めぐすりを差したるのちの瞑目に破船のしづくしたたりにけり
読み:めぐすりをさしたるのちのめいもくにはせんのしずくしたたりにけり
作者・出典:葛原妙子・『鷹の井戸』より
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今回は、現代短歌から、
「幻視の女王」と呼ばれた葛原妙子(くずはらたえこ)の名歌です。
葛原妙子は、「秀でた比喩とは、二つのものの相似を瞬間に掴む精神の早業」
と自身で述べていますが、この歌はまさにその精神の早業によって出来た歌でしょう。
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上の句、「めぐすりを差したるのちの瞑目に」ではきわめて日常の場面が
展開されています。
「めぐすり」と「瞑目」のメ音が響きあっていて、
文字通り、目を瞑ったあと、めぐすりが目から溢れている体感が
伝わってきます。
下の句では、場面が一転して、「破船のしづくしたたりにけり」となります。
上の句が”日常”であるなら、下の句の情景はまさしく”非日常”です。
この二つの情景が、結句、「したたりにけり」で結びつけられています。
この結句において、日常と非日常が交差することになる。
下の句は、サ行音が多く、特にシ音は二度でてきますが、これは上の句
の「さしたるのちの」のシ音とも響きあっていますね。
シ音から連想される”死”も遠く覗かせているイメージがあります。
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結句、「したたりにけり」では、滴ったものが何であったのか。
めぐすりであったのか、破船の浸水であったのか、交錯していて
もはや分からなくなっています。
というより、先の「日常と非日常の交差」、
というところで捉えるべきでしょう。
頬をしたたるめぐすりはここにおいて、
かなしみの”涙”であるかのような錯覚さえ覚えます。
そして、瞑目が祈りの行為であるかのようです。
つまり、僕らの日常は、意識しているか否かに関わらず、
いつも非日常と隣り合わせにある、ということを訴えかけられているようです。
昨今、震災も立て続けに起きています。
僕らは、被災者の方々に同情するも、こころのどこかで、
自分とは違う世界のできごと、”非日常のできごと”と捉えてしまうのも
人間の性でしょう。
ただ、この歌を通じて、日常と非日常との近接性、
日常のなかにいともたやすく非日常が侵入してくる黙示録
とでもいうべきものを感じとれるのではないでしょうか。
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