マインドフルネスを実践する前段階の”準備マインド”から始めてみましょう。
まずは、「そもそも、この世に生きることはストレスフルなものなんだ」ということを認めるところから始めます。
ここのところを、「人生は喜びに満ちているはず!」という前提から入ると、「喜びに満ちていない自分」にしょっちゅう愛想をつかして、また後戻りになってしまいます。
むろん、「喜びに満ちて」そのまま人生を漕ぎ渡っていける人はそれでよろしいかと思いますけどね。
この点については、「ぷち鬱になるくらいは当たり前」という記事に書いていますので、参考になさってください。
かんたんに要約すると、
釈尊がおっしゃるように、誰もが人生の「四苦八苦」からは逃れられない、という前提です。
「嫌な人と会う苦しみ」をきっかけに社交不安障害になったり、「愛する人と分かれる苦しみ」でトラウマを作ったり、そもそそも、「生まれてきたこと」そのものに根源的な不安を感じることもあるでしょう。
そして、こうした心理的経験を積み重ねていくうちに、「生きている圧力」にすら耐えづらくなり、ずぶずぶと、鬱のなかに沈んでいくこともあります。
このような書き方をしているということは、私(高田)にも当然、経験があるということです。
ひとくちに神経症と言っても、今(2020年時点)では、いろいろな病名がありますが、私の若いころは「不安神経症」か「うつ病」というおおざっぱな分類で、たいていは括られていたかと記憶しています。
*神経症と精神病は違う、というご意見もあるかもしれませんが、それは人間が作った「医学上の区分」ですので…。個人的な経験上、治し方に共通性がありましたので、とりあえず、ひとまとめで話を進めます。
「パニック障害」とか「社交不安障害」とか、あるいは、神経症ではないかもしれませんが、ADHDとか、そういう名称も当時はありませんでした。
私よりもさらに前の世代になると、世間一般では「ノイローゼ」か「ヒステリー」で片付けられていたのかな、と思います。
いずれにしても「そもそも、この世に生きることはストレスフルなものなんだ」ということを認めれば、「ストレスフルな自分」を特別視・罪悪視することがなくなり、その分だけ気持ちが楽になってきます。
感情や気分は「天気」のようなもの
釈尊の「生老病死」というのは、時間的な経過を現しているもので、一言でいえば「諸行無常」ということですね。
キリスト教的な文脈では、教父アウグスティヌスが主著『告白』で以下のように述べています。
見よ、そこに在るものは過ぎ去り、別のものがその後に現れる。このようにして、それぞれの部分からなる全体によってこの地上の世界は存立している。(第4巻第11章) *この翻訳は、『アウグスティヌス著作集5/1告白録(上)』(翻訳:宮谷宣史) による
この文章は、前半がいわば、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」にあたり、後半がいわば、「諸法無我(むが)」にあたるように思えます。
無常・無我を整理してみましょう。
- 無常:一切のものは過ぎ去っていく。変転変化の中にある(時間論)
- 無我:一切のものはそれ自体では存在できない。実体ではない(存在論)
おおざっぱに言えば、この無常と無我をミックスしたものが”空(くう)”であると、ネオ仏法では捉えています。
あらゆるものが変転・変化していくのに、固定的なものであると考えてしまうから、そこに苦しみが生まれます。
不安な気分・鬱な気分が出てきたときもそうです。
よくよく考えてみれば、いくら不安だの鬱だの言っても、一日のなか、あるいは一週間のスパンで心を観察すると、気分が高揚していたり、平安なときもあるはずです。
それなのに、不安・鬱な状態イコール自分、というふうに固定的に考えるから、よけいに辛くなってきます。
また、たとえば、純真な幼子に話しかけられると、今までの気分が嘘のように転換していくことがあります。
これは、”気分”というものが固定的・実体的なものではないことを示しているでしょう。
このように、気分は天気のようで、あるときは曇りで鬱々とし、あるときは晴々しているときもあるわけです。
天気の場合は、「自分ではない」と思うからこそ、曇が続いても「午後は晴れるかな?」くらいの気持ちであまり深く気にしないでしょう?
