神は一般的には究極の存在と考えられていますが、「上には上がある」という諺の通り、果たして「神より上の存在」があるのかどうかは気になるところですね。
神概念はいろいろと混乱しているところもあり、この機会に神概念について整理をし、「究極の実在とはなにか」を考えてみたいと思います。
それは、ひいては「神的実在の世界創造の目的」まで踏み込んでいくことでしょう。
神概念の混乱を整理してみる
多神教の”神”
「神より上の存在」を考えるにあたり、まず、「そもそも神とは何か?」というところから考えなければなりません。
日本語の”神”という言葉は、
- 上(カミ):上下(かみしも)の”上(かみ)”が語源
- 幽(カクレミ):カクレミが約(つづ)まった”カミ”が語源
とか、色々な説があるようです。
いずれにしても、本来の日本語の語感でいうところの神は、いわゆる「至高神」を表しているわけではないことが分かります。
つまり、一般の人から見て、すごい業績をあげた人を「人間とは思えない。カミだ!」というふうに祭り上げてしまうのですね。
日露戦争の東郷平八郎も神に祭り上げられて東郷神社ができています。明治天皇は明治神宮に祀られていますよね。

明治神宮
このようなかたちで祀られていくということは、太古から考えてみると、無数に近い神が出来てしまうことになります。ゆえに、「八百万(やおよろず)の神々」と言われているわけです。
こうした事情は日本に限らず、どこの国でも古代にあっては有り得た話です。
古代ギリシャもそうですし、キリスト教公認以前の古代ローマもそうです。ヒンズー教もそうですね。
これはいわゆる、多神教の神々です。
そして、多神教の場合には「あの神はこの神より上だ」ということはできます。
そうして辿っていくと、多神のなかの最高神がたいていは想定されています。
古代ギリシャでいえば、ゼウスがそうでしょう。古代ローマではユピテルに対応します。

ゼウス
ただ、ちなみに、ヒンズー教では単一の最高神というのは想定されておらず、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三大神(トリムルティ)が最も重要な神々とされています。
*特定の宗派ではこの三神のいずれかを最高神としていることはあります
このように、国によって、宗教によって、多神でありながらそのなかでも最高神が想定されており、その「最高神より上はない」とされているケースは数多くあります。
一神教の”神”
一神教といえば、まず思い浮かべるのが、キリスト教・イスラーム・ユダヤ教などのいわゆる「セム的一神教」でしょう。
それらの宗教における”神”は文字通り、”一神”であり、「唯一神のみを認め」ているのです。
キリスト教の場合は、三位一体論というのがございまして、それがイスラームから見ると、「純粋な一神教ではない」という批判の根拠になっております。
ただ、三位一体論は(イスラームが想定しているような)3つの神を礼拝しているわけではないのですね。
「神は唯一だが、3つの位格(ペルソナ)をもって現れる」というのが三位一体論です。
参考記事:三位一体は間違いなのか? – ペルソナで理解するキリスト教の核心
たとえば、”一人の”人が3種類のペルソナ=仮面を使い分けていろいろな場所に現れても、人間としてはもちろん「ひとり」であることには変わりはないわけです。
それと同様に、「神は唯一だが、3つの位格(ペルソナ)をもって現れている」という三位一体論は一神教の根拠を崩すものではないと言って良いでしょう。

