「スピリチュアルと宗教は同じなのか?違うのか?」とあらたまって問われると、けっこう答えに窮するところがありますね。
この世を超えた超自然的なパワー(超越的な存在)を信じる、それによって幸福を追求するという意味では「同じである」と言えそうですが、スピリチュアルは宗教に比べてずっとライトな感じがするのも事実です。
スピリチュアルのどこがライトなのかというと、まず、宗教と違って団体への所属とそれに伴う何らかの義務を求めたりしないというところにあるような気がします。
もちろん、スピリチュアルにも団体はあるのですが、いわばSNSのグループのようなものであって、宗教に比べると「所属感」「束縛感」としてはずっと緩いものであるといえるでしょう。
それから、宗教は「信仰」を求めますが(というか、信仰がないと宗教になりませんが)、スピリチュアルでは、超自然的なパワーを信じるものの、「信仰」というほど大仰なものではないでしょう。
「信仰」というとやはり何かしらの強制力が働いている感覚がありますが、スピリチュアルにおいてはそうした強制力はない、と言いますか、強制力は避けられる傾向がありますよね。
超自然的な存在、パワーは信じるが、それはあくまで「自発的なもの」という前提がありそうです。宗教につきものの”戒律”というようなルールに縛られることもありません。
今回の記事では、宗教とスピリチュアルの差異を考察しつつ、広い意味でのスピリチュアリティとは何であるか?真に人間の幸福に資するスピリチュアリティとは?といったテーマで切り込んでみたいと思います。
スピリチュアルを「信仰・実践・所属」の3項目でチェックする
『宗教と日本人』(岡本亮輔著)では、信仰・実践・所属の3つの観点から宗教及びスピリチュアリズムを分析しております。
これはなかなか分かりやすい分類で、上述した私のダラダラした感想を上手くまとめている感じですよね。
そして、岡本氏はスピリチュアル文化について、
所属要素が極めて希薄で、個人が信仰・実践の主体となるのがスピリチュアル文化の新しさだ。徹底的に私化された宗教であり、それゆえ、神仏とのコミュニケーションを独占してきた既存の宗教組織の存在基盤を掘り崩す可能性を有しているのである。
としています。
そうすると、スピリチュアルは(引用文に書いてある通りなのですが)、上記の3要素から見ると、
- 信仰:個人的
- 実践:個人的
- 所属:希薄
という定義になりますね。要は全般的に、組織的な強制力が働いていない、もしくは希薄であるのが、スピリチュアル文化の特徴と言えそうです。一言でいえば、自由度が高いということですね。
これは実社会でも同じような傾向で、一昔前と違って、「会社への忠誠心」というのは希薄になっていますよね。若い人は飲み会なども行きたくなければかんたんに断ってしまうというような。
やはり、時代の風潮として、個人主義的で可変性の高いものが好まれる傾向があるのでしょう。
それにしても、人間というものはどこまでいっても宗教的な存在だと思うのです。
ベストセラー、『サピエンス全史』の著者、ユヴァル・ノア・ハラル氏は、ホモ・サピエンス(人間)を他の動物から区別すると特性として宗教を挙げております。
ところが、近年、とくに先進諸国で宗教離れが著しい。
理由としては、
- 既成の宗教の教義や実践方法、組織運営などが現代人のニーズに合わなくなってきた
- 全般的な個人主義的志向
- カルト教団などの跋扈で新宗教へのイメージの悪化
などが挙げられるかもしれません。
ただ上述しましたように人間は「宗教的動物」でありますので、宗教の代替物として、
- 同時代的で(イメージ的なものであれ)
- 個人的で
- カタカナ的なお洒落・ライトな感覚
なスピリチュアルが好まれてきているのでしょう。
ところで、鎌倉期の代表的な宗教者である親鸞は、有名な『歎異抄(たんにしょう)』で、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と述べており、教団化(集団化)への動機は宗教としては希薄に感じられます。
しかし結果的には、現代に至るまで、日本最大の教団に成長していますからね。宗教というのはやはり元来、教団化への推進力が強いと言えるでしょう。
スピリチュアリズムの功績
近代スピリチュアリズムの始まり
いわゆる”スピリチュアルズム”は、1848年のハイズビル事件をもって始まりとされています。
