ウォレスとダーウィンの進化論の違い – ダーウィンの間違いと進化論の真実を解き明かす

ダーウィン ウォレス 進化論 , The Difference Between Wallace and Darwin's Theory of Evolution

ダーウィンの進化論と言えば、ほぼ完全にデフォルトとなっている感があります。

ダーウィンの進化論は生物学の分野に留まらず、科学一般、社会学、心理学、歴史学…はたまた学問を超えて、世間一般の思考様式にまで影響を与えています。

宗教、とくに神の創造論を信奉する宗教(セム的一神教など)にとっても、驚異と言いますか、かなりやっかいな代物ですよね。

とくに20世紀以降では、ダーウィンの進化論はマルクスの唯物史観(マルクス主義)と並んで絶大な影響を奮って来ていると言ってもいいでしょう。

*マルキシズムも、表向きは消え去ろうとしていますが、トマ・ピケティなどに姿を変えて、ところどころ復活したり、また唯物論的な影響は未だに根強いと言えます。

ただ、結論的に言えば、ダーウィンの進化論はすべてとは言わないにしても、その本質は間違っております。

そして、タイトルに掲げたウォレス(ウォーレス)が発見した進化論をダーウィンが剽窃(ひょうせつ)した事実があります。

本稿では、ダーウィンとウォレスの進化論を検証しつつ、進化論そのものの真実を霊的次元からも考察し、真実を解き明かしてみたいと思います。

目次

ウォレスの発見した進化論を剽窃したダーウィン

以下、ウォレスとダーウィン、彼らの関係性については、『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝』あるいは、同じく渡部昇一氏の著作、『魂は、あるか?~「死ぬこと」についての考察~』の知見に負っていることをお断りしておきます。

本項目はこの両著(とくに前者)に書かれている内容を超簡略的に要約したものに過ぎませんので、詳しいことを知りたい方は直接、渡部氏の著作にあたってみてください。

ウォレス伝

魂は、あるか?

「分岐の法則」の発見

ウォレス(アルフレッド・ラッセル・ウォレス)はダーウィンより20歳くらい若いイギリス人です。

ウォレスは25才前後にブラジルはアマゾンの奥地まで動植物を探求に出かけています。それで何千種かの新種を発見してイギリスに還ってきているのですね。

さらに30歳ごろには、ひとりでマレー諸島にまで出かけて採集を行っております。

ウォレスはロンボック島というところで、がらりと動植物が変わることに気づき、「ここからはアジア系」「ここからはオーストラリア系」というふうなラインを発見します。これが「ウォレス・ライン」と言われる線です。

更にその後、サラワク(今のブルネイ)というところに行っております。

そこでウォレスは重大な発見をします。

すなわち、「あらゆる種は、その種の前の種と極めて似ていて、必ず同時に存在している」という事実です。

これを発見して、論文にして尊敬する先輩であるダーウィンに送ったのです。

この発見は、ダーウィンが20数年間、採集生活をしながらも、気づかなった視点だったので、ダーウィンは驚きました。

ウォレスの発見は結局、どういうことかと言いますと、次のようなことです。

ある種から変種ができる。そしてその変種からまた変種ができる。…これをずっと繰り返していくと、ついには別の種になるのではないか?という仮説です。

これを生物学では「分岐の法則」と現在では呼ばれていますが、ウォレスが最初にこれを発見したというわけです。

「自然淘汰の原理」の発見

ウォレスはさらに4年後、テルテナという島に行きますが、そこでマラリアに罹ってしまいます。

そこで熱にうなされながら、あることに気づきました。

昆虫が産む卵というのは膨大なものですが、卵からかえった幼虫はすべて生き残るわけではないですよね。あるものは食われ、あるものは生き残る。

これは、生き残った方は生き残らなかった方より、わずかに良い特徴を持っているのではないか、ということをウォレスは考えたのです。

これが有名な「自然淘汰の原理」です。

ウォレスはそれでまた論文を書いてダーウィンに送りました。そこでダーウィンはまたびっくりするわけです。

ダーウィン『種の起源」の発表と「リンネ学会」

以上のような経過がありまして、ダーウィンは非常に困ってしまいました。

自らも何十年もやってきて気づかなかった生物学の重要な法則を、後輩のウォレスが先に発見してしまった。それも、すでに立派な論文になっている。

そこでダーウィンは慌てて有名な『種の起源」を書いたのですね。

種の起原

ところで、ダーウィンも困ってしまいましたが、ダーウィンの友人たちもダーウィンに同情して、「何とかダーウィンにプライオリティを与えられないものか?」と必死に考えたのです。

