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”イドラ”の意味とは? – フランシス・ベーコンの英知に学ぶ

イドラ ベーコン

”イドラ”という言葉はなんだか怪獣めいていますが、これはラテン語(idola)でありまして、英語のIdol(アイドル)の語源になった言葉です。

”イドラ”も”アイドル”も、「偶像」という意味です。

 *近年では、イドラは「幻影・虚構」という意味であり、ベーコンは「偶像」という意味では使ってないという説もありますが、「偶像」という言葉そのものに「幻影・虚構」という意味が詩的に込められていると私は解釈します。

イドラ説は、イギリス経験論哲学の祖であるフランシス・ベーコンによって唱えられました。「ノヴム・オルガヌム―新機関」という書物に書かれています。

ノヴム・オルガヌム

ベーコンは、「知は力なり」という言葉でも有名ですね。

人間は、自分で物事を考え、判断していると思っていても、その実、さまざまな先入観や偏見などの”フィルター”を通して物事を見ています。

それゆえ、このフィルター、先入観・偏見ですね、これを取り除かないと、物事の真実の姿は観えてきません。

フランシス・ベーコンは、こうした先入観・偏見を取り除くために、(帰納法的に)4種類のイドラ=偶像を挙げています。

以下、ベーコンのイドラ説を手がかりに、「いかにしてさまざまな先入観・偏見から自由になることができるか?」を見ていきます。

4つのイドラ(偶像)が先入観・偏見を作っている

まず、4つのイドラをかんたんな定義とともに列挙してみますね。

  1. 種族のイドラ:”人間”という種族であることにまつわるイドラ
  2. 洞窟のイドラ:”個人”の思い込みによるイドラ
  3. 市場のイドラ:人づてのうわさ話など、”言葉”によって生じるイドラ
  4. 劇場のイドラ:”権威”をうのみにしてしまうイドラ

それでは、それぞれの”イドラ”を、ベーコンの定義に従って、いくつかの例を挙つつ、理解を深めてまいりましょう。

種族のイドラ

「種族のイドラ」は人間の本性そのもののうちに、そして人間の種族すなわち人類のうちに根ざしている(前掲書p84)

”種族のイドラ”は、「人間であることそのものに付随してくるイドラ」ということでしょう。

私たちは外界に対しても、つい「客観的に見ている、把握できている」という先入観に陥ってしまいます。

しかし、外界を認識する窓口、人間の五官ですね、これは人間の感官能力のバランスそのものにやはり規定されています。

つまり、人間は人間なりの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のバランスを持っていますよね。猫やフクロウのそれとは五官のバランスが違っています。

人間はその特有の五官のバランスによって、外界を”人間的に”受け取り、かつ解釈しているに過ぎません。

五官

そういう意味で、「人間は万物の尺度である」(プルタゴラス)というのは当たらない、ということになります。

洞窟のイドラ

「洞窟のイドラ」とは人間個人のイドラである。(前掲書p84)

”洞窟のイドラ”は、あなた個人の資質・性格、置かれてきた環境、受けてきた教育、さまざまな経験…などにより作られる先入観・偏見のことです。

人間はこの世で肉体を持っていると、つい”自我”を中心に物事を見てしまいます。

”我(われ)”という色眼鏡をかけて、外界やさまざまな出来事を判断してしまうということですね。

この”洞窟のイドラ”も、私達の先入観・偏見の形成に貢献(?)してしまっております。

市場のイドラ

人類相互の交わりおよび社会生活から生じる「イドラ」もあり、これを我々は人間の交渉および交際のゆえに、「市場のイドラ」と称する。(前掲書p85)

言葉と、言葉が指し示しているものには実は必然的な結びつきはありません。

これを、シニフィアン・シニフィエという概念で提唱したのは、ソシュールという言語学者です。

たとえばきわめて単純な、「海」という言葉であっても、それが指し示している内容は、使い手/受け取り手にも変わってきますね。

また、英語では”Sea”と表現しますので、「海(うみ)」という名称である必然性もないわけです。

私たちは日本人として、ひとつの約束事として「海」という言葉をおおざっぱに共有しているに過ぎないのです。

こうした、「言葉の使い方・定義の違い」によっても、私たちの認識はかんたんに左右されてしまいます。

「言葉の交換」という見地から言えば、たとえば、マスコミから発信される言説を私たちは日々受け取っています。

ところが、マスコミの言説が真実であるか?という保証はどこにもありませんね。

ここを無条件に受け取ってしまう、あるいは、受け取っていないつもりであってもやはり何らかの影響を受けてしまうのが人間の一般的な知性のレベルでもあります。

マスコミ

現代では、この「マスコミによる洗脳」というのはかなり深刻な問題でもあります。

神秘思想家ルドルフ・シュタイナーは、以下のように述べています。

現代の悪魔は活字を通して入ってくる

劇場のイドラ

哲学のさまざまな教説ならびに論証の誤った諸規則からも、人間の心に入り込んだ「イドラ」があり、これを我々は「劇場のイドラ」と名付ける。(前掲書p85)

哲学の教説だけでなく、この世の中ではさまざまに”権威あるもの”とみなされているものがあり、私たち人間はついそれら権威者の言説を鵜呑みにしてしまいます。

上述したマスコミの「市場のイドラ」も、「大手マスコミが言うことだから」ということで、”マスコミの権威”に影響されているわけですね。

仏教でも、とくに日本の近代仏教学ではながらく、「釈尊は無我を説いたのだから、永遠不滅の”我”などというものはなく、死後の魂など存在しない」というのが常識になっていました。

