霊格が高いと言うことは文字通りには、霊的な側面がその人の主要な要素・価値観になっており、かつ”格”も高い、ということになりますので、現世的な制度である”結婚”とは縁遠くなるのではないか、という考えはたしかに成り立ちそうにも思えます。
霊格が高い人は聖書的に言えば、「狭き門」をいく人たちです。
ただこれは霊的な意味でのエリート主義につながる危険性もあるのではないかと思れます。
同じようなテーマで「霊格と孤独・苦労」を論じたこともあります。
*参考記事:「霊格が高いと孤独で苦労が多い」は嘘である理由
さて、それでは現代社会において、霊格を高く上げていく道と”結婚”は両立可能であるのか?やはり、霊格が高い人は結婚しない傾向があるのか?検証して参りたいと思います。
霊格とはそもそも何であるか?
霊格の定義
まずは、「霊格とはそもそも何であるか?」という定義から入っていきたいと思います。
スピリチュアルで”霊格”というと、どうもいわゆる私たちの”人格”を離れたところの、何か神秘的な”格”であるかのように捉えられている向きもあるかと思います。
なにか、自分自身をも離れたところにある”格”であるかのような印象を受けることもあります。
それでは霊格とは何なのでしょうか?
私たちの本質は実は「一定のバイブレーション(波動)をもつ心」そのものなのです。そして、そのバイブレーションは心の内容(価値観・感情・思考など)に応じて、精妙さや種類が変わってきます。

そして、実在界(あの世)においては、バイブレーションの<精妙さと種類>が近い人同士が同じ霊域に住んでいるのですね。
それはこの世においても、当てはまるところがあります。
やはり、近しい関係になる人は、価値観が共有できたり、心境が似ていたり、「心のバイブレーションが近い人」であることが多いでしょう。似た者同士ですから「話さずとも分かり合える」感じで、一緒にいて居心地が良いのです。
そこで、「霊の格」と言いましたら、やはりその心のバイブーレションがいかに精妙か、いわゆる天使・菩薩たち、神々とも言える存在のありかたに近いか、で決定されているのです。
つなり、一言でいえば、霊格とは、心のバイブレーションがどれだけ神的実在に近いかどうか、という段階論のことを指しているのです。
簡単な言葉で言えば、「神に似る」ことが霊格を上げていく道になっているわけですね。
そういう意味では。霊格は現象界(この世)においては、”人格”として現れることになります。
*参考記事:霊格と人格の違いとは? – 霊格の高さと人格は最終的に一致する理由
現象界(この世)に生まれてくる目的とは?
上述しましたように、私たちは実在界(あの世)においては、心のバイブレーションが近いもの同士で同じ霊域に住むことになります。
価値観や心境が近い者同士が一緒に住むわけですから、それはとても「居心地がよい」わけなのですね。
もっとも、地獄に落ちた場合は、「似た者同士で傷つけあう」ことになるわけで、これは果たして「居心地がよい」と言えるかどうかは難しいところがありますけどね。
とまれ、居心地が良い状態というのは、魂にとっては安らぎのときではあるのですけれど、似た者同士で住んでいると、新しい刺激がなく、魂の進化という点で頭打ちがくるのです。また、そういう状態にだんだんと飽きが来ることもあります。
そこで、時折、肉体をはおって地上に生まれてくることになっているのです。
肉体を持っていると、ご飯を食べなきゃいけないですから、嫌な人とも一緒に仕事をしなければいけないこともあるでしょう。逆に、実在界では会えないような波動の高い人と会うチャンスもあります。
このように地上では玉石混交のなかで新しい刺激と、知見を得ていくわけですね。これが魂にとって非常にプラスになるがゆえに、みなこぞって地上に生まれたがるわけです。

