『般若心経』全文解説 – 般若心経の悟りを超えて

目次

序論:今、なぜまた『般若心経』なのか?

「宗教改革」の試論としてのネオ仏法

仏法のアップデートの必要性

『般若心経』については、膨大な数の書籍がすでに出版されていまして、『般若心経』解説本は明治期以降、国会図書館の蔵書だけでも630点を超えると言われています。

日本における『般若心経』の人気ぶりにも驚くばかりですが、ではそれだけの点数の解説本がすでに出版されていながら、「今更なぜここでもう1記事追加するのか?」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。

同じような解説を加えるのであれば、まさしく「屋上屋を架す」こと以外の何物でもないわけです。

結論から先に申し上げると、私はこの『般若心経の悟りを超えて』という記事で、そのタイトル通り、「般若心経の悟りを超えてしまう」ことを意図しています。

「そんな馬鹿な…」と思われる方がほとんどでしょう。「誇大妄想もいいかげんにせい!」という感じでしょう。

そのように思われる方がいらっしゃるのは当然だと思いますので、まずはその点をご説明したいと思います。

『般若心経』に限らず、仏教史そのものがまさに釈尊の時代から2500年を過ぎようとしています。

もちろん、「永遠の哲学」というものは時代・地域をに関わらず、文字通り「永遠の哲学」で変わらないものです。

しかし、その「永遠の哲学」をいかに新時代に適用していくか、アプリケーションしていくか、というのは私たち後代の宗教者あるいは哲学者の仕事でもあると思っています。

そうした真理、仏法(私は”仏法”というものを広く”永遠の哲学”という文脈で捉えています)の新時代への適用というのは、過去、さまざまな宗教家があるときは「宗教改革」の名の下に行ってきた事業でもあります。

仏教においては、大乗仏教の興隆がまさしくそうですし、その際に、龍樹(ナーガールジュナ)や無着、世親菩薩などの働きもありました。日本においては鎌倉仏教などがその代表例でしょう。

キリスト教的には、ルターやカルヴァンらの宗教改革がありました。

これら宗教改革(更新)運動に共通しているのはそれらが”仏法”を新時代にアプリケーションしているものであると同時に、釈尊やイエスのオリジナルの教え・有り方に帰れ!といった復興運動の側面も持っていることです。

真なるイノベーションには必ず、復興運動の側面が付随してくるものです。

日本の明治維新も、旧幕府を倒し、「富国強兵・殖産興業」という”新しいこと”を断行しましたが、一方で「王政復古」という復古運動の側面がありましたよね。まあ、それは功罪両面があったわけですが・・・。

大乗仏教の興隆は、「自らの悟りのみを求め、他の人(衆生)を顧みないのは釈尊の真意に反しているのではないか?という修行者たちの思いから発しています。

また、キリスト教の改革運動も、聖書をドイツ語訳するなどカトリック教会がやってこなかった「新しいこと」を次々と実行していきながら、「聖書に還れ!」という原点復帰運動の側面がありました。

「新しく、かつ復興する」

これがまさしく、私が唱導しているところの”ネオ仏法”であるのです。過去の歴史でさまざまな菩薩的パーソナリティの持ち主が、その時代時代の”ネオ仏法”を興してきたのです。

僭越ながら私自身もそういった「新しく、かつ復興する」ネオ仏法を現代日本において唱導しています。

そうした文脈において、ネオ仏法的解釈における『般若心経』読解は、古い教えがそのままのかたちでは耐用年数を迎えつつある今、差し迫った重要性があると感じています。

西欧では、近代的理性を獲得して、”神の死(ニーチェ)”に直面して以降、人間はもはや単なる後戻りはできず、たとえば、「アダムとイブの楽園追放」をみな文字通り信じられるのか?という問題があったりします。

近代的理性は不合理なものを排除しようとし、私たちに宗教にまつわる神話の体系を廃棄、と言いますか、むしろ、そうした神話的世界はなかなかそのまま私たちには受け取ることができない、というのが現状でしょう。

その宗教が提供している神話的体系が信じられなくなれば、その宗教への信仰は、もはやかたちだけ、冠婚葬祭の儀式以外には普段では頭にも上ってこないというのが実情ではないでしょうか?

私たちは、”神の死”を受け入れざるを得ないのか?

宗教的な体系が崩壊すれば、そこに待っているのは「倫理の死」であるのです。

「神の死」があるところでは必然的に「倫理の死」を迎えざるを得ません。

近代特有のさまざまな問題、大規模な戦争とか環境・自然破壊とか、そして教育現場の崩壊とか、あるいは個人的レベルでは神経症的パーソナリティの蔓延という結果を招いていると思います。

宗教が提供する一番外円にあたるのが「呪術的世界」だとそれば、その内円には「神話的世界」があるでしょう。私たちが近代的理性を持ってしてすぐに受け入れることができないのはこの「神話的世界」のところまでです。

しかし、宗教にはさらにその奥の内円があります。

それがいわば「霊性」「スピリチュアリティ」と言われる「永遠の哲学」の部分です。ここのところだけは過去現在未来を通じて変わることはありません。

ただ、繰り返し申し上げますが、やはり世界宗教は2千年、2千5百年といった歳月を経ていますので、現代にはそのままではなかなか適当しがたいところがある。

そこで、「永遠の哲学」の本質はそのままに、「それをいかに現代に適用できるか?」というイノベーションが必要になってくるのです。

私が本記事で試みようとしていることも、そうした新時代への適用、まさしく「ネオ仏法」であります。少なくともそうした試論になれば良いという願いをもって綴っていこうと思います。

観自在菩薩が説法の主体である驚き

グノーシス経典としての『般若心経』

まずは、タイトルからですね。

摩訶般若波羅蜜多心経

読み:まかはんにゃはらみたしんぎょう *太字は高田

原文のサンスクリット語では、「プラジュナーパーラミター・フリダヤ」というタイトルです。

漢文表記で書かれている冒頭の「摩訶(まか)」は、「マハー」ということで、「偉大なる」という意味。形容詞ですね。

プラジュナーは、「プラ+ジュナー」で、

  • プラ:先だつところの
  • ジュニャー:智慧

と分解して理解すると分かりやすいです。

ひとくちに「智慧」と言っても、大きくは、

  1. 分析的・合理的な知
  2. 総合的・本質を見通す知

と、ふた通りに分類することができます。

どう違うか?と言いますと、これは、P.G.ハマトンが『知的生活』(翻訳:渡部昇一)で、「ダチョウの足、鷲の羽」に例えていまして、これが分かりやすいと思うんですけどね、

