『7つの習慣』を超宗教的に読み解く – 私的成功(第1の習慣〜第3の習慣)編

今回は世界の大ベストセラー『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー著)を宗教的に(当サイトとしては”超宗教的”あるいは”真理スピリチュアル的”に)考えるとどうなるのか?について語ってみたいと思います。

*今回はまずは、第1の習慣〜第3の習慣(私的成功)のパートにあえて限定しておきます。

特に宗教的な見地は別にしても、『7つの習慣』を読んだことがあるけど、どう活かしたら良いか分からない…」と読みっぱなしになっている方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか?

本記事では、超宗教的に解読して『7つの習慣』の奥の奥まで見通しつつ、さらに、現実に即して、「実際に具体的にどう活用していけば良いのか?」というところまで掘り下げてみるつもりです。

この記事を読み終える頃には、『7つの習慣』をはるかに超えて、「人は何のために生まれてくるのか?」「人生の意味とミッションとはなにか?」まで、あなたは理解することになるでしょう。

用語としては『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』を使用してまいりますが、とくに『7つの習慣』を読んだことがない方でも分かるように書いていきたいと思います。

ただ、できる限り、こちらの書物も入手しておくことをお勧めいたします。

7つの習慣

『7つの習慣』を超宗教的に解読…ということなので、「スティーブン・コヴィー氏が実はモルモン教徒だった」とか「『7つの習慣』が新興宗教的で胡散臭い」とか、そういう見地の記事ではありませんので、あらかじめお断りしておきます。

現代の日本人は「宗教臭い」というと逃げ出すような習性がありますが、そういう有り様は世界のスタンダードではないことは知っておいたほうが良いです。アメリカも大統領は聖書に手をおいて就任の宣誓を行いますからね。

「人間の倫理観の基礎に宗教があるので、宗教心のない人は信用できない」あたりの価値観がむしろ、ワールド・スタンダードです。

目次

まず、7つの習慣の実践論理構造を押さえる

7つの習慣は、ただランダムに7つ並べてあるのではなく、この7つは実に論理的に構成された順序になっていることにお気づきでしょうか?

アメリカはプラグマティズム(実用主義的)の国ですので、論理より実践を重視する傾向があります。

なので、米国の本を読むと、「ユタ州のキャロラインさんは…」といったふうに、やたらと実践例が多い。ページ数が日本の本より多いのはだいたいそういう理由です。

ところが、7つの習慣は実践的ありながらも、非常に論理的・体系的な構成になっているのです。

それでは、7つの習慣はどういう論理構造になっているのか、かんたんにチェックしてみましょう。

ベーシックマインドとしての人格主義

今回テキストで使っている『完訳 7つの習慣』のサブタイトル(副題)は「人格主義の回復」と書かれています。

わざわざサブタイトルに使うくらいですから、7つの習慣のベースには”人格主義”が通奏低音として流れていると理解しても良いでしょう。

著者のコヴィー氏は成功理論を個性主義と人格主義の二通りに分けます。

ひらたく言えば、

  • 個性主義:小手先のテクニックを使う成功論
  • 人格主義:誠実、正直、勤勉…などの人格力をベースに据えた成功論

ということになります。

そして、7つの習慣では、あきらかに後者、”人格主義”を採用すると宣言されています。

これは超宗教的に見て、大正解なのです。

と申しますのは、今世と来世を貫いて”自分”と言えるものは実は「心だけ」だからです。

この世の肉体の死を契機に、私たちは土地も財産も名誉も…この世的なもの何もかもあの世に持ち越していくことはできません。

すべては過ぎ去っていきます。仏教的に言えば、”諸行無常”です。

あの世に持っていけるものは「心だけ」なのです。心だけが、無常の風に吹き飛ばされず、ずっと「あなたそのもの」であるものなのです。

無常の風

ゆえに、やがて過ぎ去っていくものに価値を見出す生き方は、肉体の死を契機にして必ず虚しいものになります。

私たちは、過ぎ去っていくものではなく、過ぎ去らないもの、永遠の価値を持つもののために生きるべきですし、そうしたほうが本当の意味で、自分を大切にしていることになります。

