キリスト教の神は人格神ではない!?
ふしぎでないキリスト教シリーズの7話目です。
今回テーマにする”三位一体”もなかなかむずかしく、誤解が多いところです。
イスラム教は、キリスト教を”アブラハムの宗教”という流れにおいて、先輩宗教として認めてはおりますが、個々の教理については認めていないところもあります。
そのひとつが、”三位一体”です。
イスラム教は厳格な”一神教”の立場にたちますので、”三位一体”というふうに唯一神を3つに分けて考えること自体が許せないのですね。
これでは多神教ではないか?ということで。
もっとも、イスラム教の開祖ムハンマドは、三位一体を、「父と子と聖母マリア」というふうに誤解をしていたらしいのですが。
正しくは、「父と子と聖霊」ですね。
実際、”三位一体”は聖書のどこに根拠を求められるのか?についても、なかなか難しいところがあります。
あえて根拠を挙げれば、ここですね、
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ29:18-20)*太字は高田
しかし、この引用箇所でも「父と子と聖霊」の3つが挙げられているだけであって、どこにも「一体である」とは書かれておりません。
なので、イエスご本人が三位一体をそれほど厳密に考えていたと私には思えないのですが、それはそれとして、
キリスト教が思想としての深みを得て、世界宗教へ飛躍するのに必要なアイディアであったとは思っています。
三位一体というのは、つまり「神は実体としてはひとつだが、位格としては3つである」という教理です。
3つはすなわち、父・子・聖霊、ですね。
キリスト教にまつわるよくある勘違いは、たとえば、
- キリスト教の神は人格神
- イエスは「神の子」であって神そのものではない
といったものが挙げられます。
このように挙げただけで、「えっ!違うの?」と驚かれる方もいらっしゃるでしょう。
実際、学者が書いた本でも、「キリスト教の神は人格神」をもとに論を進めているものがけっこうありますからね。
「キリスト教の神は人格神」また、「イエスは神の子」は間違えとまでは言えないのですが、
せいぜい、「半分正解で半分間違え」が(教理的には)本当のところです。
ペルソナとしての父・子・聖霊
教理的には、「神は唯一であるが、3つの位格をもつ」というのが答えで、これがまさに三位一体です。
ラテン語では、一なる神は”エッセンチア”、父と子と聖霊の3つは”ペルソナ”という言葉で表されます。
”エッセンチア”は「本質」とか「実体」という意味です。英語でも”エッセンス”と言いますよね。
このエッセンチアとしての神は、唯一神の神であり、人格を超えた永遠の存在です。
一方、位格=ペルソナのほうです。
ペルソナは日本語でいうと、「仮面」という意味にも使われますし、三位一体を理解する上でこれはけっこう分かりやすい訳語です。
つまり、三位一体を一言でわかりやすく言うと、
神は唯一なのだけど、父・子・聖霊という3つの仮面を被ることがある。
ということになります。
そうすると、「人格神としての神」、「天にまします父」はペルソナとしての「父」ということです。
一方、イエスが「神の子」と呼ばれる場合も、ペルソナとしての「子」ということです。
あくまでペルソナ=仮面でありますので、天にまします神も神の子・イエスも元は同じ一つの神(エッセンチア)です。
なので、「イエスは神である」とはっきり言ってよいのです。教理的には、ですね。
まあ、信者でなければ、「なんでこんな面倒くさい教理を?」という疑問がでてきますよね。
理由としては、「イエスは十字架にかかることによって、全人類の罪を贖(あがな)った」という”贖罪説”が挙げられます。
神が受肉して人となり、そして十字架につけられて人類の罪を贖った、という流れでは、イエスには神性と人性の両方が必要になってきます。
受肉した結果、人間になったのだから”人”ですよね。イエス自身も福音書のなかで自らのことを「人の子」と呼んでいます。
もっともこれは「ダビデの子」という暗黙の意味があるのですけどね。
一方、全人類の罪を贖い、旧約(律法)を更新して”新約”をもたらしたという流れでは「神そのもの」の権威が必要です。
ゆえに、「イエスは完全な神であり、完全な人である」というふうに一見、矛盾したテーゼを両立させる必要があった。
そのために、エッセンチア(本質)としては唯一の神そのものだけど、ペルソナ(位格)として、イエスは”神の子”として現れるってことですかね。

意外に仏教思想に接近した”三位一体”
しかし、「本質は一つであるけれど、三通りの現れ方をする」というのは、仏教を勉強している人であれば、「あれれ?どこかで聞いた話だな」と思う……はずです。
「はず」というのは、私は「あまり聞いたことがない」からなのですが(汗)。
仏教では、仏を三身に分けて考えます。
法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の3つです。
- 法身:永遠の法としての存在。久遠実成の仏陀
- 報身:仏性のはたらき。修行する姿
- 応身:釈迦として現れた存在
ということですが、これって
法身を「本質(エッセンチア)」と考えて、報身を「聖霊」、応身を「子と父」と当てはめるとピッタリ来そうです。
応身に子と父の両方を当てはめているのは、いわば、「人間が修行して神になる」のが仏教ですので、まあこれは、子が修行して父になるようなものですね。
このように考えると、三位一体:三身説で、意外に(理論的には)キリスト教と仏教は接近してきている、と考えることもできそうです。
キリスト教理は実質的に「一即多多即一」を認めた
「本質は一つなのだけど、3通りに現れる」というのは、ネオ仏法の読者であれば、もう一つ、「…どこかで聞いたような?」となる…はず(笑)です。
ハイ。「一即多多即一(いっそくたたそくいつ)」ですね。
粘土は”一つ”であっても、ちぎっていけば”多く”になります。再びこねれば”一つ”に戻ります。
一つの中に多があり、多がひとつになる、ということです。
これはエッセンチア(本質)としては一つだけど、ペルソナ(位格)としては多である、と言い換えても、さきほどからの流れからは矛盾しないと思います。
だって、「神は全能なのだから、3つと言わず、4つ、5つ、6つ…無数のペルソナを持って現れうる」としたほうがむしろ、神の全能性を担保できることになりますよね。
イメージ的には千手観音のようです。
全体としては一だけど、同時に千の救済の手を持つ。一即多多即一です。
そうすると、
唯一神(エッセンチア)は、様々な地域・時代に応じて、釈迦・キリスト・ソクラテス・孔子…という「子の位格」として現れた。受肉した。
実在界で指導するときは、「父の位格」として現れる。
そして、唯一神は人類に対し歴史的に働きかけを続けている、すなわちこれは、「聖霊としての位格」である。
このように、
唯一神の”無数のペルソナ性”を考えれば、キリスト教・仏教・イスラム教・儒教もそれぞれ個性を活かしながら、かつ、ひとつになる道が拓けると私は思っています。