しかし、自らの気分のときは、やはり、気になってしまいます。それは、文字通り、自分の感情の”渦中”にいるからです。
逆に言えば、自分の気分・感情とは言え、一歩離れたポジションで「これも天気のようなもので、やがて過ぎ去っていくな…」と客観視すれば、だいぶ気が楽になります。
渦中に巻き込まれるのではなく、このように対象化してしまえば、それは”自分ごと”ではなくなりますので、この時点で不安・鬱からは離れている自分に気づくことがあります。
神経症の治療でむかしから有名な森田式療法では、「あるがまま」を重視しています。
私は受診はしたことはなく、森田式療法の解説書を読んだことがある程度ですが、一読して、「仏教とそっくりだ」と感じました。実際、森田式療法は仏教理論の影響を受けているようです。
「不安・鬱になったら困る」という意識でいると、兆候があらわれた瞬間に、「ほらきた」と思ってしまいます。
これを「予期不安」と言いますが、この「ほらきた」がさらに、不安・うつを呼び込んで、「あーあ、やっぱり今日も」となってしまいます。
しかし、不安や鬱がきても、天気を眺めるように、「ふーん、まあそういう時もあるかな。どっちでもいいや」と思うことです。
実際に、誰であっても、不安・鬱なときはあるのですが、いわゆる神経症・鬱病の場合は、不安・鬱の気分を特別視しすぎて、さらに自ら呼び込み、拡大しているというメカニズムです。
なので、特別視しないで「まあそういう時もあるかな、曇りですね」くらいの捉え方で行けば、これは「あるがまま」に受け流していくことができます。
以上、基本の心構えとして、
- そもそも人生は誰にとってもストレスフルなものであると認める
- 鬱・不安は天気のようなもので、特別視しない。気分もまた、無常・無我であり、実体ではない
ということですね。
「そう言われても、なかなかそう思えないよ」というところもあるでしょうが、そのために次回以降では、もう少し実践的な打ち手をご紹介していきます。
”空の論理”でベーシックマインドを強化する
感情は天気のようなもので、つねに移り変わっていきます。
そして、私たちは天気について”自分ごと”として悩むことはしないように、自分の感情についても、突き放した視点で、
たとえば、「あ、ちょっとザワザワしてるかな、でもまあ、そういうこともあるかな。この気持もまた過ぎ去っていくし、実体のないものなんだな」と捉えていくことができれば、これは”対処できている”ということになるわけです。
- 無常:過ぎ去っていく→時間論
- 無我:実体のないもの→存在論
ということで、
時間論的無常、存在論的無我の両者の視点で把握していきます。
時間において無常、存在において無我。
両者を合わせて、「一切皆空」と、”囚われ、執着”をバッサリ切って捨てていくわけです。
このように、「あってもなくても、別にどっちでもいい」というスタンスを手に入れれば、神経症特有の「予期不安」におおかた対処することができるようになります。
これが、森田式療法で言うところの「あるがまま」な心境に相当します。
これがベーシックマインドです。
このベーシックマインドを育てるために、上述した一切皆空(空の論理)が説かれている『般若心経』を読誦、習慣化することはけっこうポイント高いです。
「祈り/瞑想/読誦」に般若心経全文を載せています。
『般若心経』はわずか262文字のなかに”一切皆空”を筆頭に、基本的な仏教教学が詰まっていますので、毎日読誦することによって、仏教的価値観が身体に染み込むようになっていきます。
般若心経の解説については、「般若心経の悟りを超えて」シリーズをご参照ください。
このようにして、ベーシックマインドを育てていきます。
マインドフルネスで”こころのホームボタン”を手に入れる
上述したことは、”心構え”の範囲です。
これだけでもだいぶ気持ちはスッキリしてくるはずですが、さらに実践的に対処していく方法をお教えいたします。
神経症における予期不安というのは、「あ、今、不安が来つつある」ということで、実際はこれは誰しも不安感情を持つことはあるのですが、
神経症的な”予期不安”では、その初期的な不安感情を特別視しすぎて、かえって感情を拡大させてしまう(招き寄せてしまう)ところに特徴があります。
逆に言えば、「不安が来つつあるが、来ても撃退することができる」という自信と経験が備えられるようになれば、「いくらでも対処できる」という心構えが出来ますので、予期しても別にどうということはない、ということになりますね。
この自信がないからこそ、だんだんパニックになっていくわけです。