成功というのは、かんたんに言えば、「自己価値を上げること」です。

もちろん、そこに社会的地位や名声を伴うこともありますが、それらは副次的なものですし、それらもやがて過ぎ去っていきます。

人格主義のさまざまな側面…正直、勤勉、誠実さ…いろいろ挙げることができますが、こうしたものは、実は古くから色々な宗教で言うところの「神の属性」です。

ゆえに、こうした人格力を自ら身に帯びることが、「神に近づいていく」ということになり、具体的には、来世において、「より高い霊域に還ることができる」という結果に至るのです。

この霊格・霊性の向上、仏教では菩薩になるとも言いますが(キリスト教的には天使と言ってもいいです)、これこそが本当の意味での成功なのです。

*参考記事:霊格の段階(魂のレベル)一覧と霊格を上げるための公式とは?

繰り返しますが、この世はやがて過ぎ去ってゆく仮の世界です。私たちの肉体はアバターのようなものです。

心の部分だけが永遠のものであり、本当のあなた自身であり、心の内容だけが「所属するべき霊域の高さ」という本当の成功論を決定づける要素なのです。

したがって、人格主義をベースに成功理論を考えるということでありますが、実際は、人格主義を採用したその瞬間に「成功している」とも言えるわけです。

ストア哲学などでよく言われるように、「あなたとはあなたが思っている/考えている内容そのもの」であるのです。

また、わざわざこの世(現象界)へ生まれてくる理由というのも、ここのところに密接に関連しています。

あの世(実在界)は、似通った魂の波動を持つ人間同士が自然と惹かれ合い、一定の世界を形作っているのです。

似た者同士で一緒に住んでいるいうことは、気分的にはずいぶんと楽であり、嫌な人と会ったり、愛する人と別れなければいけなかったりする現象界に比べると、やはり文字通り「天国的」であるのは事実です。

ただし、マイナスの心を来世に持ち越した人は、やはり同じような世界を形作っていますので、「マイナスの人同士が一緒にずっと住んでいる」ということで、けっこう苦痛な世界です。

これが昔から色々な宗教で言うところの、「地獄界」であるのです。

さて、似た者同士が一緒に住んでいるというのは、気が楽ではありますが、だんだんと刺激が少なく物足りなくなってきます。

そこで、時折、地上に肉体をもって生まれてくるのです。

肉体があるおかげで、波動の違う人同士が会うことができます。これが新たな刺激・知識・経験を積む契機となっているのです。いわば、「智慧の獲得」です。

智慧の獲得

これが現象界にわざわざ生まれてくる意味です。

そして、自らの得意分野で持って、他者や社会に貢献していくことが望まれています。これは「慈悲の実践」と言っても良いでしょう。

ゆえに、古来から問い続けられきてきた人生の諸相に対する疑問はここで回答を出すことができることになります。

簡略化して言えば、

  • 人生の意味:智慧の獲得
  • 人生のミッション:慈悲の実践

ということです。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

そして、人生の意味とミッションを知り抜いて、今世の人生を最大限に活かしきれば、来世は、より高い霊域に還ることができます。

これこそが現象界と実在界を貫いた「本当の成功」であるのです。

私的成功から公的成功へ

7つの習慣は、第1の習慣〜第3の習慣までが「私的成功」、第4の習慣〜第6の習慣までが「公的成功、そして、第7の習慣で「私的成功と公的成功をスパイラル状に回していくための習慣」という構成になっています。

ここには、

  • 私的成功があってこその公的成功である
  • 私的成功と公的成功はスパイラル状に上昇していくものである

という思想が根底にあります。

ひらたく言えば、「自分作り(私的成功)ができていないのに、他人・社会に貢献(公的成功)はできないでしょう」ということです。

仏教にも「自利利他(じりりた)」という言葉があります。

自らを利する(智慧を獲得していく)過程で、他者・社会を利していく(慈悲の実践をする)、ということです。

宗教の中には、「世界平和を祈念します」みたいなところから入っていくところもありますが、それは口あたりはいいですが、決して普遍的な道ではありません。

自分づくりがあってこその貢献です。

他者に貢献する・与えると言っても、「与えるもの」を自分が持っていなければ与えようがないからです。

聖書にも、

盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。(「マタイによる福音書」15章14節)