ユダヤ教については歴史的な経緯がいろいろあるのですが、はじめは一神教と言っても、他国の他の神を認めつつ、自国・自民族のヤハウェを唯一神とする”拝一神教(はいいつしんきょう)”という形態でしたが、バビロン捕囚前後から、他の神々を一切認めずひとつの神を信じる”唯一神教”へ変貌していったのです。
このようにセム的一神教においては、文字通り、「唯一神」ということで、これは「これ以上の存在はない」「存りて存るものである」神であるということですね。本稿に即していえば、「神より上の存在はない」という信仰形態になります。
梵天勧請(ぼんてんかんじょう)をされた仏陀
「神より上の存在」といえば、仏と神との関係も気になるところです。
一般に「神仏」と言いますが、ある時期には「仏神(ぶっしん)」と呼ばれていたときもあり、そこでは「仏は神より上位にある」という思想が込められていたことでしょう。
ゴータマ・シッタールダが真理に目覚め、”仏陀”となったときに様々なエピソードがありますが、そのなかに「梵天勧請」というものがあります。
梵天(ブラフマン)は、ヒンズー教の前身であるバラモン教におけるウパニシャッド哲学では「神にして宇宙の最高原理」とされていた存在です。
そのような存在である梵天が、「この法(教え)を説くべきかどうか」と迷っていた仏陀に、「どうぞ、仏陀よ、法をお説きください」と懇願したというエピソードです。
ここでは、「懇願する天上の梵天よりも、懇願される地上の仏陀のほうが立場が上である」という構図が見て取れます。
実際に仏陀は様々な呼称で呼ばれていますが、そのなかに「天人師(てんにんし)」というものがあります。
つまり、仏陀は天人=天上界の神々をも指導する立場にあった、ということですね。

「天上天下唯我独尊」という言葉もある通り、天上界においても地上界においても仏陀は最高の権威を持っている、ということです。
*参考記事:天上天下唯我独尊とは?
仏教的な世界観では、「神(神々)より仏陀のほうが立場、悟りが上である」とされていることが分かるでしょう。
人が神の上に立つ!?
仏教的世界観についてもう少し、踏み込んでみましょう。
仏教から見ると、神々は”天界”という世界に住んでいるとされています。
天界は素晴らしい世界ではあるのですが、まだ悟りを開いているわけではなく、天界自体もいまだ「迷いの世界」であるのです。
天界であっても永遠の世界ではなく、「天人五衰(てんにんごすい)」という言葉がある通り、やがて天界の住人もそこでの寿命が尽きて、また果てしない輪廻を続けることになっています。
ちなみに、「天人五衰」は三島由紀夫の小説の主題にもなっています。
さて、では人間が仏法に基づいて修行をなし、悟りを開くとどうなるか?
大乗仏教では”十界論”という思想があります。
人は悟りの程度に応じて十種類のいずれかの世界に住んでいるという思想なのですね。
上の世界から順に挙げていきましょう
- 仏
- 菩薩
- 縁覚
- 声聞
- 天
- 人
- 修羅
- 畜生
- 餓鬼
- 地獄
十界論については下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。
参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論
この十界の順序を見ると、天=天界よりも、「声聞・縁覚・菩薩・仏」という”四聖(ししょう)と呼ばれる世界の方が上になっています。
つまり、仏道修行を重ね、一定の”悟り”を得ることによって、人は神々の住む天界よりも上の世界に還る(インド的には「生まれる」)ことができるというわけです。
人が仏道修行を成して、声聞・縁覚・菩薩…となることによって、神々より上の存在になる、という思想なのです。
当サイトでは、「菩薩になりましょう!」が標語になっています。
「自らが一定の悟りを得つつ(仏陀の悟りを目指し)、かつ、衆生救済のために生ききる境涯」それが菩薩の境地であり、今世でもそうした心・行為を成して生き切ると”菩薩界”という世界に還ることができるのです。
この世は修行のための仮の世界であり、来世こそが実在の世界であるということを考えると、菩薩界に還るということこそが真実の成功論なのです。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
結局、神より上の存在はあるのか?
つらつら述べてきましたように、結局、「神より上の存在」を探るにしても、前提となっている”立場”(宗教観)によって話が変わってくることが分かります。
無神論者から言えば、「そもそも神はいない」となりますし、セム的一神教からみると、「唯一神より上はない」となりますし、仏教から言えば、「神々より仏陀の方が上であり、人であっても悟りを開くことによって、神々を越えることができる」ということになります。
至高神、最高神は存在する
しかしながら、やはり前提としての至高神、最上の神は存在します。
なぜなら、私たちに「至高神」「これ以上はない神(あるいは仏)」という概念が存在するからです。
物事にはすべて原因と結果があります。いわゆる因果律です。
もうひとつの真理としてエネルギー保存の法則があります、
この因果律とエネルギー保存の法則を合わせて考えると、「原因と結果は連続しており、かつ等量である」ということが分かります。

