菩薩というのは、もともとは菩提薩埵(ぼだいさった)の略称で、サンスクリット語の「ボーディサットヴァ」の音写です。
- ボーディ:悟り
- サットヴァ:衆生
ということで、「悟りを求めている衆生」という意味です。
仏教では、「仏陀の悟りを目指して修行している段階、位(くらい)」を意味しています。
また、菩薩の生き方は、「自利利他(じりりた)」であると言われることもあります。
「自利利他」というのは、文字通り、「自らを利すると同時に他者を利すること」こと、すなわち、「自らも仏陀の悟りを目指しつつ、他者(衆生)をも悟りの彼岸に導いていく」生き方のことです。
今回は、「菩薩の心」とは何であるか?そして、「どうしてほとんどの人は菩薩になることができないのか?」という論点で、なるべくかんたんに書いてみます。
菩薩の心とはなにか?
菩薩は、上述したとおり、「自利利他」を生きがいにしている存在です。
そして、自利利他を生きがいにしている以上、その心も当然、「自利利他で満たされている」ということになりますね。
一時的に、そのような心境になることは誰しも可能ではありますが、ポイントはその「自利利他」の心境が、一生を通じた「心の平均打率」になっていることが大事です。
そのように考えてみると、自らの心ををここ1週間でも振り返ってみれば、「これはなかなか、無理っぽいな」と思われることでしょう。
ただ、出発点としては、まずは、自利利他の生き方についていつも「気がついていること」が大事ですね。
これは八正道の”正念(しょうねん)”に相当するでしょう。
*参考記事:八正道の意味と覚え方のコツ – ”縁起”のつらなりで理解する
”正念”はもともとは、「仏陀を念じること」という意味であり、まあここから”念仏”という言葉が出てきたのですね。
なので、”念仏”は「とにかく、南無阿弥陀仏と唱えていれば良い」というのが本来の意味ではなく、「いつも、仏陀と仏陀の教えを念じていること、忘れないこと、気づいていること」がその内容であるわけです。
そういう意味で、「菩薩になろう!」と一度決意するのみならず、日々こころを新たにして、決意し直してていくことが大事です。
そのために、経典読誦を習慣化することが自らのサポートになってくることになります。
”広義の菩薩”を目標にする
菩薩については、狭義の菩薩と広義の菩薩がある、というお話をしたことがあります。
*参考記事:悟り(菩薩)五十二位でチェックする狭義の菩薩と広義の菩薩
かんたんに復習をしてみますと、ふたつの菩薩は、
- 狭義の菩薩:実力菩薩、実際に”菩薩界”の住人である
- 広義の菩薩:自利利他に生きることを学ぶ”実力菩薩の準備段階”。声聞界と菩薩界の間
です。
私がみなさんにお勧めしているのは、まずは”広義の菩薩”を目指すことです。
狭義の菩薩は、実際に長年の実績が必要であるので、今回の人生のみで達成するのは、目標としてはちょっと無理があります。
「ちょっと頑張れば達成できる範囲」というのが、目標設定のコツでもあります。
さて、もう一段、”広義の菩薩”について突っ込んで考えてみましょう。
菩薩界の手前は”声聞界”です(”縁覚界”は少し特殊なのでとりあえず割愛します)。
*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論(「声聞界」参照)
声聞界に入る要件としては、
「真理知識を学ぶ、という気概と実践が心の平均打率に達している」ということでした。
広義の菩薩はそれに加えて、
「真理知識を学びつつ、実際に自利利他に生きるという気概と実践が心の平均打率に達している」ということです。
こららの定義を読んだ限りでは、実績面はそれほど問われませんので、なんとか達成可能範囲であることは想像がつくはずです。
より簡単に言えば、「広い意味での信仰心を持ち、真理の勉強をしつつ、自分なりに自利利他の実践に励めば良い」ということになるからです。
ところが…、
ほとんどの人は、「菩薩になろう!」と決意しても、結果としては声聞界にすら還れない人がほとんどです。
「ほとんどの人」というのはどれくらいの人数か?一概には言えませんが、おそらくは1,000人が菩薩を志したとしても、声聞界に還ることができるのは10人にも満たないかもしれません。
当然、(広義の)菩薩界に還ることのできる人の割合はさらにぐぐっと減っていきます。
