現代で日本で「布施」というと、まず思い浮かぶのが「お布施」でしょう。
法要などで、「お坊さんにいくらお布施したらいいの?」とか、そういう場面で使われることが多いですかね。
あるいは、「怪しげな新興宗教団体が”お布施”と称してお金を集めています!」みたいな、ロクなイメージじゃないですね。
敬虔なクリスチャンであり、作家でもある曽野綾子さんが、”宗教が本物かどうかを見分ける方法”という4つの視点を提示していらっしゃいます
- 教祖、指導者が質素な慎ましい祈りの生活をしているかどうか。
- 自分が生き神さまだとか、仏の生まれ変わりだとか言わないかどうか。
- 宗教の名を借りて金銭を集めることを強要しないかどうか。
- 宗教団体の名で、選挙と政治を動かすような指令を出さないかどうか。
ー『敬友録「いい人」をやめると楽になる』(祥伝社)よりー
1−4まで、非常にすっきりした判断基準のように見えます。
が、
曽野綾子さんはカトリックなのですが、そもそもカトリックが上記の1−4まで、全部引っかかってくるような気がします。
- 教祖、指導者が質素な慎ましい祈りの生活をしているかどうか。
→教祖のイエスはともかく、歴代の教皇は豪華な衣装を着ていますね。 - 自分が生き神さまだとか、仏の生まれ変わりだとか言わないかどうか。
→イエス・キリストは「神の独り子」ですし、釈尊は生まれ変わりどころか、「仏陀である」という宣言をしていますね。 - 宗教の名を借りて金銭を集めることを強要しないかどうか。
→「強要」という解釈が難しいですが、カトリックで言えば、サン・ピエトロ大聖堂の改修費で贖宥状の発行をするなど、かなり強要っぽい感じがします。東大寺大仏殿の造営など、行基菩薩は全国行脚して”勧進”でお布施集めをしています。 - 宗教団体の名で、選挙と政治を動かすような指令を出さないかどうか。
→これも「指令」の解釈が難しいですが、そもそも「指令」どころか、宗教のほとんどは古来より祭政一致ですんでね。モーセもムハンマドもそうですし、あとは歴代の教皇も世俗権力には汲々としていたのは歴史的事実です。釈尊は、数カ国の国王の帰依を受け、政治・外交のアドバイスを行っていたことは経典にも残っています。
というわけで、曽野綾子説に従うと、仏教もキリスト教もイスラム教も邪教になってしまいます。
「いやいや、上の4つの目安は新興宗教に対しての見分け方なんだよ」という意見もあるかもしれませんが、
キリスト教も仏教も発生当時は新興宗教ですからね。その後の、宗教改革で誕生した新宗派も発生当時は新興宗教でしょう。
……というわけで、曽野綾子さんの揚げ足取りになってしまって、恐縮なのですが。
この問題は、曽野綾子さんの悟りの限界を示していると同時に、世間一般の、”お布施”に対する誤解もだいたい似たようなものだと推測されるのです。
根本の問題は、「お金に色をつけて見ている」ということだと思います。
要は、お金=穢れている、という図式です。
しかし、お金そのものは物質なので、善も悪もないのです。
根本的なところは、やはりお金というものは価値の表現手段である、ということだと思います。
カトリックは特にこの部分でミスをしているというか、この価値観(「お金=穢れている」)のせいで、いまだに南欧を中心としたカトリック国はPIIGSなどとからかわれるほど債務危機に陥っていますよね。
上記のことを踏まえつつ、もう一点、挙げるとすれば、布施は、施す人の物質世界への執着を取り除く効果があるという視点です。
釈尊は弟子たちに対し、「お布施を受けるときは堂々たる態度で」と言っていましたが、これは要するに、「施す人に対して、物質世界への執着を取り除く・功徳を積む機会を与えているのだ」ということだと思うんです。
これは、いわゆる”法施(ほうせ)”と言いまして、仏法を伝える(実践する機会を与えている)という見方もあるかと思います。
今回は、布施のなかでも特に金銭についてのついての布施(財施・ざいせ)について書いてみました。
要点を整理すると、
- 布施という行為は、価値に対する敬意の表現行為であり、お金そのものに善悪があるわけではない
- 布施は、施す側にとっても修行になるものであり、受けとる側は、施す側に修行の機会を与えている(法施・ほうせ)という側面がある
ということでした。
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