マインドフルネス瞑想の効能と実践

マインドフルネスの限界
目次

マインドフルネスとは?

マインドフルネスについてはご存知の方が多いでしょう。

もともとは、上座仏教(テーラワーダ仏教)で「仏陀の瞑想」とされているものを、そのままのカタチで、あるいは、宗教の枠を超えて、心理学やうつ病治療などの現場でも応用されている瞑想法です。

現在では、Googleの社内研修でも用いられているらしいです。

マインドフルネスのなかでも、特に、「観察」に重心をおいた瞑想を「ヴィパッサナー瞑想」と言いまして、こちらの言葉も有名ですね。

また、「集中」に重点をおいた瞑想を「サマタ瞑想」と言います。

高田も去年(2017年)の秋ごろからこの「マインドフルネス」を試していまして、マインドフルネス関連の本も著名なものはおそまきながら、けっこう読みました。

今回のトピックスでは、そのマインドフルネスの学習・実践の過程で実感したこと、考えてみたことを書いてみたいと思います。

まずは、マインドフルネスをご存知でない方のために、ざっくりご紹介しておきますね。ただ、ほんとに「ざっくり」なので、詳しく知りたい方はぜひ専門書を読んでみてください。

高田的にオススメなのは、下記の3冊です。

1.『ブッダの瞑想法: ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(地橋 秀雄 著)

日本人が書いているだけあって、読みやすく、かつ、具体的な瞑想手順が書かれています。
僧侶が書いたマインドフルネス系の本は、意外に、「で?結局、どうやるの?」という感じで、
心構えで終わっている本が多いのです。

また、「慈悲の瞑想」が紹介されていまして、(瞑想というより祈りですが)これも有効です。

瞑想の方法論として、「ラベリング」が提唱されています。
これは、呼吸や気づきにいちいち、「〇〇をした/考えた」と名付けを行っていく方法ですが、
ラベリングについては、名付け自体に気を取られてしまうきらいがあり、高田はあまりお勧めしません。

2. 『マインドフルネスストレス低減法』(ジョン・カバットジン 著)

とりあえず、1冊だけ。ということであれば、この本がオススメです
心構えだけでなく、きっちり方法論が順を追って説明されています。

3. 『8マインドフル・ステップス』(バンテ・H・グナラタナ著)

 

オリジナルの仏教理論との整合性を求める方には、この本がお勧めです。

呼吸法

マインドフルネスはたいてい、呼吸法から入ります。

呼吸と言っても、特別な呼吸のやり方をするわけではなく、通常の入息と出息を観察していきます。息の出入りに精神を集中させ、それ以外のことは考えません。

とは言っても、3分間でも試してみればおわかりになると思いますが、人間、わずか3分といえども、息の出入りだけに集中して、気を逸らさないのはなかなかムズカシイです(ほんと、3分間試してみてください。笑)。

コツとしては、息を吸い込んだときに、鼻孔の下部(もしくは人によって上部かもしれません)に息の通りをひんやると感じる部分があるはずです。

鼻孔のその部分に焦点を当てると、集中しやすいです。

観察

ただ、「集中して気を逸らさない」と言っても、気が逸れたときに自分を責めたり、価値判断をするということはしません。

むしろ、あることに気が逸れた場合、その逸れた事柄が何であるか?をいったんじっと観察していく、という方法をとります。

たとえば、呼吸瞑想中に、「今晩のおかずは何かな?」とつい考えてしまったとします。

その場合は、いったん呼吸ではなく、「今晩のおかずを考えている…」といったふうに、自分の心に浮かんだ内容をじっと観察するわけです。

そして、一通り観察が済んだら、また呼吸へ意識を集中していきます。

これは何を狙っているのかというと、入息・出息に意識を集中することによって、意識を「現在」に集中させることに主眼のひとつがあります。

また、もっと高度な瞑想の準備段階として、集中力を養うという狙いもあります。

そして、気が逸れた内容を客観的に観察することによって、「今、自分にとっての”ひっかかり”や”ストレス”は何であるか?」を客観的に認識することができるという効能もあります。

人間は悩みのなかにあるとき、文字通り、悩みの虜(とりこ)になりがちですが、試験管を観察する科学者のように、距離を置いて眺めることにより、悩みやストレスに等身大に向かい合うことができるという寸法です。

また、等身大に向かい合うことによって、実際、多くのストレスは、その瞬間に雲散霧消していくという効果もあります。

呼吸瞑想に慣れたら、徐々に身体の内部をスキャンするように観察し、さらに、心の内容を観察していく、という手順をとります(流派によって、ここらへんの手順・方法は微妙に違いがあります)。

ポイントは、精神集中ももちろん大事でですが、仏教の仏教たるゆえんは「智慧」にあるわけですから、呼吸・身体・感覚・思い・意思…などを「観察」して、智慧を深めていくというところにあります。

