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「霊格が高いと孤独で苦労が多い」は本当なのか?検証してみた

霊格が高い孤独

スピリチュアル系のサイトをいくつかチェックしていて、「霊格が高いことによる孤独、苦労」について論じているいくつかの記事があることに気づきました。

そのキィワードに関連する記事を4-5本読んでみたのですが、私としては若干、違和感がありましたので、今回はそのテーマで書いてみます。

違和感としては下記の3点です。

  1. 「霊格」とはそもそも何であるか?を定義しないで、論じ始めている
  2. 「孤独、苦労」にもいくつかの定義があるが、複数の定義をごちゃまぜにして論じている
  3. 上記2点ですっきりしないまま話が進み、結局、呪術系スピリチュアル(占い、波動調整など)の勧誘へ進んでいく

この3点についていろいろ論(あげつら)っていると「揚げ足取り」になってしまいますので、以下、あくまで「ネオ仏法ではこう考える」という視点から書いてみます。

「霊格」とは何か?

「人間は霊的存在である」という前提からいえば、「霊格」は「人格」とニアリーイコールになります。

ただ、「人格」というと、「あの人の人格は…云々」といったふうに、「性格」に近い意味で使われたりもしますね。

一方、「霊格」というと、文字通り、「格の違い」と言いますか、いくつかの段階の違いがあることが想起されます。

人間は、現象界(この世)と実在界(あの世)を貫いて「本当の自分」と言えるのは、”心(こころ)”の部分だけです。

心

その”心”を広い意味で、”霊”と言っているのですね。

そういう意味では、「自分とは何ものであるか?」を考える際に、「霊格」を手がかりに考えていけば、まず汎用性が高いと言いますか、ズバリ自分自身のことを考えていることになるわけです。

また、先に述べたように、”各”はレベルの違い、段階差も表していますので、「今の自分は人間としてどのくらいの位置づけにあるのか?」ということのメルクマールにもなります。

ざっくりと、「この世とあの世」と分けて考えることも多いのですが、実際は、”心”だけで考えてみると、それが人間の本質部分であるだけに、あえて、『あの世とこの世」に分ける必要もない、という考えもあります。

あなたの”心”はこの世においても、じつは「あの世的にも」同時存在しているのですね。

たとえば、あなたが今、展望台に昇って望遠鏡で景色を観ているとしましょう。その状態でずーっと居ると、あたかも自分自身も外の景色のなかにいるように錯覚してしまいます。

展望台

ところが、本当はあなた自身(ボディ)は、展望室のなかにいるわけですよね。

これは、望遠鏡を覗いていても、覗いていなくても、展望室に居ることには変わりありません。

これと同じように、人間は、いくつかの肉体的な器官、目とか耳とか鼻とか舌とか肌触りとか…いわゆる”五官”という望遠鏡を介して外界(この世)を覗いているに過ぎないのです。

五官の感覚を外すことが可能になってくれば、心だけの世界、いわゆる霊的世界に実際に居ることが実感されます。

先の「展望台のたとえ」で言えば、人間はこの世に生まれながらに、望遠鏡と目がくっついてしまっている状態であるのです。

そのため、「外界こそ全て」だと思ってしまうのですね。これが唯物論の起源です。

霊能力というのは、この喩えで言えば、望遠鏡から目を放して、展望室や自分のボディを眺めたり、あるいは、同じ展望室に居る人同士と会話できる能力である、と言えるでしょう。

会話

そうした能力でないにせよ、たとえば、思考や創作の世界、信仰の世界など、いわゆる内面世界にどっぷりと浸ることができるひとは、「霊的な人である」と言えるかと思います。

霊界は階層構造になっている

さて、さきほど「霊格と言うからには段階差がある」という話をしましたが、これは本当にその通りで、それぞれの人の心の有り様にしたがって、霊界は階層構造になっています。

