなんらかの働きかけは続いているものです。

地上の人間の願いとはまた違った角度から「叶う」という働きかけです。

神的実在は私たち人間の「親」にあたります。私たちは神的実在の分霊であるのです。

親が子を思う気持ち、は想像がつくでしょう。

子の方が「こうしたい」と思っても、親から見れば「それはやめておいたほうがいい」ということはありますよね。でも、その代わり、別な方向へ善導してあげたい、と思うものです。

ですから、ここでもやはり、祈願に際して心を空しくして「御心であれば叶えたまえ」という虚心坦懐な姿勢が大事、ということになります。

カルマの刈り取りの場合

人生で何か不都合なことが起きた、苦難・困難がやってきたという場合、それは「カルマの刈り取り」のためにそういう事態が起きているケースがあります。

たとえば、過去世で何らかの事情で人を傷つけてしまった場合(傷つけ方にも色々なパターンがありますが)、今世では逆の立場にたって、自分が傷つけられる立場に立つ、そして、傷つけられることの苦しみを味わうことによって、「ああ、人に傷つけられることはこんなに苦しいことなんだな」ということを学び、過去世での過ちの清算をするのです。

そうした場合、やはり、霊性進化のためには必要な過程でありますので、神的実在・菩薩・導きの霊たちも、泣く泣く見守るしかない、ということになるのですね。

こういうことは普通の人ではなかなか分かることではありませんが、やはり、「今世」という視点を遥かに超えた事情というものがあり得るということを知識として知っておく必要はあります。

苦しいかもしれないけれども、それが魂にとって必要な学びである場合があるのです。

祈願は決して無駄にならない

真摯な祈り・祈願は霊的世界(天上界)に必ず届いている、と申し上げました。

祈願はエネルギーそのものでありますので、エネルギー保存の法則により、なんらかの形で残っていくものです。

それは、あなたの地上での願いとはまた別の形かもしれませんが、いつの日かあなたを善導する方向で叶っていくものです。

実は、(とくに日本人には不慣れなことかもしれませんが)、信仰心とは最大の魂のパワーでもあるのです。

ある意味では、信仰心の質・大きさがその人の霊格を決定すると言っても過言でないくらいです。

祈りの習慣化・祈願を重ねること、はその信仰心を高める大きな訓練にもなっているのですね。

祈りというと他力的な響きがありますが、上述した理由で、自力といいますか、ひとつの大きな”精進”という側面があるということにも注目しておきましょう。

繰り返しますが、真摯な祈り・祈願は決して無駄になりません。

ぜひ、霊的視野をもって、人生を眺め直してみましょう。

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コメント

コメント一覧 (4件)

  • >サトウ アキオ様
    コメントありがとうございます。

    個人・集団に限らず、神的実在が喜ばれる本物の祈りかどうか、の区別は以下の2点でわかると思います。

    ・人間中心の世界観:人間の都合で神仏を動かそうとする。自分(自分たち)のために神になにかをして欲しいと願う
    ・神的実在中心の世界観:自分(自分たち)を利することで他者や同胞・社会・世界のために役立てようとする。神のために世界のために自分が何ができるかを願う。

    この2点はエネルギーの方向性が真逆です。
    後者の祈りが真実の祈りですが、それができる人・集団は稀であると言っても良いかもしれません。

  • >高橋美香さま
    コメントありがとうございます。

    そう言って頂けると記事を書いた甲斐があります、私もとても嬉しいです!
    ぜひ。できる範囲でひとりでも多くの人に伝えてください。

    「知識を得て、同胞のために役に立つこと」
    簡潔に言えば、これが人生でなすべきことのすべてです。

  • ある宗教団体では、教祖が亡くなって以降、もう数年余りも「復活の祈り」という集団での祈りを推進し継続されており、この様な「集団における祈り」の場合の「生と邪」の判断はどの様な法則性があるのでしょう?

  • 感動しました。祈りの大切さを、自分のできるだけ丁寧でさりげなく伝えていきたいと感じました。ありがとうございました。そしていつもありがとうございます。

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