ヤハウェとエロヒムは別の神である – 民族神と最高神を区別したほうが良い理由

ヤハウエ エロヒム

イエス・キリストの教えは愛の教えであるのに、キリスト教国に戦争が多いのはなぜだろう?と考えたことがありませんか?

政治学で分類するところの「正戦」すなわち、「防衛のためのやむを得ない戦争」であるのであればまだしも、キリスト教国は積極的に、十字軍などの「聖戦」を行ってきた歴史があります。

大航海時代以降は、アジア・南北アメリカ大陸、アフリカなどの諸国に対して、帝国主義的な植民地政策を行ってきました。

現地の文明をまるごと滅ぼすようなこともしております。

これはやはり、精神性の拠り所であるところの「聖書」になにか根拠があるのではないか、と考えるべきだと私は思うのです。

一般的には、旧約聖書のヤハウエが唯一神であり、イエスの言う「父なる神」であるという把握をされているでしょう。

もっとも、三位一体の教理からすると、イエスも本来はヤハウェと同一、ということになりますけどね。

しかし、他民族の「聖絶(=皆殺し)」を命じるような神が果たして普遍神であるのか…?

聖絶を命じるような神(ヤハウエ)を普遍神と同一視しているからこそ、近代以降の欧米の帝国主義が正当化されてきた歴史があるように思われます。

実際に、インカ帝国もアステカ帝国も「聖絶」されていますよね。ハワイの王朝もむごたらしく追放されている。

近年の聖書学(高等批評)では、もともと、エロヒムはヤハウェより古くからカナン地方(イスラエル北部)で信仰されてきた「最高神」であり、一方、ヤハウェはそれより遅れてイスラエル南部で信仰されていた「民族神」であったとされています。

それが、ユダヤ教の成立過程でこの二神が混同され、同一神と見做されるようになったというのが歴史的経緯なのですね。

今回は、この「ヤハウェとエロヒムはどう違うのか、民族神と最高神の違い」について掘り下げつつ、「唯一神教と国際政治からいかに聖絶思想を駆逐できるか?」というところまで考えてみたいと思います。

目次

文書仮説で「ヤハウェはエロヒムとは別の神」と判明

モーセ五書(ユダヤ教では『トーラー』)は信仰としては、「モーセが書いた」ということになっています。

しかし、モーセの埋葬の様子を描いた場面があるなど、モーセ自身が執筆したとするならば、多くの矛盾があることが昔から指摘されてきました。

文書仮説におけるJ資料とE資料

近年の聖書学(高等批評)では、旧約聖書の成立について、4つの資料が混在して成立しているという仮説がたっています。これを「文書仮説」と言いまして、内容は下記のとおりです。

  1. J(ヤハウィスト資料)
  2. E(エロヒスト資料)
  3. D(申命記史家)
  4. P(祭司資料)

の4つです。

J資料がヤハウェ系で、E資料がエロヒム系の資料ということですね。

文書仮説

上の図でお分かりのように、J資料とE資料はもともと別のものであったにも関わらず、次第に混在してきたということなのです。

これはすなわち、ヤハウェ(ヤーヴェ)とエロヒムはもともとは別の神存在であったということを示唆しています。

エロヒム、ヤハウエの神名の由来

ちなみに、エロヒムとは”エル”の複数形です。エルは普通名詞としての”神”、大文字の”GOD”です。カナン地方で古くから信仰されてきた最高神です。

複数形になっているのは、複数のエル(神)が集まっているという意味ではなく、尊称としてそのように呼んでいるのです。一般に、「尊厳の複数」と言われるものです。

対して、ヤハウェという神名は、歴史的には、YHWH(YHVH)にあたるヘブライ文字で表記されてきました。

古い時代には祭儀などでキチンと発音されていたようなのですが、モーセの十戒のなかに「神の名をみだりに唱えてはならない」という掟がありますので、次第に神名を唱えることが敬遠されるようになってきたのですね。

代わりに、「わが主」を意味する「アドナイ」などの語で読み替えるようになってきた経緯があります。

そして、時代が下ってくると、当のユダヤ民族でもYHWHがどのような発音であるのかを忘れてしまったという…。

しかし、現代の研究成果として、YHWHの発音は、「ヤハウェ」ないし「ヤーヴェ」であったことが分かってきているようです。

ちなみに、むかしの日本語訳(文語訳)で用いられてきた「エホバ」というのは、YHWHに先の「アドナイ」の母音(a, o ,a )を当てはめた「イェホヴァ」に由来するらしいですが、これはつまりは「当て字」の過ぎませんので、現在では(一部のカルト系教団を例外として)用いられていません。

なので、「エホバ」という神は存在しないのです。

エロヒムが最高神であり、ヤハウェが民族神である聖書的根拠

本項目と次項目の内容については、山我哲雄著『一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか』の知見に負っていることをお断りしておきます。

一神教の起源

以下は、「申命記」のなかでも「古い伝承」に属するものとされる詩句です。

いと高き神が国々に嗣業の土地を分け
人の子らを割りふられたとき
神の子らの数に従い
国々の境を設けられた。
主に割り当てられたのはその民
ヤコブが主に定められた嗣業。(「申命記」32章8-9節)

ここで、「いと高き神」がまさにエロヒムで、「主」がヤハウェに相当します。

そうすると、至高神としてエロヒムが座し、その下にいる神々に民族を割り振った。その中でも、ヤハウエに割り当てられたのは、ヤコブ=イスラエル民族である、ということになります。

つまり、エロヒムが最高神であり、ヤハウェはエロヒムに命じられてイスラエル民族(ユダヤ民族)を担当することになった民族神であるということです。

ヤハウェはどこから来たのか?