仏教では、この階層構造を十段階で表すことがあります。これを「十界論」「十界説」と言います。

*参考記事:十界と十界互具 ー ①仏教における”世界”の階層構造論

これ以外でも、いろいろな分類の仕方はあると思いますが、あまり細かく分けても解りづらくなりますので、十通りくらいが丁度いいのかな?と思います。

詳しくは上記の参考記事を読んで頂ければと思いますが、今回はもっとざっくりとしたお話をいたします。

霊界においては、まずは、「善人か悪人か」でふたつの世界に住み分けられます。これがいわゆる、「天国と地獄」です。

そして、「善人と言ってもどのくらい善人か?」「悪人と言ってもどのくらい悪人か?」というレベルの違いによって、またさらに細かい区分けがなされているのです。

「どのくらい善人か?」「どのくらい悪人か?」については、どういう基準かと申しますと、それは、「質と量による」という答えになります。

質というのは、これは純粋性ですね。量というのは、他者や社会への波及効果です。

人界

この点で考えると、まずは、「とりあえず善人」という段階がまずひとつあります。この世界を十界論では「人界」と言います(以下、ネオ仏法での解釈における十界論です)。

天界

次に、「善人であり、かつ、仕事能力が高い」という段階に行きます。仕事能力が高ければ、他者や社会に対して、善を広げる力が強く、実際に、実績もある、ということになりますね。

こういう人たちが住む世界を「天界(てんかい)」と言います。

もちろん、どのくらい仕事能力が高いか?でさらに細かい段階差を設けることも可能でしょう。

菩薩界

そして、次に、「善と言っても、どれだけ本質的な善であるか?」という目安が出てきます。

たとえば、「眼鏡を作るのが得意だ」という場合、これは、「便利だ」という、いわば、「利便性」における善ですね。

便利であれば、自分も他者も社会も幸福になるからです。

たいていの仕事は、この「利便性」の範疇にあるはずです。それは、この世の職業をいろいろと思い浮かべてみると、たいていはこの範疇にあることが納得できるでしょう。

ただし、「利便性」というのが人間にとってどれだけ本質的なのか?という観点もあります。

…というのも、「便利であっても、幸せになれていない」というケースもあるからです。

幸福感というものは、もっと本質的には、ダイレクトに心のあり方、運用の仕方に関わってくるものですよね。

なので、「利便性」よりは、もっと、心というものに寄り添ったもの、たとえば、「考え方」「思想」「哲学」といったものが、より本質的な善に関わってくるわけです。

そのように考えていくと、「善人であり、仕事能力が高く、(人々の魂を満たす)思想性が高い」という段階が、より、高次な世界である、ということになります。この世界を「菩薩界」と言います。

声聞界、縁覚界

もっとも、菩薩界はかなり高度な世界でありますので、菩薩界に入る準備段階の世界が2つあります。

ひとつは、「声聞界(しょうもんかい)」と言いまして、これは「声を聞く」という字を書きますが、なにを聞くか?というと、仏法あるいは、広い意味での真理を聞くこと、勉強すること、を中心にした世界であります。

特定の哲学や宗派などについて勉強している段階、ということになります。

もうひとつは、「縁覚界(えんがくかい)」と言いまして、これは、「独覚(どっかく)」とも言いますが、文字通り、「独り悟り」の世界ですね。

特定の哲学や宗派について勉強しているわけではないが、たとえば、自ら思考を深めていったり、あるいは、自らの職業を通じて高度な真理に至る、というケースもあるわけです。

ラーメンならラーメン作りを通じて、ラーメンという範疇を超えた奥深い真理を発見した、という板前さん(と言うんですか)もいらっしゃるでしょう。そういう人々が住む世界が縁覚界です。

王道としては、縁覚界よりは声聞界のほうが、菩薩界へストレートに進級できる可能性が高いです。

「まずは習ってから、自己流へ」という、いわゆる、「守・破・離」の順序に従っているからです。

仏界

仏界は常人が住む世界ではなく、仏陀あるいは救世主の霊格を持つ人が住む世界です。

世界の四大聖人である、釈尊、イエス・キリスト、孔子、ソクラテス…などが住んでいる世界だと思われます。

今回は、霊格の話ですので、いわゆる天国部分だけに絞ってお話しています。

霊格まとめ

以上をまとめますと、以下のようになります。低い⇢高い 順です。

  1. 人界:善人が住む世界
  2. 天界:善人でありながら、仕事能力が高い人が住む世界
  3. 声聞界:善人でありながら、仕事能力が高く、かつ、高度な思想を先生に就いて学んでいる人が住む世界
  4. 縁覚界:善人でありながら、仕事能力が高く、かつ、高度な思想を独自に深めている人が住む世界
  5. 菩薩界:善人でありながら、仕事能力が高く、さらに思想性が深い。世の中に圧倒的な善を解き放つことができる人が住む世界
  6. 仏界:仏陀、救世主の世界

