哲人皇帝マルクス・アウレリウス名言集 – 『自省録』より抜粋

マルクス・アウレリウス名言集

プラトンの理想国家、哲学者による統治が歴史上、実現したことがあります。その一つがまさに、古代ローマ五賢帝のひとり、マルクス・アウレリウス・アントニヌスによる統治です。

マルクス・アウレリウスはローマ皇帝でありながら、エピクロスなどのストア哲学を信奉し、その内省の断片を日記として綴っていきました。これがかの有名な『自省録』です。

もともと他人に読ませる目的で書いたものではないので、内省の記録は箴言集的内容を持つにも関わらず、押し付けがましさが一切ありません。マルクス・アウレリウスが自らに言い聞かせていた哲学的思索、まさに自省ですね、それゆえにこそ、読み手にストレートに響いてくるものがあります。

たとえば、

善い人間のあり方如何(いかん)について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。(第一〇巻一六)

といった言葉も、読者に向けて書かれているとすれば、若干、押し付けがましく感じるかもしれませんが、アウレリウスが自らに言い聞かせて書いたものだと思うと、かえってこちらに響いてきますよね。

「マルクス・アウレリウス名言集」と銘打ったまとめサイトはいくつかあるようですが、そうしたものを参照にせず、私自身が抄出したものを書き出していきます。

翻訳はいくつか出ているのですが、名訳の誉れ高い神谷美恵子訳の『自省録』を使います。

自省録

なお、抄出でありますので、基本的に抜書になりますので、(前略)(後略)などの但し書きはつけませんが、文の途中を端折った場合のみ(中略)を表記しています。

目次

第一巻

七 自分の性質を匡正し訓練する必要のあることを自覚したこと。(中略)道に精進する人間、善行にはげむ人間として人の眼をみはらせるようなポーズをとらぬこと。修辞学や美辞麗句をしりぞけること。家の中を長衣(トガ)姿であるきまわったり、その他同様のことをしないこと。手紙を簡素に書くこと。

一二 「私は暇がない」ということをしげしげと、必要もないのに人にいったり手紙に書いたりせぬこと。

第二巻

四 思い起こせ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか、またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか

五 見よ、平安な敬虔な生涯を送るために克服する必要のあるものはいかに少ないことか

七 活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念を向けるべき目的を持っていない人たちもまた愚か者なのである

一一 今すぐにでも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること

一六 自分の行動や衝動をなんら一定の目的に向けず、でたらめに、関連なしに、なんでもおかまいなく力をそそぐ場合。ところがもっとも小さなことでさえも、目的との関連においておこなわれるべきなのである。

一七 我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。

第三巻

四 公益を目的とするのでないかぎり、他人に対する思いで君の余生を消耗してしまうな。なぜならば、そうすることによって君は他の仕事をする機会を失うのだ。

五 何かするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無遠慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。

一〇 ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。

一三 いかなる人間的な事柄といえどもこれを神的なことに関係づけなくてはうまくおこなうことはできないし、その逆も同じである。

第四巻

三 つまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるのを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。(中略)男性として、人間として、市民として、死すべき存在として物事を見よ。そして君が心を傾けるべきもっとも手近な座右の銘のうちに、つぎの二つのものを用意するがよい。その一つは、事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎないということ。もう一つは、すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。

四 もし叡智が我々に共通のものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通のものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。

一七 あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。

一八 隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。

二〇 なんらかの意味において美しいものはすべてそれ自身において美しく、自分自身に終始し、賞賛を自己の一部とは考えないものだ。

二四 「必要なことのみをせよ。また社会的生活を営むべく生まれついた者の理性が要求するところのものをすべてその要求するがままになせ。」なぜならば、これは善い行為をすることからくる安らかさのみならず、少しのことしかしないということからくる安らかさをももたらす。というのは我々のいうことやなすことの大部分は必要事ではないのだから

三九 君の不幸は他人の指導理性の中に存するわけではない。また君の環境の変異や変化の中にあるわけでもない。しからばどこにあるか。なにが不幸であるかについて判断を下す君の能力の中にある。

四一 エピクテートスがいったように「君はひとつの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」

四七 このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。

五一 つねに近道を行け。近道とは自然に従う道だ。

第五巻

一 いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自分の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。

六 ある人は他人に善事を施した場合、ともすればその恩を返してもらうつもりになりやすい。第二の人はそういうふうになりがちではないが、それでもなお心ひそかに相手を負債者のように考え、自分のしたことを意識している。ところが第三の人は自分のしたことをいわば意識していない。彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。

一六 君の精神は、君の平生の思いと同じになるであろう。なぜならば、魂は思想の色に染められるからである。

一九 物事自体は我々の魂にいささかも直接に触れることはない。また魂へ近づくこともできなければ、その向きを変えたりこれを動かしたりすることもできない。ただ魂のみが自分自身の向きを変え、身を動かし、なんなりと自分にふさわしく思われる判断に従って、外側から起こってくる物事を自分のために処理するのである。

