人間の品性、もしくは、知性・理性・感性・悟性…などの人間としての総合力を測る物言いとして、”人格”という言葉があります。
一方で、スピリチュアリズムや宗教に関心のある方にとっては、”霊格”という言葉も気になるでしょう。
人格も霊格も、”各”という字がついていますので、どちらも、何かしら文字通り、人間としての各あるいは質に上下の段階があるのではないか?という発想が根底にありますね。
それでは、人格と霊格は違うものなのか?
いろいろ検索してみると、スピリチュアル系のサイトでは「人格と霊格は違う」と論じているところがいくつかあるようです。
スピリチュアリストで有名な桜井識子(さくらいしきこ)さんもそのような見解を採っているようです。
しかし、結論から申し上げると、当サイト(ネオ仏法)では、そのような考え方を支持しません。嘘とまでは言いませんが、ネオ仏法では、「霊格と人格は最終的に一致する」という立場を採ります。
以下、「霊格と人格はどう違うのか?」「霊格と人格はどのような共通点があるのか?」「この世とあの世では別のルールが働いているのか?」といった論点で考えてみます。
人格と霊格は最終的に、だれが判断するのか?
人格と霊格では第一段階では「判断する主体」に違いがでる
人格については、「あの人は人格者だ」といったふうに、まずは周囲の人間がそのような価値判断を下すという側面があるのは否めません。いわば、相対的な判断・ジャッジです。
一方で、霊格の方は、神々もしくは神秘主義的な経綸に基づいて、「霊格が高いか、低いか」という判断がなされていると言えるでしょう。これは絶対的な判断・ジャッジですね。
そういう意味で、少なくともまず第一段階では、人格と霊格はそれを判断する主体に違いがあると言えそうです。
- 人格:周囲からの判断
- 霊格:神的な経綸からの判断
といった具合です。
周囲(人間ですね)からの判断が必ずしも、神的存在からの判断と一致するとは限らない、というのはなんとなく想像がつくところです。
そもそも、「周囲からの判断」というのはそれが勘違いの可能性もありますよね。
人格者を装っていて、周りもそのように認めてはいるが、「実際は隠れて何をやっているか分からない」「実は人格者ではなかった」というパターンもあるからです。
一方、神的な実在からの判断というのは、文字通り、「神の判断」ですから、間違いはなさそうです。
そういう意味では、結果的にはですが、「人格と霊格に違いがでる」という現象も現れてくるでしょう。
人格の最終決定者は神的実在
それでは、「勘違いの可能性」を含むところの”人格”の判断について、最終的にはどのように計測されるべきであるのか?が次の論点になります。
キリスト教などでは「最後の審判」があると言われていますが、美術などで「最後の審判」を鑑賞していると、生前に人格者であったと言われている人物であっても、地獄に落とされている様子が描かれていたりします。
これは、キリスト教に限らず、古今東西の宗教で散見されるモチーフです。
そうすると、人格と言っても、その実際の内実(=真実)については、最終的には神的な存在によって判断される、ということになりますよね。
先に述べたように、「第一段階としては周囲の人間による相対的な評価によって人格性が決まる」という側面は否めないものの、
第二段階においては、結局、「その人格が本物であったかどうかは神的存在によって判定がくだることになるわけです。
つまり、第二段階(=最終段階)においては、「人格も霊格も同一なものとして判断されていく」ということです。
これが<結論(結審)>である以上は、結局のところ、「人格と霊格はイコールなものとして判定される」ということになりますので、ここにおいて、「人格と霊格に違いはない」という結論を導き出すことができます。
「人格と霊格は違う」論の背景にある価値観を検証してみる
細かい議論になるかもしれませんが、「人格と霊格は違う」論を読んでいると、この世(現象界)とあの世(実在界)では違うルール・法則が働いている、という価値観が根底にあるように思えるのですね。
もちろん、さきに述べたように、第1段階としては人格も周囲からの判断で成されますので、これはいわば、「実在界とは違うルールでなされた」という判断も可能ではあります。
また、この世では結局、人格について勘違いされたまま終わる…ということもよくあることでありますので、いかにも「違うルール」が適用されている印象を与えることは否めません。
異熟の問題
仏教的には、縁起の理(因果応報)というのがありまして、これはかんたんに言えば、原因と結果の法則です。
- 良い種を蒔けば良い果実が実る
- 悪い種を蒔けば悪い果実が実る
ということで、これは仏教の基本教義でもあります。
ところが、現実にはこの世では「悪人が栄え…」という<結果>もよくあることですので、この仏教理論は間違っているのではないか?と思われても仕方ないと思われる向きもあるかもしれません。
仏教ではここのところ、因→果が完結していないではないか?という状態を”異熟”という言葉で表現します。
厳密に言えば、”異熟因異熟果(いじゅくいんいじゅくか)”と言うのですけどね。これと反対語が等流因等流果(とうるいんとうるか)”です。
- 異熟因異熟果:蒔いた種と違う結果が出ている状態
- 等流因等流果:蒔いた種に相応する結果が出ている状態
となります。
異熟の問題があるということは、縁起の理に欠陥があるのでは?などと思ってしまいそうですが、そうではありません。
一定の必要な時間が経過すれば、縁起(因果)は間違いなく完結するのです。
ところが、この世の時間は有限ですので、この世の時間内では縁起(因果)が完結しない場合がある、ということなのです。
決して、「ルールが変わった」ということではなく、「ルールの適用結果が現れるまで時間がかかる」ということなのです。
あの世・来世まで含めて考えれば、縁起(因果)は間違いなく正しく完結します。そういう意味で、時間をぐぐっと引き伸ばしてみれば、やはり”等流因等流果”になっていくのですね。
ゆえに、縁起の理というのは、やはりこの世(現象界)においても正しく働いているというのが真実です。
縁起の理について、より深く勉強してみたい方は下記の記事をご参照ください。
*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる
堕地獄・堕天使の原因
縁起の理がこの世においても正しく働いている、というのは考えてみれば当然のことです。
仏、あるいはセム的一神教の文脈で言えば、唯一神ということになりますが、神が絶対の存在であるならば、あの世のみならずこの世も神の経綸のもとにあるはずです。
ネオ仏教では、神的実在こそが<全体>であり、私たち人間を始めとする<現象>は、神的実在の内部に存在する、と考えています。
今回はこのことに深入りしませんが、要は、神の経綸ですね、あるいは仏法と言ってもいいですが、こうした久遠の法というものは、この世/あの世を貫いている法則であるのです。
実のところ、「この世は違うルールにあるのだから、オレは好きにするさ」という思いで、さまざまな欲望に振り回されてしまうことが、堕地獄の原因であるのです。
そうではなく、この世→あの世を貫いて神の経綸は働いている、と考えられるからこそ、神の教えに沿って生きようと人間は思えるのですね。
なので、「人格と霊格の違い」というところからずいぶん話が離れていっているようですが、
ここの考えの根底にある価値観、「この世とあの世は違うルールが働いている」という発想は、ゆるやかに見えても「地獄への道」に通じているのです。
人格と霊格の問題ならまだしも、世の中には一見善意に見える(あるいは言っている本人も善意であることがある)言葉・価値観が地獄へ通じていることがあります。
これを、「地獄への道は善意で舗装されている」と言うこともあります。
逆に、聖書の文脈では、「狭き門より入れ」と言いますよね。広くなだらかな道が天国への道であるならば、地獄へ堕ちる人はほとんどいないのです。
が、現実はそうではない、ということです。堕天使の発生原因もまさにここにあるのです。
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