リインカーネーションはリンカーネーション、リィンカーネーション、リンカーネイションとも表記します。
何やら神秘的な響きの単語ですよね。
以下、リンカーネーションの意味を探るとともに、人間はなにゆえにリンカーネーションしているのか?その目的と効能は?というところまで踏み込んで考察してみましょう。
リインカーネーションの意味は”輪廻転生”
リインカーネーションの辞書的な意味
辞書的な意味は、
- 輪廻転生(りんねてんせい/りんねてんしょう)、再生
*”永劫回帰(えいごうかいき)”と訳されることもあります。 - 生まれ変わり、化身、霊魂に再び肉体を与えること
です。
リインカーネーションを英語(Reincarnation)の語源から意味を探る
リインカーネーションは、英語ではReincarnationと綴りますが、こちらのスペルを分解して語源を探ると意味がよくとれるようになります。
- Re(リ):再び
- in(イン):〜化する
- carnation(カーネーション):肉体・肉片
*carn : 肉
*-ation : 状態
つまり、「再び、肉体化する」「再び、肉体を与えること」つまり、「再生する」ので”霊魂再来”あるいは、”輪廻転生”という意味になるわけです。
謝肉祭を意味する「carnival(カーニバル)」も同じ語源です。
英語では、いまひとつ、Reborn(リボーン)という言い方もあります。
こちらも、
- Re(リ):再び
- born(ボーン):生まれる
つなげると、「再び、生まれる」ですから、やはり、「輪廻転生」と訳しても良さそうです。
ただし、Rebornのほうは、「現に今ある生命が甦る、復活する」というほうへ、若干、軸足があるように思えますね。
エジプトやキリスト教の復活思想に、多少、親和性がありそうです。
リインカーネーションは花のカーネーションとも関係がある?
ちなみに、花の”カーネーション”と関係あるか?と言いますと、実は関係あります。花の色が肉片に似ているところからカーネーションと命名されたようです。
*シェイクスピアの時代に、冠飾り (coronation flower)という意味に使われて、それが転訛したという説もあるようです。
カーネーション、とりわけ、赤いカーネーションの花言葉は「母への愛」です。母の日/母の日参りにカーネーションをギフトとして贈るのはここに由来しているのですね。
Kemu/リンカーネーションの歌詞に”輪廻転生”の本質が表現されている?
本稿と直接関係ありませんが、鏡音リンの曲に”リンカーネーション”という曲があります。
この曲の途中の歌詞で、「有限を夢見たんだ」とありますが、これはまさに輪廻転生の意味・目的に触れているように感じられます。
つまり、無限に続く魂としての生命の歴史の中で、肉体を持つことによってひととき有限の生命、一区切りの人生を得るという営みが輪廻転生なのですね。
まさにひとつの花を咲かせるわけです。
何のためにリインカーネーション(輪廻転生)するのか?その目的は?
それでは、人間は(あらゆる生命は)何のためにリインカーネーション、輪廻転生しているのでしょうか?その目的を探ってみましょう。
当サイトでよく触れていますが、人間は魂として永遠の生命を持っております。
*「仏教では輪廻転生を否定している」などと主張する人もいますが、それは大きな誤解です
*参考記事:仏教は輪廻転生を否定していない – 解脱論のベースとしての輪廻
じつは魂の本拠地はあの世(実在界)のほうで、この世(現象界)に降りてくる時間のほうが圧倒的に短いのですね。
人間の魂は人それぞれ、魂の性質に応じて一定の波動を発しています。
実在界では、その波動が似通った者同士が惹かれあって、それぞれの世界を作り上げているのが真相なのです。
なので、閻魔大王が人生を採点して、「あなたは天国、あなたは地獄」というふうに、ポイポイと投げ込んでいるというより、魂の性質・波動に応じてそれぞれの世界を創り上げているというわけです。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします(「”波動エネルギー理論”とは?」参照)
ところが実在界で似た者同士で住んでいると気持ち的には楽なのですが、だんだんと飽きてくることがあります。
これは、この世(現象界)においてもそうですよね。
いくら気が合っていても、同じ友人とばかり一緒にいると、なんとなく新しい刺激も欲しくなってくるでしょう。
そう、その「新しい刺激」のために、地上世界へと再び肉体化(リンカーネーション)していくのです。
なぜなら、肉体を持つと波動の違った人とも会うことができますし、一緒に仕事をすることもできるからです。
実在界では、偉すぎて会えないような人、あるいは逆に「自分としてはレベルが低く感じるな…」という人とも会うことができます。これは、上下の縦軸ですね。
一方、自分と趣味・嗜好が違う人とも会うことができます。これはいわば横軸です。
このように、リインカーネーション(輪廻転生)の意味と目的とは、
- 地上に生まれることにより、縦軸・横軸の双方の観点から出会いの場が拡がり、魂としての新しい刺激と知見・経験を得ることができる
- そして、もともと住んでいた世界よりも高い世界を目指すことができるようになる
ということになります。
リインカーネーション(輪廻転生)を信じることのメリットは?