二三 存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去って行く。このようなものの中にあって、得意になったり、気を散らしたり、または長い間ひどく苦しめられている者のように苦情をいったりする人間はどうして愚か者でないであろうか。

二七 神々とともに生きること。神々とともに生きる者とは神々にたいしてつねに自己の分に満足している魂を示し、ダイモーンの意のままになんでもおこなう者である。ダイモーンとはゼウス自身の一部分であって、ゼウスが各人に主人として指導者として与えたものである。これは各人の叡智と理性に他ならない。

二九 君がこの世から去ったら送ろうと思うような生活はこの地上ですでに送ることができる。

三六 「幸運な」とは自分自身にいい分け前を与えてやった人間のこと、いい分け前とはよい魂の傾向、よい衝動、よい行為のことである。

第六巻

七 ただつぎの一事に楽しみとやすらいとを見い出せ。それはつねに神を思いつつ公益的な行為から公益的な行為へと移り行くことである。

一四 理性的普遍社会的な魂を尊ぶ人間は、もはや他の何ものにも注意を向けず、なによりもまず自分の魂がそれ自体において、またその活動において、理性的社会的であるように心がけ、同胞の者とも協力してこの目的を達成するように努めるものである。

二九 君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。

三〇 哲学が君をつくりあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ。神々を畏れ、人を助けよ。人生は短い。地上生活の唯一の収穫は、敬虔な態度と社会を益する行動である。

四二 我々はみな一つの目的の遂行に向かって協力している。ある者は自覚と理解をもって、ある者はそれと知らずに。たしかヘーラクレイトスがいったように「眠る者すら働き人」であり、宇宙の中の出来事における協力者である。(中略)残るは、君がいかなる人間のなかまにはいるつもりか決心することだ。

第七巻

三 人間各々の価値は、その人が熱心に追い求める対象の価値に等しい。

九 万物は互いにからみ合い、その結びつきは神聖である。ほとんど一つとして互いに無関係なものはない。あらゆるものは共に配置され、全体として一つの秩序ある宇宙を形成しているのである。

一四 自分に起ったことを悪いことと考えさえしなければ、まだなんら損害を受けていないのだ。そう考えない自由は私にあるのだ。

四八 人間について論ずる者は、高所から望むがごとく地上のことを見渡さなくてはいけない。

五三 ある仕事を神々と人間に共通な理性に従って果すことができる場合には、そこになんの恐るべきこともない。

五六 あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生をすごさねばならない。

五八 自分はいかにしてこの出来事を生かすべきかということに専心したらいいではないか。そうすれば君はこれをうまく用い、これは(修養のための)よき素材となるであろう。あらゆる行動に際して、ただ自己にたいして美しくあろうということのみが君の唯一の関心事であり念願でなくてはならない。

六四 精神は、それが理性的であるかぎりにおいて、また社会的であるかぎりにおいて、これによって損なわれるものではない。

七四 なんびとも利益を受けることに倦み疲れはしない。しかるに自然にかなった行為こそ有益なのである。ゆえに人を益することによって自分の身をも益することに倦むな。

第八巻

二 現在私のなすことが、叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば、それ以上、なにを求めようか。

一六 つぎのことを記憶せよ。自分の意見を変え、自分の誤りを是正してくれる人に従うこともまた一つの自由行動である。なぜならば君の衝動と判断と、しかり君の叡智に従って遂行される行動は君自身のものなのであるから。

三二 人生を建設するには一つ一つの行動からやっていかなくてはならない。そして個々の行動ができるかぎりその目的を果すならばそれで満足すべきだ。しかるに個々の行動がその目的を果すようにするのを、誰一人君に妨げうる者はいない。

三四 神は人間に全体から決して離れないようにする力を与え、またたとえ離れても、もう一度元のところへ戻って一緒になり、全体の中の一部分としての位置を再び占めることができるようにしてくださったのである。

三六 君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。

四七 君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。

五〇 「この胡瓜はにがい。」棄てるがいい。「道に茨がある。」避けるがいい。それで充分だ。「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと加えるな。そんなことをいったら君は自然を究めている人間に笑われるぞ。

五六 我々の指導理性はそれぞれ自己の主権を持っているのである。

第九巻

四 罪を犯すものは自分自身にたいして罪を犯すのである。不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。

五 あることをなしたために不正である場合のみならず、あることをなさないために不正である場合も少なくない。

一二 働け、みじめな者としてではなく、人に憐れまれたり感心されたい者としてでもなく働け。ただ一事を志ざせ、社会的理性の命ずるがままにあるいは行動し、あるいは行動せぬことを。

二八 変化と変形の波の動きとその速さとを考えて見る者は、もろもろの死すべきものを軽蔑するに至るであろう。

三一 外的な原因によって生ずることにたいしては動ぜぬこと。君の中から来る原因によっておこなわれることにおいては正しくあること。これはとりもなおさず公益的な行為に帰する衝動と行動である。なぜならこれが君にとっては自然にかなったことなのだから。