たとえば、スマホを操作していて、アプリを立ち上げすぎて、「わーっ!」となったとします。
その際、使っていないアプリをいちいち消していくのもありですが、いちばん簡単な方法は、”ホームボタン”を押してしまうことです。
そうすれば、デフォルトの(文字通り)ホーム画面に戻ることができます。
「戻れなくなってしまうかもしれない」と思うからこそ、「わーっ!」と混乱してくるのが予期不安状態ですが、仮に予期不安が起きても、「いつでも戻れるわ」ということであれば、それほど気にしなくてもすみますね。
この”ホームボタン”に相当するのがマインドフルネスです。
マインドフルネスと聞くと、これはこれでだいぶ訓練が必要…と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
マインドフルネスの実践法について様々な本がでていますが、基本的な方法論としてはとてもシンプルなんです。
そして実際のところ、”応用編”などはあまりやる必要もなく、基礎的なマインドフルネス、すなわち、”呼吸法”だけで必要にして十分です。
実際に、私自身もベーシックな呼吸法以外、ほとんど使っていません。
それで、「ざわついてきたかな??」と思っても、ベーシックな呼吸法(仕事しながらでもできます)を1分もやれば、すぐに平静・清澄なこころに戻ることができます。
いつでも戻ることができるから、「こころのホームボタン」であり、これを備えているから、こころのざわつきなど全くこわくないわけです。
マインドフルネスの実践方については以前も少し書いたことがあります。
*参考記事:マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)の効果と限界 – ①
やり方的には、(少なくとも私が実践している範囲は)この記事で書かれていることがほぼ全てです。
マインドフルネスの実践
繰り返しになりますが、とくに不安障害系については”予期不安”が最大の敵であり、これを克服することができれば9割撃退したも同然です。
不安の兆候(誰しも抱くような不安)がやってくると、「ほらきたっ!」とばかりに身構え、不安を見つめてしまいます。
そうして、不安をますます実体化し、さらに予期不安が強化され…というマイナスのフィードバックループに入ってしまうわけです。
つまりは、”ちょっと先の未来”に執われて、”いま現在”を犠牲にしている状況です。
なので、理論的には、意識を”今ここ”に集中させることができれば、予期不安から逃れていくことができる、というからくりになっています。
これがポイントです。
瞑想のために瞑想をやるのではなく、マインドフルネスの実践によって、まさに”今ここ”に意識を向けていくわけです。
悩みのほとんどは、先行きの心配とか過去への過度の執われから来ていますので、不安障害に限らず、悩み全般にマインドフルネスは効きます。
呼吸法とラベリングの実践
今、これを読みながら、実際にやってみましょう。
姿勢は、背筋を伸ばしているのが理想です。椅子に腰掛けても、床に正座もしくはあぐらでも構いません。
あぐらの場合は、若干、背中がまっすぐになりにくいですので、お尻の下にクッションなどを挟んで調整しましょう。
目は閉じていても、半眼でも、開いていても構いません。
「いま、マインドフルネス瞑想を実践するのだ」と、気をいったん引き締めるのが目的で、それによって眠気を防ぐ効果があります。
慣れたら、「いつでもどこでもできる」状態が理想ですので、とくに姿勢にこだわる必要はないと思います。
あくまで、一日のはじまりの瞑想で、マインドフルな状態のクセ付けをするのがベーシック呼吸法の目的です。
やり方はきわめて簡単で、鼻呼吸における息の出入りに意識を集中していきます。
この際、特別に深呼吸などする必要はありません。あくまで、通常の呼吸です。
「息の出入りに意識を集中」と言われても、コツがよく分からない方も多いと思います。
コツがあります。
息を吸うときに、息が鼻孔に触れていますよね?すーっとやや冷たい感じです。
息を吐くときは、鼻孔はやや温かい感じがするはずです。
ここの鼻孔に息がふれる感覚に意識を向けていきます。
さあ、「息の出入りに意識を集中する」を今すぐやってみましょう。まずは1分間やってみましょう。
…(1分経過)
どうでしたか?
正直、けっこう意識が逸れませんでしたか?
だけど、それでも良いのです。ここで、「あー、意識が逸れて、今日の昼ごはんのこと考えちゃった!」などと自分を責めないでください。
決してジャッジをしない、という方向で行きます。
それでは、気持ちが逸れた場合はどうするのか?