さて、上記のようにご説明しても、「信じるかどうかは人それぞれだし、そもそも信じたからといって何かいいことがあるの?」という観点もありますね。
いわば、輪廻転生を信じることの効能・メリットです。
じつは、輪廻転生を信じることによって
- 嫉妬心から開放される
- 課題にチャレンジする機会が増える
- 数多くの紛争解決の糸口ともなる
という3つのメリットがあります。
それぞれを詳しく見ていきましょう。
1.嫉妬心から開放される
偶然に現象界(この世)に生まれている、という認識では、「なぜ、あの子は私より、生まれつき音楽の才能があるの?」とか、
「生まれつき、容姿に差があるなんて許せない」とか、「頑張ったのに報われなかった。原因と結果の法則なんて、ウソじゃん!」などという疑問が当然、出ててきますよね。
そこで、「いや、もともと人間は平等ではないんだ。これは、仕方ないこと、として受け止めるしかないんだよ」という、諦めの哲学が出てきたりします。
ところが、リンカーネーション(輪廻転生)を認めるとどうでしょうか?
各人が、繰り返しくりかえし輪廻転生をしており、過去の人生で、何らかの分野で頑張ってきたわけです。
ある人は、過去世において何度もなんども音楽家として生まれ、スキルを磨き続けてきた。ある人は、商売人としてビジネススキルを磨き続けてきた。ある人は、エンジニアとしてスキルを磨き続けてきた。
こういう過去世で獲得したいわば”資産”の違いが、今回の人生でも現れてくるのです。
なので、同じ小学1年生でスタートしても、「Aさんは算数の問題がすいすい解けるのに、私はさっぱり分からない…」ということが起きるのですね。
今回の人生だけで見れば、不公平であり、人間はなんて不平等なんだろうと思うでしょう。でも、過去世からの修練の違いがあったと思えばどうでしょう?
Aさんは、おそらく、過去世において繰り返し、数学の勉強に励んできたわけです。その”資産”が今回の人生にも現れているのですね。
そう考えるとこれは、(過去生を含めた)努力相応の世界が展開しているだけと納得できるのでないでしょうか。
ゆえに、輪廻転生においてはじめて、機会の平等と公平が担保されるわけです。頑張れば頑張っただけの成果は現れてくる、と保障されているということです。
*参考記事:自由と平等の矛盾・対立を解消するのは”輪廻転生”の思想
そういう意味では、「今世、頑張ったけど実績が思ったように出なかった、まったく評価をされなかった」ということも、
来世・来来世を考えれば、そのスキルは資産として確実に生きてくるのです。そして、いつかは正当な評価を受けることになるでしょう。
輪廻転生において、原因と結果の法則は間違いなく完結するのです。そういうふうに考えれば、無駄な嫉妬心、挫折感からも解放されることになりますよね。
2. 課題にチャレンジする機会が増える
これも大きな福音だと思います。
一度きりの人生で、「はい、終わりです。判定は変えられません」では、あまりに酷ですよね。
失敗しても、何度でも生まれ変わって自分の課題に挑戦できる、というのはありがたいことです。
過去・現在・未来の時間軸が無限に拡がりますので、超長期的な視点から「自分はどういう魂になっていきたいのか?」という課題に取り組むことが出来るようになります。
ある人生での”失敗”も、それを内省の材料にすることによって、成功への肥やしとすることができるようになります。
そうすると、輪廻転生において無限のチャンスがあり、本質的な意味での失敗はあり得ないということが分かります。
3.数多くの紛争解決の糸口ともなる
輪廻転生しているということは、その時々で違った国に生まれているということです。
そう考えると、いま敵国となっている国であっても、「過去、あの国に生まれてる可能性もあるんだな」と思えば、極端な国粋主義がでてくる理由がなくなります。
今回、たまたま今住んでいるところの国を選んで生まれているだけなのです。
なので、ネオ仏法では、政治・外交について、ある特定の国を批判することもありますが、これは決して、右翼的な国粋主義に基づいた憎しみで言っているわけではないのですね。
あくまでトータルな視点から、今後の世界が良い方向に進むためにはどこが問題なのか?どうすれば良いのか?という観点からの批判をしているのです。
以上、
リインカーネーション(輪廻転生)の意味、信じるメリットを縷縷と綴ってみました。何か参考になれば幸いです。
コメント
コメント一覧 (4件)
いえいえ、ブログコメントの場合、返信があったかどうか、アクセスしないと分からないので。
私のほうこそ返信が遅れがちでスミマセン!