知的生活

ダチョウっていうのは、地面をダッダッダッと行くじゃないですか。力強く、確実なイメージですね。

しかし、景色の全体を見渡すのは不得手、という感じがします。あくまで、「辿った限りで、跡づけられた限りで」景色を把握していく。

一方、「鷲の羽」というのは、大空をさーっっと飛んで、景色の全体を見渡すことができる、というイメージです。

細かな合理性・論理性というよりも、全体の統一性や本質を見抜いていくちからです。そうした知のありかたです。

タイトルに戻りまして、「プラジュナー」(=般若)ですね、

  • プラ:先だつところの
  • ジュニャー:智慧

ということなので、プラジュナー」は、あきらかに「鷲の羽」のほうの知性です。

つまり、”般若(はんにゃ)=プラジュナー”とは、「物事の本質を総合的に見とおす智慧」ということです。

欧米の学者のなかには、般若経を「仏教的グノーシスの経典」と呼ぶ人もいるようです。

これは、かなり本質を突いた指摘だと思いますね。

なぜ、「本質をついてる」と言えるか?といいますと、この「グノーシス」と、「ジュニャー」は語源が一緒なんですよ。

「グノーシス」も「智慧」という意味です。

「智慧の力によって、魂がプレーローマ(霊的、本質的世界)へ還っていくことができる」というのと、「般若の智慧によって、悟りの彼岸へ渡っていくことができる」というのは、図式的にはまったく同じことを言っているわけです。

グノーシス主義はこんにちでもキリスト教の異端とされていますから、般若経とくらべると、地位がずいぶん低いのですけどね…。

*参考記事:グノーシス主義と仏教の接点序説 – キリスト教と仏教の共通点を探る

波羅蜜多は”到彼岸”もしくは”完成”

摩訶般若波羅蜜多心経

読み:まかはんにゃはらみたしんぎょう
*太字は高田

現代語訳:偉大なる般若の智慧のエッセンスを説いたお経

”波羅蜜多”は、もとのサンスクリット語が「パーラミター」でその音写が「波羅蜜多」なのですね。”多”を省略して”波羅蜜(はらみつ)”という言葉遣いをするときもあります。

般若心経では、「般若波羅蜜多」のほうを採用しています。「はんにゃーはーらーみーたー」って読経しますよね。

また、後述する菩薩の修行徳目で在る「六波羅密多(ろくはらみた)」においては、”六波羅蜜”と表記するケースも多いかと思います。

「パーラミター」は、文法の解釈により、

  1. あちら側に至った状態
  2. 最高のもの、最勝の状態

のどちらかに訳すことができるようです。

それぞれ、

  1. 到彼岸
  2. 完成

というふうに翻訳されてきました。

これはどちらの翻訳を採用しても、味わい深いものがあります。

つまり、「プラジュナーパーラミター(ハンニャハラミタ)」とつなげてみると、

「1.到彼岸」をベースにすれば、「智慧によって(悟りの)彼岸に至る」という解釈になりますし、「2.完成」をベースにすれば、「智慧の完成」という意味になります。

現在の仏教学の研究では「完成」の訳語のほうが正確とされていますので、本書では「完成」の訳語でいきたいと思います。

さて、それでは、そもそも「般若波羅蜜多(=プラジュナーパーラミター)」とは何であるか?

仏教には六波羅蜜多(ろくはらみた)という修行方法がありまして、文字通りそれは「六通りの修行/修行課題」ということなのですけどね。

なので、”般若波羅蜜多”以外にも、”〇〇波羅蜜多”といったカタチで、あと残り5つあることになります。

この六波羅蜜多については、お経の本文でも出てきますので、そのときにあらためて解釈してみます。

とりあえず、”般若波羅蜜多”は「智慧の完成」という意味になります。

もちろん、前述したように、智慧と言っても分析的な知性ではなく、総合的・霊的知性という意味での智慧です。ダチョウの知性ではなく、鷲の知性です。

心経の”心”は「心髄(エッセンス)」という意味

般若心経が日本で人気がある多くの理由の一つとして、意外に、「般若心経はタイトルに”心”が入っているので、心の教えを簡潔に説いたお経」と理解している人が多い、というのもあるのかもしれません。

まあ、「心」というと、それこそ無限大に意味を拡大していくこともできますので、「心の教えです」と言われると、「そういう側面もあるかもですね」と反対できないのですけどね。

コンビニでもよく自己啓発本が並んでいますが、日本人はどこか「ライトなこころの教え」が好きですよね。

また、原語のサンスクリット語に戻って考えてみましょう。

般若波羅蜜多心経=プラジュナーパーラミター・フリダヤ

でしたね。

ということは、

「フリダヤ」が「心」と漢訳されていることが分かります。

「フリダヤ」とは元来は「心臓」という意味なので、ここから様々な意味が派生しているのですけどね。

また、密教の時代に入ると、この「フリダヤ」が「密呪(みつじゅ)」、いわゆる真言ですかね、これと同義に扱われるようにもなってきます。

大きくは、「フリダヤ」を

  1. 心髄(しんずい)
  2. 密呪(みつじゅ)

のどちらととるか?で、般若心経というお経の解釈そのものがずいぶん変わってきます。密教系の僧侶・学者が書いた「般若心経」解説本は後者を採用しているのは言うまでもありません。

ネオ仏法ではどちらを採るか?

結論から申し上げると、私は、フリダヤ=心髄、という捉え方でよろしいかと思っております。

なので、「プラジュナーパーラミター・フリダヤ」とは、「般若波羅蜜多の心髄」ということで、経題(タイトル)の「摩訶般若波羅蜜多心経」とは、つまりは、「偉大なる般若の智慧の心髄、エッセンスとなりますね。

上述したように、密教系の方が書いた解釈本では、古くは空海の『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』もそうですが、「般若心経は密呪=真言を説いたお経なんですよ」、と解説していたりします。

空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ

密教僧の立場としては当然の解釈ですし、また、お経の後半に有名な「ぎゃーてーぎゃーてー」がありますからね、当然、有力な解釈ということになります。

「般若心経」というお経の作成意図としては、「膨大な般若経のエッセンスを短くまとめて、世間に広く流布させましょう」ということもあったと思われますので、、「広く流布」の目的のために、当時流行しつつあった「密教/真言もとりいれましょう」ということになったのだと私は推定しています。

なので、般若心経の後半部分は、木に竹を接いだような、というとあれですが、いきなり教えの重点が「実は真言にあるのです」というふうに転換していっているわけです。

ここのところは。「ぎゃーてーぎゃーてー」のところでもう少し詳しく見ていきます。

『般若心経』は仏教のベスト盤

般若心経というお経は、般若経のエッセンスというだけではなく、本文中に仏教の主要な用語がたくさん散りばめられています。

それこそ、釈尊の原始仏教の時代から、大乗仏教末期の密教まで、を網羅していますので、262文字の短いお経を読誦することによって仏教の全景を見渡すことができる、というメリットがあります。

音楽のアルバムで言うと、仏教のベスト盤であるとも言えるお得感があります。

「八万四千の法門がある」という膨大な仏教のエッセンスを短時間で概観することができるわけです。

”観自在菩薩”でお経が始まる驚き!