その場合は、まず、逸れていることをシッカリ意識します。
具体的に、心のなかで、「〇〇のことを考えている(思い浮かんだ)」というふうに確認作業をしていきます。
これをラベリングと言います。
ラベリングが済んだら、また呼吸の方へ意識を引き戻していきます。
意識が逸れるたびに、
ラベリング→呼吸へ意識を戻す
を繰り返していきます。
もう一度申し上げますが、「決して、自分をジャッジ(裁く)しないこと」が大事です。
そもそも、心とは色々なことが思い浮かんでしまうものなのです。
そして、実は、「意識が逸れたときはチャンス」でもあるのです。
「〇〇を考えていた」というふうに、ラベリングをすることによって、「想いを対象化する」ことができます。
じつはこれが狙いです。
悩みというものは、その悩んでいる内容と自分があまりに一体化している状態、執われている状態にある、という特徴がありますね。
ところが、ラベリングで、「自分は…〇〇と考えた」というふうに心のなかでつぶやくことによって、心の内容を対象化することができるのです。
自分自身を主体とし、悩みを客体と考えてみると、いわゆる”悩んでいる状態”というのは、あまりに悩みと自分が一体化している状態、主体と客体が渾然一体となっている状態であるはずです。
ところが、科学者が試験管を観察するように、「これは…〇〇だ」とラベリングをすると、
主体(意識)→客体(悩み)
といったふうに、分離させることができます。
この時点でアナタという存在は(ラベリングしているところの)主体の側にはっきり振り分けられた状態になります。
これは逆に言えば、”悩み”は客体側に自動的に振り分けられます。つまり、あなたの外に出ます。”あなたではないもの”になります。
これがポイントなのです。ここにおいて、あなたは”悩み”から離れることができます。
このように、
息の出入りに意識を集中→(意識が逸れたら)ラベリング→ふたたび、息の出入りに意識を集中
を、決めた時間だけ繰り返し続けていきます。
できたら、1日のはじめに最低5分でも実践すると良いです。その後一日の質が確実に上がっていることに気づくでしょう。
なお、呼吸そのものにあまりに集中できない場合は、”呼吸自体をラベリング”してみてください。
息の出入りのときに、
「入った」「出た」「入った」「出た」…
と繰り返していけばよいです。
それから、呼吸に意識を集中すること自体が苦手だ、という方は、お腹か胸に意識を向けてください。
呼吸するときに、お腹かもしくは胸がふくらんだり凹んだりしているはずです。
このふくらみ、凹みに意識を集中してみてください。
いずれにせよ、”つねにマインドフル(=気づいている)である”ことが大事です。
以上が基本の呼吸法です。
マインドフルネス応用
上記に挙げたのは基本の呼吸法です。
これでだいぶ落ち着くはずですが、日常生活に紛れていくと、またしても不安・悩みに囚われていくことがあります。
そういうときは、仕事や生活を一度止めて、1分くらいまた呼吸法をやってみてください。
会社のなかであれば、PCを打つタイピングの手をとめて、やや薄目にして、1分間呼吸法を実践します。
そうすると、落ち着いた状態にほぼ戻れるはずです。
呼吸法の応用としては、歩行瞑想というものがあります。歩行瞑想は文字通り、歩いているときに適した瞑想です。
呼吸のかわりに、地面を踏みしめる感覚に意識を集中していきます。
地面を踏みしめるときに、足の底に圧力がきますよね。その圧力感に意識を集中します。
むろん、意識がそれたら、ラベリングをしていきます。
右足圧→左足圧→ラベリング→右足圧→左圧→…
というふうに。
要は、マインドフルネスというのは、”今ここ”に意識を集中する習慣づけなのです。
たいていの人の意識は”今ここ”にありません。
ちょっと先のことを考えて不安に陥ったり、過去のことを反芻していたりします。
先のことを考えていてもそれは「思考する」とは違いますし、また、過去のことを考えていても、「内省している」とは言えない場合がほとんどです。
思考や内省も立派な瞑想ですし、むしろ瞑想の中級編とも言うべきものですが、これらは”不安・悩み”の状態とはぜんぜん別モノです。
たとえば、ご飯を食べる時、
「白米が口のなかに入って、舌が甘みをとらえる瞬間」を味わっていますか?
