スピリチュアルは本来、”総合学”である
「王道スピリチュアル」「トータルスピリチュアル」で、今度は、「全脳スピリチュアル」と言っていますが(笑)、意味は同じことです。
要は、「スピリチュアルは本来は、総合学であった」ということを押さえておいたほうが良いんです。
西洋で言えば、キリスト教以前の思想の起源としては、ソクラテス、プラトンやアリストテレスの哲学が中心ですが、
プラトン(たいていはソクラテスを主人公にして描いている)の本を読むと、霊界やら守護霊やら「魂の世話が大事である」という話がいっぱいでてきます。
守護霊のことをギリシャでは「ダイモニオン」と言っていますが、これが、「デーモン」という言葉の語源になっています。
まあ、意味がほぼ逆さまになっちゃってますけどね。笑
そうした”霊的な”プラトン哲学を批判しつつ継承したのがアリストテレス哲学であり、アリストテレス哲学は、今で言う狭い意味での哲学ではなく、
当時の総合学問・百科事典とも言うべき広い範囲をカバーしています。
つまり、「霊的な(スピリチュアルな)総合学から自然科学など諸学問が分化していった」というのが基本的な流れです。
*自然科学には、別途、ピュタゴラス派も後世に影響が強いですが、転生輪廻を説くなど、こちらも非常に霊的です。
また、政教分離(政治と宗教を別に扱う)というのは、長い歴史から見れば、ここ最近と言ってもいいくらいで、歴史的には、「祭政一致」が普通。
つまり、「宗教家のトップが同時に政治家でもある」というのが、一般的なパターンですね。
これを、「遅れていた時代」ととる向きもありますが、僕はそう思っていなくて、
近現代の「自由な民主主義」というのが、最高の政治形態だとはどうにも思えないんですよね。
まあそれはさておき、「政治」というのも、そういう意味では、宗教(広い意味でスピリチュアル)から分かれてきたものです。
ほとんどのスピリチュアルは、全脳スピリチュアルの部分的な借り物にすぎない
まあそうした総合学としてのスピリチュアルを今回は「全脳スピリチュアル」と呼んでいるわけですが。
一方、今も昔もよく流通しているのが、「部分スピリチュアル」とでも言うべきものです。
要は、本来の総合学である「全脳スピリチュアル」から、「現世利益」的なものを一部、引っ張ってきて商売にしているものですね。
これはもうね、現代においても、ほとんど99%のスピリチュアルはそうなっています。
スピリチュアルであるからには、霊的・神秘的なところを主軸に据えているのは確かなんですが、
(そして、そうしたものに限って、一見かっこ良さげなカタカナ語を並べてたりするわけですが)
本当の主眼はどこにあるかというと、
「現実世界を前進させること」
という部分に集約されますね。
いわゆる、「現世利益」です。
そして、それがまた需要が多いのも事実でしょう。現代だけでなく、昔からそうです。
ただこれって、「スピリチュアル」「神秘」「霊的」と言いつつ、(引っ張ってくる元はそうであるとしても)実際の関心事は現実世界=物質世界にあるということですね。
そういう意味で、逆説的ですが、たいていのスピリチュアルは、本当の意味において「霊的であるのか?」「スピリチュアルであるのか?」
けっこう疑問なところがあるわけです。
「部分スピリチュアル」に本当の利益(りやく)があるのか?
ところが、全脳スピリチュアル的価値観では、現実世界だけではなく、高次元世界を含んだ「トータル」でまず考えます。
「人間とは何か?」「なにゆえに、現実世界に生まれてくるのか?」「世界はなにゆえに存在するのか?」
こうした根本的な問い=哲学から入っていきます。
そしてそうした問いの結果、
「現実世界に生まれてくるのは、この世界を契機として、より魂を進化させるためである」
そして、
「より高度な実在世界(あの世)に還ることが、本当の唯一の成功論である」
という結論に達します。
あちら(=実在世界)のほうが、文字通り、「実在の」=「本当の」世界だからです。
これが、先に挙げたプラトン(というかソクラテス)の言う、「魂の世話」ということになるわけです。
そうした”根っこの根っこ”から見るとするならば、
外側から神秘力を引っ張ってきて、一見、人生を好転させてもあまり意味がないんですよ。
だってそれって、自分の実力=魂の資産になっていないですからね。
映画『マトリックス』的に言えば、「仮想現実の世界」の部分をいくら良くしても、それはリアルワールドではないので、あまり意味がない、ということになるんです。
であるならば、現世利益以前に、「そもそも、わざわざ現実世界に生まれてた理由」そのものが無化されることになります。
「物事を根本から発想しなければ意味がない」と僕が思うのはそういう理由です。
また、スピリチュアルをトータルで捉えないと、どういうことになるかというと、
たとえば、「除霊」ひとつとっても、
人間存在が、「個性あるエネルギー体である」「エネルギー体は一定の波長を持ち、似たような波長を持つ者同士が引き合う」
というところを押さえられませんので、
仮に霊能者に本物の霊力があっても、クライアントのこころの波長が変わっていなければ、不成仏霊・憑依霊を取ってもとっても、何度でも戻ってきちゃうんです。
まあ、「何度でも戻ってくるから、クライアントがリピーターになるんだよ」という考えもあるかもしれませんが。笑
そういう意味で、お家芸の「現世利益」すら怪しい、ということになるんですね。
スピリチュアルをトータルで捉えることができていないので、そうなるわけです。
他にもいくらでも例を挙げられますが、こういう話しは今までも何度も書いてきているので、今回はここまでにしておきます。
コメント
コメント一覧 (2件)
>山本裕美子様
日本人は根本的には宗教心が深い民族だと思うのです。
それが敗戦やら、唯物論やら、怪しげなカルト教団の跋扈、
さらに伝統宗教のだらしなさ…などがあって、
宗教心の持って行き場がなくて、スピリチュアルに流れ込んでいるのかな、と思います。
まあこの点はアメリカのニューエイジブームなどもそうだと思いますけどね。
ただ、スピリチュアリズムというのもまだ完熟していなくて、せいぜいが現世利益止まりが殆どで、
そのイマイチ感をカタカナで誤魔化しているという感じです。
ネオ仏法は本来の宗教の可能性を明らかにし、狭い分類に押し込められている「宗教」も「スピリチュアル」も超えていく
いわば、「超宗教」になりうると思っています。
居場所と思っていただいて、とても嬉しいです!
私の長年のモヤモヤをかくも鮮やかに言語化していただきありがとうございます。宗教関係者との過去の出会いであまり良い思い出がない私にとって、このネオ仏法という世界はやっと自分の居場所を得た気がします。現世ご利益的な部分的な借り物のスピリチュアルは確かに造語が好きなようですね。そんな方たちに哲学的な疑問を投げかけると、波動が重い、暗い、風の時代なんだから、もっとかろやかにいかないととはぐらかされてしまいます。論破しようとは思いませんが、本質的に理解するためにこのテーマをもっともっと取り上げていただけると嬉しいです。