本来、スピリチュアルに来るべきひとが他の世界へ流れている
僕が見ている限りでは、頭脳明晰でかつスピリチュアル的素養のある方が、スピリチュアルの方へ来ないで(避けて)、「脳科学」や「心理学」のほうへ大量に流れているように思えます。
理由としては、スピリチュアル業界があまりにも「胡散臭いので関わりたくない」「関わるにしても論理で説明できる範囲に留めておきたい」ということではないかと推測しています。
これはまあ気持ちとしてはとても分かることです。
だって、スピ業界は本当に胡散臭いですからね。笑
ただこれはあくまで、僕が言うところの「部分スピリチュアル」あるいは「覇道スピリチュアル」のイメージが先行しているせいであって、全脳スピリチュアル的観点から見ると、また別の風景が見えるようになってきます。
(今回はここに深い入りしないようにします)
また、何度も繰り返し申し上げているように、やはり成功論にしても、実在世界(高次元世界)の存在を前提にしていないものはどうしても底が浅くなってしまいます。
この世を去った実在世界は厳然として存在するものであり、いま僕らが生きている現実世界・物理世界が仮想現実の世界であるならば、仮想現実の中だけで成功してもほとんど意味がないことになるからです。
やはり、成功論は、実在世界(イデア界)まで視野に入れて、現実世界で成功することが実在世界でも成功になるようにLINKさせていかないと、きわめて危うい自己実現理論に堕してしまう危険性があります。
脳科学は唯物論にすり替わりやすい
脳科学はずいぶん進歩していますし、その研究に携わっている方、あるいは学んでらっしゃる方はとても優秀な人が多いと思います。
また、そうした脳科学を前提とした自己実現理論も全面的に否定するつもりはないんです。
が、
「危ないな」と思うところは、やはり、「心や精神の働きも脳の機能の一部である」というふうに解釈してしまうと、これは唯脳論、つまり、現代風の唯物論に落ちてしまう危険性があるということですね。
そして、唯物論というものは、最終的には、
- 快楽主義…どうせ死ぬのだから、生きている間に好きなように生きたほうが良い
- 悲観主義…どうせ死ぬのだから、何をやってもいつかは無になる
- 放任主義…深く考えない
のいずれかに流れていく傾向があります。
また、唯物論を含んだ政治体制としての共産主義国家が、
人民の大量粛清・強制収容所送り…の方向へ流れていくのも、人間をモノ=部品としてしか認識していないからです。
実際、「不良分子」なんて言葉もありますよね。
脳はPCのようなもの
結論から言うと、脳はいわば演算処理を行うPCのようなもので、その背後でPCを操っている本体である心や精神、魂というものがあるということです。
たとえば、CTRキィとF4キィを押すと検索窓を作ることが出来ます。
「検索窓ができた」という結果があるわけですが、これは原因論としては、もちろん、CTRキィとF4キィの働きであるとも言えるので、ここがいわゆる「唯脳論」的な考えになります。
が、さらなる原因論としては、CTRキィとF4キィを押した人間がいるわけですよね。
それと同じように、脳を操っているところの本体=心、精神、魂というものがやはり存在するんです。
唯脳論の問題点
浮遊霊・地縛霊を大量に生み出す
唯脳論の問題点はいくつかありますが、簡単に言えば、前述したように、唯物論・無神論・無霊魂説へたやすく流れていく傾向があるということです。
そして、そういう方向へ流れていった場合、それを信じ切っていたひとは、肉体の死を迎えた後、スムースに実在世界(あの世)へ旅立っていくことができなくなります。
実在世界は、思い・認識がイコール存在である世界なので、
「実在世界なんてものはない」という認識であれば、すなわち、実在世界はそのひとにとって「ない」ということになり、結果、いわゆる三途の川にすらたどり着けず、地上を彷徨うしか行くところがない、ということになります。
つまり、地縛霊・浮遊霊になってしまうということです。
苫米地英人さんについても、以前の記事で少し触れたことがありますが、
参考記事:「苫米地英人の人気の秘密とスピリチュアリズム 」
彼の本を読んでいると、「情報空間と物理空間」と言いながら、その「情報空間」は人間の認識の世界であるというのは正解だと思うんですが、
その認識(心や精神の働き)そのものが「脳の働き」という方向へ行っているので、そうであるならば、いくら「抽象度を上げる」と言いながら、それはやはり、「物理空間」の延長線上でしかないわけで、
あえて、「情報空間」という別の次元をたてることが無化されることになる、と思うんですよね。
実際、苫米地さんは、著書の中で、「霊魂なんて存在しない。そうした”思い込み”を粉砕するための訓練をした」といったことを述べていらっしゃいます。
ここまで、”訓練”してしまうと、おそらく、上記のように死後、スムースに実在世界へ還ることが出来ず、浮遊霊や地縛霊になってしまうことになります。
あれほど頭がよく、現実世界で大成功した方が、「素朴な信仰をもっている田舎のおばさん」よりもはるかに低い世界へ行ってしまうことになります。
つまり、実在世界(=本当の世界)的価値観で言えば、「その人生は失敗であった」という判定になってしまいます。
脳死の問題
また、「脳の働きが人間の心、精神」という理解であれば、当然、「脳の働きが停止したときが人間の死である」という理解になりがちですね。
そして、「脳死をしたのだからもう死んでいる。臓器移植をしても構わない」という論理にいくことになります。
ところが、
霊的な世界観では、脳死の段階ではまだ実際には「死んでない」んです。
肉体に宿っているところの、幽体ですね。これがまだ抜け出していないので、臓器摘出や解剖などをされたら、麻酔なしでメスを入れられ、内臓をかき回されるという苦しみを味わうことになります。
*幽体は、肉体にやや近く、臓器の意識なども存在しています。
ここのところでまた大混乱が起きる原因になっています。
ゆえに、今回の話題を離れて考えたとしても、ぜひこれを読んでいる方で、「臓器提供カード」を持っている方は破棄されることをお勧めいたします。
結論としては、
- 脳は現実世界で生きていくための貴重な情報処理装置ではあるが、それを操っているところの本体、すなわち、「心、精神、魂」というのは物理次元とは別の実在世界に属するものであり、肉体の死を超えて永遠の存在である。
- ゆえに、脳科学が唯脳論に毒されないように注意したほうが良い
ということになります。