簡単に言えば、米国ハイズビルのフォックス家で幽霊による叩音(こうおん/ノック)現象が発生したのですね。
きっかけとしては”幽霊現象”に過ぎませんが、フォックス家では次第にその幽霊とコミュニケーションを試みるようになります。「霊界通信」の始まりです。
そして、同様な霊界通信が各地で行われるようになり、だんだんと心霊科学として洗練されるようになっていきます。
ハイズビル事件以降のスピリチュアリズムの変遷については、『近代スピリチュアリズム百年史』(アーネスト・トンプソン著)が詳しいです。
今回の記事では、スピリチュアリズムの歴史を検証することが目的ではないので、ハイズビル事件以降のスピリチュアリズムがいかに進展してきたか?については端折っていきます。
興味のある方は上掲書をお勧めいたします。若干、教科書的ではありますが、かなり網羅的でよくまとまっています。
近代スピリチュアリズムの眼目は「霊性進化」にある
近代スピリチュアリズムの流れというのは、結局、近現代の唯物主義に対するアンチテーゼとして誕生したものだと思うのです。
このことは私がそう思う、ということだけではなく、実際にさまざまな「霊界通信」のなかで霊人達によって語られていることであります。
地上が唯物主義に染まってしまうと、そもそも地上の存在意義が危うくなってしまうのです。
魂が肉体に宿り、物質世界のなかで過ごすことによって、相対的に”霊的覚醒”を促していくのが地上世界の本来の役割です。
物質世界の桎梏の中で、仏教的に言えば”苦(ドゥッカ)”ということになりますが、そうした条件下であるからこそ、人間は「本来性とはなにか?」「霊的自己とはなにか?」ということの探求を深めていくことになるのです。
ここにおいて、「霊性進化」が促されることになります。
こうしたことを教えるのは本来は宗教の役割であるのですが、伝統宗教がだんだんと形骸化していって、近現代の諸問題に答えられなくなってきた、また、霊的真実の有り様についてもきちんと答えることができなくなってきた。
そうした傾向への補完作用として、近代スピリチュアリズムが勃興してきたと言ってもいいでしょう。
上掲書では、近代スピリチュアリズムの先覚者として、エマヌエル・スウェーデンボルグを挙げております。
スウェーデンボルグは18世紀当時第一級の科学者でありながら、ある時に方向転換して、その卓抜な霊能力をもって霊的真理の普及に尽くした方です。
同時代のイマヌエル・カントもスウェーデンボルグの霊能力は認めざるを得ない、としていました。
スウェーデンボルグは「現世は魂の試練と強化のための修練場である。ここで、人間は物質的なものから、霊的なものへ浄化される」と言っております(上掲書p52)。
つまり、地上というものを霊性進化の場と規定したわけですね。いや、地上だけでなく、人間生命というものはそもそもつねに霊性進化の過程にあるのだ、と主張しているわけです。
私はこれこそが本来のスピリチュアリズムの面目躍如だと思います。「霊性進化」こそがキィワードなのです。
日本でも有名な『シルバーバーチの霊訓』などを読むと、ほとんど宗教的啓示と言ってもいいくらいです。イスラーム(イスラム教)などもこのように始まったのではないか?と思われるほどの啓示的内容に溢れています。
高度な霊存在(高級霊)の言霊を直に味わえるという意味では、相当にお勧めしたい書物です。
ただやはり、ひとつの社会的集団(教団)の創生を促すような方向性は皆無で、その点において、「スピリチュアル的」であると言って良いでしょう。
ゆえに、『シルバーバーチの霊訓』は教えに溢れてはいますが、個人の行動を組織的な規範、いわば戒律ですね、そのような傾向も見られません。
スピリチュアルとスピリチュアリティ
日本では「スピリチュアル」という言葉がよく使われますが、スピリチュアルとは本来、形容詞であって名詞として使うのは若干、おかしいのです。
ただ、日本では名詞としての「スピリチュアル」が相当に浸透していますので、今回の記事でもそのように使っていますけどね。
英語の語源から確認してみましょう。
スピリチュアル(spiritual)の基になる名詞はスピリット(spirit)です。これは「霊、精神」という意味です。
このspirit(スピリット)が形容詞化したものがspiritual(スピリチュアル)ですので、本来は「霊的な、精神的な」という意味になります。