とあるとおりです。

ですので、私的成功から公的成功へ、という順序は世界宗教的に見ても、普遍的かつ論理的な順序になっているわけです。

ここで注意しなければいけないのは、「自分はまだ私的成功ができていないから、公的成功の段階へいけない」と一生それで終わってしまう危険性です。

これは、じつは「公的成功(人との関わり)が怖いから、その言い訳に(自分はまだ私的成功の段階だから…)というのを使っている」という心理です。

自利ができていないから利他はできない、などとのたまう仏道修行者も多いです。これはやっぱり言い訳です。

そうではなく、ベーシックな私的成功がかたちになっていれば、公的成功を同時実践してもいいですし、むしろするべきなのです。

自利を実践している過程で同時に利他も回していく、という感覚です。それでこそ、実践からのフィードバックもあり、自利もより研ぎ澄まされていく、という好循環に入ることができます。

まさにスパイラル的向上です。

スパイラル状

とはいえ、「鶏が先か卵が先か」的に言えば、やはり、私的成功→公的成功の順番であることには間違いはありません。

このように、7つの習慣は「私的成功から公的成功へ」という実践論理的な順序になっていることをまず押さえておきましょう。

第1の習慣〜第3の習慣(私的成功)の論理構造とは

さて、では第1の習慣〜第3の習慣をまずは概観してみましょう。

各々の内容は下記のとおりです。

  • 第1の習慣:主体的である
  • 第2の習慣:終わりを思い描くことから始める
  • 第3の習慣:最優先事項を優先する

そして、第1の習慣〜第3の習慣の論理構造について、結論から申し上げれば、

  • 第1の習慣で、スタート地点が定まる
  • 第2の習慣で、ゴールを定める
  • 第3の習慣で、スタートからゴールまでの最短距離を行く

と、こういう構造になっているのです。

私たちがどこかに旅行などに行くにしても、まず自宅などのスタート地点がありますよね。そして、旅行先という目的地(ゴール)があります。その後で、自宅から目的地までのルートを決めるはずです。

目標達成

聞いてみれば、きわめて平凡なことではありますが、これがミニマルの目標達成の王道であることがお分かりかと思います。

以上が、”私的成功”のおおまかな論理構造です。

以下、個別に解説を加えてまいります。

第1の習慣:主体的である

まずは第1の習慣「主体的である」を検討してまいりたいと思います。

なぜ、主体的であることが大事なのか?

主体的の対義語は「受動的」ということになりますよね。

結局、人は主体的であれ、受動的であれ、人生行路をゆくことには変わりはありません。

ポイントは、「自分の自由になるか、ならないか」というところにあります。

たとえば、目の前に石ころがあるとします。もしこれが自由にならないとすれば、仮に、突然飛び上がってくるとか…でしたら、危なくてしょうがないですよね。怪我するかもしれない。

ところが、現実には、目の前の石ころはだいたい自由に扱うことができます。ペイントしてオブジェにするとか…まあそれが楽しいか分かりませんが、芸術的センスのある人だったら何かしら付加価値を生産することも可能でしょう。

このように、まず、「自分の自由にならないこと」は”博打”になってしまうのです。反対に、「自分の自由になること」によって、”付加価値”を生産することが可能となります。

石ころという物体で例をとりましたが、他に例えば、「他者の感情」はどうでしょうか?これも自由になりませんね。なので、これを自由にしようとしたり、これをもとに人生設計をするとやはり”博打”になってしまいます。

一方、「自分の感情」は自分でコントロール可能です。付加価値を生産していくことができます。

たとえば、知人から悪口を言われたとしましょう。悪口を言われると、誰でもいい気分はしません。ここでどういう態度をとるか?です。

  • 悪口を言い返す
  • 黙って耐える
  • 悪口のなかに学びを汲み取る

などのパターンが考えられます。

ここでもポイントは、「自分の自由になるか、ならないか?」です。

まず、他者が自分に何を言うか?については自由にすることができません。自分のコントロール外のことです。自分のコントロール外のことは諦めたほうが良いのです。

一方、悪口を言われたとしても、それを「自分がどう受け取るか?」については自分の自由にすることができます。自分のコントロール内のことです。ここにフォーカスする。

自分のコントロール外のことであれこれ悩むのは、先ほどから例をとって見てきましたように博打になってしまいますよね。

なので、ここではまず、「自分のコントール内のことは何か?」を考えるわけです。自分のコントロール内にあるものは、「相手の言葉をどう受け取れば、自分にプラスになるか、少なくともマイナスにならないか?」ということです。