さて、いよいよ本文。冒頭の、”観自在菩薩”の部分ですね。

観自在菩薩

読み:かんじざいぼさつ

現代語訳:観自在菩薩が、

じつはお経としてはですね、この「観自在菩薩…」という出だしはけっこうびっくりというか、奇異に感じるところです。

信者以外の人にとって、お経は法事などで聞くパターンがほとんどかな、と思いますが、たいていは、

にょーぜーがーもーん

という音で始まりますよね。

これは、

如是我聞(にょぜがもん)ということで、「私はこのように(仏陀から)聞いた」という意味です。

つまり、「私の勝手な考えを説くわけではなくて、(私が聞いたところの)仏陀の説法をこれからご紹介しますよ」ということですね。

そしてたいていは、この「如是我聞」の次に、仏陀が説法した場所とか、聴聞者は誰であったのか、などが書かれています。

要は、お経というのは、少なくとも建前上は「仏説」ということで、仏陀の説法を記述しているものです。
*例外的に、仏陀の高弟が説法の主役の場合もあります。

実際、他の般若系の経典では、仏陀が高弟のスブーティ(須菩提・しゅぼだい)の質問に答える、という形式をとっていたりします。

般若系の経典は、空(くう)の教えを説くものですから、「解空第一(げくうだいいち)」と呼ばれていたスプーティが質問役になっていることが多いのです。

代表的な般若経典としては、たとえば、『金剛般若経』などがあります。「『般若心経』以外も読んでみたい!」という方には、岡野守也著の『『金剛般若経』全講義』がお薦めです。

『金剛般若経』全講義

なので、この般若心経の出だしですね、”観自在菩薩”でいきなり始まるというのは、ちょっとびっくりするところで、

例えはアレですが、ビートルズの”A HARD DAY’S NIGHT”という曲は、12弦ギターのカッティングのジャーン!!でいきなり始まりますが、こういうインパクトですかね、

ビートルズ登場前は、なんだかんだとイントロが長かったので、「ジャーン!!で始まるのかい?」というインパクトは当時はかなり大きかったと思います。

なので(?)、なぜ般若心経の出だしが珍しいか?ということを整理しますと、

  1. 仏陀ではなく、観自在菩薩が説法の主体になっていること
  2. 他の般若系経典にはあまり縁がないと思われる観自在菩薩が主人公であること

この2点です。

1. については、じつは種明かしがありまして。

実際、私たちが親しんでいるところの『般若心経』というのは、いくつかあるバージョンのひとつで、「小本(しょうほん)」と呼ばれているものです。

小本というからには、「大本(だいほん)」が存在するわけで、大本は文字通り、経文がずいぶん長くなっているわけです。

具体的には、小本の前段、いわば、「前フリ」として、さきに挙げた、説法の主体(=仏陀)、説法の場所、聴衆の様子などが書かれています。

また、「後フリ」としては、お経ではたいてい、「聴衆はみな仏陀の説法で喜びに満たされました。めでたしめでたし」みたいな、いわば、大団円で終わりました、というエンディングがくるわけですが、大本にはそれが載っているのですね。

で、大本の立場としては、あくまで説法の主体は仏陀・釈尊でありまして。

ただし、釈尊は瞑想に入られ、そしてその威神力を受けて、観自在菩薩が説法をする、という構造になっています。

なので、説法の本当の主役は釈尊ですよ、ということで、ここで「仏説である」ということを担保しているわけです。

もっとも、成立時期としては、小本ができた後に、大本が成立した、と言われていますので、小本が大本の省略版であるかというと、そうとも言えないところもあるのですけどね。

2.については、…こんなことを書いている解説本はないかもしれませんが、

「観自在菩薩」が主人公で登場しているのは、般若心経を作成・編集した人のマーケティング的な意図があると思われます。

どういうことかというと、

当時、観音菩薩というのがすごく人気が出てきたところでして、人気の理由は現代日本でも同じですが、「観音様はとにかく慈悲深く、現世の衆生を具体的に救ってくださる」というところですね。

観音菩薩の功徳・パワーについては、法華経の「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」という一章でまるまる説かれています。

内容的には一言でいえば、「観世音菩薩を念じると、どんな危機が迫っていても助けてくださる!」ということです。

刑場に曳かれて刀で切られそうになっても、観音様を念じれば、刀はバラバラに砕ける、みたいな。まあ実際、日本では日蓮上人が実体験をされている、ということになっていますけどね。

とにかく、観世音菩薩は「霊験あらたか」と言いますか、「実際に救ってくださる」ということで、これは人気がでるのは頷けるところです。

なので、そのような人気者である観世音菩薩を主役に抜擢しました、というイメージです。

これは立派な宣伝、マーケティング戦略ですね。

これから説く般若心経がいかにスゴイお経であるか…なにせ、あの観音様の登場ですよ!みたいな。

鳴り物入りの新作映画に、人気急上昇の女優を抜擢するような、というたとえは失礼かもしれませんが、しかしそれに近いものはあると思います。

こうした「経典におけるマーケティング戦略」というのは、他のお経でもけっこう見つけることができます。

また、仏教だけではなく、キリスト教の福音書も、それぞれ、マーケティング的な意図に基づいた編集がされているところがあります。

こういうふうに、「編集」とか「マーケティング」というと、お経や福音書のありがたみがうすれる側面があると思われるかもしれません。

しかし、古代と現代では「著作」というものに対する考え方がまるっきり違っています。著作権の概念もないですし、なにより、「事実より真実を優先すること」を重視しています。

また、匿名であるほうがむしろ真理に対する礼節にかなっている、という考え方もありました。

それから、ある程度、神話化して説得力をもたせる、ということも躊躇のないところで、

そのように考えると、「フィクションを織り交ぜながら、全体の説得力・真実性を増す」という意味では、お経には、文学的・芸術作品的側面も担っていた(少なくとも大乗経典では」)とも言えそうです。

観世音菩薩と観自在菩薩の違いは?