四一 いかなる困難に出遭おうとも哲学から離れぬこと、および無知な者や自然の学問をわきまえぬ者のお喋りにつきあわないことは、あらゆる学派に共通な原則である。

四二 ところで君はどんな被害を蒙ったのか。君が憤慨している連中のうち誰一人君の精神を損なうようなことをした者はいないのを君は発見するであろう。君にとって悪いこと、害になることは絶対に君の精神においてのみ存在するのだ。

第一〇巻

一 おおがわ魂よ、いつの日にか君は善く、単純に、一つに、裸に、君を包む肉体よりも鮮やかになるのだろうか、いつの日にか愛情に満ちた優しい心ばえの味を知るようになるのであろうか。

六 まず前提とすべきは、私が自然に支配されている全体の一部分であるということだ。つぎに私は同胞である他の部分とある密接な関係にあるということ。

八 神々が望むのはお世辞ではなく、あらゆる理性的動物が彼らに似ることなのである。

一二 あらゆることにおいて理性に従う者は、悠然とかまえていながら同時に活動的であり、快活でありながら同時に落ち着いているものである。

一六 善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。

三一 なんという素材を、なんという研究題目を君はのがしてしまうのだ。人生におけるもろもろの事柄を精確に、自然を探求する態度をもってながめる理性にとっては、こういうことはみな修練の対象でなくてなんであろうか。

三四 はかなさは万物に共通である。それなのに君はまるでこういうものがみな永久に存続するものであるかのように、これを避けたり追い求めたりするのだ。まもなく君は眼を閉じるであろう。そして君を墓へ運んだ者のために、やがて他の者が挽歌を歌うことであろう。

三七 他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うてみる習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただし、まず君自身から始め、第一番に自分を取り調べるがいい。

第一一巻

一 理性的な魂の特徴。自己をながめ、自己を分析し、意のままに自己を形成し、自己の結ぶ実を自ら収穫し      ーーこれに反し植物の果実や動物において果実に相当するものは他人の手で収穫されるーー人生の終止符がいずこにおかれようとも自己固有の目的を達成する。

二 要するに、徳と徳のもたらすものとを除いては、物事をその構成部分に解体して根底まで見きわめ、かように分解することによって、これを軽視するに至るべきことを忘れてはならない。同じ方法を人生全体に応用せよ。

七 哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものはほかにないのだ。

八 隣の枝から切りはなされた枝は、樹全体からも切りはなされずにいられない。それと同様に、一人の人間から離反した人間は、社会全体から落伍したのである。

一五 誠実で善い人間というものは、強い香を放つ者のごとくあるべきであって、誰でも彼のそばにいる者は、彼に近づくと同時に、否応なしそれに気がつくようでなくてはならない。

一六 もっとも高貴な人生を生きるに必要な力は魂の中にそなわっている。ただしそれはどうでもいい事柄にたいして無関心であることを条件とする。

一八 君の生きているうちに人間であることを始めたらどうだ。

二一 つねに同一の人生目的を持たぬ者は一生を通じて一人の同じ人間でありえない。(中略)我々もまた同様に公共的市民的福祉を目的とせねばならない。自己のあらゆる衝動をこれに向ける者は、彼の全行動を首尾一貫したものとなし、それによってつねに同じ人間として存在するであろう。

三六 「自由意思を盗み取る者はない。」これはエピクテートスの言葉。

第一二巻

三 君は三つのものから成っている。すなわち、肉体、息、叡智である。このうち最初の二つは、君がその面倒を見てやらなくてはならないというかぎりにおいて君のものである。しかし真の意味ではただ第三のもののみが君の所有物である。

七 死に襲われるとき、肉体と魂においてどんな状態にあるべきか。人生の短さ、うしろと前に口を開けている時の深淵、あらゆる物質のもろさ。

一五 ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。

二〇 第一に、何事もでたらめに、目的なしにやってはならない。第二に、公益以外の何ものをも行動の目的としてはならない。

二二 すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江。

二六 君があることに不満をいだくときには、つぎのことを忘れているのだ。すなわち、すべては宇宙の自然に従って起こること、また犯された過ちは他人のことであること。(中略)人間を人類に結びつける絆はいかに強いものであるかということ。なぜならば、それは血や種の絆ではなく、叡智をともにすることによるからである。各個人の叡智は神であり、神から流れ出たものであることを君は忘れている。

二七 自分に与えられた素材の範囲内において正しく生き、節制を守り、神々にすなおに従う者として身を持するほうが、哲学者としてどれほどふさわしいことか。

二九 一つの善事を他の善事につぎつぎとつないで行き、その間にいささかの間隙もないようにして人生を楽しむ以外になにがあろうか。

三一 もしなにからなにまで撮るに足らないものであるならば、とどのつまりは理性と神への服従に向かうがよい。

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