ここで”人格主義”の超宗教的解釈を思い出してみましょう。

現象界と実在界を通じて本当に自分と言えるのは、「心だけ」ということでした。つまり、心の価値があなたの価値を決めるということです。心の価値イコールあなたの価値です。

ゆえに、他者に悪口を言われて、どういう態度をとるか、どういう心でいるか?がポイントなのです。自らの心は自らのコントロール内のことです。

心のありようこそがあなたの価値であるならば、下記のようになります。

あなたという人間は、

  • 悪口を言い返した場合→悪口を言われたら悪口を言い返す人
  • 黙って耐えた場合→悪口を言われたら黙って耐える人
  • 悪口のなかに学びを汲み取った場合→悪口を言われても、そのなかから学びを得る人

と、このように自己価値が決定されます。

冷静に見てみれば、上記3通りのどれが立派なことか、神近いことか、言葉を換えれば「霊格を挙げる道か」分かるはずです。

そう、まず悪口をいった人は、その心に遡ってみればどういう人かと言うと、「他人の悪口を言う人」なのです。ここにおいて、神から遠ざかっている。勝手に自己価値を下げている、霊格を下げている。

他者の悪口を言っている時点でその人は「霊格の低下を招いている」という”失敗”を犯しているのです。その意味で、悪口を言ったすでにその瞬間に報いを受けていることになります。

一方、「自分の自由になること」と「自分の本当の価値はどこにあるか」を知りぬいた人は、悪口を言われても、3番めの「悪口の中から学びを得ようとする」を選び、まさしく、「他者から悪口を言われても、そこから学びを得ようとする人」という自己価値を得て、その瞬間に霊格の向上を果たし、良い報いを受けていることになりますよね。

『7つの習慣』に戻ってみますと、第1の習慣において、コヴィー氏は「関心の輪」「影響の輪」という言葉で説明しています。

影響の輪

自分が時間やエネルギーの大部分を、この二つの輪のどちらに集中させているかを考えることにより、主体性の度合いをよく知ることができる。主体的な人は、努力と時間を影響の輪に集中させ、自らが影響できる事柄に働きかける。彼らの使うエネルギーは積極的なものであり、その結果として、影響の輪が大きく広がることになる。

一方、反応的な人は関心の輪に集中している。他人の欠点、周りの環境、自分のコントロールの及ばない状況などに集中する。これらのものに集中すると、人のせいにする態度や反応的な言葉、あるいは被害者意識をつくり出すことになる。反応的な人は消極的なエネルギーを発生させ、影響を及ぼせる事柄を疎かにするので、影響の輪は次第に小さくなる。

成功するとは、自らの人生をクリエイト(創造)していくことでもあります。そして、クリエイトするためには素材が自由に扱えるもの(影響の輪の中のもの)でなければならない。言い換えれば、主体的に振る舞えるものでなければならない、ということです。ここがすべての出発点になります。

ですので、超宗教的に言えば、受動的な態度、「神が自分に何をしてくれるか?」という発想ではダメだということになります、そうではなく、「神の倫理的世界秩序のために自分が何をできるか」という主体的態度が肝要ということになります。

自分(自我)中心か、神的実在中心か、という違いです。これは本当に、天動説か地動説かくらいの違いがあります。

神的実在

それぞれ、当サイト(ネオ仏法では)、

  • 自我中心の世界観:呪術スピリチュアル
  • 神的実在中心の世界観:真理スピリチュアル

というふうに分類しています。私的成功のために、後者、真理スピリチュアルを選ぶべきであることは言うまでもないでしょう。

『7つの習慣』は宗教書ではありませんので、もちろん「神的実在中心」という言い方はしておりませんが、「原則中心」という表現をしております。これは実際の意味内容としてはほとんど同じことを言っているのです。

他、主体性の論理として、仏教の「縁起の理」などと関連させて説明付けることも可能ですが、興味のある方は下記の記事をご参照ください。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

