ムハンマドはイスラーム(イスラム教)においては、「最後にして最大の預言者」とされています。
クルアーン(コーラン)およびハディース(ムハンマドの言行録)の根拠は下記のとおりです。
アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘(ふうかん)である。(『クルアーン』33章40節
私とそれ以前の預言者たちを喩えると、次のような喩えである。ある男が建物を立て、美しく素晴らしくしたものの、一角に生レンガ一個の場所が(残されていた)。人々は建物の周りを巡り始め(その素晴らしさに)驚嘆しながらも、なぜ生レンガが置かれなかったのかと言った。私はその生レンガであり、預言者たちの封印である(『ハディース』より)
「預言者たちの封緘(ふうかん)」のところは、一般的には「預言者の封印」という言われ方をします。
「最後にして最大の預言者」という文言は、ムスリム(イスラム教徒)にとっては誇りであり、いやがうえにも信仰を高めるものでもありましょう。
ただ一方で、他宗教との共存・共栄という観点からは、この文言が大きな足かせとなっているのは事実でしょう。
ちなみに、イスラームにとって、イエス・キリストはアブラハム以来連綿と登場してきた預言者の一系譜という位置づけです。”メシア”であることは認めていますが、キリスト教の文脈で言う「神の子イエス」的なメシア理解ではありません。
そうすると、有り体に言えば、「イエスよりもムハンマドのほうが格上である」ということになりますよね。これではキリスト教徒としては面白くないでしょう。
実際に、イスラームはキリスト教徒を「啓典の民」として認めてはいるのですが、キリスト教の方はイスラームを認めておりません。
それから、ムハンマドを「最後の預言者」と打ち止めにしてしまったことで、ムハンマド以降は新たな真理は説かれない、という、いわば「神の真理の封印」という事態にもなってしまっております。
神の真理を封印してしまうと、異説・邪説が出にくいというメリットはあるのですが、現代から未来におきる事象について、クルアーンやハディースに書かれていることだけでは、だんだんと適応が難しくなっていくというデメリットがあります。
まとめますと、「ムハンマドは最大にして最後の預言者」という宣言は、
- 他宗教との共存・共栄を難しくしている
- 近現代から未来への様々な事象に対応が難しくなっている
というデメリットを生んでいるのです。
今回は、まさにこの点ですね、「ムハンマドは最大にして最後の預言者」というのは真実であるのか、
そして、真実であるとして(あるいは真実ではないとして)、イスラームと多宗教との共存・共栄はいかに実現されうるのか、という提言まで踏み込んで考えてみたいと思います。
「アブラハムの宗教へ還れ」のイスラーム
ムハンマドが活動していた当時のアラビア半島では、マッカ(メッカ)のカーバ神殿を中心に旧来の多神教(ただし、アッラーが最高神であることは認められていた)が崇拝されていましたが、イスラエルの民(ユダヤ教徒)・キリスト教徒も住んでおりました。
一神教の確立を目指すムハンマドにとって、同じく一神教のユダヤ教・キリスト教は先輩宗教であり、それらとの関連性・位置づけをまず模索していったのでした。
イスラームの立場としては、神(アッラー)は数多くの預言者を地上に遣わされたが、それらの系譜はユダヤの律法(トーラー)、キリスト教の福音書に確認できるとしています。
クルアーンにはムハンマドを含む25人の預言者が登場していますが、その中でも特に、
- ノア(ヌーフ)
- アブラハム(イブラーヒーム)
- モーセ(ムーサー)
- ナザレのイエス(イーサー)
- ムハンマド(もしくはモハメッド)
を五大預言者として位置づけています。
つまり、ひらたく言えば、ムハンマドはユダヤ教とキリスト教を認めているわけですね。同じ「啓典の民」として扱っている。
ただ、ユダヤ教・キリスト教は人間的な解釈により逸脱してしまった、としています。
ユダヤ教は本来、すべての人に説かれている神の真理をユダヤ教徒だけのものとし、キリスト教は神ではないイエスを神とし、本来の”一神教”を損ねてしまった、という解釈です。
そこで、ムハンマドは唯一神教のオリジナルである「アブラハムの宗教へ還れ」を掛け声にしてイスラーム(イスラム教)を興したのでした。
多くの宗教改革やあるいは政治的革命もそうですが、イスラームの生誕も「原点回帰」という側面を持っていたのです。
もっとも純化されたかたちのアブラハムの宗教、これがムハンマドの目指したイスラームです。
ムハンマドは「セム的一神教」の枠内では「最後の預言者」
さて、さきの五大預言者の系譜をみて分かるように、ムハンマドはこれら五大預言者のあとに出た切り札、「最大にして最後の預言者」としての位置づけです。
当時のムハンマドにとっては、インドや中国・日本などは思いもよらず、オリエントだけが”地球・全世界であったのです。
カレン・アームストロング氏はその著『イスラームの歴史 -1400年の軌跡』において、次のように述べております。