これはずいぶんむかしに近代仏教学の”権威”であった学者がそのように主張したため、大学でもそのように教えられるようになり、結果、お寺の僧侶であっても、魂を信じていない方がかなり大勢いらっしゃるのです。

でも、それでは、何のために法要を行うのか?…ということになってしまいますよね。

この、「無我だから魂はない」という主張については下記の記事で論駁しております。興味のある方は参照なさって下さい。

 *参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

また、同時代・同地域でデフォルトとされ、よく共有されている言説・主張も、ひとつの”劇場のイドラ”であると言えるでしょう。

たとえば、「宗教は怪しい」といった主張です。とくに現代日本人は条件反射のように、そのように思い込んでいる人が多いです。

ところが、海外の人はそうではありません。

私は海外貿易の仕事をしておりまして、実際に外人とお話する機会が多いのですが、彼らに「宗教を信じているか?」「神を信じているか?」と聞くと、(ある意味、みな慌てるように)、

「もちろん、信じている!」と答えます。あたかも、「神を信じていない」と思われたら人としての信用をなくす、といった塩梅(あんばい)です。

これなどは、日本人はまるで逆の反応になりがちですよね。

結局、日本人の宗教に対する偏見は、

  • 先の大戦で、国家神道を信奉して敗北し、かつ、GHQの戦後政策で徹底的に否定された
  • 70年代あたりから、社会問題を起こす新宗教、カルト教団が跋扈した
  • 科学万能主義の影響

と、だいたいこの3つに根源があるように思われます。

そして、条件反射的に拒絶反応を起こしています。

拒絶反応

ところが海外では、「カルトはあくまでカルト」として避ける傾向はありますが、それと、「宗教そのものに対する価値観」を結びつけることはありません。

また、「科学万能主義の影響」というのも、たかだかここ2−300年のことに過ぎません。

むしろ、科学の勃興期には、「科学は怪しい」という…まあ一種の錬金術のたぐいに捉える人も多かったのです。これなども、時代特有の”劇場のイドラ”ですよね。

イドラ説と仏教理論の整合をはかる

私たち現代人がなかなか、”守護霊(ガーディアン・エンジェルス)の指導を受けられないのは、上述した”イドラ”、「先入観・偏見」に妨げられているのが原因なのですね。

なので、個人がより良き人生を送るためにも、いかに「先入観・偏見」を取り除いていくことが肝要です。

これについては、当サイトで「無料プレゼントPDFファイル」を配布させて頂いておりますので、ぜひゲットしてみて下さい。

”イドラ”の駆除は、八正道の”正見”に該当する

当サイトは、”ネオ仏法”と銘打っていますので、”イドラ説”と仏教理論との整合性も図っていこうと思います。

仏教の根本というのは、結局のところ、「人間がいかにして現世の苦しみから脱却するか?」がテーマとなっていると言っても過言ではありません。

とくに釈尊の時代の初期仏教では、それが中心テーマであったことは間違いがないでしょう。

「苦しみからの脱却」を仏教用語で、”解脱(げだつ)”と言い、解脱した結果、得られる平安な境地を”涅槃(ねはん)”と呼んでいます。

そして、解脱のための具体的な方法論が「八正道」であるのです。

今回は”イドラ説”の解説が主眼でありますので、八正道について深くは論じませんが、ぜひ、下記の記事を参照なさって下さい。

 *参考記事:八正道の意味と覚え方のコツ – ”縁起”のつらなりで理解する

さて、八正道は、”正見(しょうけん)”から始まっています。

…というより、八正道の残りの7つの項目は、「正見がいかに具体的に展開しているか?」のチェックであると言っても過言ではありません。

ゆえに、解脱するため(苦しみから脱却するため)には、この”正見”をいかに得ていくかがポイントになるのです。

正見

正見は別名、”如実知見(にょじつちけん)”とも言います。

文字通り、「実のごとく見て知る」という意味です。真の意味で、「ありのままに物事を観察する」ということです。

イドラ説でみていったように、人間はさまざまな「先入観・偏見」に汚染されています。

なので、”正見”のチェックは、まさに、「イドラの駆除」に相当するわけです。

”正語”と”正業”からさかのぼって”正見”を深めていく

そして、”正見”をチェックするための手がかりとして、八正道ののこりの”正語(しょうご)”とか”正業(しょうごう)”があります。

簡単に言えば、

  • 正語:正しく語ったか?
  • 正業:正しく行ったか?

ということです。

まずは、この2項目のチェックを日々、行ってみることをお勧めします。

…というのも、八正道の順序として、

  1. 正見:正しい価値観があるから
  2. 正思:正しく思うことができる
  3. 正語:ゆえに、正しく語ることができ、
  4. 正業:正しく行うことができる

という展開になっているのですね。

”正見”と”正思”については、こころの内容ですので、初心者にはなかなかチェックがむずかしいのです。

しかし、”正語”と”正業”は、オモテにあらわれてきますので、比較的、かんたんにチェックできます。

ゆえに、この2つをチェックしつつ、正思→正見とさかのぼっていくのが実践的な順序であるのですね。

そして、次第次第に”正見”、「正しい見解」「ありのままに物事を観る」をマスターしていくのです。

入門用の八正道はこの通りで良いのですが、やはり、チェックというのは、さまざまな角度から行っていくに越したことはありません。

そういう意味で、今回の記事のテーマであるイドラ説、「4つのイドラ」を基準にして、「自分はどのような先入観・偏見を持ってしまっているのか」をチェックしていくのが有効になるということです。

ぜひ、今回の記事を参考に、「正見の深まり」を体感してみて下さい。それが、より良き人生を切り開いていくための契機になっていくことを私は確信しております。

 

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