>科学は証明できないものを否定するための学問じゃないはずなのに、いつの間にか科学のほうを信仰してしまっていたのですね、きっと…。
そうですよね。「証明できないものは否定する」という態度では、未知なものをすべて否定することになり、
科学の探求精神の根拠そのものも崩れることになりますね。
>お坊さんでも信じていない人はいるのですね。知ってるけど理解させるのが難しいから話さないだけかと思ってました。
僧侶の方はもっときちんと説明できるようにならなければならない、とは思うのですけど、
転生としては、現代のお坊さんは、過去生では戸籍係もしくは墓守の方が多いのかな、と予想しておりまして、
いちがいに責めきれないところもあるのですけどね。
>“特別”というのは神様から特別愛されているというわけではなく、全体のために奉仕することを特に求められている、特に責任を追わされている
フランス語で、「ノブレス・オブリージュ」という考え方に通じますね。
こう考えると、少しずつ責任の取れる範囲を広げていくことが、菩薩への道なのかな、と思います。
ぜひ、みかんさんも菩薩を目指してくださいね。
>仏教とキリスト教の教えがかぶっていることを知り
キリスト教系の記事をもっと増やして、そのあとは、「いかに統合して考えるか?」という記事も出していきます。
今の段階で、かぶっている、と思えるのは、みかんさんの理解が深いということですね。
高田様
すっかり遅くなってしまい申し訳ありません。
返信ありがとうございました!
一記事のような返信をいただき恐縮しております。
思いは価値観からきている…ハッとしました。
そうですよね。
価値観が変われば、思いも反応も変わってきますものね。
最新の記事でも八正道について詳しく教えてくださり、何度も読んでいます。
ほんとうに一記事の内容が濃密で…!
科学は証明できないものを否定するための学問じゃないはずなのに、いつの間にか科学のほうを信仰してしまっていたのですね、きっと…。
お坊さんのおっしゃることが、私には言葉通りただの「お説教」にしか聞こえなかったのは、輪廻転生という前提の話がなかったからだったことに気づきました。
お坊さんでも信じていない人はいるのですね。知ってるけど理解させるのが難しいから話さないだけかと思ってました。
こちらのサイトを読むようになって、自分の心を意識するようになりました。
でも、こういったことを学びはじめてすぐに「私は知ってるんだぞ」という慢心のようなものが心に浮かんできてしまい、これだったら「何も知らずに純粋に自分に与えられたものに感謝して生きてるほうが安全だったかも」とちょっと思ったりもしました。
神様は特定の人たちをえこひいきしているのではなく、全体を大切に思っていて、あくまで全体で良くなってほしいと思っている。
“特別”というのは神様から特別愛されているというわけではなく、全体のために奉仕することを特に求められている、特に責任を追わされている
ということを思い出して、うぬぼれに気持ちがいかないような考え方を模索しています。
高田さんの記事を読んでいて
“天使”というのは”課長”みたいな役職名で、名前はちょっとかっこよくて憧れるけど、実際は気楽ではいられなくてめっちゃやること多いし責任重いし、間違ったときは転落してしまうような危険と隣り合わせの仕事っていうことか…
と理解しました。
上の役職目指すより、ずっと平で平和にやり続けたいという人も多いと思うので、天使にしても「名前に憧れたけど、実態を知ったらやりたくなくなった」ってなることが多そうだな、と感じました。
でも、やりがいがありそうですね、天使って!