そこにしっかり「気づいて」いるのであれば、あなたは”今ここ”に生きています。おそらく、悩みや不安・恐怖からは離れて平穏な心境にいるはずです。
このように、呼吸法以外にも無限の応用余地があります。
- 扉を開ける時、ドアノブのひんやりした感触を味わう
- 洗面で顔を洗う時、皮膚に水がふれる瞬間を味わう
- タオルをつかむとき、そのザラッとした感触を味わう
- シャワーを浴びている時、シャワーのお湯が肩にあたる感触を味わう
などなど、呼吸以外にもじつはいくらでも応用の余地があります。
このように、マインドフルネスを実践していると、いわば”心のホームボタン”を手に入れたも同然です。
不安・恐怖・心配事の兆候がでてきても、そのまま予期不安に巻き込まれ、マイナスのフィードバックループに入ることが次第になくなっていきます。
兆候がでたら、心静かに呼吸法などで対処できるようになってきます。
そうすると、不安が仮にやってきても、「私にはホームボタンがあるので、いつでもリセットできる」という自信で、不安そのものに巻き込まれることがなくなります。予期不安が怖くなくなります。
少なくとも目に見えて減ってくることでしょう。
今回、ご紹介したマインドフルネス実践について、「参考書が欲しい!」という方には、『マインドフルネスストレス低減法』(ジョン・カバットジン著)をお勧めします。
マインドフルネス系の本はやたらと精神論や仏教理論を並べただけで、「で、結局、どうやるの?」が分からないものが結構あるのですが、この本は具体的な方法論がキチンと書かれていて、とても参考になります。
”仕事”は人間の本質である
神経症・うつ病で「仕事ができなくなってしまった」ということがあるかもしれません。
場合によっては、生活保護などを受けることもあるでしょう。
それはそれで、緊急避難的な意味でやむを得ないことだと私も思います。
しかし一方、では、ずっと仕事をしないで休息をとっていれば、神経症・うつ病が治るかというと、「それも難しい」というのが本当のところだと思います。
スイスの聖人と言われたカール・ヒルティは主著『幸福論』で、神経症について興味深い観察と考察を書き綴っています。
スイスは今でもそうですが、ヨーロッパの中でも避暑地・保養地として有名ですよね。
ヨーロッパは近代に入ってから、アジア・アフリカ・中東諸国への植民地政策を推し進めてきました。
結果、上流階級はいわゆる「有閑階級」と化していきました。
ヒルティの観察によると、有産階級が増えればふえるほど、スイスへ「保養」へ来る人数が増えてくる。
夏の間だけかと思っていたら、しだいに年がら年中「保養」しにくるようになった。
では、それだけ保養して快方に向かっているかというと、「そうでもない」ということなのです。
少し長いですけど、引用してみます。
われわれは現に毎年、かれらがその精神的寂寥と倦怠をわがスイスの山々やその療養地に持ちこんできて、むなしく心機の回復を期待するのを目撃する。以前にはそれも夏だけでよかった。なんとか身体を使って少なくともいっときだけでもその病気たる懶惰から回復しようとした。いまでは冬もこれに加わった。かれらによってわが最も美しい渓谷はすでに病院と化した感があるが、この病院も近いうちに、この随所に休養を求めてどこにもそれを見出だせないよるべなき群衆のために、年中開業ということになるであろう。ーーそれというのもかれらが、休息を勤労の中に求めないからである。「あなたは六日のあいだ働かなければならない。」(出エジプト34:12)それより少なくても、多くても不可である。この処方によって、現代のたいがいの神経病は、先祖代々仕事をしない血統が遺伝でもしないかぎりは、治癒するだろうし、大部分の療養所の医師や精神科医は、その患者を失うことであろう。人生は決してこれを「享楽」しようと思ってはならぬ。これが実を結ぶように形成しようと願わなければならない。これを悟らない者は、すでに精神的健康を失っているのである。
(『幸福論Ⅰ』「仕事をするこつ」カール・ヒルティ著・白水社版より引用)
ここには、「絶えざる休息の中には精神の健康はありえない。人生には適度で有意義な仕事がどうしても必要である」というヒルティの観察・幸福観の一端をみることができます。
もちろん、だからと言って、ストレスフルな仕事環境に赴くのは逆効果であるのも確かなことでしょう。
あくまで、「適度な」仕事が大事ということです。
ヒルティはその根拠を(引用では)旧約聖書の”出エジプト”に求めていますが、私はそれとは違った角度から考察してみたいと思います。
ネオ仏法では、「人間の本質は”実存エネルギー”であり、そのエネルギーは肉体の死後も存続する」という考え方を展開しております。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
さて、エネルギーのエネルギーたる所以(ゆえん)は、「常に何らかの作用を外部に及ぼしている」という点にあります。
実際に、”エネルギー”は語源的にも、「仕事をするちから」のことであるのです。
つまり、私たちにとって、「仕事」は食べるためにやむを得ずにするというよりも(もちろんそうした側面もありますが)、ずっと私たち自身の本質に関わってくることなのです。
実際に、「魂の進化の果て」は、あたかも太陽がつねにその光と熱を放射し続けているように、”エネルギーが作用し続けている”もしくは、”作用そのものと化している”状態であると言えます。
