「下手なスピリチュアルって何よ?」とツッコミが来そうですが(汗)、
実際のところ、「正当なスピリチュアル」であっても、それに接する人の心境/状況によっては、「スピリチュアル離れ」をしたほうが良い、と感じるケースがあります。
これは僕だけの感想ではなくて、
『眠られぬ夜のために』や『幸福論』で有名なカール・ヒルティも、
「キリスト教はそれを学ぶものにより多くの人生経験と、特に謙遜の気持ちがあることを前提としているので、かえって修行中の若い人には不適当なところがある」
と述べています。
ヒルティが言っていることは、要は、子供の頃〜若い頃に半端に宗教に接していると、宗教を本当に必要になった年頃に「ああ、キリスト教はあんなもんだったよ」と、かえって、宗教離れを起こしてしまう。という指摘なんですけどね。
いまひとつの観点としては、
スピリチュアル/宗教が逃避の手段になってしまうケースもあります。
スピリチュアリストが適切な教師であったとしても、やはり、人生観やマインド面でのアドバイスで止まってしまいますからね。
そうすると、マインド面で、「そうか!」と分かっただけで、実際は何も行動に移していなくても、「なんとなく自己変革できている気分になってしまう」というリスクがあります。
あるいは、「これから行動に移す途上なんだ」ということで、
「いったいいつまで、途上が続くのか…?」というスパイラルに陥ることもあるわけです。
これが、コンビニなどで、やや安手の自己啓発本が並ぶ理由にもなっているわけだと思うんですよ。
コンビニはシステム的に「売れる本」というのをおそろしく把握していますからね。
そういった本が並ぶということは、「気分は自己変革!」が多くの人にとって、心地よいものになっているんだな、ということが分かります。
だけれども、それではいつまでたっても実際の自己変革ができていないので、
また悩む→自己啓発本でも読んでみよう
というスパイラルに入ってしまうわけです。
いわゆる、自己啓発難民ですね。
そういう意味では、「スピリチュアル難民」もけっこういるんだろうなって思うわけです。
本題から外れそうになっていますが、
「心の平静」「魂としての現実的な向上」を考えるのであれば、スピリチュアリティの贅肉を削ぎ落とした(全消去しているわけではないですよ)ストア哲学がおすすめです。
ストア哲学の「ストア」というのは、英語の「ストイック」の語源になっているくらいで、まさに削ぎ落としなんですね。
ストア派の哲学はギリシャのゼノンから始まると言われていますが、全盛を迎えたのは、古代ローマの時代です。
有名な方としては、エピクテトスとか、当サイトでも何度かご紹介している、ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスがいます。*『自省録』
ローマは多神教でして、多神教のご多分に漏れず、あまり「教え」とか「教義」がないんですよ。
まあここらへんは神道でも同じですね。
そうした教義の隙間を埋めていたのが、ローマ以前のギリシャ哲学およびそこから派生した哲学、ということになります。
ではストア哲学とは何か?といえば、もうひと言で終わってしまいます。
「あなたが考えていることが、すなわちあなた自身の価値である」
と、これだけなんです。
これは言われてみれば、
「ふーん」「まあ聞いたことがあるよ」って感じですが、
このことを突き詰めてどのくらい考えられるか?腑に落としているか?を自分自身に問うてみると良いです。
そうすると、冒頭に述べたように、下手なスピリチュアルよりも、ずっと心の開拓に繋がっていくんですね。
シンプルなだけに。
たとえば、
「他人から何かを言われて傷ついた」
ということがあったとします。
でもね、、
これだけで、実は王道スピリチュアル的には、「ぜんぜん腑に落ちてませんね」ということになるんですよ。
というのも、
「他人から、これこれこう言われて傷ついた」というのは、(子供の頃とか思春期にはしょうがないですけどね)
「他人の言動が自分の価値に関係している」
という価値観がある/残っている、ということになります。
ところが、
「あなたが考えていることが、すなわちあなた自身の価値である」
ということで行けば、
他人や周囲の言動、およびあなたに対する価値づけというのは、実際のあなたの価値にはまるで関係ないことになります。
いくつかのパターンを実際にチェックしてみましょう。
そうすると、少しはストア哲学が腑に落ちてくるかなと思います。
他人から心無いことを言われて、それに対して、どう反応するか?
4つパターンを挙げてみました。
そして、そのパターンに応じて、あなたの価値が決まります。
- 傷つく
- 我慢する
- 受け流す
- 許す
といったパターンですね。
実はこれが霊格/人格力にニアリイコールの順になっているんです。
順番に見ていきましょう。
1.傷つく
「あなたの価値は、人から心無いことを言われて、傷つく人である」
傷ついた時、内向的な人であれば、自責の方向へ行くでしょうし、外交的な対応であれば、他責の方向へいきますね。
しかし、どちらにせよ、他人の言動にまんま「反応」しているだけで、カエルに電気ショックを与えて、ぴくっと動いた。なんてレベルでしかありません。
「あなたの価値は、人から心無いことを言われて、自分を攻め苛む人である」
「あなたの価値は、人から心無いことを言われて、感情的に反撃に出る人である」
ということになりますね。
2,我慢する
これは、1の「内向パターン」=自責の方向と似ているようですが、少し違います。
自分および他人との関係でこれ以上毒を広げないために、ぐっと押さえ込む、という心境ですね。
これができる人が、いわゆる「社会性がある」ということになるかもしれません。
「あなたの価値は、人から心無いことを言われて、我慢することを選んだ人である」
3,受け流す
これは、2よりはずっと高い心境です。
仏教の菩薩修行である「六波羅蜜(ろくはらみつ)」でいう、忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)の修行がまさにここに焦点を当てています。
忍辱波羅蜜は、別名、「耐え忍びの完成」と言いますが、
ここで言う耐え忍びというのは、「ちくしょー」と思いながら、ぐっと押さえ込むことではなく、
その上の心境ですね。
自分や相手に時間を与えて、「今はそうであるかもしれないけど、時間の流れのなかで分かってくれるだろう」
ということで、
感情的にはまったくブレがおきない心境です。
あるいはそうした心境を目指す修行が忍辱波羅蜜です。
「あなたの価値は、人から心無いことを言われて、さわやかに受け流すことの出来る人である」
4,許す
これは、本当に宗教的に完成度の高い境地です。
3,の「受け流す」をベースにしていますが、単に受け流すだけでなく、相手の幸せ・成長を心から願えることができる心境です。
これはやはり、上述した忍辱波羅蜜の、文字どおり、「耐え忍びが完成」した姿であるでしょう。
ただ、この心境にいたるためには、「我あり、彼あり」の相対観では無理な話で、
また、巷にいう、自分軸でも無理なんですね。
他人に対する「自分」を立ている時点で、いまだに相対観のなかにいるわけですから。
なので、ここの境地に至るためには、どうしても王道スピリチュアル的視点、ネオ仏法の視点である、
「我も彼も、一見、別べつの存在に視えるが、それは物質的な感覚に過ぎず、霊的なエネルギーの次元から眺めてみれば、巨大な宇宙霊(仏でも絶対神でもいいです)のエネルギーの一部として存在しているんだ。
なので、本来は、自他一体であるんだ」
という悟り(認識力の獲得)が必要になってきます。
また、この認識こそが、本当の意味での「無我の境地」でもあります。
なかなか、ここのところまでは、地上に生きている人間では難しいですが、少なくとも知識として押さえておくだけで、だいぶ違ってきます。
「あなたの価値は、人から心無いことを言われても、霊的な無我の視点から、人を許すことができる人である」
ぜひ、参考にしてみてくださいね。
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