「無常・苦・無我」の智慧を得る

そして、その智慧とは何であるかと言うと、一言で言えば、「無常・苦・無我」を会得する智慧、ということになります。

この、「無常・苦・無我」については、別記事に書いたことがありますので、興味のある方はそちらの記事をご参照ください。
苦しみから逃れるための呪文とは? – 無常・苦・無我(三相)-
無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である

要は、呼吸であれ、身体であれ、心であれ、観察をしていくと、3つのことが分かるということです。

  1. あらゆる事象は常に変化している、無常である
  2. 変転・変化が真理であるのに、”執われ”があるから苦しみが生まれる
  3. そのような苦しみの諸相は本来の我であるはずはなく、実体のないもの、すなわち無我である

この、「無常・苦・無我」はひとつの真理を3つの断面から捉えた智慧、ということになります。

したがって、「無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である」ということになるわけです。

最終的には、この「無常・苦・無我」の真理を理屈ではなく、体感として会得して、一切の苦しみを滅却する、すなわち、解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)の境地に入るのが目的、ということになります。

これは、マインドフルネス・ヴィパッサナー瞑想がどうの、という以上に、上座部仏教(テーラワーダ仏教)はこの涅槃の境地を得ることを目標にしているわけです。

そして、この涅槃の境地得た人のことを阿羅漢(アラカン)と言い、とどのつまりは、「瞑想修行・仏道修行は、阿羅漢になるのが目的」という結論になりますね。
*テーラワーダ仏教では、ですよ。

*阿羅漢にいたる道順については、コチラの記事を参照ください。
四向四果(しこうしか)と解脱(げだつ)

マインドフルネスの効果・効能

効果・効能というと、薬みたいでなんだか申し訳けない気もしますが。汗

現在に意識を集中することによって、悩み・ストレスを断ち切る

人間の心というのは、結局のところ、「意識の流れ」だと思っています。ある意味、「意識の流れ」こそが「時間」の本質でもあると。
*「反省すると罪が清められる」ということを哲学的に証明する – 持続する現在意識 –

ところが、人の悩みというのは、「あの時、あんなことを…どうしたこうした」とか。「いつか私は、こんなあんなになったら…どうしよう…」とか。

意識が過去もしくは未来にすっ飛んでしまっていることが多いはずです。

であるので、呼吸ですね、入息・出息に意識を集中すると言うことは、「現在の事象に意識を集中すること」になりますので、こうした過去の後悔・未来の不安を断ち切る効能があります。

また、実際にひとは同時にひとつのことしか意識を向けられませんので、入息・出息に意識を集中できていれば、少なくともその瞬間は、悩み・ストレスからは解放されることになります。

そして、その修練を積んでいくと、仕事中でも移動中でも、「今、こころの状態がよくないな…」と思ったときに、即座に、呼吸瞑想で、クリアな感覚を取り戻していくことができる。ということになります。

これは、実際にほんとに効果があります。

ストレスでお悩みの方は、ぜひ試してみてください。

無常・苦・無我を体感できる

「無常・苦・無我」は真理ですが、理屈の上でわかっているだけでは不十分で(とは言っても、まず知識で押さえるのは大事ですし、第1段階だと思います)、やはり「実感」にまさるものはありませんね。

その点、呼吸・身体・感覚…というのは、文字通り、「自分ごと」ですので、

  • 「ああ、今、たしかに変化している」=無常
  • 「変化していくものが実体でありえようか?」=無我
  • 「無常、無我が真理であるのに、さまざまな物事に執われているのは苦しみ意外の何者でもない、執われ、執着から離れることだ」=苦

といったふうに、体感として掴んでいくことができる、というところが長所ですね。

悩み・ストレスと等身大に向き合うことにより、対処しやすくなる

また、上述したような、いかにも「仏教」というところまでいかなくても、科学者がデータをじっと眺めるように、「今、感じたこと、考えたこと」をリアルタイムで観察することによって、悩みやストレスに対処しやすくなる、という効果もあります。

人間は心の自由性を持っていますが、この心の自由性の操縦がうまくないと、むしろ、自ら苦しみを必要以上に大きくしてしまうことが多々あります。

多々ある…というか、ほとんどがそうなのではないでしょうか?

