宗教間で争いが起こる理由は「宗教があるから」?
宗教戦争について、日本人が論じるとかならず出てくるのが、「そもそも宗教があるのがいけないのでは?」という意見です。
自覚的には、「無宗教である」ということをむしろ”知性の証明”、”進歩している証拠”であるかのように感じてしまう日本人特有の意見であるとも言えると思います。
しかしこれは、「ナイフがあるから殺人事件があるのだ。だから、ナイフをなくすべきだ」と言っているのと同じ論法です。
ナイフは(少なくとも調理用のナイフは)、人を殺す目的で作られているわけではないのですが、実際にはナイフを使った殺人事件というのは起きてしまいますね。
でも、だからと言って、「では、ナイフを世の中から一掃しよう!」などという意見は出てこないでしょう。
それは、上述したように、ナイフというのはそもそもが、人を殺す目的で発明・生産されているのではない、というのが理由です。
それと同様に、ひとつひとつの宗教というものも、一部のカルト宗教を除けば、「人を殺す目的」で立宗されているはずはありません。
少なくとも、キリスト教、イスラム教、仏教など、メジャーな世界的宗教はそうです。
なので、上述したナイフ理論でいけば、「そもそも、宗教があるから宗教戦争が起きるのだ」という意見は、やはり、筋違いであるのです。
日本以外では、「宗教はあらゆる倫理の基礎になっている」というのがむしろメジャーな宗教観でしょう。

実際に、ドイツの下宿では「無宗教者には部屋を貸さない」というところも多いと聞きます。
これはどうしてかと言うと、「宗教が倫理の基礎になっているのであるから、無宗教のひとは倫理的基礎を持っていない、したがって、何をするか分からない」という恐怖感があるからです。
むしろ、この感覚のほうがグローバル的に見れば、多数派であることを知るべきでしょう。
倫理的基礎といえば、かの哲学者カントも主著のひとつである『実践理性批判』において、「神は証明できないが、われわれの実践的な理性が神を要請するのだ」という趣旨のことを述べています。

カント的には、”道徳律”と呼んでいますが、これはまあ倫理のことですね。倫理のベースには神、宗教が要請されるとカントも分析しているわけです。
したがって、宗教戦争がなぜ起きるか?宗教間の対立の原因については、やはり、べつの観点から検討していく必要があります。
神は多くの名前を持つ
いくつかの記事で書きましたが、究極の神は本来ひとつの存在です。
この本源的な存在は宗教によってさまざまに呼ばれています。
- 仏教:法身仏(ほっしんぶつ/釈尊の本質部分)、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)あるいは大日如来
*主に華厳経において毘盧遮那仏、密教において大日如来と呼ばれる - キリスト教:天にまします父、主、創造主
- イスラム教:アッラー
つまり、神はひとつなのだけれど、いろいろな名前で呼ばれていると理解することもできるのです。
一なる神があるのだけども、それがエネルギー分化して地上に顕現する際に、さまざまな名前や姿をとる。あるいは、時代性・地域性を考慮してそれに応じた現れ(応答)の仕方をするということです。
こうした考え方は”宗教多元主義”と呼ばれておりまして、ジョン・ヒックの『宗教多元主義』などの著作が有名です。『神は多くの名前を持つ』という文字通りの意味の著作もあります。

結論的には、このように宗教多元主義的に考えれば、宗教間の対立・紛争・戦争はその根拠を失い、地上から姿を消していくはずです。
当サイト(ネオ仏法)でも、この宗教多元主義の考え方を採用しております。
*参考記事(固定故記事):ネオ仏法とは
黄金律(ゴールデンルール)と対機説法の取り違え
それでは、なぜ上記のように、宗教多元主義的に考えることが難しくなってしまっているのでしょうか?
それは、各宗教で説かれている教えの内容が一見したところ違っているのが原因でしょう。また、上述したとおり、神の名前も違ったふうに呼ばれている、という側面もあるでしょう。
そこで、「教えが違って見えるのはなぜか?」というところを探求してみましょう。
上述したとおり、神は地域性・時代性を考慮してそれに応じた顕現の仕方をします。「神は歴史的に人類に応答している」のです。