そこで、『種の起源』に少し遡って、1858年の「リンネ学会」というところで、進化論をダーウィンとウォレスの共同発表というかたちにしたのです。

ところが1980年にブラックマンというジャーナリストが、このリンネ学会のからくりに気づいたのです。

ブラックマンは、リンネ学会の会議録に当たってみたのですね。そこで重要なことに気づきます。

リンネ学会はさきに申し上げた通り、ダーウィンとウォレスの共同発表というかたちになっていますが、実際は、ダーウィンは自分が研究したものをちょこちょこと発表したくらいだった。

対して、ウォレスのほうは完璧な論文だった、という事実です。

そして、そのリンネ学会の前後の期間、ダーウィンとウォレスがやり取りした手紙が全部、消失しているという事実にも気づきます。

こららの手紙については、ダーウィンというより、ダーウィンの息子のサー・フランシス・ダーウィンが処分したのであろう、と言われています。

この人は、ダーウィンが書いた自叙伝にもかなり手を入れているようです。

息子としても、「進化論」の発見に自分の父親にプライオリティを与えたかったのですね。

ただ、リンネ学会の議事録はさすがに消去できませんので、これは残ってしまった。

そうした経緯をブラックマンは発見して、『ダーウィンに消された男』という本を書いたのです(原題は、” A Delicate Arrangement”)。

ダーウィンに消された男

ところで、こうした騒動(?)をウォレスはまったく知りません。

どころか、『種の起源』をダーウィンから受け取ると、「ダーウィン先生と自分の意見が一致した!」と大喜びした。底なしの人の良さですよね…。

ウォレスによる「野蛮人」の考察

ところで、マレー島で、当時「野蛮人(サベッジズ)」と呼ばれている人たちに囲まれて生活していたウォレスは奇妙なことに気づきます。

それは、たとえば、警察もなにもないところに居るにも関わらず、ウォレスは無事、生活できている、犯罪が起きないということ、それから、現地の人たちは商売をやっていても、「ごまかし」を決してしないという事実です。

そこで、ウォレスは、彼ら「野蛮人」は道徳的に、文明人より劣っているわけではないのではないか、という洞察をするのですね。

実はこうした洞察はダーウィンも気づきかけていたことで、『ビーグル号航海記』などにも触れているようです。

ビーグル号航海記

とくにウォレスの書いたものは当時にしては珍しく「野蛮人」に対する軽蔑的な表現・発想は見当たらないようです。

そういう意味でも、ダーウィンではなく、「ウォレスこそが進化論の考案者だった」ということになっていれば、のちのナチス・ドイツなどが使った優生思想もなかったかもしれないのです。

欧米人による帝国主義、植民地支配なども、多かれ少なかれ、「我々が野蛮人を教化しているのだ」という傲慢な発想がベースにあったことでしょう。

ウォレスとスピリチュアリズム

『種の起源』が出たのは1858年ですが、その4年後、1962年にウォレスはイギリスに戻ってきました。

そこで、ウォレスは奇妙な体験をし始めます。

それは、ロンドンで当時流行っていた「スピリチュアリズム」です。

好奇心の旺盛なウォレスは、心霊現象などが行われているところに何度か出向いていき、ついには、「インチキではありえない、たしかに心霊現象は存在する」と確信していったのですね。そして、そうしたことも文章化しています。

現在でも、ブラックマンの著作などが出ているにも関わらず、進化論の功労者がウォレスになっていないのは、こうした「スピリチュアリズムへの傾倒」も理由のひとつであるかもしれません。

ウォレスの「進化論二段階説」

そうした心霊現象、オカルティズムへの確信もありまして、ウォレスは、人間については進化論の「自然淘汰」では説明がつかないところがあるのではないか?と気づいてきます。

人間については体の進化は早い時期に止まって、肉体の進化は終わっている。

自然淘汰については、「発達の必要性」があるから行われているものであって、人間の脳や言語というものは、そうした必要性からあまりにも飛躍している、と考えたのです。

ハッキリ言えば、GODから不死の霊魂が入ってきたとしか説明ができない、ということで、人間については「霊的進化論」を取り入れていったのです。

この点においても、ダーウィンではなく「ウォレスの進化論」が主流になっていれば、そののちの唯物論の席巻ももっと軽症で済んだのではないか、と残念でたまりません。

唯物進化論から霊的進化論へ

さて、ウォレスについて長々と書きましたが、進化論について霊的次元からの洞察も含めて考察してみたいと思います。

「分岐の法則」「自然淘汰」も実は霊的次元が先立つ

結論はこの見出しのとおりです。

ウォレスが発見した「分岐の法則」「自然淘汰」説は事実ではあるのですが、実際のところは、霊的次元まで含めて考える必要があるのです。

どういうことかと申しますと、

ある環境の中で、さらにより良く適応していこうという”意思”があって、形態や機能の変化が徐々になされていくわけですが、”意思”というのはそもそも物質ではなくて、精神の領域、霊的次元に属しているのです。

人間も生物全般も、現象界(この世)では肉体(形態)を纏っていますが、霊的次元においては、幾重もの霊的ボディを備えているのですね。

幾重もの霊的ボディは、霊格が上がるにつれてだんだんと純化していき、最終的には神の生命そのものと一致していきます。衣を一枚一枚脱いでいって、やっと本当の自分(=裸)が現れるといった具合です。

霊格と霊的ボディの関係性については、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:霊格の段階(魂のレベル・階層)一覧と霊格を上げるための公式とは?