英語では、語の末尾に-ty と付きまと、ある「性質や状態」を表す名詞になります。
なので、スピリチュアリティ(spirituality)というのは、「霊的である性質、状態」ということで、訳語としては「霊性、精神性」ということになります。
言葉の用法としては、(発祥の地の欧米では)、「人間は本来、霊的な(spiritual)な存在であるが、永遠の輪廻の過程にあり、それを通じて霊性(spirituality)を磨き向上させていくプロセス」全体が”スピリチュアリティ”として理解されていると言っても良いでしょう。
したがって、本稿で展開してきた「霊性進化こそが本来のスピリチュアル」というのは、語源的にも本来の用法的にも正しい理解の仕方なのです。
ちなみに、「イズム」(-ism)が付くと「〜主義」という意味になりますので、「スピリチュアリズム(spiritualism)」は「霊性主義」という意味になりますね。一般には「心霊主義」という訳語が充てられています。
現代の”スピリチュアル”の問題点
ところで、霊性進化とは文字通り、「人間が真に霊的に向上していくこと」ということですよね。
そのためには、地上での艱難辛苦も方便として肯定されることになります。
もし、地上の艱難辛苦がなくなりさえすれば良いというふうに、安穏だけを目的としてしまったらこれは本来のスピリチュアリズムではなくなってしまいます。
地上の安穏<霊性進化
というふうに、あくまで霊性進化のほうが主眼なのです。そしてこれこそがより本質的な意味での安穏と言いますか、幸福論であるわけです。
ところが昨今、さまざまなスピリチュアルが流行っておりますが、実情はどうでしょうか?
「超自然的なパワーを信じる」ということはスピリチュアルとして当然のことではありますが、その目的ときたら、たんなる現世の安穏であることになってしまっています。
現世の安穏とは、たとえば、蓄財・出世・名誉・恋愛成就…さまざまなものがあります。誤解を恐れずに言えば、「心の平安」ですら、一種の現世の安穏であるわけです。
心の平安そのものがいちばん大事なものであるならば、そもそも地上に生まれてこなければいいわけですから。
そうではなく、あくまで「幸福ポイントを霊性進化に置く」のがスピリチュアリズムであったはずです。
そして実は、この「幸福ポイントを霊性進化に置く」ということは、魂にとって不敗の道でもあるのです。
現世の安穏(現世利益)においては、一時的にそれが叶ったとしてもまた壊れていくことがありますよね。いわば、「勝ったり負けたり」の世界です。
ところが、幸福ポイントを霊性進化においたらどうでしょう?
- 良きことが起こる→素直に霊性進化の果実として感謝して受け取れば良い
- 悪いことが起きる→それをきっかけに内省し智慧を得る。あるいは克服する過程で魂の足腰を強化する
というふうに、外的環境がどうであれ、すべてを幸福論へ転化していくことができますよね。これこそが、「幸福ポイントを霊性進化に置く」ことの功徳(?)なのです。これは不敗の道です。絶対に負けがない、勝つしかない世界が展開していくことになります。
私がさまざまな記事で、現代のスピリチュアルを批判している理由はここにあります。
私は「呪術スピリチュアルと呼んでいますが、これらは、
- 手段:超自然的なパワー
- 目的:現世の安穏
というふうに、”スピリチュアル(霊的)”と言いながら、実は比重・眼目(目的)が、現世つまり”非スピリチュアル”的なものにあります。
そして、現世の安穏というものが決して真の幸福論にはなりえないことは上述したとおりです。
もちろん私は、そうした呪術スピリチュアルであっても、無神論・唯物論より全然マシだと思っていますし、
むしろ、現世に生きている私たちがそうした陥穽に陥らないように「霊的・超自然的世界はありますよ」というシルシ・看板として貴重な役割を果たしている側面があると思っています。
ただ、本来のスピリチュアリズムが提供できるはずの幸福論から見れば、かなり儚いものでありますので、「そっち(呪術スピリチュアル)より、こっち(真理スピリチュアル)のほうが幸福になれますよ」と申し上げているのですね。
*参考記事:真理スピリチュアルと呪術スピリチュアルの違い
結局、「宗教とスピリチュアルの違い」とは何か?
