ひと口に”愛”と言っても、さまざまな愛の種類・かたちがあります。
そして、現代では、”愛”というものがかなり偏って理解されているように思えます。
ポピュラーミュージックの歌詞などに出てくる”愛”というのも、「いかに、他者に愛されるか?」といった意味合いで、その殆どが”男女の愛”に限定されていますよね。
それから、恋人や夫婦問題の”愛”についての悩みというものも、たとえば、「もう彼を愛する気持ちがなくなってしまった」というふう言い回しが多いですね。
この「もはや愛することができない」という言い回しのもとには、「愛の感情は、ふとどこからかやってきて、また一方では、いつの間に消えてしまうものだ」という発想があるように思えます。
つまり、自分とは切り離された”外部”から、愛することができるか/できないか、という感情がひとりでにやってくる。自分のコントロール外のことである、という発想があるのです。
ところが、古代ギリシャにおける”愛”、また、キリスト教的な文脈での”愛”には、実はいくつの種類と使用法があります。
本稿では、古代ギリシャ以来の愛の種類・区分を挙げつつ、おもにキリスト教的な観点からの愛の本質に迫っていこうと思います。
4種類の愛の言葉
まずは、古代ギリシャで考えられていた愛の類型がキリスト教でいかに理解されているか、4種類の言葉を挙げてみます。
- エロース(eros):性愛、本能的な愛
- ストルゲー(storge):家族愛(血縁に基づいた愛)
- フィリア(philia):隣人愛、友愛
- アガペー(agape):無償の愛
このうち、キリスト教的な文脈では、”フィリア”と”ストルゲー”は広く「隣人愛」に分類されると考えても良いでしょう。
ところが、この「隣人愛」というものは、聞くはかんたんですけど、実践するのはけっこう難しいのですよね。
そこで、隣人愛の実践がなぜ難しくなってしまっているか?ということについて、まず考えてみましょう。
愛とは、「主体的に与える愛」
まず、ここが基本中の基本です。
かんたんに言えば、愛は、貰うもの/奪うものではなくて、与えるものであるということ、すなわち、「主体的愛」であるということです。
「愛」という言葉が使われるとき、一般的には、「彼(彼女)に愛される」というふうに、「貰うほう」に力点が置かれることが多いですよね。
さきの「主体的愛」に対して、これは「依存的愛」と言っても良いでしょう。エネルギーの方向性が真逆なのです。
他者に愛されているかどうか?で自らの価値や幸福感を測るのは、やはり依存です。
そして、「他者」の思いというものは、自分のコントロールの及ばないところにありますので、そこに依存している限り、非常に不安定な幸福感に陥ることになります。
呪術スピリチュアル系で「愛」というときも、「◯◯の御札・ペンダント…を持っていたら、恋愛が成就しました!」との体験談・宣伝が多いですが、これも「主体的な愛」ではなくて「依存的な愛」ということですね。
*参考記事:真理スピリチュアルと呪術スピリチュアルの違い
それから、恋愛やパートナーシップ以外では、自己実現において、過分に「評価されたい」という思いも「依存的愛」の典型です。
あるいは、
「主体的愛」を実践しているつもりでも、見返りを求めてしまったら、「依存的愛」への転化ということになります
なぜ、”主体的愛”が重要なのか?