もっとも地上に生まれると、「生まれる前」に得ていた記憶・知識などをいったん放棄しなければいけませんので、物質界の荒波に翻弄されてしまうようなところがあります。そしてカルマに突き動かされるように罪を作ってしまうこともあります。
そこで、私たちは人生の途上のどこかで「霊的真理との出会い」があるように計画されているのです。これは程度の違いはあれ、誰にでもチャンスはあることであります。
霊的真理を知ることによって、自らを知り、地上にわざわざ生まれてきた理由を知ることになります。知ることによって、今回の人生をより良く、最大限に効果的に(生まれてきた目的に沿って)生きていくことができるようになるわけです。霊性進化の機会を得ることになる。
「人生の意味とミッション」については、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
果てしない霊性進化の道
このように私たちは、実在界と現象界を行き来する、いわゆる輪廻転生の永遠の過程にありながら、自らの霊性の向上を計り(智慧の獲得)、かつ同胞へ尽くすこと(慈悲の実践)を求められているのです。そしてそれは真の幸福論の基礎になっているわけです。

智慧の獲得(縦軸)と慈悲の実践(横軸)は私たちミクロの存在に要請されているだけではなく、大宇宙というマクロコスモスが智慧(縦軸)と慈悲(横軸)によって発展を続けているのです。
神的実在は私たちを離れた外部にあるのではなく、神的実在は全てのすべてであるがゆえに、私たちは神的実在の一部として、その自己実現・自己表現の一端として存在しているのです。
内部にある私たちが霊性進化を果たすごとに、全体である神的実在も発展・拡大を遂げるという構造になっているのです。
結婚というものも、このような「果てしない霊性進化の道」という視点から見ていく必要があるのです。
霊格と結婚の関係とは?
「霊格が高い人は結婚しない」とは必ずしも言えない好例
「霊格が高い人は結婚しない」論に反駁する一番かんたんな例証が「ソクラテス」です。

世界四大聖人のひとりであるソクラテスのことを「霊格が低い」と断じるひとはまずいないでしょう。
そして、ソクラテスは結婚しており、子も儲けておりました。
- ソクラテスは霊格が高い
- ソクラテスは結婚していた
- 霊格が高い人が結婚しないというのはウソである
という三段論法(?)です。
ソクラテス以外でも、歴史上の偉人たちで結婚している例をいくらでもあげることができるでしょう。
ゆえに、「霊格が高いから結婚しない」という説は通じないことになります。
過去生の影響で霊格が高い人が結婚しないパターンはありうる
ソクラテスの例を挙げましたが、「一般論」としては事情が違うのではないか、という反論もあるかもしれません。
たしかに、霊格が高い人が結婚を避ける傾向は、一部にはあるのです。
・・・というのも、世界的な宗教のうち、とくにキリスト教・仏教は性的なタブーが多いですよね。
霊格が高い人は、「神に似る」道を選んでいる人ですから、過去生においてはキスト教や仏教を真剣に学び、実践していることが多いのです。
そしてそのなかで、「性的なタブー」を金科玉条のごとく守り、また性的なことがらに潔癖になるパターンも多いのです。

そうした過去生のこれもいわゆる”カルマ”のひとつと言って良いかと思いますが、そうしたカルマに突き動かされて、現代に生まれても独身を選んでしまう。こういう傾向のある人は一定の割合でいらっしゃるかと思います。
”性的”な事柄そのものが悪というわけではない
さて、過去の偉大な宗教がなぜ性に関するタブーや戒律を設けていたのか、考えてみましょう。
それは「性そのものが悪」というわけではなく、性に溺れることによって霊的自覚が疎かになってしまうことが問題視されたのです。
また、不倫などの場合は、周囲の人を傷つけ悲しませてしまうという問題もあります。
*参考記事:浮気や不倫をしたら地獄へ堕ちるのか?
もし、性そのものが悪であるならば、この地上世界で人類は絶滅してしまいます。
また、神的実在が創造の際に、なにゆえに「性の喜び」を与えたか、意味不明になってしまいます。
それゆえに、繰り返しになりますが、性そのものが悪いというわけではなく、性に執われ溺れて、霊的自覚・霊的使命が疎かになってしまうこと、それが問題なのですね。