第2の習慣:終わりを思い描くことから始める

「死の先駆」により人生の本来性を取り戻す

”死”というのものはいつか来ると知識では分かっていても、人はなかなか実感ができません。とくに若い人ほどそうでしょう。

感覚的には、なんとなく今の生がずっと続いていくような錯覚の中にいます。

そのような状態にある時は、限られた時間を有意義に過ごそうとはなかなか思えませんし、また、自分の今回の人生のなかで「何をなすべきか」についてなかなか真剣に考える機会を持ちません。

そして、忙しい日々のなかで、なんとなく時間だけが過ぎていくという平凡性のなかに埋没してしまいます。私はこれを”日常圧”と呼んでいます。

人は大きな事件で挫折することもありますが、実際、多くの人にとっては、平凡性に流されてしまうのはこの”日常圧”にやられてしまうからだと思います。

人は”死”というのものを先駆的に実感する時、はじめて有限(今世)の生を最大限に活かすべく、また自分固有のミッションについて考え始めるのです。

哲学者ハイデガーは、「人は死の先駆的自覚により、本来性を取り戻す」といった趣旨のことを述べています。

逆にそうした自覚がない場合は、空談つまりは「中身の空っぽな会話」ですね、そうしたことにふけりながら無為に日々が過ぎてしまう”非本来性”のなかに生きることになってしまうというわけです。

また、仏教においては、仏陀・釈尊は、「生老病死」が真理であるという認識から始めることを説法の第一に据えています(*四諦八正道)。

ここでも、死を認識することによって、自己の本来的な生を取り戻すという逆説が説かれているわけですね。

死の認識によって、本来的な生を充実させるということについては、西洋では”メメント・モリ”すなわち、「死を忘れるな」という箴言でも言われていることです。

*参考記事:“メメント・モリ”の本当の意味と使い方 – 「死を思え」で最強のオプティミストになる

そこで、第3の習慣「終わりを思い描くことがから始める」が必要になってくるというわけです。

『7つの習慣』では、「終わりを思い描くことがから始める」のコツとして、「自分の葬儀の場面を思い浮かべて、参列者に何と言ってほしいか?を想像してみる」というやり方が提示されています。

葬儀

これはなかなか具体的に身に迫ってくるものだと思います。

「今の自分の人生ビジョンでなかなかうまく行っている」と思っている人であっても、葬儀の参列者に「あの人は(あなたのことです)、これこれこういう人であったよね」と言われることを想像してみると、意外と「それでは、不足だ、心外だ」と思ってしまうことが多いものです。

なぜなら、多くの人が成功だと思っているものは、実は「世間的に素晴らしいと認められるもの、称賛されるようなもの」がほとんどであって、自らの魂の奥底から出てくるようなオリジナルなミッションであることはきわめて少ないからです。

なので、この葬儀の想像はぜひ、実際にやってみることをお勧めいたします。

葬儀の参列者にあなたが生前どういう人だったと言われたいか?を想像してみると、自分の今回の人生のミッションが浮かび上がってきます。これすなわち、ゴールの設定ですね。

第1の習慣でスタート地点を設定し、第2の習慣でゴールを設定することができました。

あとは、スタート地点からゴール地点までいかに効率よく(幸福感・充実感を伴いつつ)歩んでいくか?ということが次の問題になります。それが第3の習慣「最優先事項を優先する」ということになります。

永遠の生命から自らのミッションを把握する

第3の習慣に行く前に、第2の習慣を超宗教的に再解釈してみます。

冒頭でも語りましたが、私たちの本質は魂であり、永遠の生命を持っております。永遠の生命を持ちつつ、魂の経験値アップのために、ときおり地上に降りて(輪廻転生)新たな知見を得ていくのでしたね。

そのように考えると、第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」もまた違った風景が視えてきます。

葬儀の場面というのは、あくまで「今回の人生のゴール」に過ぎません。実際には、来世・来来世…と永遠の生命活動が続いていくわけです。

ところで、人間と他の動物(生命)との決定的な違いについて考えたことがありますでしょうか?