世界平和、幸福のためのお仕事を積極的にするってことですものね。
また、高田様の記事で仏教とキリスト教の教えがかぶっていることを知り、全くキリスト教徒ではない私ですが最近ふと
「あ、聖書のあの言葉って、もしかしてこういう意味だったのかな。誤解してたな。」
と思うことがありました。
「求めよされば与えられん」など。
勉強になりますし、考えさせられます!
>みかん様
コメントありがとうございます。それから記事をそんなにも丁寧に読んでいただいて感激です(^^)
近代科学の世界観に染まっている現代人としては、「証明できないことは知性の対象外」と思ってしまいがちですが、
実際は、証明できないからこそ、知性と理性を使って、(全貌とは言わないまでも)探究していく、ということだと思うんですね。
少なくとも、近代以前の哲学はそういう姿勢で、神とか霊とか…そうした目に見えない世界・価値への探求は「知性の領分」と分類しています。
お坊さんが輪廻転生を語らないのは、この近代的知性に基づいた、「ソンナコトアルハズガナイ…」という決めつけですね。
しかし、そもそも、釈尊にせよ多くの哲学者にしても、物事を観察するときは、「先入観・偏見・思い込み」を排して、
白紙の状態で、「これはそもそも何であるか?」という探求の姿勢ですね。これは共通しているところだと思います。
なので、無批判に、同時代の価値観を受け入れずに、いったん白紙に戻して、再度、点検してみると、
かなりちがった風景が視えてきます。
>『心=自分』となると、今まで自分がもっていた常識が変わってきます。『思ってても言わなきゃ罪にならない』ではないということですよね
そうなんですよ、イエス様も「思っただけで罪になる」という趣旨のことをおっしゃっていますが、これはそういうことなんですね。
むずかしいですよね…。
ある思いがでてくる前提には、「ある価値観」があります。
なので、八正道は、正見(見解)→正思(思い・思考)の順番になっています。
*これに照らし合わせても、輪廻転生を語らないお坊さんは、正見の点検が不十分であることがわかります。
ただ、原始仏教的な自力だけだとたしかにむずかしいところがあり、
私たちは実際、肉体を持っていますので、これはすごい制約ですからね。
なので、一方では、キリスト教的な「恩寵」、他力的な側面も重視したほうが良い、
ということで、今年はややキリスト教に重点をおいています。
要は、「他人軸」「自分軸」であるので、他者や自分への責め、がでてくるわけですが、
そうではなく、「絶対軸」。これは、宗教の言葉で言えば、「信仰」になりますが、
この絶対軸に基づいた心のやすらぎ、幸福感が担保できないと、この世での様々な心の揺れを
制御するのはかなり難易度が高いな…と私も思うんです。
返信が長くなってすみません(汗)。
あまり記事の更新頻度が多くなくて恐縮ですが、これからもできる限り書き続けていきます。
よろしくお願いいたします♪
高田様
最近こちらのブログに出会い、目から鱗を落としながら読みあさっています。
ひとつひとつの記事にコメントしてまわりたいくらい、一記事を読むごとに考え、気づかされています。
とくに、輪廻転生が腑におちました。
輪廻転生という言葉自体は知っていたのですが「そんなことってある?昔の人が、犯罪を抑制するために脅かそうと作った方便なんじゃないの?」と思ってました。
でも今回高田さんのブログを読んでいてなぜか「ああそういうことだったのか」とストンと入ってきました。
そして『心=自分』『心は肉体を失っても生き続ける』というのが衝撃でした。
まず感じたのが安心感です。「老いも死も怖いものではないんだ」「この世でいろんなことを考え学び実践することは無駄にならない、ちゃんと積み重なっていくんだ」と嬉しくなりました。
その次に感じたのはすごく難しいということです。『心=自分』となると、今まで自分がもっていた常識が変わってきます。『思ってても言わなきゃ罪にならない』ではないということですよね。心はつい勝手に俗なほうへ流れてしまうので、都度意識していこうと思いました。
それにしても、お坊さんの書いた「悩みが消える」本でも輪廻転生について触れられていないことが多い気がするのはなぜでしょう。
すごく大切な前提だとおもうのですが。
引き続き学ばせていただきます。
ありがとうございます。