さて、私は微妙に「観自在菩薩」と「観世音菩薩」をすり替えて語っているようであります。

それはその通りなのですが、これは実はですね、

『般若心経』の編集・作成にあたっては、やはり人気の「観音様(観世音菩薩)を主役にする」というのがもともとの意図であったろうと思われます。

しかし、みなさんが「般若心経」を一読した感覚でも、さきに挙げた「観音様の功徳と慈悲、霊験あらたか」というイメージと、観自在菩薩の性格にずいぶん違いがあるように感じられると思います。

観自在菩薩のイメージでは、「現世で救ってくださる」どころか、「一切は空(くう)であると、切って捨てよ!」みたいな冷静さ、いわばもっと理性的なキャラクター性を感じますよね。

ここのところはやはり、般若心経を漢訳する際に、「観世音菩薩」ではなく、「観自在菩薩」という訳語を採用した玄奘(げんじょう)の直感力があると思います。

学問的には、「観世音菩薩と観自在菩薩は同一のもの」とされていると思いますが、漢字の語感でもちょっと違いがありますよね。

「世の音を観る」というのは、つまりは衆生の声を聞く、ということですので、これはやはり慈悲のイメージが強くなります。

一方、「観ること自在」ということでは、どちらかというと、観察そのものが優れている、ということで、これは智慧の側面を強く感じます。

観自在菩薩、あるいは観世音菩薩は、もとのサンスクリット語では、アヴァローキテーシュヴァラと言いまして、これは、

  • アヴァローキタ:観ること
  • イーシュヴァラ:自在

の合成語です。

これをどう漢訳するか?というだけの違いなのですけどね。

あるいは、むずかしくなるので省略しますが、文法的にどうとらえるか?で、「世の音を聞く→観世音」という漢訳のほうが自然である、と解釈する向きもあります。

そちらの解釈では、「世の音を聞く→観世音」は、原語の発音がアヴァローキタスヴァラになります。

整理すると、

  • アヴァローキテーシュヴァラ:観自在
  • アヴァローキタスヴァラ:観世音

となります。

音感が似ているので混交されてきた…ということで、

要は、「観自在菩薩も観世音菩薩も同一の菩薩である」という解釈が学問的には一般的だと思います。

実際、玄奘ではなく、鳩摩羅什(クマラージュ)が漢訳した般若心経では、”観世音菩薩”が採用されています。

菩薩の修行徳目 – 六波羅蜜多

行深般若波羅蜜多時

読み:ぎょうじんはんにゃはらみったじ

現代語訳:深遠なる”智慧の完成”において修行をしていた時、

漢文を直訳すると、「深淵なる”智慧の完成”を行じている時に」となりますが、『般若心経』のサンスクリット原本では、「”智慧の完成”において行じていた時に」となっているようです。

なので、ここは「般若般若波羅蜜多をベースにして広く菩薩行をなしていた時に」くらいに取っておきたいと思います。

さて、「般若波羅蜜多」というのは、前にも少し触れました。

大乗仏教では仏になるための修行方法として「六波波羅蜜多(ろくはらみた)」を重視しています。

仏になりたい、という願をおこして修行しているのが菩薩です。

原始仏教・小乗仏教では、八正道の内省が修行の中心であったと言っても良いかと思いますが、八正道はどちらかというと、自分自身をいかに高めていくか?というプログラムになっておりまして、

「利他」という行為の積極性は、少なくともストレートなかたちでは八正道からは出てこないように思えます。解釈によって、利他を引っ張り出すことは無論、可能ですけどね。

*八正道については、のちほど出てきますので、そのときにもう一度詳しく触れます。

なので、「自分だけ救われるというのは仏陀の意思に反しているのではないか?」というふうに、大乗仏教では小乗仏教へのアンチテーゼとして、修行論としては「六波羅蜜多の実践」のほうを強く押し出してきたのが歴史的経緯です。

六波羅蜜多は内省的な内容もありますが、八正道よりはずっと利他の実践に重きが置かれています。

六波羅蜜多は、布施波羅蜜多(ふせはらみた)、持戒波羅蜜多 (じかいはらみた)、忍辱波羅蜜多 (にんにくはらみた)、精進波羅蜜多 (しょうじんはらみた)、禅定波羅蜜多 (ぜんじょうはらみた)、般若波羅蜜多 (はんにゃはらみた)の6つです。

名称と内容を整理しておきましょう。

  1. 布施波羅蜜多 – 施しの完成
  2. 持戒波羅蜜多 – 戒めの完成
  3. 忍辱波羅蜜多 – 耐え忍びの完成
  4. 精進波羅蜜多- 努力の完成
  5. 禅定波羅蜜多 – 禅定の完成
  6. 般若波羅蜜多 – 智慧の完成

まず、1番目に、「布施波羅蜜多=施しの完成」が来ているのがポイントです。

布施とは現代風に言えば、「主体的な愛の実践」ということになります。

愛といっても、「カレが私を愛してくれるか?」という「受け身の愛」ではなくて、「”私が”他者・社会・世界・神仏に対して愛を与えることができるか?」というほうの愛、主体的な愛です。

キリスト教的に言えば、アガペー(カリタス)の愛にあたります。

同じく”愛”という字を使っていますが、

  • 自分が他者(隣人・社会・共同体・神)を愛するか:自分→他者ベクトル
  • 自分が他者(隣人・社会・共同体・神)から愛されるか:他者→自分ベクトル

というふうに、エネルギーの流れが真逆になっています。

仏教で言う、”布施”というのは、やはりこの自分→他者ベクトルのほうですね、「人が自分になにをしてくれるか?」ではなくて、「自分は他人になにをしてあげられるか?」という主体的な意思です。

この「布施波羅蜜多」が六波羅蜜多のトップに来ているのがまさに、大乗仏教らしいところで、「般若波羅蜜多」は六波羅蜜多の最後に置かれていますが、

これは、布施(主体的な愛)の実践からまずは始まり、途中のたとえば、忍辱波羅蜜多(耐え忍びの完成)などを経て、最後の般若の智慧に至る、というこの順序です。

ネオ仏法では、智慧の獲得と慈悲の実践を宇宙の二大原理として捉えていますが、六波羅蜜多に当てはめると、

  • 布施波羅蜜多:慈悲の実践
  • 般若波羅蜜多:智慧の獲得

というふうに、それぞれ、六波羅蜜多の最初と最後に置かれています。

智慧と慈悲はどちらが先か?は、「ニワトリと卵のどちらが先か?」と同じで、一概には言えないのですが、六波羅蜜の流れとしては、慈悲の実践⇢智慧の獲得という流れをとっているということですね。