さて、その幾重もの霊的ボディは、神智学の用語を借りると、まずは、肉体を脱いだところに”エーテル体”という霊的ボディが現れてきます。

エーテル体は、より高次の霊的ボディと肉体を繋ぐ役割を果たしています。人間で言えば、臓器とか脳の機能のいわば”青写真”がエーテル体に備わっているのです。

現象界で環境の変化などが起きると、「より良く適応していきたい」という意思が発せられます。

その意思がまずはエーテル体にレスポンスされて、エーテル体内部の諸器官に変化をもたらすのです。

そして、エーテル体の変化がだんだんと肉体に反映されていくという順序をとります。これが実は、「進化」の本当の順序なのです。

このように、大事なポイントは、進化において、まずは霊的次元が先立つ、という真実です。

適応と創造の原理

個体がどのように環境に対して適応していくか?については上述の通りなのですが、実は「新たな種」の誕生には他の経過を辿ることもあります。

そのひとつが、聖書で言われている「神による創造」です。

神という言葉に抵抗があるのであれば、要は、”高次の神的実在”ということですね。実在性には諸々の段階があり、下は現象界から、霊的次元に入り、だんだんと「究極の霊的実体」に近づいていくのです。

なので、創造というのは必ずしも宗教で言うところの「至高神」によってなされるわけでもなくて、至高神に至る前の段階のさまざまな神的存在によってなされることが多いのです。

それこそ聖書に書かれてある通り、「光あれ」と言ったふうに、「これこれこうした存在あれ!」という意思が発せられると、新たな生物種が創造されるのです。

もちろん、この創造もまずは霊的次元で行われ、それが次の段階で、現象界(この世)に反映されていくという順序です。

あとは…、宇宙のことを語るのは私の任を超えているのですけれど、あえて少し語っておきますね。これは仮説として受け止めてください(が、おそらく真実だと思います)。

要は、さまざまな惑星から、地球に移住してくる生物がいるということです。

たとえば、うさぎ型宇宙人がいるとしますね。外見は地球で言うところのうさぎですが、中身は高度な知的生命体です。

ところが、地球に移住してくるということは、うさぎの姿でいるのは変ですので、地球人型の肉体に宿ることになります。

その際に、”うさぎ”部分のエーテル体が霊界に残されて、そのいわば「うさぎアストラル体」を、地球オリジナルの霊体としての生物が借用することがあるのです。

そして、現象界にわれわれが目にしている動物としての”うさぎ”が誕生する、という経緯です。

まとめ

このように、進化論は、実際は霊的次元を含めて考察しないと本当のところは分からないのです。現代の科学レベルではまだ霊的次元の解明までメスを入れるレベルに達していないだけです。

科学が今以上に進歩を続けていくと、やがて霊的次元の解明に突入していく時期がやってくるでしょう。

何万光年も離れた惑星から宇宙人が地球へ飛来してくることができるのは、3次元(現象界)的な縦・横・高さの原理だけでは無理筋で、実際は、時間軸というもう一つの次元を使ってくるのです。これがいわゆる、”ワープ”です。

ワープは霊的次元なのです。

ゆえに、地球の科学もやがては、霊的次元の解明に突入していく時代が来るでしょう。そこではじめて本格的な宇宙時代を迎えることができることになります。

話が大きくなりすぎてしまいましたが…、

結論としては、真実の進化論は下記の3通りであるということになります。

  1. 個体としての生物が環境適応のため、エーテル体を変化させ、それがだんだんと現象界に現れて、別種となる(分岐の法則)
  2. 上位の神的実在の意思により、新規のエーテル体が創造され、それが現象界に現れる
  3. 移住してくる宇宙人のエーテル体を地球由来の生物が間借りして、現象界に新種が誕生する

いずれにしても、進化論は唯物的に行われるのではなく、霊的次元が先立つ、という観点が大事です。

上記の2.のパターンでは、聖書とも矛盾しません。

つまり、このネオ仏法の進化論を採用すれば、進化論とキリスト教神学を一致させることが可能になってくるのです。

結論は以上のとおりですが、ダーウィンとウォレスの話に戻すと、結局、ウォレスの洞察のほうが先であったばかりでなく、スピリチュアリズムに踏み込んでいるという理由で、真実の進化論であったということです。

もちろん、時代的制約はありましたけどね。

なかなか、「ネオ仏法の進化論までは受け入れがたい」と思われるかもしれませんが、まずは、「真実の進化論はダーウィンを捨ててウォレス説を採用することから再スタートする」ということを提唱したいと思います。

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