これは結局、なにゆえに、人間や万象万物が永遠とも思える輪廻転生を繰り返しているか、という「そもそも論」に関わってきます。
輪廻転生の目的は、一言でいえば、「神や天使と呼ばれる存在へ近づいていくこと、自らも天使へと進化していくこと」ということになります。
*参考記事:リンカーネーションの意味 – 無限の輪廻転生に有限の花を咲かせる
それでは、神や天使の特徴とはなんでしょうか?それは、「与えきりの存在」であるということです。
古来より、太陽崇拝・太陽神への崇拝がどこの地域でもありますが、これは太陽というものが、神の象徴でもあると人々が感じ取っているからなんですね。
つまり、神とはなにか?ということを、難しい言葉ではなく、直感的に理解しようと思えば、太陽の有り様に学べば良いわけです。
太陽は、まさしく、与えきりですよね。善人にも悪人にも等しく与え続ける。見返りを求めずに与え続ける存在です。
ということは、私たちの魂としての進化の先にあるものは、太陽のような「与えきりの存在になる」ということなんです。
そして、愛を与える量が多い者は、すなわち、神に似ている者、ということになります。これが天使という存在なんです。
つまり、あなたが誰かに愛を与えた瞬間に、あなたは神に似たことになります。そして、神に一歩、近づいているわけです。
神に近づいた=霊的に進化した、ということは、イコール、成功である。報われているということになるんですね。
つまり、愛を与えることによって見返りがあるかないか、という問題ではなく、与えたその瞬間に「神に近づいた」=魂として進化したということで、もう見返りは来ているというわけです。
「情けは人のためならず」と言います。
これは、「与えた愛はめぐりめぐって自分に還ってくるものだ」と解釈する向きもありますが、この解釈はまだまだ真理スピリチュアル的には掘り下げが足りないように思えます。
つまり、「情け」=「愛」は与えた瞬間に、自らが神に似る=霊格が上がる、というご褒美(?)が与えらていることになり、「愛は与えたまさにその瞬間に報われている」というのが真理スピリチュアル的な真実です。
天使の境涯は、「愛を与えることが幸せだからそうしている」という、いわば、”与える愛のデフォルト状態”になっています。
ただ、天使以前の段階にいるものにとっては、まずは、
「愛を主体的に他者へ与えた瞬間に神に似ることになる。それはすなわち、霊的な進化を遂げているということなんだな」
と知識として知っておくことが大事です。
地上に肉体をもって生まれていると、どうしても自分自身の肉体感覚に左右されがちでありますので、どうしても、貰うほうの愛=「依存的愛」に転化しやすいんですね。
しかし、天国的な愛は自ら積極的に他者へ与える「主体的愛」、ということを知識として押さえておくだけでも、「依存的愛」に陥らないためのブレーキになります。
この主体的な愛の最たるものが、キリスト教で言うところの”アガペー”なのです。
アガペーは”無償の愛”であるがゆえに、その対象が無制約であるという性質があります。また、自我を超越していますので、”自己犠牲の愛”として現れることもあります。
本稿では4種類の愛を挙げていますが、下記の順で愛を発揮する対象が広がっていることがお分かりでしょう。
- エロース(eros):性愛、本能的な愛(求める愛)
- ストルゲー(storge):家族愛
- フィリア(philia):隣人愛、友愛
- アガペー(agape):無償の愛
愛の究極的な段階であるアガペーは、聖書の中で”掟”として説かれています。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる(ヨハネによる福音書13章34節)
また、別の聖句では、
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の提である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。(マタイによる福音書22章37-40節)
とされています。
エロースは、一言でいえば、「求める愛」ということで、愛の中でも若干ワルモノ扱いですが、神を愛すること、求めることは肯定されると言えるでしょう。
子が親を求めるように神を愛することは、神も望んでおられるはずです。
そして、私たちは神の愛を求めることにより、頂いたエネルギーを隣人愛へ転化することができます
むしろ、こうした信仰から隣人愛への順序こそ、理想的な愛の循環システムであるとも言えそうです。
いわば、エロースのアガペーへの転化です。
*参考記事:アガペーの対義語はエロス(エロース)で本当にいいのか?
智慧を与えるのが菩薩(天使)の愛
愛を主体的にどれだけ与えるか?という量の問題、それから、どういった愛であるかという質の問題もありますね。
人間の本質が魂(実存エネルギー)であるならば、物を与えるよりも、魂を癒やす・向上を促すように愛を与えることが、より上位の愛であることはお分かりいただけるかと思います。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
すなわち、
神仏の真理を伝えること、言い換えれば、智慧を与えるのが最高の愛。天使の愛
ということになります。仏教的には、法施(ほうせ/法を布施すること)と言います。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4章13-14節)
今回のトピックをまとめますと、
- 愛には4つの種類があるが、とりわけ、アガペーの愛(主体的な無償の愛)が最高の愛。天使の愛
- なぜなら、神は愛そのものであり、与えきりの存在。そして、神に似ることが本当の人間の向上だから
- 愛にも段階があり、智慧を与えるのが天使の愛
ということになります。
コメント