ちなみにイスラームの伝承では、そうした預言者は十二万四千人いたとされるが、この数字は無限を象徴する数である(p10)
現代のムスリム学者たちは、もしムハンマドが仏教徒やヒンドゥー教徒について、あるいはオーストラリアのアボリジニやネイティブ・アメリカンについて知っていたら、クルアーンでは彼らの賢者たちも認められていただろうと論じている。なぜなら、正しく導かれて唯一神にひたすら帰依し、人が作った神像の崇拝を認めず、公正と平等を説く宗教は、すべて同じ神を源泉としているからだという。(p11)
なので結論的には、ムハンマドは地球規模・宇宙規模での最後の預言者ではなく、あくまで、セム的一神教の流れの中での「最後の預言者」という理解でよろしいかと思います。
「最大の」というところは、セム的一神教を完成させた功績ということで、たとえば、イエスより霊格が高いとかそういうことではないのですね。
まあ宗教に限らず、集団というのはプライドを持つことは悪くないことだと思います。「うちの嫁さんが一番」みたいな。
ただ、それを他人(この場合は、他宗教)に押し付けない奥ゆかしさが必要かな、と思います。
仏陀も預言者 – 世界三大宗教の共通の基盤づくり
イスラームから派生したシーク教やバハイ教などではムハンマド後も預言者を認めています。さらに、一般には一神教とは解釈されていない仏教も一部のムスリムは啓典の民として認めています。
東京大学総合研究博物館の野口淳氏によると、南アジアでのハナフィー学派は仏教も啓典の民として扱っている、と主張しております。
記憶に新しいところでは、パキスタン出身のムスリムであるマララ・ユスフザイ氏は国連でのスピーチで仏陀を「預言者」の一人として扱っておりました。
また、唯一神への信仰が国是となっているインドネシアでも仏教を始め儒教やヒンドゥー教をも「唯一神信仰の枠組みに含まれる」と解釈されております。
人類は(もともと)一族であった。それでアッラーは、預言者たちを吉報と警告の伝達者として遣わされた(『クルアーン』2章213節)
なので、「啓典」を広く「真理の書」として捉えるのであれば、真理を説いている宗教(あるいは哲学思想も含む)であれば、それはアッラーの教えであり、信者は「啓典の民」とされて良い、と理解すべきだと思います。
”アッラー”とは固有名詞ではなく、アラビア語で”神”(唯一神)という意味です。大文字のGODです。
ゆえに、ユダヤ教およびキリスト教の神も”アッラー”ということになります。
アッラーが真に全知全能であるならば、「慈悲あまねきアッラー」であるならば、古代オリエント地方だけに預言者を限定するなどありえないことです。
言葉・名称に惑わされないことです。
神は唯一であっても、地域性・時代性・民族性などを考慮して、さまざまに顕現するのです。そうであってこその「慈悲あまねきアッラー」でしょう。
したがって、仏教の最高原理、法身たる”久遠実成の仏陀”(あるいは、華厳経の”毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)”、密教の”大日如来”)は名称こそ違え、まさに”アッラー”であるのです。
このように捉えてこそ、まずは大きくはキリスト教・イスラーム・仏教の世界三大宗教の共通の基盤を築くことができます。そして、世界の宗教対立・宗教紛争の解決の糸口になっていくのです。
*参考記事:宗教対立・宗教紛争はなぜ起きる?原因と解決策を探る
そして、現代と未来の預言者の系譜へ
また、ムハンマド以降も、アッラーが新しい預言者を選び出し、新しいウンマを形成する可能性があることは、下記のクルアーンの記述からも分かります。
信仰する者よ、もしあなたがたの中から教えに背き去る者があれば、やがてアッラーは、民を愛でられ、かれらも主を敬愛するような外(ほか)の民を連れてこられるであろう。(『クルアーン』5章54節)
アッラー(唯一神)が真にあまねく慈悲の存在であるならば、この無限とも思われる大宇宙の時間と空間のほんの一点ですね、6-7世紀のアラビア半島で預言者すなわち「神の言葉を預かる者」を打ち止めにするなどありえないことです。
もし打ち止めにするような神であるならば、それは普遍神ではなくて、限られた時代・地域を担当している民族神ということになってしまいます。
「ムハンマドが最後の預言者である」という主張が皮肉にも、アッラーの全能性を阻害してしまうことになるのです。
したがって、ムハンマド以降も、時代や地域を違えてこれからも様々な預言者たちが地上に降りてまいります。現代にも降りています。
預言者という言葉そのものがセム的一神教のものですが、要は「神の使命を帯びた存在」ということですので、仏教的には諸菩薩であるとか、そういう違ったターム(用語)で使用される場合もあります。
このように、時代や地域を超えて、連綿と「預言者」が続いていくことこそ、アッラー=絶対神の証明でもあるといえるではないでしょうか。
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