「案ずるより産むが易し」ということわざもありますが、実際に取り組んでいみると、「あれ?なんだ、もう済んじゃった」「この程度のことか」で終わることも多いわけです。

それなのに、さまざまに想像をたくましくして、悩み・ストレスを実寸大以上に仕立て上げ、結果、ますます、ストレス・悩みが大きくなる、という悪循環に陥っている人がほとんどだと思います。

そういうわけで、悩み・ストレスを実寸大で見ることですね、

ありのままに見ることを、仏法では「如実知見(にょじつちけん)」と言いますが、これはほんとに文字通り、「実の如しと知り見る」ということです。

如実に見ることによって、はじめて原因-結果の連鎖を見抜くことができるようになりますので、そうした「縁起の理」の観察にとっても、とても有効な練習になります。

全体性の回復

繰り返しになりますが、マインドフルネスを一概に否定したいわけではなく、それどころか、個人的にはマインドフルネスはとても優れた瞑想法だと思っています。

前回の補足を少ししておきますが、マインドフルネスの効果をひとことで言うならば、「全体性の回復」ということになるかな、と思います。

「全体性」とはなにか?なにやら、哲学的な響きではありますが、

これは実際、哲学的でもありますが、きわめて実践的な概念で、かつ、私たちがふつうに幸せに、ストレスレスに暮らしていくのに役立つ考え方でもあります。

私たちはともすれば、自分や他人、あるいは「世界」というものを個別的に考え、かつ実感してしまう傾向があります。

これは近現代の個人主義の影響も強いでしょうし、あとは、実際に「肉体をまとって生きている」という事実からくる影響ですね。これが一番、大きい。

肉体をまとって生きていると、快楽・痛み…など、まあひとことで言うと、「感受」ですね。

この、「感受」については、自分ひとり分しか実感することができません。まあ当たり前のことですね。

他人がどう感受しているか、どういう快楽であるのか?あるいは苦痛であるのか?というのは、特別な霊能者でもないかぎりは、せいぜい想像の域を超えていくことはできません。

要は、自分一人分しか「自分ごと」と認識することができない、ということですね。

こうした個々バラバラであるという意識が、「疎外感」「不安」「恐怖」「(自己防衛のための)批判」といった感情の原因になっているわけです。

ところが、世界の成り立ち、構成を考えてみると、個人個人、あるいは個々の存在がてんでバラバラに存在しているということはありえないのです。

これは倫理的に、「みんなが関わって、助け合い、影響を与えあっているんだね!それが地球!」という…、

まあキレイだけど、文字通り、キレイ事に聞こえてしまう…というものよりも、もっともっと深いものが実際にはあるんです。*まあ結論的には、同じことになるんですけどね。

そして、高次の真理としては、私たちひとりひとりも、空飛ぶ鳥も「全体の中の個」であり、「個と個が無限に関わり合い、響き合っている」世界であるのですが、

それがなかなか実感として腑に落とすことができないのが問題になっているわけです。

ハイデガーの『存在と時間』を手がかりに

そこで、マインドフルネスとはちょっとトピックがずれるようですが、「全体性の回復」「全体性への回帰」ということなので、そもそも存在とはなにか?ということを少し考えてみましょう。

存在とはなにか?「在る」ということはどういうことなのか?

この、「在る」とはそもそも何なのか?という問いをあらためて立てた人に、ハイデガーという哲学者がいます。「20世紀最大の哲学者」と言われています。

ハイデガーの著作は用語が独特で、文体が難解なので(まあ西洋哲学全般にそういう傾向がありますが)、一読して、「分かった!」というふうにはなかなかなりません。

正直言って、私がまともにハイデガーの主著『存在と時間』を読んでも、さっぱり分かりません。笑

全体性の回復

*今回はハイデガーそのものがテーマではないので、トピックに絞った範囲で書きますが、いつか、稿を改めて、「ハイデガー哲学の効能と限界」というのも書きます。

身近なたとえ話から入ってみましょう。そのほうが分かりやすいと思います。

たとえば、「空を飛んでいる鳥」を今、見ているとします(あるいは、「走っている猫」でもなんでも構わないです)。

そして、「あの鳥の「存在」」とは何なのだろう?と考え始めた自分がいます(いるとします)。

ここで、「鳥が空を飛んでいる」という言葉を分解してみると、

  • 鳥が:主語
  • 空を飛んでいる:述語

という構造になっていますね、ざっくりと。

まず、主語の方から考えてみると…、

「鳥が」(目の前の個別的な鳥ですね)と思った瞬間に、実は、その「鳥」の存在を見逃している、という側面があるんです。

なぜか??

「鳥が…」という言葉がなぜ出てくるかというと、それは私たちは先天的に(哲学では、「先験的(せんけんてき)」=経験に先立つもの、という言い方をします)、鳥と鳥以外の「違い」というものを感じているからでしょう。

もし世界が、「鳥だらけ」(今、目の前にいる鳥と同じ鳥です)であるならば、そもそも、「鳥が…」という言葉は出てこないはずですよね?