このように解釈してこそ、たとえば持戒波羅蜜多(戒めの完成)も八正道の正語・正業・正命の内省とはまたちがったアスペクトが視えてきます。

八正道では、おもに五戒を点検していきますが、五戒では「〇〇をしてはならない」という禁止条項になっていますよね。

なので、内省も「〇〇をしなかったか?」という防御型のものにどうしてもなってしまいがちです。

ところが、六波羅蜜多の、持戒波羅蜜多では、順序として、布施波羅蜜多を前提としている。すなわち、「主体的な愛の実践」を経た上での持戒ということになりますので、五戒よりはずっと積極的な戒が必要になってきます。

すなわち、

「私は〇〇をしたか?」という積極的な戒の内容が加わってくることになります。

この、「私は〇〇をしなかったか?」と「私は〇〇をしたか?」というのは、戒律の分類としては、前者が止持戒(しじかい)・後者が作持戒(さじかい)と呼ばれています。

般若の智慧は前提なのか結果なのか?

前述したように、六波羅蜜多の6つの項目は実践の順序を示している、という考え方がありますが、今ひとつの考え方として、「般若波羅蜜多が他の5つの波羅蜜多を支えている」という解釈もあります。

どちらの説も魅力的ですが、私はこの2つを止揚した考え方を採ります。

まず、

布施波羅蜜多→他の4つの波羅蜜多→般若波羅蜜多

という順序でとりあえずは考えます。

さらに、その上で、六波羅蜜多は循環しつつ成長する」という方向へ持っていきます。

すなわち、

布施波羅蜜多→他の4つの波羅蜜多→般若波羅蜜多→布施波羅蜜多→他の4つの波羅蜜多→般若波羅蜜多→布施波羅蜜多……以下、同様

というふうに、循環しつつスパイラル状に般若の智慧が深まっていく、という考え方ですね。

どうしてこのように考えるかと申しますと、「完成」という言葉の内容をやはり再吟味してみたいと思うのです。

私たちは「完成」というと、とかく、「これでお仕舞い!」みたいな静止した状態をイメージしますよね。

しかし、真理における「完成」に静止した状態、「これ以上はない」という状態がありえるのか?というふうに問い直してみます。

じつはこの問い直し自体が、本記事のタイトルになっております「般若心経の悟りを超える」契機になってゆくのです。

このことはまた別の機会に詳述いたします。

ここでは、

「完成とは、静止した状態ではなく、むしろ繰り返しくりかえし向上していくダイナミクスそのものを指すのだ」

とまずは再定義しておきたいと思います。

悟りというものが、「悟っていない – ,悟った」という二分法ではなく、認識力が絶えず向上していくその過程(ダイナミクス)のことを指している、とどこかで書きましたが、それと同じ発想です。

ネオ仏法では、真理というものをいつもダイナミクスにおいて、動的に捉えます。

”行”は瞑想なのか?

関連しまして、「行深般若波羅蜜多時」の「行」について、です。

般若心経解説本では、「行とは瞑想のこと」と説明されているパターンもあります。

仏教の修行は、伝統的には、三学(さんがく)と言いまして、戒・定・慧(かい・じょう・え)の3つを挙げます。

「仏教の修行っていったいなんですか?」と聞かれたら、「それは、三学です。戒・定・慧の3つです」と即答できるようにしておきましょう。

この三学を見てみると、「定」のつぎに「慧」がきていますよね。

これは、「禅定(瞑想)の結果、智慧が現れる」ということですので、上述した解釈。すなわち、「行は瞑想のこと」というのも、もちろん正解ではあると思います。

しかしもっと踏み込んで考えると、

三学のはじめは、「戒」になっています。

そして、戒と言ってもより実践的・積極的な作持戒(さじかい)を含めて考えていったほうが、より大乗の精神には似つかわしいですね。

自分で「〇〇をなしていこう!」という戒を決めたのであれば、当然、つぎにその実践行為、すなわち、「行」がくるはずです。

そのように、三学の基本精神に大乗の精神をミックスして考慮すると、ここの「行深般若波羅蜜多」の「行」も、瞑想に限定するのはもったいない。

むしろ、六波羅蜜多の残り5つの項目、布施・持戒・忍辱・精進・禅定を循環的に実践して、次第に般若の智慧(般若波羅蜜多)を高めていく姿勢。ダイナミクス的実践行のこと、と捉えたほうが良いと私は思います。

もちろん、最終的な「行」の力点は、果実であるところの「般若波羅蜜多」にあることは間違いないでしょう。

日々の経典読誦を、自身の認識力向上(=悟り)に活かしていくという観点からも、「行」は瞑想にとどまらず、六波羅蜜全体の、循環的な実践行と捉えたほうが、得るものが大きくなると思いますね。

 存在を構成している5つの要素 – 五蘊

照見五蘊皆空

読み:しょうけんごうんかいくう

現代語訳:五蘊はあり、それらはみな空であると明らかに分かった

前項からの流れでいきますと、「照見五蘊皆空」は、般若の智慧を得たときに、一体なにが分かるようになるのか?その内容にあたります。

五蘊とは何か?

仏教ではすべての存在を5つの構成要素に分けて考えるのですね。これが「五蘊」です。

色・受・想・行・識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)の5つです。それぞれの意味をまとめてみましょう。

  • 色…物体/肉体/感覚器官
  • 受…感受作用
  • 想…表象作用
  • 行…意思作用
  • 識…認識作用

こう漢字がずらっと並んでいると、もうやる気をなくしそうですよね(笑)。

存在というのは、おおざっぱに言えば、物質的なものと精神的なものに二分されますよね。

デカルトの二分法も、「精神と物体」でした。この二分法から、「物体を観察する私」という意識が生まれ、近代科学が育っていくことになります。

「デカルトなんて関係ないやー」と思っている人であっても、じつはデカルト的な思考の枠組みを受け継いで、日々を過ごしているわけで、このように考えると、思想というものの影響力のすごさに驚かされます。

