めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
ルビ:剃刀研人=かみそりとぎ
*ルビとは、原文の漢字にふってある振り仮名
全文読み方:めんどりらすなあびいたれひっそりとかみそりとぎはすぎゆきにけり
*原文は、旧かなです。「ひつそりと」は「ひっそりと」と読みます、
作者・出典:斎藤茂吉『赤光』より
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第1回目は近代短歌界の巨匠、斎藤茂吉の歌をとりあげます。
情景としてはなんてことない。
メスのニワトリ数羽が砂浴びしている傍らを、
カミソリ研ぎ職人が通り過ぎた、と、ただそれだけのことです。
しかし、一読したときのこの不穏さ・不気味さは何なんだろう?
と思わされます。
この秘密や、いかに??
まず、上の句から読み解いていきますね。
*57577のうち、前半575=上の句(かみのく)、
後半77=下の句(しものく)という
上の句からは、めん鶏たちの生命の躍動が感じられます。
それは、「居たれ」という、意味不明の已然形が生きてると思われます。
ここで已然形(強意)を使う必然性はまるでなくって、
意味上は、「砂あび居たる」でいいわけですよ。
しかし、「いたれ」と「いたる」にした場合の、
上の句の読後感を比較してみてください。
明らかに「いたれ」のほうが躍動感がある。
その秘密は、おそらく「音」にあると思われます(
短歌では音韻(おんいん)と言います)。
歌の上の句のキィパーツがア音とエ音で構成されています。
めん鶏:エ音(読み始め)
ら:ア音(初句=一句目の終わり)
居たれ:エ音(二句目の終わり)
開放的なア音、自己主張の強いエ音、この2つの音が、
情景描写とあいまって、上の句の生命力の源になっていると思われます。
意味不明の已然形、とさきほど僕が言った「居たれ」は、
エ音をゲットする役割を演じているわけです。
もちろん、計算して作っているわけではなく、
ここで直感的に已然形を選べてしまうのが、茂吉の天才たるゆえんなんですけどね。
もう一度、声に出して(黙読でも)味わってみましょう。
「めん鶏ら砂あび居たれ」
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さて、この歌は、意味上は、初句・二句で切れています。
次に三句目以降を見ていきましょう。先に四句目からチェックしますね。
「剃刀研人は過ぎ行きにけり」
剃刀研人(かみそりとぎ)は、文字通り、
カミソリ研ぎ職人さんですね(明治期の職業でしょう)。
ただ、「剃刀研人」と漢字のみ表記によって、
なんだか黒々(しろじろ?)とした剃刀そのものが接近してくるような錯覚があります。
そして、音韻の構造を見てみると…、
「ひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり」
これ、明らかに、イ音が多いですね。
このイ音の、神経質とも言える響きがポイントです。
この、ピリピリとした感じ(イ音)が、上の句の生命力(ア音・エ音)
と衝突して不協和音になっていると思われるのですよ。
***
そして、2つの情景をつなげている、
三句目の「ひつそりと」がまたすごい。すごすぎる。
ここを、「ひそやかに」なんて書き換えると、
この短歌そのものが駄作になる勢いです。
なぜか?
「ひっそりと」と「剃刀研人」に共通する、
”SORI”の音が不気味増大装置になっているからです。
この、”SORI”の音があることによって、あたかも、
めん鶏の首筋にカミソリが当てられているかのようなイメージが喚起されている。
また、「ひっそり」の2つのイ音が後半の転調を導いていますね。
もちろん、ここで「ひつそり」が出てくるのも、
凡人のなせる技ではありません。
これが天才の世界。
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僕はわりと、定型の構造と音韻、および表記に着目して鑑賞するタイプです。
興味がでてきた方は、ほかの歌人による鑑賞もチェックしてみてくださいね。
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