*だって、鳥しかいないんだから。「鳥」という言葉がそもそも生まれてくる余地もありませんね。このように、言語の起源は「区別」にあります。

*「区別」が究極の真理ではないので、仏教的に言うならば、区別=分別を超えた智を「無分別智」として最上の智慧・悟りとし、その状態では言語が消滅するとします、これを「戯論寂滅(けろんじゃくめつ)」と言います。

つまり、「鳥が…」と思ったまさにその瞬間に、じつは私たちは、その「鳥」を「鳥以外の様々な存在」との関係性において認識しているわけです。

また、鳥にもいろいろ種類がありますので、実際は「鳥が…」という言葉であったとしても、「あのスズメは…」といった言葉にも置き換えられますね。

この場合であっても、むろん、「スズメとスズメ以外の鳥」という「関係」においてスズメを認識しています。

さらにさらに。

今、見ているのは、まさに他の万羽と存在するいろいろなスズメと、「今、目の前にいるスズメ」との関係を無意識のうちに関連付けて、把握しています。

 「鳥が…」と思ったまさにその瞬間に、じつは私たちは、その「鳥」を「鳥以外の様々な存在」との関係性において認識している

と先に書きましたが、「認識」しているだけではなく、実際に「存在」としてそのようになっているわけです。

関係性においてしか認識できていない、ということは、裏を返せば、そもそも「存在」とは関連性のなかに存在しているのが真実の姿だから、です。

また、述語のほうも同様に考えることができます。

  • 鳥が:主語
  • 空を飛んでいる:述語

まず、「空を」という部分も、「空」と「空以外の存在の関係性」で捉えていますし、

それから、「飛んでいる」ですね。

「飛んでいる」という認識の仕方には、「電線に止まっている」とか「巣で眠っている」とか、それらさまざまな様態との関連性において、把握されています。

これは、時間の概念でもありますね。

 飛ぶ前の鳥(電線に止まっていたり)→空を飛んでいる鳥→やがてまたどこかで止まって休む鳥

といったふうに、

今現在の「空を飛んでいる鳥」という認識には必然的に、「飛ぶ前の鳥」という過去と、「飛び終わってどこかで休んでいる鳥」という未来との関係性における現在、という意識が働いているわけです。

「認識」とか「把握」「意識」と書いていますが、これは哲学っぽく認識する、ということではなく、ごく一般的に、「「鳥が飛んでいる」と思った」という、ごくごく平凡な「経験」のうちに、すでに存在を「関係性のうちに認識している」という意味です。

意識的、無意識的を問わず、にですね。

このように、個々のかけがえのない存在、たとえば、「あなたという存在」にしても、他の存在、たとえば、木々や葉っぱ、鳥、猫、大地…etc のありとあらゆる他の存在との関係性において存在している。

関係性において存在している、というより、「関係性の中にしか存在しえない」と言うほうが正確かもしれません。

そのように、関係・関係・関係…とたどりたどっていくと、結局、「全体」という概念にたどり着いてしまうことになりますね。

これが、ヘーゲルなどが言う、「真理は全体である」という言葉(認識)の本当の意味です。

さて、話が長くなりましたが、

結局、私たち一人ひとりも、一人ひとりが個別に、別個にあるわけではなく、時間的にも空間的にも、「全体の中の私」であり、「私と様々な私以外との関わりにおける私」というのが、存在というものの正体になっているわけです。

キレイ事でそう言ってみたい、ということではなく、論理として突き詰め突きつ詰めした必然としてそういう結論になるということです。

そして、これが真実であるならば、その「真実性へ意識を回帰させること」が必然的に幸福論の基礎になってきます。

真実性とは、今回のトピックに即して言えば、「全体性」ということになります。

呼吸瞑想で全体性へ回帰する

呼吸瞑想の順序として、

  1. 呼吸(お腹の膨らみ・凹みなど)に意識を集中する
  2. お腹周辺まで意識を拡大していく
  3. さらに、身体全体が呼吸である、呼吸こそ”われ”である。と観察する

という段階的な実践法がありますが。

これを進めていくと、自分が透明な空気袋になったかのような感覚に入っていきます。

さらに、「袋」すら溶けてなくなってしまい、自らも世界も区別がない感覚へ進んでいきます。

もちろん、ネオ仏法的には、「この段階ではいまだスピリチュアルな世界への参入が不十分」ということも言えるんですが(結論的には、これがマインドフルネスの限界でもありますが)、

この段階であっても、十分に「全体性への回帰」を体験することができます。

むしろ、スピリチュアル的な要素がいまだ入っていない分、汎用性があるとも言えますね。これが、Googleなどの世界的企業でマインドフルネスが研修として採用されている理由でもあるでしょう。

今回は前回の補足的な内容して、マインドフルネスのきわめて重要な側面を語ってみました。参考にしていただければ幸いです。

→続き 「小乗仏教(テーラワーダ仏教)では悟れない理由 – ①

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

【菩薩になる方法】無料プレゼント

関連記事

コメント

コメントする

目次