この精神と物体の二分法をもう少し詳しく分類したのが仏教で言う”五蘊”なのです。

上記の色受想行識をそれに当てはめてみますと、

  • 色:物体
  • 受想行識:精神

という分類になります。

それぞれの定義から理解しようとしても難しいので、実際に、「私たちが外界をどのように認識しているのか?」辿ってみましょう。

たとえば、目の前に三毛猫がにゃん!と現れました。

即座に私たちは、「あ、猫だ!」と認識することができるわけですが、

この、

  • にゃん!という鳴き声
  • 三色の模様

を知覚してから、「あ、猫だ!」と認識するまでにどのような過程を辿るか?ということを考えてみるのです。

まず、私たちの肉体と感覚器官(目、耳など)がありますよね、これらが”色(しき)”です。対象である猫も、とりあえずは、色です。

そして次に、にゃん!という音と、三色の毛、全体のカタチ、(場合によっては)匂いなど…さまざま情報が私たちの感覚器官に飛び込んできて、その情報が脳に送られます。

ここの、さまざまな外界の情報を感知する段階が”受(じゅ)です。感受しているから、感受作用です。

”受”で入ってきた情報はいまだ断片に過ぎませんでした。たとえば、「にゃん!」という鳴き声、「三つの毛色」とか、あとは外形、匂い…などはいまだ信号レベルです。

これら情報を、「にゃん!という鳴き声で、3つの毛色をもっていて、小さくしなやかなカタチをしているもの」という”まとまり”として、私たちのこころに表象されます。

表象されるとは、かんたんに言えば、ひとまとまりのイメージ(映像)が浮かぶということです。

ここのところが、想(そう)です。表象作用ですね。

さて、映像がこころに生じても、その映像が何であるか?興味がなければ、人はスルーしていきます。

道を歩いていても、周囲からやってくる情報をいちち「これは〇〇で、これは△△、…」と判断しているわけではないですよね。

あくまで、「興をそそられたもの」に対して心が動きます。「…これは何だろう?」と解明したい意思が働きます。なので、意思作用です。

ここまで来て、イメージと、自分の情報ストックをもとに推論が働き、「あ、三毛猫だ!」と認識します。なので、認識作用というわけです。

これら色受想行識をそれぞれ分解して理解すると、上記の順序になっているということで、実際はこららのプロセスは一瞬になされていますけどね。

カントの認識論より細かい五蘊

この五蘊の解釈は、西洋哲学を勉強したことがあれば、「カントの認識論にそっくりだ」と気づかれる方もいらっしゃるでしょう。

カントの認識論では、感性→悟性→理性という3つのながれで人は物事を認識している、という分析をします(単純化すれば、です)が、五蘊は文字通り5つに分けて分析しているわけです。

分析が2つ多い!ということで、カントに先だつこと2千年以上前にこういう哲学的論議があったことは驚くべきことですよね。

さて、「照見五蘊皆空」ですので、これを上述したことを含めて再翻訳してみると、

「<存在>は5つの構成要素で成り立っており、それらは空(くう)であることが分かった

となります。

空(くう)については、今回はとりあえず、「実体のないもの」と理解してください。「存在は5つの構成要素の集まりに過ぎず、確固たる実体がないものである」という悟りです。

”五蘊”、”空”については、般若心経のなかにのちほどまた出てきますので、そのときにまた違った角度から論じてみます。

仏教の基本はセルフ・ヘルプ

度一切苦厄

読み:どいっさいくやく

現代語訳:一切の苦しみから逃れることができるのである

前項の「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」の結果、どのような功徳が得られるのか?という回答の部分です。

とは言っても、サンスクリット原本にはこの「度一切苦厄」はないそうです。翻訳者である玄奘が意味的に捕捉した「創造的翻訳」ということでしょう。

「照見五蘊皆空」の部分をざっくり復習・現代語訳してみますと、

「人間は5つの構成要素(肉体+精神作用4つ)からできているが、その構成要素それぞれは、間断なく変化している無常なもの、それ自体では存在できない無我なるもの、つまりは空(くう)なるものであることがハッキリと分かった」

といった内容でした。

このような認識を得ると「度一切苦厄」という結果になると、そういうことです。

「度」とは、「度する」という言い方をしますが、これは仏教の文脈では、「(仏陀が)悟りの境地に導く」という意味です。

なので、直訳的には、「一切の苦しみを悟りの境地に導く」ということになりまして、この文脈では、「苦しみが悟りへと昇華される」と言ってもよろしいのかもしれませんが、

ちょっと意味が取りづらくなりますので、まずは簡便に「(人が)一切の苦しみから逃れることができる」と現代語訳しました。

人間は、「それが確かなもの、確固たる存在である」と思うからこそ「価値がある!」「失いたくない!」と執着をします。

逆に、「仮そめのもの、本来は”無い”と言えるもの」に対しては執着しないでしょう?

なので、

  • 照見五蘊皆:五蘊はみな空であることが明らかに分かったので(原因)
  • 度一切苦厄:一切の苦しみから逃れることができる(結果)

という流れになっています。

「一切の苦しみから逃れることができる」というのは、いわば「救済」ですが、その救済のための方法論として、「肉体も精神作用もみな空なるものではないか、それがハッキリ分かった」という「認識」がある、と。

つまりここでは、仏陀や観音様の他力の光が差し込んできて苦しみから逃れる、ということではなく、あくまで、「五蘊は空なるものである」という認識の獲得によって救済(=解脱)が可能となる、という思想が提示されています。

他力か自力か?という二者択一で言えば、やはりこれは自力の思想ですね。セルフヘルプの精神です。

なので、観自在菩薩は「何でも救ってくださる法華経/普門品の観音様」とはだいぶ性格が違います。

そういう直感が働いたからこそ、玄奘は「聖観音菩薩」ではなく、「観自在菩薩」の訳語に決めたのでしょう。

信解脱と慧解脱のバランス

ただし、自力とは言っても、そもそも「釈尊を仏陀と認めよう、信じよう」「観自在菩薩の説法を聴いてみたい」と思わなければ、そもそも自力すら発揮できないわけです。

この仏陀を信じよう」という心的態度から解脱(=悟りの彼岸へ行くこと)を果たしていくことを信解脱(しんげだつ)と言います。信仰による解脱です。

対して、仏陀の説法を理性的に理解することによって解脱していくことを慧解脱(えげだつ)と言います。智慧による解脱ですね。

このように考えると、自力と言っても、前提条件として、「仏陀を信じる」という信解脱的な要素はどうしても必要ですよね。

なので、「自力か?他力か?」は、「ニワトリが先か?卵が先か?」と同じで、どちらが先とも言い難い側面はあります。

ネオ仏法では、「絶対力」という言葉を使うこともありますが、つまりは、セルフヘルプ(=自力)と恩寵(=他力)の双方をバランス良く大事にする中道的スタンスをお勧めしています。

やはり、わざわざこの地上に生まれてきたのに、一方的に救われておしまい!であれば、「そもそも何で生まれてきたんだっけ??」になってしまいますので、

ここは、「六波羅蜜多の修行をして般若の智慧を得た!そして、”五蘊皆空”という真理をつかんだ!」というプラスアルファがあったほうが人生としてはやはりベターです。輪廻の目的という観点からは、ですね。