*太字はおすすめコースです(あとから説明します)。

もっとも、「人界」といっても、その中でもレベルはさまざまです。

「うーん…まあギリギリ地獄に行くほどでもない…どちらかというと善人ですかね」という、ぎりぎりパスの世界から、だいぶ功徳を積んだ世界まで、いくつかの段階差はあるでしょうね。

「善人であって、だいぶ功徳を積んだ」というのは、ひとつの仕事能力(実績込み)でありますので、この段階ではむしろ、天界の住人であると言ったほうが良いかもしれません。

実際に、仏陀・釈尊が一般信者の方を誘っていた世界は、この「天界」です。イエス・キリストが誘っていた「天の国」もこの世界です。

天界

さて、人間はその心境と能力によって、霊格が決まってくるというお話をしました。

上記の分類で「太字(で強調した境涯)がおすすめコース」と書きました。声聞界⇢菩薩界のラインです。

菩薩界は西洋風に言えば、「天使界」ということになりますが、ほんとうの意味でこの世界に入るのはかなり難易度が高いです。

つまり、「本当の実力が定着しているかどうか?」ということで、長年の実績も必要になってくるからです。

今回の人生で初めて菩薩界を目指そうとしてもなかなか入ることは現実的には無理に近いです。

ただし、それは「狭義の菩薩界」入りが難しいという意味であって、これ以外に、「広義の菩薩界」という境涯があります。

広義の菩薩界というのは、狭義の菩薩界入にするにあたっての準備段階の世界です。これが、声聞界と菩薩界の中間領域にあります。

声聞界、すなわち、「広く真理を学ぶ」ということを継続しつつ、プロの菩薩を目指して利他に精進している世界、これが「広義の菩薩界」です。ここであれば、今回の人生で始めても十分に狙える世界であります。

また、この世界であっても、「菩薩」「天使」を名乗ることが可能です。

ここの「広義の菩薩界」入りをサポートするために、当サイト(ネオ仏法)では、ネオ仏法サロンを運営しています。

興味のある方はチェックしてみてくださいね。

「霊格が高いと孤独」なのか?

さて、いよいよ、「霊格と孤独」の関係について、です。

これを考えていくためには、まず、「孤独とはそもそも何であるか?」を考察してみなければなりません。

ひと口に「孤独」と言っても、いくかの意味があるからです。とは言っても、大きくは「ネガティブな孤独」と「ポジティブな孤独」に分類されるでしょう。

  1. ネガティブな孤独:疎外感を味わっている。またはその結果として、物理的にも孤独であること
  2. ポジティブな孤独:精神的に自立しているので、他者に依存する必要がない。結果、独りの世界を大事にしているという意の孤独。

この2点でチェックしてみましょう。

1.ネガティブな孤独と霊格

この意味の孤独感で言えば、これはどちらかというと、天国的とはなかなか言えず、むしろ地獄領域に分類されてしまう「孤独」ですね。

なかなか「疎外感を味わいつつ、天国(天界など)」というのは難しいと思います。

何であれ、マイナスの想念をこころの習慣にして、天国に行くのはまず無理と思って良いです。

そういうコンテクスト(文脈)での”孤独”であるのであれば、むしろ、霊格が低くなる傾向があると言えるでしょう。・

この「ネガティブな孤独」については、他にもにも大きな落とし穴があります。

それは、「自分は孤独である(人に好かれない、人の輪に溶け込めない…など)、だから、霊格が高いのだ」という、とんでもない言い訳に走ってしまう危険性です。

ひとはなかなか自分の欠点というのは認めたがらず、むしろ常に「言い訳」を探し出そうとする傾向があります。

これは肉体を持っているという”自我意識”に伴うかなしい性(さが)でもありますが、それでもやはり、「逃げ」に走らず、勇気をもって現状を認めていくことが大事なのです。

言い訳

それが本当の意味での「スピリチュアル」に接していく契機になってきます。

ネオ仏法では、スピリチュアルを「真理スピリチュアル」と「呪術スピリチュアル」に分類しています。

本当の意味でのスピリチュアルというのは、「真理スピリチュアル」であり、占いなどの外部パワーに依存する「呪術スピリチュアル」は真に自分を成長していくことにはならず、むしろ阻害原因になってしまうのです。