ヤハウェはシナイの「嵐の神」「戦神(いくさがみ)」

それでは、ヤハウェの出自はどこからであるのか?それがまさに、「出エジプト記」でモーセに十戒を授ける場面で語られています。

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の国から導き出した神である。(「出エジプト記」20章2節)

重要なのは、そもそもモーセが初めてヤハウェから啓示を受けたとき、ヤハウエを知らなかったという事実です。なぜなら、モーセはヤハウェに「あなたはどなたですか?」というふうに訪ねていますよね。

モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(「出エジプト記」3章13節)

そこで、続けて神から有名な答えが返ってくるわけですね。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(「出エジプト記」3章14節)

このように、ヤハウェはもともとのカナン地方の神ではなく、「出エジプト」以来の神である可能性が高いのです。

それが、「出エジプト」以降、ヘブライ人がカナン地方へ移住し、現地の民族と混交が進むにつれて、カナン地方で最高神とされていたエロヒムと、出エジプト以来の神であるヤハウェが混同されていった。こういう経緯が推測されています。

実は、ヤハウェが「ずっと南方の方(シナイ)からやってきた」ことを伺わせる記述が聖書にはあります。

主はシナイより来り
セイルから人々の上に輝き昇り
バランの山から顕現される。
主は千よろずの聖なるものを従えて来られる。
その右の手には燃える炎がある。(「申命記」33章2節)

*新共同訳ではヤハウェは「主」と翻訳される

主よ、あなたがセイルを出で立ち
エドムの野から進み行かれるとき
地は震え
天もまた滴らせた。
雲が水を滴らせた。
山々は、シナイにいます神、主の御前に
イスラエルの神、主の御前に溶け去った。(「士師記」5章4−5節)

実は、旧約聖書において「シナイ」が具体的にどの山を指すのかは具体的には特定できないようなのですが、パレスチナから見て南方の荒野であることは間違いがなさそうです。

ヤハウェの出自は、シナイの「戦さ神」「嵐の神」なのです。

預言のメカニズムとは

ところで、旧約には数多くの預言者が登場し、「ヤハウェの声」を伝えているじゃないか、という反論が返ってきそうですよね。

これは、実は「預言のメカニズム」に関わってくる問題です。

預言者というのは、「神の言葉を預かる」存在で、たとえて言えば、「受信機」のようなものです。ところが「発信元」がどういう存在であるかを特定することはかなり難しいのです。

そういうわけで、旧約の多くの預言者たちも、「エロヒム系の発信」と「ヤハウェ系の発信」をきちんと区別できずに、一様に「神の言葉」として理解しているのですね。

そして、とくに王国時代以降は、エロヒム=ヤハウェの等式が成立してしまっていた関係で、発信元はすべてヤハウェであろう、という理解になってしまったのです。

*参考記事:預言者と予言者の違いとは? – 現代でも預言はあり得るか?

「ヤハウェは民族神であり、エロヒムが最高神」と峻別すべき

そもそも、「妬む神」が普遍神でありえるのか…?

妬むということは、妬む対象としての他の神を想定しているので、それはイコール「多神」を認めているということになります。

彼らに言った、「我は妬む神なり。我のほかに神なし」と。しかし、こう告げることにより、彼は天使たちにほかの神も現に存在することを示したのである。なぜなら、もしほかに神がいないのならば、彼はいったい誰を妬むことがあろうか。『ヨハネの秘書(アポクリュフォン)』

ゆえに、妬む神が同時に普遍神であるということはありえません。

キリスト教では、「神は慈愛の神と裁きの神の両義性を持つ」と解説していたりしますが、いくらなんでも、他民族の聖絶、女子どもを含めた「皆殺し」を命じる神が同時に慈悲の神であるなどということはあり得ないでしょう。到底、信じられません。

したがって、私は、ヤハウェをユダヤの民族神ときちんと認め、世界宗教としてのキリスト教の父なる神はエロヒムであった、と再整理すべきであると考えています。

これは単に「神を分けたほうがいい」という趣味的な問題あるいは、「聖書学の成果ではそうなりますよ」という学問的な問題にとどまる話しではなく、世界平和のための超重要な論点なのです。

エロヒムとヤハウェを別存在と考ることによって、今後の国際政治・外交・戦争から「聖絶思想」を駆逐するよすがになると思うのです。

ユダヤ教と、ユダヤ教を母体にして誕生したキリスト教、イスラーム(イスラム教)を「セム的一神教」と呼びますが、世界人口のうち半数以上がこのセム的一神教の信者ですので、影響力は絶大です。

エロヒムは同時に、イスラーム(イスラム教)で言うところの「アッラー」でもあります。ともに、大文字のGODです。普遍神であるがゆえに、固有名詞ではなく普通名詞なのです。

そしてさらに、エロヒムとアッラーは仏教で言うところの至高の宇宙原理、「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」が人格化した仏陀と同一存在であるとネオ仏法では考えております。

*参考記事:仏教とキリスト教の共通点を抽出する – “違い”を融合するネオ仏法

ここにおいて、世界の3大宗教は相争うことがなく、「智慧と慈悲の神(仏)」という同一の基盤を持つことができます。

「ヤハウェはユダヤの民族神であり、エロヒムこそが父なる神である」。これを認めることをキリスト教会に提言したいと思います

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