それには色々な定義が可能かと思いますが、今回のテーマに即してひとつ言えることは、「人間は自らがどういう存在であるかを自己決定していくことができる存在」であるということです。

動物もいろいろ考えているようではありますが、あくまで本能の範囲内での意思決定に収まっています。一方、人間は、今現時点でどうであろうとも、「今後、どういう性質の魂になっていくか?」ということについて自己決定権を持っています。

そうであるならば、永遠の生命のなかで、それは永遠の進化の途上にあるわけですが、自らがどういう魂として輝いていきたいのか、を考えてみると良いと思うのです。

学問的知性の魂、芸術家の魂、政治家の魂、企業家の魂…あるいは、「万能の天才」と言われたダ・ヴィンチのように、いくつかの得意分野を兼ね備えた魂になるか…。想像してみるだけでワクワクしてきませんか?

ダ・ヴィンチ

このようないわば「超長距離砲」で人生を考えてみると、今世のゴールもひとつのメルクマールにしか過ぎないことが分かります。

残りの人生で到底達成不可能だと思われたとしても、あるいは(今世的な意味で)途上で倒れたとしても、永遠の生命から見れば確実にゴールに近づいていることになるので、きちんと意義があることになるのです。

「成功するまでやめないことが成功のコツ」と言われることもありますが、それこそ、複数の燐廻転生を経て「ここまでいきたい」という目標の立て方もあるわけですね。

第3の習慣:最優先事項を優先する Put first things first

さて、いよいよ第3の習慣です。

ここは観念的なところではなく、非常に具体的・実践的に取り組むべき習慣です。

『7つの習慣』は世界的ベストセラーになっていますが、第1の習慣・第2の習慣が理解できたとしても、はたしてこの第3の習慣を”実際に”習慣化している人がどのくらいの割合でいるのか…かなり心許ないところだと思うのですね。

逆に言えば、この第3の習慣を自家薬籠中のものにできれば、あなたの人生は激変します。これは本当に保証できます。

”日常圧”ということについてすでに述べましたが、もう一度、”日常”の意味について深く考えてみましょう。

私たちの人生ではいくつかの転機になる出来事があったりはしますが、数としては人生の中で数回というところでしょう。

人生のほとんどの日は”日常(ordenary life)”なのです。ゆえに、日常を制するものは人生を制することになります。

逆に、ほとんどの人は(『7つの習慣』を読んでも)文字通りの日常性に流されて、その都度取り繕うかのような人生に陥ってしまいます。

日常は平凡ではありますが、その平凡さになかなか耐えきれない…それを私は”日常圧”と呼んでいるのですけどね。

この日常圧を跳ねのけて、日々たんたんと勝ち手を打ち続けていくのがまさに第3の習慣「最優先事項を優先する」ということになります。

「時間管理のマトリックス」を理解する

さて、第3の習慣については、コヴィー氏は「時間管理のマトリックス」を掲げています。

最優先事項を優先する

このマトリックスは図の通り、緊急度と重要度に従って行為を分類したものです。

結論的には、第二領域の「緊急ではないが重要なこと」に時間を確実に投入していくのが、勝利への道であり、まさに「最優先事項を優先する」ということであります。

図に描かれている例を参考に、みなさんにとってのマトリックスをぜひペンをとって書いてみてください。

そうすると、一番大事な第二領域にほとんど時間を投資していないことに愕然とされるはずです。

現代人はとても忙しいので、マトリックスの左側、「緊急なこと」に振り回されて一日が過ぎてしまいがちなのですね。

そして、たまに時間ができると、ストレス解消に第四領域でダラダラと時間を空費してしまうのが常です。

「時間管理のマトリックス」をマスターするコツ

そこで今回は、第二領域にいかに時間を投資していくか?その決定的なコツをご紹介したいと思います。これは私が実際に、実践している方法です。

「本多静六式4分の1天引き貯金」を第二領域に応用する

いきなり「本多静六」が出てきたので驚かれたかもしれません。また、今では本多静六のことを知らないという方もけっこういらっしゃるかもしれません。

本多静六氏は、明治時代の大富豪です。学者でありながら大きく財を成し、日比谷公園の設計にも関わった方です。

本多静六

この方の蓄財法は「月給が入ってきたら、その1/4の金額を強制的に貯金してしまう」という、じつにシンプルでかつ強力な方法です。

そして、感覚としては、「残りの3/4が月給だと思って生計を立てる」というものです。

これは現代では、銀行の自動振替機能を使えば、さらに実践しやすい方法ですね。蓄財術としてもお薦めです。

今回のトピックで私が申し上げたいことは、この「天引き法」を時間管理にも使ってしまおう!ということです。

1/4というのは実際にはなかなか難しいでしょうから、たとえば、2時間で設定するとします。第二領域に使う2時間を”先に”強制的に天引きして確保してしまうのです。

そして、残りの22時間を一日だと思って生活をしていくのです。

結局、なぜあなたが第二領域に時間が使えていないかと言うと、「時間が余ったら」「あとで」やろうなどと考えているからではないですか?仕事や家事などの「緊急」な物事に押されてそうなってしまっているのではないですか?