*参考記事:真理スピリチュアルと呪術スピリチュアルの違い

2. ポジティブな孤独と霊格

上述した十界論というのは、いわば、ほんとうの意味での成功論でもあります。

ベストセラー『7つの習慣』(スティーブン・コヴィー著)で説かれているように、大きな成功(公的成功)の前提として、まずは小さな成功(私的成功)をクリアしていることが大事になってきます。

完訳 7つの習慣

そして、私的成功の基礎にあるのが、「自主性の原理」であるのです。『7つの習慣』でも「第一の習慣」は「主体的である」とされています。これが出発点なのです。

そういう意味では、そもそも、自己外部のスピリチュアルパワー(占いとか波動調整とか)に頼って、自己の幸福感を担保しようという姿勢そのものがまず、この「主体性の原理」から外れていることになります。

最低限、「自分の面倒は自分でみる」「自分の幸福感を他者に依存しない」という独立した精神が大事なのです。

むしろ、このような「主体性の原理」に沿った姿勢と実践があるからこそ、天界以降の世界からの応援があると言えるでしょう。

いわゆる、「天は自ら助くる者を助く」というやつです。自助の精神と実践があってこその実在界からの応援です。

私はフランクリン・コヴィー社の回し者ではありませんが、下手なスピリチュアルに関わるよりは、『7つの習慣』をつねに座右において、実人生においてマスターしていくほうが、よほど「真の意味でのスピリチュアル」であると思っています。

そういった文脈で言えば、まずは自己確立の時間を確保するためにも、「孤独な時間」というのは大事ですし、むしろ必須条件であると言えるでしょう。

結果、一時的にせよ、人付き合いが悪くなることもありますし、また、一日のなかでも自己を振り返るという意味での「孤独な時間」は必須です。したがって、物理的にも孤独である、という状況にはなるでしょう。

一方、私的幸福を確立した後は、公的な幸福の段階に行きます。

この公的幸福の段階に行くと、他者と協力していくことは必須条件でありますので、まったく「孤独」であることはあり得ません

霊格の段階で言えば、菩薩界は利他の世界でありますので、かならず他者や社会との関わりがあります

他者との関わり

一日の中で一定の「孤独」な時間(読書や思索、瞑想など)は必要ですが、それ以外の時間はやはり、他者との関わりの中にあります。

なので、結局、「霊格が高いから孤独」であるとは一概には言えないのです。

そもそも霊格の高い魂というのは、大いなる神的実在の一部であるという意識が高いということでありますので、疎外感的な意味での孤独を感じるということは論理的にもありえないのです。

逆に、霊格の低い魂というのは、自我意識が強く、大いなる神的実在や他者との分離意識が強いので、マイナスの意味での孤独を観じることが多い、と言えるでしょう。

霊格が高いと苦労・苦難・困難・挫折が多いのか?

この点に関しても、「苦難・苦労・挫折」がそもそもどういった意味で使われているのか?をまず検証してみなければなりません。

結論的に言えば、苦難あるいは困難、挫折というのは、原因と結果の法則(仏教的には、「縁起の理」)をマイナスの意味で外してしまったことに伴う現象であると言えます。

たとえば、このまま歩いていくと穴に落ちてしまうとします。その場合、歩くコースを変えていかなければいけませんね。

ところが、

  • 原因:コースを変えないで歩いてしまう
  • 結果:穴に落ちてしまう

といったふうに、原因を見抜き、適切な対策を打たなければ、「穴に落ちてしまう」という「苦難・困難・挫折」に見舞われることになります。

そういう意味では、むしろ、原因結果の連鎖を見抜く智慧がまだ浅い、霊格の低い霊のほうが苦難・困難・挫折に合う可能性が高いと言えるでしょう。

一方、「どのような魂であっても、それに相応しい課題が与えられる」という「魂の磨き」という観点から言えば、霊格の高い魂にも相応の課題があるのは事実です。

上の例で言えば、「より高度な原因結果の連鎖を見抜き、適切な対策を打てるか?」という課題がでてくるわけです。

なので、霊格の高い魂であっても、その高さに相応しい高度な課題に、一時的に対処しきれず、結果、苦難・困難・挫折に陥ることは当然あると言えるでしょう。

むしろ、原因と結果の連鎖をどれだけ見抜けるか?というのが魂修行であり、霊格を高める道そのものでもあるのです。

霊格を高める

したがって、この点においても、一概に「霊格が高いから孤独、苦難・困難・挫折が多い」とは言えず、この設問のたて方自体に無理があると言えます。

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