ナイナイの神様とはなにか?
久しぶりの更新なので、リラックスした話題から入ります。
前々から僕の記事を読んでくださっている方から見ると、タイトルからして、「高田は気が触れたんじゃないか?」って、書き出しですよね(笑)。
えー、「ナイナイの神様」って、みなさんご存知ですかね?
失くしものをしたときに、その失せ物を見つけてくださるという強力なご利益がある神様なんですけど。
祭り方としては、単純で。台所のやや高いところにハサミを吊るします。そして、祈り方はある程度、自己流で良いと思うんですが、
(合掌)「ナイナイの神様、〇〇が失くなってしまいました。どうか見つかりますように。よろしくお願いいたします!」(礼)
…と、こんな感じです(笑)。
僕は、うちの奥さんに教えてもらったんですけどね。最初は、バカバカしい…と笑っていたんですけど、
これがまた、本当に霊験あらたかで(笑)、過去の統計的にはほぼ90%以上の確率で、失せ物が見つかるんですよ。ぜひ、試してみてください。
そういうわけで、我が家では絶大な信仰を集めていまして、高田家の信仰の中心となっていると申し上げても過言ではない(にゃい)、という状況になっています。
まあ、…もちろん、それは冗談半分で言ってるんですけど(笑)。でも、失せ物が見つかる確率ってのは本当ですよ。
たぶん、これは一種のカラーバス効果で、あらたまって失せ物に意識を集中することによって、目に付きやすくなる/思い出しやすくなる、という効果があるのかな?と思いますけどね。
あるいは、家族の誰かのガイド(守護霊)ががんばってくれているのかもしれません(笑)。
ちなみに、ナイナイの神様って、そんな有名じゃないでしょ?って思ってたんですけど、(奥さんがたまたまツイッターのつぶやきのどっかから見つけたみたいです)
今、この記事を書くにあたってぐぐってみたら、けっこう出てきますね(笑)。
まあ、僕としては、娘に神様と信仰心を教えるにはどうしたら…??って、ずっと考えていまして、
賑やかなのが好きな子なので、神社に行っても退屈してますし。最近では、あからさまに断られますし、「どうしたものか??」と思ってたんですけど。
娘的にも、失くしたオモチャがほんとに見つかるのでね、最近では、かなり真剣に手を合わせて祈ってますよ。オモチャが失くなったとき限定とは言え。
そういうわけで、とりあえずは、「目には見えないけど、偉い存在がいて、人間の助けになってくれるんだ」「ちゃんと礼儀をつくすのが大事」ってあたりは押さえたようなので、良かったなあ、と思っている次第です。
王道スピリチュアルと覇道スピリチュアルを分かつものは「信仰」
こっからいつもの調子に戻ります。笑
当サイトは、イチ宗教ではありませんし、おもに「スピリチュアル」という切り口から入っていますので、今まであまり信仰については書いたことがないと思います。
でもですね、本当のことを言うと、王道スピリチュアルと覇道スピリチュアルを分かつ大きな目安は、「信仰がたっているかどうか?」だと思うんです。
もちろん、「神社ツアー行っています/やってます」とか、「高次の存在があって導いてくださるんですよ」っておっしゃっているスピリチュリストの方はたくさんいらっしゃいます。
だけどですね、ここが微妙なラインであるんですが、
「神社に参拝してパワーを充電してきました」とか「高次の存在が(あるいはガイドが)導いてくださる」という物言いの中には、
どこかに、「自分のために神が存在する」という発想が潜んでいませんか?という匂いがあるんですよね。
(あるいは、神々のことを語っていても、どこか友だちみたいに語っちゃうとか)
これはほんとに、ちょっとした言い方の違い、で現れてきちゃうものなんですけど。
でも、本当の信仰っていうのは、歴史的に見ても、もっと激しいもの・純粋なものです。
どういうことかと、一言でいうと、それは、
「自分のために神があるのか」
もしくは、
「神のために自分があるのか」
という違いです。一言でいうと、ですよ。
これはね、じつは宗教に限ったことではなくって、革命とか戦(いくさ)でも現れてくるもので、
明治維新の志士たちの言行を読んでいると、あきらかに、
「天下国家のために、身を捨てる(人生を使う)」という生き方になっているのがわかります。
西郷どんしかり。竜馬しかり。
国や公共機関に権利ばかり主張している昨今のわれわれとは、根本的に発想が逆のようです。
こういう生き方を「無私」といったりしますが、
*ちなみに、維新の某塾では、かゆいからといって授業中・黙想中に身体を掻いたら怒られたとか…。それは、”かゆいのは私事(わたくしごと)” ”勉学は公事(おおやけごと)”なので、「私事を優先するとは何事かっ!!」ということらしいです。
これ、じつは、仏法で言うところの、「無我」ってそういうことだと思うんですよ。
仏教哲学ではなく、意思や行動面から言うと、ですね。
ワタクシのためのワタクシではなく、神仏や他者の幸せ・公共の幸福増大のためのワタクシ。
ということかな。これが、無我。
まあ、小乗仏教的な解釈からみると、ずいぶん飛躍しているようではありますけどね。この点は、また別稿でキチンと書いてみるつもりです。
ちなみに、うちの奥さんで立派だな、と思うところは、神社で祈願をしても、自分のための祈願をしているのを見たことがない、ってところですね。
いっつも、「神恩感謝」を選んでいます。5千円とか1万円とか奉納して。
このあたり、「経済繁栄」「心願成就」とかばっかり選んでいる僕は、なんだか無我とはほど遠い感じが。汗
おしまいに、内村鑑三(*明治の無教会派キリスト者)の碑文(墓碑)をご紹介します。
〈わが墓に刻印されるべきこと。余は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そしてすべては神のため〉