続ける技術
なぜ、こういうことになってしまうかと申しますと、これは単純に、「継続することができないから」です。
心の平均打率という基準で言えば、やはり、一生涯の間は継続していくことが肝要です。
ところがそれができない。続けられない。
それも、「10年20年は続けたけれども…」というレベルではなく、ほとんどの人が2-3年も持たないのです。
そして、「菩薩になりたい!」という気概はどこへやら、再び、平凡性のなかに埋没していきます。
人間は言い訳を考える天才ですので、いくらでも「続けられない言い訳」を挙げることができます。
そのなかでも、
「たまたま今、忙しくなっているから時間がとれない」という理由がいちばん多いかもしれません。
しかし、人生は一瞬一瞬の選択の積み重ねです。
「忙しいから時間がとれない」ということは、「菩薩になるための修行をするよりも、日々の仕事・生活を優先する選択をその都度行っている」ということです。
菩薩になるための努力・実践<日々の仕事・生活
という具合です。こういう選択をしていることになります。
しかし、人生の意味とミッションが「智慧と慈悲の獲得」にあるのであれば、上記の選択の仕方は、
「それではそもそも、いったい何のために生まれてきたのですか?」という疑問を突きつけられることになりますよね。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
まずは、このことをハッキリと認識することが出発点です。
そして、なんとか少しでも時間を作って、
菩薩になるための努力・実践>日々の仕事・生活
へ徐々に切り替えていくことが肝要です。
というか、
そもそも、「菩薩になるための努力・実践」というのは、生活や仕事のなかで発揮されるものでありますので、この二分法そのものが間違っている、という考え方もありますね。
たとえば、朝の通勤の時間を「真理を学ぶこと」に充てるとします。
通勤という不可欠な行動(サラリーマン・OLにとっては)のなかに矛盾なく真理の学びを組み込んでいくことができますよね。
そして、職場のなかで、あるいは生活の場面で、できる限りの利他行を組み込んでいけばよいのです。
こうすれば、菩薩になるための努力・実践と、日々の生活・仕事を両立することができます。
ところがなぜ、こういうことを思いつきもしないか?というと、
その原因は、「菩薩になりたい!という気持ち・モチベーションがそもそも薄れている」ということが挙げられるでしょう。
これがほとんどのはずです。
一時的に決意することはわりあいに簡単なことです。菩薩云々に限らず、人生のあらゆる目標設定について、”一時的な決意”をすることはかんたんなことでしょう。誰しも行っていることです。
ところが、その気持が続かない。
では、なぜ続かかないのか?という原因の探求です。
これはやはり、ふたつの原因が挙げられると思います。
- 菩薩になるための努力・実践が”モチベーション頼り”で止まっており。習慣化にまで至っていない
- なぜ、習慣化できないかと言うと、”結果主義”に陥っていて、「日々、菩薩を目指して努力・実践している自分」ですね、いわば、”過程”にアイデンティティと誇りを見出していない
ということだと思います。
私がスピリチュアリストとしては異例と言っていいくらい”習慣論”のトピックを多く書いているのはここに理由があります。
これからも思いつく限り書き続けるでしょう.
まずは、とにかく、「鈍くさく続ける」ということを考えてみてください。
繰り返しますが、
「なかなか菩薩になれない!」という結果主義に陥るのは、裏を返せば、「早く結果が欲しい」ということであり、
努力・実践している”過程”に誇りとアイデンティティを見出しきれていないのです。
習慣論としては、以前にも告知しましたが、『7つの習慣』(スティーブン・コヴィー著)の解説を何回かに分けて行っていく予定です。
今、「般若心経の悟りを超えて」シリーズが後半に入っています(2021/05/11現在)ので、それが終わり次第、『7つの習慣』解説へ移行していきます。
単なる解説ではなく、『7つの習慣」の内容をさらに奥深くアップデートするつもりです。
予習できる方は予習しておいてくださいね。
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