人間の理性では、神の全貌をいちどきに把握することが不可能なので、そうした現れ方をします。また、そのように現れないと、そもそも救済力が失われてしまいますよね。
こうした神のさまざまな顕現の仕方というのは、説法する対象に合わせて現れる/教えを説くということで、大きな意味での”対機説法(たいきせっぽう)”に相当すると言えるのではないでしょうか。
説法にはどこかしら、そうした対機説法的な特殊性が含まれております。
ところが、説法の中には、そういった特殊性を抜きにしても、過去・現在・未来を通じて、そして地域性を超えて通用する教え、いわば黄金律(ゴールデンルール)というべきものが存在します。
黄金律(ゴールデンルール)というのは、一般的には、聖書の一節ですね、
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
(マタイ7:12)
この一節を指す場合が基本なのですが、ここから派生して、
時代性・地域性を超えて通用する原理原則を指す場合もあります。今回は広く、後者の意味で”黄金律(ゴールデンルール)”と呼ぶことにします。
反面、時代や地域や対象などの特性に応じて説かれている教えを対機説法と解釈できるのは上述のとおりです。
そうした対機説法を黄金律と取り違えて、金科玉条のごとく解釈してしまうところに問題の根本があると思われます。これが原理主義の発生原因でもあります。
キリスト教で例を挙げてみましょう。
たとえば、
- 汝の主なる神を愛せよ
- 汝の隣人を愛せ
この2つが代表的な黄金律ですね。具体的に引用すると、下記のとおりです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:35-39)
そして、これは他の世界宗教でも言い方は違えども、説かれていることであります。
仏教であれば、三宝帰依と布施の精神に相当するでしょう。
ところが、
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」といった教えは、ファリサイ派(律法学者)の罠にハマらないための一種の方便、つまり対機説法として説かれているわけです。
イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(マタイ22:21)
ここのところを金科玉条のごとく、原理主義的に捉えると、地上の経済というのはまったく立ち行かなくなってしまいますよね。

このように、対機説法の部分を黄金律と解釈してしまう人類の理解能力の狭さが宗教戦争の根本原因なのです。
論旨をまとめてみましょう。
- 本来、一なる神から分かれてきた教え、という発想が欠けている
- 教えにおける「黄金律(ゴールデンルール)と対機説法」の区別がついておらず、後世まですべてを金科玉条のごとく引きずってしまう
- ゆえに、宗教同士が対立し、戦争まで発展する
ということになります。
そして解決策としては、やはりまず、1の「本来、一なる神から別れてきた教え」というところですね。
ここが最大のポイントになるかと思われます。
ここが共有されるようになれば、「じゃあ、どこが共通点で”黄金律”なのか」という探究も自然に進んでいくことでしょう。
宗教戦争を起こさない日本が世界の範となる
私が、「パクス・ジャポニカが実現できなければ、現代の文明は強制終了されることになるだろう」と語っている、ひとつの大きな根拠は実はここにあります。
パクス・ジャポニカで世界へ訴えかけられるもの。これこそ、日本古来からある、”神仏習合”の考え方、宗教学で言うところのシンクレティズムですね。
このシンクレティズムを理論的に整備していけば、「宗教多元主義」の哲学になると思うのです。

現に、日本が国内で宗教を理由に戦争したことは、は蘇我氏と物部氏の争いだけですよね。これが最後なんです。
日本はすでに聖徳太子の時代、6世紀にはこの問題に決着をつけているのです。
これは、すごいことだと思いませんか?
たとえば、西欧においてはどうでしょう?
カトリックとプロテスタントの争い(つまり同じキリスト教同士)においてすら、「もう教義の違いで戦争するのは辞めよう」と相成ったのは、17世紀です。
つまり、ドイツ30年戦争(1618-1648年)後の、ウエストファリア条約に至ってからですね。
これにしても、あくまで、キリスト教という限られた範囲内での決着に過ぎません。
つまり、
宗教戦争の火種をなくすこと。この解決の糸口は、日本の価値観である”神仏習合(シンクレティズム)”の思想とその発展型とも考えられる”宗教多元主義”にある
と考えています。
もちろん、一筋縄ではいかないでしょうが、ネオ仏法ではその理論的なベースをひとつでも多く、現在と後世にご提供していこうと考えております。
>日本で蘇我氏と物部氏以降宗教戦争が起きていないと
これはですね…出典を忘れてしまったのですが、故渡部昇一教授が指摘されていたことだったと記憶しています。
長所でありつつ、短所でもあるといいますか、「宗教をまじめに考えてないから」というのも一因でしょうけどね。
だから、「いいとこ取り」ができる。
ただ、「長所をみて取り入れていきましょう!みんな仲良く!」という精神性は、今後の世界で必要なものでしょう。
真の意味での八紘一宇と言うんでしょうか、日本が世界に出せる思想モデルだと思いますね。
確かに,誰も指摘しないことですが,日本で蘇我氏と物部氏以降宗教戦争が起きていないということは凄いと思います!日本は「生まれは神道,結婚式はキリスト教,死んだら仏教」と言われるように,様々な宗教が混ざりつつも調和がとれているという意味では世界でも稀な国です。しかし,宗教同士争わずに,調和がとれている状態が真の意味での「平和」なのかもしれませんね。 「平和を実現する人々は,幸いである, その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイによる福音書5章9節