だから、逆に言えば、性のあり方を霊的真理に沿って活かしていく、という道もあるはずなのです。
小聖は山に隠れ、大聖は市井に暮らす
過去生においては霊格の高い人は出家したり、独身を貫いて霊的修行に打ち込むこともあったかもしれません。
しかし、現代においては現代特有の霊性進化の道があります。
それは上述したように、パートナーと連携しながら、仏国土づくりの光の出城を作っていくという道です。
ここに新しい修行、より高度な霊性進化の道が開けてきます。
ことわざに「小聖は山に隠れ、大聖は市井に暮らす」と言います。
結婚とはまさに、「市井に暮らす」ということそのものでもあるのです。
市井にありながら霊的修行をなす、俗にありながら俗に染まらない、ということが、より高度な霊的修行になっているという側面を見落としてはなりません。

”結婚”を人生計画の一部に組み込んできた場合
人は現世に生まれてくる前にある程度の人生計画を立ててから生まれてきます。
これはまさに霊格によって違いがあるのですが、霊格が高ければ高いほど計画は緻密になっていきます。
従って、結婚などの人生の一大事についても、(霊格の高い人は)生まれてくる前に決定していることが多いのです。
そして、現代においては、上述しましたように「俗にあって俗に染まらず」が主要な霊的修行の課題になっていますので、霊格の高い人も過去生の人生のありかたにとらわれず、”結婚”を人生計画に組み込んできていることが多いのです。
もちろん、霊格の高い人のなかには今世もあえて”独身”を選ぶ場合がありますので、一概には言えません。
ともかくも、「地上に生まれる前にある程度の人生計画を立ててくる」という事実は重要です。

世にいう「親ガチャ」などはあり得ないのです。親も自分で選んで生まれてくるからです。
このように、どこまでいっても、因果の理法と自己責任の原則は働いているのです。
また、人生の成り行きによっては、生まれてくる前の予定を変更する場合もあります。
たとえば、予想外に霊的進化が進み過ぎてしまった、とかの場合、それに相応しい相手に変更になったりすることもあります(逆も真なり、です)。
それから、結婚の計画を立ててきていなくとも、今現在の霊的修行の進み具合などから考慮して、「やはり結婚をしよう」と計画変更する場合もあります、
ここらへんはわりと柔軟に(その意志と決定が神的実在の意に沿っていれば)計画変更は柔軟に行われることになります。
結婚相手はある程度、選んで生まれてくる
結婚について、「生まれる前の計画」を立ててきていることは上述しましたが、実際は、結婚相手も生まれる前にあの世において約束してきていることが多いのです。
もちろん、たった一人の約束してきた人とこの世において100%巡り合い、結ばれるということは断言できませんが、それでも実際に結婚する相手とは、過去生において何らかの縁があった、というパターンがほとんどです。
ただし、特に現代は情報化社会でさまざまな価値観が目まぐるしく飛び交っていますので、生まれてきた後に価値観が変わってしまったり、人によって霊的進化の度合いにかなり差がでてきます。
それゆえに、もともと約束してきた相手であっても、霊格的・価値観的に釣り合わなくなってしまうケースもあります。
そう言う場合は、例外的に新しい縁で結ばれる場合もあります。
ただ、それであっても、「新しい縁ウエルカム!」で、積極的に霊的に高めあう関係を築いていくことを心がけることが望ましいです。
結婚を「霊的な光の出城」にしてゆく
個人と社会、世界の関係性で言えば、
個人→家庭→地域社会→国家→世界
という順番で社会性が発揮されてゆきます。
それゆえに、<集団>という見地からは、「家庭」が社会の最小単位となっていることがわかります。
つまり、結婚を契機とした家庭こそが社会性の一番の基礎になっているのです。
上述しましたように、私たちは現世において、「霊性進化(智慧の獲得)と同胞に尽くすこと(慈悲の実践)」が要請されています。
霊性進化においても、同胞に尽くすことにおいても、これは他者との関係性を外して考えることはできません。
私たちは必ず社会性のなかで、智慧を獲得し、慈悲の実践を成していくわけです。
なので、社会性の最小単位である「家庭」が意義の小さいものであるはずがありません。
それどころか、「結婚を契機として理想的な家庭を築くこと」が一見小さいように見えても、実は大きな霊的光の出城になっていると言えるのです。

ですので、結論的には、「霊格が高い人は結婚しない」というのではなく、特に現代社会においては、むしろ、光の出城を築くため、社会のユートピア化のために、「霊格が高いがゆえに、あえて結婚の道を選ぶ」という方向性があるということになります。



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