そうであるならば、本質はまさに本質であるが所以(ゆえん)に従うことが幸福論の基礎である、そしてそれは”仕事”であるということになるでしょう。
仕事というのは、必ずしも「金銭に換算されるもの」である必要はありません。
「作用を及ぼすこと」すなわち、何らかの善き付加価値をもたらすものであればそれは「仕事である」と言えるかと思います。
なので、主婦であるならば主婦業、あるいは(環境によっては)家事手伝いも”役に立つ付加価値を生んでいる”ということでこれは立派な”仕事”であります。
また、学生は「勉強が本分」と言いますが、これも一生を通じた仕事の準備段階ということで、やはり仕事の一部であると言えるでしょう。
しかし、さきに述べたように、いきなりストレスフルな仕事に復帰することが逆効果であることもあるでしょう。
現代では、働き方が多様化していますので、たとえば、外注サイトに登録して、「一日の一定の時間、単純作業に従事する」というのも有力な選択肢であると思います。
あるいは、「一日の一定時間、家事の手伝いをする」ということでも良いでしょう。
いずれにしても、とりあえずは無理のない範囲で、「自らの本質に従った有り様である仕事に従事している」ということが、精神の健康のために肝要であると言えるかと思います。
休息をとるにしても、「仕事とのバランスにおける休息」ということですね、ぜひこの観点を見直してみてください。
なお、今回ご紹介したカール・ヒルティには神経症治癒に特化した著作、『心の病を癒す生活術』もありますので、一読をお勧めいたします。
次回は今一度、スピリチュアルな観点から神経症・うつ病の克服について考えてみます。
心療内科の受診について
神経症やうつ病になっても、「恥ずかしい」という思いから、医者にかかったり薬を飲むことに抵抗を覚える人もいます。
このこと自体は、気持ちはよく分かります。
やはり、心療内科などにかかっているという事実だけで、一種の”弱さ”を認めてしまうような気分になるからですね。
ただそういう状態で無理を重ねていくと、かえって心的外傷を拡げていく一方になってしまうリスクがあります。
なので、ここはあまりプライドにこだわらずに、あまり辛いようであれば、心療内科などを受診したほうが良いと思います。
とりあえずは、今現在の”人類の英知の積み重ね”のちからを借りることは恥ずかしいことではなく、むしろ二人三脚で進んでいったほうがいいと思いますね。
仏教には、色心不二(しきしんふに)という言葉がありまして、これは、「肉体と心が相互に影響を与えあっている」という意味です。
なので、フィジカル(肉体面)のほうからも応援を托むのはぜんぜん悪いことではありません。
ここでもカール・ヒルティの言葉を引用してみます。
病気の時にもっぱら「医者を求める」ばかりでは、今日でも救いはいぜんとして見いだしえない。その反面、すべての他の禍いに対してと同様に、病気に対しても一切の可能な、条理にかなった手段を講ずることは、疑いもなく義務である。そして、医者や薬が得られるのにそれを用いようとしない、静観的神秘主義の行き過ぎは、神に対する忘恩であり、その定めたもうた秩序に対する反抗である。神は通常奇跡によってではなく、人間的な手段によって助けを与えるよう定めたもうたからである。(『幸福論Ⅲ』「病者の救い」より)
*翻訳は白水社版による
世界にある様々な営みは、スピリチュアル – スピリチュアルでないもの、というふうに二分化できるものではありません。
スピリチュアル ー霊的であることー は、実際は、全てのすべてであり、この世の事象と言えど、”真理スピリチュアル”のひとつの現れに過ぎません。
その観点から行くと、医療というものも(それが有効な治療法であれば)、真理スピリチュアルの表現形式の一部なんです。神から流れ出してきているもの。
実際、医療関係を専門に扱っている菩薩もおります。真理スピリチュアルから切り離して、現象界のみで単独でなにかが発明されるということはありえません。
もちろん、よく言われているように、薬というのはい多かれ少なかれ、副作用を伴うものです。なので、いわば”緊急避難””支援”として使用する、ということになりますけどね。
受診についてはセカンドオピニオンにも気を配りましょう。
人間は自由意志を持っているがゆえに、必ずしも善とは言えない方向へ行くこともあります。
これはつまり、”イマイチ”な医者もいるということなんですけどね。
なかには、医療点数を稼ぐために、依存性の高い薬をその必要はさほどなくても、処方し続ける医者もいます。
あとは、事務処理的にのみ仕事をしているタイプの医者も残念ながらいます。
私たち素人にとって、医者の見分け方は、「その医者の人柄が良いかどうか?」がひとつの目安です。人として信頼できそうか?ということですね。
信頼できる主治医が見つかったら、アドバイスに従って、二人三脚で進む気持ちで治療していきます。
最終的にはもちろん薬に頼らない方向のほうが良いに決まっていますので、主治医と相談しながら、依存性の高い薬の使用率を徐々に減らして、依存性の低い薬の比率を増やしていきます。
生活スタイルについて
神経症・うつ病にかかる場合、自分の尊厳への自覚、プライドですね、これが薄れている場合があります。
あるいは、プライドが変形して、神経症・うつ病になることでひとつの”自己実現”としている場合もあります。
なので、生活スタイルにおいて、正当なプライドを保つことも大事です。
どのようにしてプライドを回復し、保つか?