もっとも、この「輪廻の目的」という観点自体が、現代の仏教解釈では真逆に捉えられていますので困ってしまうのですけどね…。このことは後述します。

道化役のシャーリープトラ? – 舎利子

舎利子

読み:しゃりし

現代語訳:シャーリプトラよ

舍利子はサンスクリット語読みで「シャーリプトラ」と言います。

法事などでお経をぼーっと聴いていると、「しゃーりーしー」ってよく聞こえてくると思います。

シャーリプトラは、釈尊の十大弟子のトップで「智慧第一」と呼ばれていた人です。上座仏教では”サーリプッタ長老”として、ものすごく尊敬を集めている存在です。

大乗経典は一応、仏説(仏陀の説法)という建前をとっていますので、やはり、一番弟子のシャーリプトラはよく登場してきます。

しかし、登場の仕方にひとつ問題というか、仕掛けがあります。

それは何かと言いますと、一言でいえば、

上座仏教で一番尊敬を受けているシャーリプトラを文脈の中で低い位置に置く、ありていに言えば、一種の道化役に設定することによって、「大乗は小乗(上座仏教)より優れているのだ」という暗黙のマーケティング装置として使われている、

ということです。

般若心経の構図でも、

  • 説法する主体:観自在菩薩
  • 説法される対象:舍利子(シャーリプトラ)

という設定になっています。

説法される側よりも説法する側のほうが偉く感じられますからね。

これは、暗に、「智慧第一のシャーリプトラと言っても、大乗の菩薩から見ればまだまだひよっこですよ」みたいな。

いくら何でもあんまりだ…と思うのですが、般若心経はこれはまだマシなほうで、

聖徳太子も注釈したことで知られる『維摩経』に至っては、シャーリプトラは「いかに悟りが未熟か!の見本」とばかりに、こてんぱんにやられる配役です。

こうしたことはやはり、大乗仏教の上座仏教へのマーケティングあるいはカウンターパンチを狙ったもので、「われわれ大乗のほうが優れた仏教なのだ」というアピールになっているわけです。

こういう、「配役によって、優劣を暗示する」という方法は、古代の経典にはけっこう見受けられるパターンです。

有名な『法華経』では、冒頭の方で弥勒菩薩が若干、間抜けな配役に設定されています。

え?同じ大乗の菩薩なのに…?という疑問がわきますが、これはやはり、大乗仏教でもいくつかの派閥があり、法華経を作成したグループは、弥勒信仰に牽制球を投げているのでしょう。

新約聖書でもこうしたことは微妙に行われています。

十二弟子のひとりにトマスという人がいますね。聖書外典の『トマス福音書』でも知られているトマス。

正典では、イエスの復活をすぐには信じることができず、イエスの肉体の傷痕に指を突っ込んでやっと認めたという、「疑いのトマス」として描かれています。

これが事実そうであったか?は、トマス推しの私にとっては否定しておきたいところです(笑)。

トマス系のグループは、いわゆるグノーシス主義の影響を強く受けていましたので、おそらく主流派からは、「グノーシス(認識)を持ち出すなんて、信仰うすきやつめ!」みたいな。

それで、「疑いのトマス」に設定されてしまったのではないか?と予想しているのですけどね。

少し話が逸れましたが、舍利子(シャーリプトラ)が登場している理由ですね、

まあ、道化役と書きましたが、これは逆に言えば、大乗仏教側の上座仏教に対するコンプレックスの裏返しであったかもしれません。

ひと昔前の教科書では、「紀元前後から大乗仏教が興り、その後、西域を経由して中国へ…」といったふうに、大乗仏教が華々しく登場したかのように書かれていました。

しかし、近年の研究では、大乗仏教は当初、上座仏教からは相手にもされておらず、都市部では拡がりも持てず、周縁へ追いやられていったのが実情、ということが分かってきました。

*参考書籍:『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』(グレゴリー・ショペン著)

なので、「西域を経由して」というより、「西域へ逃げまくって」という退却戦ですね、その流れで中国へ至ったというほうが実情に近いのでしょう。

シャーリプトラをコケにしたり、あとは、上座仏典(パーリ仏典)に比べると、大乗仏典は登場人物や舞台設定がやたらと派手・大げさです。

これもコンプレックスの裏返しであるとも言えましょうし、中央を追われた一座としては、舞台装置を派手にして、いわゆる楽劇のように仏典を派手にしていった、ということなのかもしれませんね。

しかしまあ、そうは言っても、大乗仏教は上座仏教へのアンチテーゼとして、宗教改革を行っていったというのは事実です。

そして少なくとも当時は、改革の必要性が十分にあったということです。

『般若心経』ではこのあと、仏教の基本的な教説がずらずらとでてきます。

私が般若心経読誦を勧める理由のひとつがここにあります。

わずか262文字の短いお経のなかに、仏教の教えがベスト盤的にコンパクトに収められていて、読誦するたびに上座仏教+大乗仏教の教説全体を概観していくことができる構造になっています。

「空」とは結局、一体何なのかを解明する

「空である!」というぶった切り – 色不異空 空不異色

色不異空 空不異色

読み:しきふいくう くうふいしき

現代語訳:物質は空(くう)なるものに異ならず、空なるものは物質に異ならず

現代語訳が、「空なるものに」では、まったく翻訳してないじゃないか…となりそうですが、空(くう)の内実については、解説で補ってまいります。

”色(しき)”は仏教用語で使うときは、”物質、物体、肉体を意味しています。

それを、「空に異ならず」とぶった切っているわけですね。まずは、この勢いを重視して読誦してみてください。

さて、では、”空”とはいったい何であるか?ということが問題になります。”空”の理解は、般若心経に限らず、般若経ひいては大乗仏教全般の理解に関わってきますので、超重要です。

超重要なわりには、仏教の解説書・般若心経の解説書を読んでも、いまいちピンときません。

とりあえず、空は”無我”に近い概念として伝統的に理解されています。

”無我”は、「各々の存在はそれ自体では存在できない。ゆえに、実体ではない」という思想です。

ネオ仏法でもまずはこの考え方を採ります。

ゆえに、現代語の直訳としては、「物質は実体ではないものに異ならない……」ということになり、まあここまでの解説で意味は分かるでしょうけど、訳としてはどういじってもこなれない感じがしますよね。

