スピリチュアル現象学 -①「信仰と祈り」はなぜ必要か?を哲学的に証明する

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真理スピリチュアルと呪術スピリチュアル

前回の記事では、スピリチュアルにも、「真理スピリチュアル」と「呪術スピリチュアル」があること。

そして、それぞれの違いは、

  • 真理スピリチュアル:神中心の世界観
  • 呪術スピリチュアル:人間中心の世界観

である、ということでした。

今回は、「なぜ、神中心の世界観でなければいけないのか?」をもっと突き詰めて考えてみたいと思います。

「神中心の世界観」においては、私たちイチ人間が神とどう対峙していくか?その具体的な接し方として、「信仰」と「祈り」が挙げられるでしょう。

これらの所作は、一般的には、「特定の宗教に入信している人が行うことである」というイメージがあるかと思います。

あるいは、そもそも、「なぜ、神中心でなければいけないか?サッパリ分からない」という気持ちも出てくるでしょうね。

「実在 – 現象」の図式を確認してみる

ネオ仏法では、存在論として、「実在 – 現象」の図式を多用しています。

私たち一人ひとりはもとより、万象万物はすべて「現象」に過ぎない。過ぎ去っていくものであるし(無常)、それ自体では存在することができない(無我)。今ココに仮にあるように見える存在にしか過ぎない。

まあこれが、仏教で言うこところの「一切皆空(いっさいかいくう)」である、ということですね。

しかし、「現象」をさらに分析してみると、いくつかの「より真なるものへの発展段階」があることが分かります。

その発展段階とは、たとえば、(コップの例えでいきます)

  1. 目の前にあるいちいちのコップは「現象」ではある。無常であり、無我であるから。
  2. コップが壊れても、「コップの設計図」があればまたコップを作ることができる。そういう意味では、「コップ」よりも「コップの設計図」のほうが実在性が高い。しかし、設計図も現象(無常・無我)である。
  3. コップの設計図がなくなっても、「飲み物を入れる容れ物」という理念があれば、いつかは設計図が引かれる。しかし、その理念も人類が地球に住まなくなったら消え去る可能性はある。ゆえに、この段階での理念も現象に過ぎない
  4. しかし、「便利さ(快適さ)」を求める気持ちがあれば、またどこかの惑星で、「飲み物を入れる容器があればいいな」という理念ができるだろう。ゆえに、「利便性」は「飲み物を入れる容れ物」より実在性が高い。
  5. 「利便性」はなにゆえに欲求されるのだろうか?それは、「便利であれば、みんなが幸せだろうな、だから何かを発明したい」という「智慧と慈悲」の思い。すなわち、「幸福への意思」である。ゆえに、「幸福への意思」は「利便性」よりも実在性が高い  

*ちなみに、最後のところですね、智慧と慈悲によって形づくられる幸福論こそが「涅槃」である、とネオ仏法では定義しています。

といったふうに、それぞれの段階が「現象」でありながら、同時に、より上位の概念は、より下位の概念から見ると、永続性・普遍性という観点において、だんだんと「実在性を帯びてくる」、と言えますね。

かんたんに、単語レベルでこの、現象→実在の発展段階を整理しますと、

 目の前のコップ<コップの設計図<コップのアイディア<利便性<(智慧と慈悲に基づいた)幸福への意思

となりますかね。

これは、

始めから(目の前のコップ)順にたどっていけば、「現象が実在性を帯びてくる諸段階」と言えましょうし、終わりから(智慧・慈悲・涅槃)から逆に降りていけば、「実在が現象化してくる諸段階」と言えるでしょう。

この、A<B<C…… の図式において大事なことは

上述の通り、「BはAに対して実在性が高い、しかし、BはCに対しては現象に過ぎない」ということ。

それともうひとつ指摘できるのは、

実際のところ、「智慧と慈悲」とか「利便性」と言っても、それが具体化していかなければ(つまり、コップとして飲み物をを容れるのに便利な存在として有る、という「作用」として機能していなければ)、

それは事実上、いまだ「智慧と慈悲」が開花していない、と言いますか、

むしろ、究極の実在は、「現象化」の各過程を経つつ、「実在であることの自己実現をしている」とも言えるかと思います。

おわかりですかね…??

たとえを変えて、目の前に扇風機があるとします。

しかし、それが壊れていたら、はたして扇風機と呼べるのか…?

だって、もう風を送れないですからね、壊れているので。

なので、これは正確には、「元・扇風機」ということになりますね。

一方、

扇風機が風を送っていなくても、「オフ」の状態であればどうか…?扇風機と呼べるか…?

これは、

いつでも風を送る準備ができているので、事実上、「風を送る機械」として認識されているわけで、この状態でもやはり、扇風機、と言えるわけですね。

つまり、

実際にオンである/オフであるかの状態を問わず、「風を送る機械である」という「働き/作用」が担保されているからこそ、それは「扇風機」と呼ばれるわけです。

ここのところで、さっきの実在性の諸段階の図式に直すと、

 扇風機<風を送る機械(という理念)

となりますね(扇風機の設計図」はとりあえず省略しています)

ところが、「扇風機」という現象から見て実在であるところの、「風を送る機械」というのは、

現実に、「風を送っている」という作用が期待できなければ、これは「実在」といってもいまだ理念として留まっている、ということで、「風を送る機械」の使命が果たされていないわけです。

なので、もっとも「現象である」ところの、いちいちの「扇風機」になって初めて、「実在は自己を実現している」と言えるわけです。

これが、「実在は現象することによって実在であることを自己実現する」という意味です。

 

(以下、書きかけ・メモ)

 

各項目(A<B<C…など)は最下位の物質を除き、「意思」を伴っている。ゆえに、実在性の諸段階は、意思の発展段階でもある。
*物質も微細な意識を持っている、と措定してもよい

ということは、「智慧と慈悲」には意思がある、ということになり。

「実在」は単なる抽象概念ではなく、「意思をその内容とする」ことが証明される。

「智慧と慈悲」は最高の理念であり、抽象概念である(つまり、「法」である)とともに、「意思」である。

ということは、

「抽象化」と「意思」は矛盾しない。両立する。

「抽象」に焦点を当てると、哲学や仏法になる。「意思」に焦点を当てると、宗教で言うところの「唯一絶対の神」になる。

ゆえに、

宗教学でよく、

「キリスト教などの一神教は「神前法後(しんぜんほうご)」で、仏教は「仏前法後(ぶつぜんほうご」であるので、まったく相容れない」

などと書かれているが、これは誤りで、

どちらも前後しておらず同時定立するのであれば、「(一神教的)神=仏=法」ということになる。

したがって、「神即法」であり、「仏即法」である。

究極の実在は、同時に、究極の(幸福への)意思である。

したがって、(一神教的)神は意思を伴う法として実在する、と証明される。

一言でいえば、

「神は実在する」

 

 

 

 

 

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