これは、「自分に対する約束を守る」というのが、ある意味、回復法のすべてです。
かと言って、むろん、あまりに大きな約束をするのは無茶ですし、(自分に対して)誠実なことでもありません。
今の自分にとって、「これを行ったら、確実に自分の人生を進歩させるもの」を考えて、少しつづ実践していきましょう。
たとえば、「ストレッチをやってみる」ということを決めたとします。
いきなり30分…と言わずに、まずは5分なり、2-3分から始めてみましょう。
「とにかく、一日3分はストレッチをやる。自分の人生の質をあげるために取り組む」とまずは決めたとします。
決めたら次に大切なことは、「その実践のための時間をあらかじめ取り分けてしまう」のがコツです。
「気分が乗ったらやろう」というモチベーション頼みでは、どんなことでも続けていくことはできません。
当たり前ですが、「気分が乗らない時」もあるからです。
できたら、一日のはじめに、起きた直後に、その”3分のストレッチ”を片付けてしまいましょう。
24時間のうち、その”3分”をあらかじめ天引きして、「生活は、残りの23時間57分で行う」という感覚です。
試しに、今ここで、とりあえず自己流で構わないので、3分のストレッチをやってみましょう。
そして、
- ストレッチを始める前の心境
- ストレッチ終了後の心境
を比べてみてください。
ストレッチを終えたあと、若干、気分が上がっていませんか?
これはストレッチそのものの効果もあるでしょうが、
大きくは、「自分で決めたことを自分はやった」「自分に対する約束を守った」ということで、”プライドが満たされる”という報酬を受け取っているのです。
この報酬が「自分は価値ある人間である」というセルフイメージを高めることになります。
毎日、歯を磨いて人であれば、歯を磨かないとなんだか気持ちわるく感じますよね?
それと同じように、生理的レベルで、「3分のストレッチをやっていないとなんだか気持ちわるい」というレベルまで続けていきます。これがいわゆる”習慣化”です。
このように、モチベーションに頼るのではなく、
- 時間の天引き(取り分け)
- 仕組み化(朝、起きた瞬間に始める、など)
という、”習慣化”に頼るのがコツです。
「自分に対する約束をして、それを守っている」という静かなプライドが精神を健全にしていきます。
まずは心静かに、「なにを実践したら、自分は自分の人生の質を高めることができるか?」を考えてみて、
次に、それを時間天引き法を使って、習慣化に取り組んでみてください。
このようにして、「小さな約束」から始めて、「正当なプライド」を強化していきます。
「わずか、1日3分」を変えるだけで、「一日の質」「人生の質」が高まってくることが実感できるはずです。
そして、最初にして最後のもの、最大のものはやはり、「神の側近くにあること」です。
「主よ、お助けください」という単純な言葉を信仰をもって表白し、そして「恐れるな、ただ信ぜよ」という答えから平安を受け取りえた人は、沈鬱症のなかから、死に向かってではなくて生命に向かって行き、自分の必要とするものを見いだす。(カール・ヒルティ『幸福論Ⅲ』「病者の救い」より)*翻訳は白水社版
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