たとえば、あなたがお風呂のお湯にざばっと入ったとします。
そうすると、あなたの体積分だけお湯は溢れ出しますね。
- お湯に入ったから(原因)→お湯が溢れた(結果)
- 体積分だけ、お湯が溢れた(エネルギー保存の法則)
ここから演繹すると、私たちが「至高神」「これ以上はない最高の神」という概念を持つことができる(結果)、ということは、(それと等量の)原因としての至高神が存在するということなのです。
つまり、本稿の主題に沿って言えば、「(至高神としての)神より上の存在はない」と言い切ることができることになります。
至高神は名付けようがありません。
名前があるということはそれはまだ至高神ではないのです。
たとえば、「鈴木さん」と言えば、それは「佐藤さん」ではない、ということになりますよね。
名前・名称・名詞には排他性があり、排他性がある以上、それは「限界をもった存在」ということになってしまいます。
なので、仏教でいう宇宙の最高原理、「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」、これは密教的には大日如来ですが、あくまでその名称は仮称であり、本当は名付けようがないのです。
老子はそうした最高原理を”仮に”「道(タオ)」と呼びました。
また、「人格性」というのもひとつの”限定”でありますので、これは大宇宙の最高原理・摂理たる至高神が人間に分かるように”仮に”人格化してその一部を顕現させた、と言えるのです。
当サイトではそうした宇宙の最高原理を「神的実在」と呼んでいます。これももちろん、仮称です。
至高神の属性としての”発展”
至高神は至高神であるがゆえに、すべての良き属性を兼ね備えています。
その中でも理解が難しいのが、「発展」です。
至高神は「それ以上、上がないのになぜ発展しうるか?」というのはなかなか難しい命題です。
それを解く鍵は、まず第一に、至高神は全てのすべてであるがゆえに、人間や動植物・無機物などありとあらゆる存在は「至高神の内部に存在する」ということを理解することです。
もし、(創造神話などから想起されるように)神の外部に個物が存在するのであれば、至高神以外の領域があることになり、それでは「全知全能」ではなくなってしまいます。
ゆえに、私たちを含めた個的存在はすべて「至高神の”内部”に在る」ということができます。
それでは、至高神はなにゆえに、個物を創造したのでしょうか?
それがまさしく、「至高神自身の”発展”のため」なのです。
私たち個的存在は、永遠の輪廻転生の過程で霊性進化を遂げています。
至高神の”内部”にある私たちが霊性進化すなわち発展をしているということは至高神自身も発展・拡大していることになります。

これはお分かりですよね?
たとえば、例はよくないかもしれませんが、私たちが過食して私たちの一部(お腹など)の重量が増えたら、それは私たち自身の体重が増えてことになります。
それと同様に、至高神内部の個的存在が霊性進化・発展を遂げたら、それは至高神そのものも発展・拡大をしていることになります。
つまり、至高神による個物の創造というのは、至高神そのものが発展を欲するが故の高度な智慧・方策であったということです。
至高神は、「おひとり様」でいる限りは静的な存在となり、それ以上の発展は望めないわけですが、自らの内部に”進化”の可能性を内包した個物を創造することによって、自ら自身の発展を企画しているというわけです。
それが創造の秘密であり、また、真の意味での”完成”でもあります。
真の完成とは、じつは静的な「これ以上はない」という状態を指すのではなく、持続的に発展をしているという動的なプロセス・ダイナミクスを伴うものなのです。
これは今、かなり高度な話をしています。
そうすると、なぜ全知全能の至高神の内部に悪が存在するのか?などの疑問が湧いてくると思います。
ここのところをご説明していると話がまた長くなってしまいますので、興味がお有りの方は下記の記事をご参照ください。
*参考記事:神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?
また、至高神の個物創造の理由・プロセスをもっと深く理解したい方は下記の記事をご参照ください。
*参考記事:ワンネス、仏教、宇宙。そしてネオ仏法の悟りへ
本稿の結論としては、「神(至高神)より上の存在はない。しかし、至高神は個物を創造することにより自ら発展・拡大・繁栄を遂げている」ということになります。




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