縷縷述べてきましたように、スピリチュアル(スピリチュアリティ)の眼目が「霊性進化」にあるのであれば、宗教とスピリチュアルに本質的な違いはない、と言ってもよいかと思います。
近現代(19世紀以降)に適合する形で、従来の宗教が十分説けていなかった側面を補完する役割でスピリチャルが勃興してきたという流れでしょう。
なので、違いとしては、上述した「信仰・実践・所属」の3項目の分類でだいたい整理されていると思われます。
スピリチュアルの「お手軽さ」の陥穽
ただ、スピリチュアルについて、私が現場で見ている感覚として「危ないな」と思うことがひとつあります。
それは、スピリチュアルが個人主義的であるがゆえに、たやすく「自我中心の世界観」に入れ替わってしまう、ということです。
ネオ仏法では、その宗教あるいはスピリチュアルが高度なものであるかそうでないかの違いとして、神的実在中心の世界観になっているか、それとも、自我中心の世界観になっているか、という物差しで測っています。
これも上述しましたが、呪術系スピリチュアルでは自らの人生の安穏が「目的」になってますので、極論すれば、神的存在・天使・超自然的パワー…等などが「手段」になってしまっているのです。
そうすると、料理のアラカルト的に、「今週のラッキーエンジェルは大天使ミカエルです」みたいな、人間の側の都合で神的実在をチョイスするようなお手軽な感覚に陥ってしまいます。ここに危うさがあります。
もちろん、宗教であってもご利益宗教がありますので、同じような危険性はあるのですけどね。スピリチュアルのほうが個人主義的でライトな感覚で接することができますので、より危険性が高い気がします。
話が逸れるようですが、SNSなどを通じた友人関係では、ちょっと嫌なことがあるとブロックしたりするじゃないですか。
ところが、実社会では友達と喧嘩してもまた顔を合わせなきゃいけない…ということで、結果的に「雨降って地固まる」というふうに、喧嘩や行き違いがあっても、それを切っ掛けに親交が深まっていくということがありますよね。
SNS中心だとどうもそこらへんが浅くなってしまう。
宗教団体では、団体内の対人関係で行き違いが生じたり、信仰において疑問点が出てきても、すぐ「さようなら」というふうにはいかないで、揉まれ揉まれして教学や信仰を深めていくという側面があるような気がします。
ここらへん、宗教の方はお手軽じゃない分、だんだんと真実味を深めていくようなところがあって、個人的にはスピリチュアルよりは宗教のほうがずっと好きですけどね。
なので、感覚的には、
- 宗教:実社会的
- スピリチュアル:SNS的
なところもあるのかな、と感じています。
「自我中心の世界観」か「神的実在中心の世界観」か
話を戻しますね、
私としては、「宗教とスピリチュアルの違い」というよりは、(ネオ仏法で何度もなんども取り上げている物言いですが)、「自我中心の世界観か、神的実在中心の世界観かの違い」で理解したほうがより本質的な見方になると思っています。
- 自我中心の世界観:自分のために神的存在がある
- 神的実在中心の世界観:神と人と世に尽くすために自分がある
といったふうに、真逆の方向性になります。
「霊性進化」という宗教とスピリチュアルの”本質”に着目すれば、後者、「神的実在中心の世界観」でないとやはりダメだと思うのですね。
「自我中心の世界観」においては、自分の都合で神的実在(超自然的存在)をいわば利用しているようなワガママ感がどうしても抜けないのです。
もう一度、簡略化して示してみましょう
- 自我中心の世界観:世界が自分に何をしてくれるか
- 神的実在中心の世界観:世界のために自分は何ができるか
この2つを比較したとき、どちらが本来の意味での霊的に優れているとみなさんは感じられますでしょうか?直感として、みなさんの心の奥にある道徳律は「後者を選びなさい、それこそが霊性進化を促す道であり、真の幸福への道である」とささやいてはいないでしょうか?
神的実在中心の世界観を掴むこと、言い換えれば、呪術から真理へのコンバート(転回)をお薦めして結論としたいと思います。
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