三輪空寂は、施者・受者・施物の3つが清らかであること
今回は、布施の精神を真に実効あらしめるためには?という観点からお話してみます。
*参考記事:曽野綾子式「宗教が本物かどうかを見分ける方法」を検証してみる
大乗経典では、「布施が成立するかどうか」という観点で、”三輪空寂(さんりんくうじゃく)”ということを基準としています。
三輪空寂とは、施者(せしゃ:布施をする主体)と受者(じゅしゃ:布施を受ける相手)と施物(せもつ:布施する物)の3つともが清らかでなければ、布施は成立しないという思想です。
清らかであるということは、施者の側からは「俺がしてやった」とか、受者の側は「私は受け取ってやった」などという執着から離れており、
かつ、施物そのものも穢れていない(例えば、盗みで得たお金などは穢れていると捉えます)、ということになります。
執着を離れているがゆえに”空”である、ということで、三輪清浄は別名、三輪体空(さんりんたいくう)とか、三輪清浄(さんりんしょうじょう)とも呼ばれているわけです。
「施者かつ受者、受者かつ施者」と哲学してみる
上記がごく一般的な説明で、ググれば似たような解説はたくさんヒットしますね。
三輪空寂についてもっと”哲学”してみましょう。
そうすると、
施者と受者は固定されているものではない、ということに思い当たります。
たとえば、
施者は金銭を与える側でありますが、同時に、執着を断つ修行の機会を与えてもらっている”受者”でもあるわけです。
同様に、
受者は金銭を受け取る側ですが、相手にそうした修行の機会を与えている施者でもあります。
また、別の観点からは、
施者がいるから受者がいる、受者がいるから施者がいる、ということにも気づきます。
与えられる人(=受者)がいなければ、そもそも、与える人(施者)は成立しませんね。
その逆もしかり。
つまり、
受者ありてこその施者であり、施者ありてこその受者である。
そして、その施者と受者も見方によっては、前述した通り、施者は同時に受者でもあり、受者は同時に施者でもある、と。
「空」は、それ自体によって成立するもの、すなわち、自性(じしょう)なるものはない、自ずからなる性質はない、という思想です。
よって、空であると断ずることにより、一切の執着から離れて清らかになることができるのです。
このように、
施者と施物と受者が、互いに支えあい、生かし合い、清らかに循環している様子は、まさに”輪”ですよね。よって、三輪空寂である、ということになります。
「空」は深いですねえ…。
コメント