もちろん、第一領域などは「緊急かつ重要」ですから、そこにどうしても時間を取られてしまうのは分かります。

でも、そうしていながら、つい第三領域も緊急であるがゆえに「やらなきゃいけない」という思い込みで時間を使ってしまいます。

結果、人生の価値を本当に上げていく第二領域にいっこうに時間を投入できない…ということになってしまっているのです。

なので、それを避けるために、「強制的に第二領域の時間を取り分けてしまう」のです、これが肝要です。

取り分け法のコツは朝一番を活用することです。朝一番にやってしまうからこそ「取り分け」効果が高いのです。

布団から起きたらあれこれ考えたり準備せずに「すぐに」とりかかることです。朝活の効用について古今東西いろいろ語られているのにはやはり理由があるのです。

もちろん、「いくらなんでも2時間は難しい」という方も多いでしょう。それはそれで、まず30分からやってみる、でもいいのです。

智慧・慈悲・健康の3項目で実践してみる

当サイト(ネオ仏法)では、宇宙の二大原理を「智慧と慈悲」と定義しています。よりかんたんに言えば、「学びと隣人愛」です。

あなたの人生のミッションを遂行するのに必要な知識を吸収する時間(智慧)、またその実践の時間(慈悲)ということになります。

おおきくは、この2つを軸に考えられると良いと思いますね。そしてできたら、健康のためにも時間を投資しましょう。

  • 智慧:あなたの人生のミッションを遂行するのに必要な知識を吸収する時間
  • 慈悲:あなたの人生のミッションの実践の時間
  • 健康:人生をなるべく太く長く活用するための時間

たとえば、私であれば、朝起きたらすぐに、この「ネオ仏法」の執筆に取り掛かります。

もちろん、毎日毎日アップしていくには至りませんので、ほとんどが下書きや、あるいはすでにアップした記事の校正や修正に時間を使っているということになります。

これは私のミッションの遂行(慈悲)そのものです。

それから、真理に関わる学びの時間です。ネオ仏法の射程は宗教やスピリチュアルをはるかにこえていますので、なかなか読書の守備範囲が広すぎるきらいがありますが、でもとにかく本をどんどん読んでいきます。これは、ミッションの遂行のための基礎づくり(智慧)の時間ですね。

さらに、運動をします。

運動のための私なりのコツは、DVDをセットするとか着替えが必要とか、そういう余計なクッションを挟まずに実践できるやり方を選ぶことです。そういうのがあると、まず長続きしません。身一つで「すぐに」できる方法を選ぶことです。

具体的には、柔軟体操・ヨガ・ラジオ体操・腕立て伏せ・腹筋…そういったメニューです。パジャマのままで「すぐにそのまま」取り掛かることができます。

そういうわけで、私は朝起きたら、布団もたたまず顔も洗わず、上記の慈悲・智慧・健康の3つに時間投資するようにしています。

これは本当にお勧めな方法ですのでぜひ参考になさってください。…というか、今日(明日)からとにかく一度やってみてください。そうすれば、いかに一日が充実するか、自己肯定感が高まるか、驚かれるはずです。

カール・ヒルティの仕事術にも通じる

この実践法は『幸福論』(カール・ヒルティ)の仕事術にも通じるものです。最後にヒルティの言葉をいくつかご紹介しておきます。

幸福論

  • 時間がない。これは、ちゃんと正式に決まっていない義務や仕事を逃れようとするとき、人が最も普通に用いる便利な口実である。
  • 有効な時間節約法は、すべてのことをただ「仮に」あるいは一時的にではなく、すぐにきちんとやることである。
  • あまり、自分自身を大事がらないことである、言い換えれば、時間、場所、位置、気乗りや気分などの準備に長い暇をかけないことだ
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