なので、読誦するときは、「実体ではない!」という念を込めて、「色不異空!」という感覚で読誦すると良いです。

私たちの苦しみのたいがいは、肉体的な自我意識に基づく執着にあります。

なので、執着の元のもとである肉体(物体)のところを「実体ではない!」とぶった切ることによって、執着を絶ち、真理への勢いをつけていくわけです。

こういう実践論的な側面がまずは重要です。

ネオ仏法式”空”理解

上述したように、”空”が”無我”とほとんど同じに理解していくのが伝統的な仏教教学の体系です。

しかし、ハイデガーが「存在とは時間のことである」と喝破したように(とりあえずこの真偽はさておき)、存在というものの時間的側面を無視するわけにはいきません。

”無我”は、「おのおのの存在は、他の存在と相依って(あいよって)、在るように見えている現象に過ぎない」ということなので、これはどちらかというと、空間論あるいは存在論的な分析の仕方ですよね。

仏教にはもうひとつ、時間論的なモノの見方がありました。そう、”無常”です。

”無常”は、「すべての存在は変転・変化のなかにある」という法則です。

ある現象が”縁”を介して、どんどん変化していく、いわば時間的ダイナミズムです。時間論ですね。

そういう意味では、「存在は時間である」と言っても良いですし、逆に「時間は存在である」というふうに論を展開していくことも可能なのです。

つまり、存在と時間というものは別のものではなく、ある現象を存在(空間)的断面から観察するか、それとも時間的断面から観察するか、その観る角度による違い、とでも言いましょうか。ハッキリと分けることはできないものです。

なので、”空理解”においても、ネオ仏法では、

空=無常+無我

というふうに時間と存在の両面から理解していきます。

そのほうが、「空である!」という”ぶった切り効果”も高いですよね?

「物質は、つねに変転変化のうちにあるではないか、なにを執着することがあろう!」というふうに、無常すなわち時間論的にも、ぶったぎり効果が効いてきますのでね。

結局、なぜ無我が空理解と関連性が深いかと言うと、”縁起”が関わっているからなのです。

すなわち、存在というものは、それ自体では存在できず、相依って”在る”ことができる。これを依他起性(えたきしょう)と言います。

ところが、縁起にはもうひとつ時間論的な側面があります。いわゆる、原因結果の法則です。

原因と結果というものも、「原因がなければ結果はありえず、結果がなければもはや原因とは言えない」ということで、原因と結果は互いに依存(いそん)の関係にあります。

したがって、時間論おいても、やはり”依他起性”になっているわけですね。なので、空理解に時間論を織り込むことは正当であるのです。

空=無常+無我

とまずはひとつの式を立てましたが、これはまだ暫定的な式だと留保しておいてください。

クレヨンしんちゃんにも登場する 「色即是空 空即是色」

色即是空 空即是色

読み:しきそくぜくう くうそくぜしき

現代語訳:物質はこれ空性であり 空性が即ち物質である

「色即是空 空即是色」という言葉はだいたいセットで唱えられますが、般若心経のなかでもいちばん有名な箇所です。

…というより、日本においては、すべてのお経のなかでも最も有名な箇所かもしれません。

じつはかの「クレヨンしんちゃん」の家の床の間の掛け軸にも使われています。笑

ただ、この言葉は般若心経ひいては般若系の経典のなかだけで有名、というより、大乗仏教を理解する上でカギになってくる言葉でもあります。

初期大乗仏教の経典で聖徳太子が注釈したことで知られる『維摩経』にも「色即是空」は出てきます。

とりあえず、意味は追わなくて結構ですので、「色即是空」が出てくることを確認しておきましょう。

喜見菩薩曰。色色空為二。色即是空非色滅空色性自空。如是受想行識識空為二。識即是空非識滅空識性自空。於其中而通達者。是為入不二法門(『維摩経』より)

大乗仏教は、”空”というキィワードとともに発展してきたと言っても、過言ではありません。『般若心経』は膨大な『般若経典』類のなかのひとつですが、いずれも”空”あるいは「空の概念」を中心としたお経です。

初期大乗仏教から登場してきた”空”の概念は、のちに、有名な龍樹菩薩(ナーガールジュナ)によって体系化され、唯識派とともに大乗仏教の二大潮流の一翼を担うことになります。

なので、「色即是空 空即是色」を手がかりに”空”を理解していくことは、大乗仏教を理解することにもつながっていくのです。

色即是空 空即是色の解釈

ここは前項の、「色不異空 空不異色」と実はほとんど同じことを述べています。

インドではもともと、「大事なことは三度繰り返す」という習慣がありまして、ここでもその文脈でほぼ同内容のことを繰り返しているのですね。

じつは『般若心経』のサンスクリット原本では「色性是空 空性是色」のフレーズも入っておりまして、実際に三度繰り返しのパターンなのです。

したがって、”色即是空 空即是色”も意味的には前回の”色不異空 空不異色”と同じ内容を示していると考えてよろしいかと思います。

結論的には、”色即是空 空即是色”とは、それぞれ、

  • 色即是空:形あるもの(物質)はすなわちこれ、実体性を欠くのであり、
  • 空即是色:実体性を欠いたものがたまたま、形あるもの(物質)として現れている

ということになります。

”色”は、仏教用語では「物質、物体」を意味するのでしたね。私たちの目に映るものですので、「形あるもの」「形作られたもの」と翻訳しても良いでしょう。

そして、”空(くう)”は、同じく仏教用語ですが、これは「それ自体では存在できない、実体ではない」「実体性を欠く」という意味でした。

これは「自ずからなる性質がない」ということで、「自性(じしょう)がない」という言い方をするときもあります。

”即是”は、「すなわちこれ」という意味ですね。

なので、”色即是空”とは、「形あるもの(物体)はすなわちこれ、実体性を欠くのであり、」となるわけです。

そして、”空即是色”とは、上記の逆を言っているわけですから、「実体性を欠いたものがたまたま、形あるもの(物体)、さまざまな個性あるものとして現れている」となります。

なぜ、「実体性を欠く」かと言いますと、存在はすべて”縁起”あるいは”因縁生起(いんねんしょうき)”で成り立っているからです。

たとえば、”家(いえ)”という存在を考えてみましょう。

家そのものも、地面の上に立っていますし、空気の中にあります。地面がなくなれば、たちまち家は崩れていきますね。

ということは、家というものはそれ自体で存在することはできず、地面という別の存在に依存していることになります。

*ちなみに、仏教では”依存”というときに、「いそん」という読みをあてます。

また、家そのものについても、家はたとえば、土台とか柱、材木、瓦…などのさまざまな構成要素の集合体です。

さまざまな構成要素・部品が仮に集まって(これを”仮和合(けわごう)”と言います)、たまたま、”家”という状態が現出しているに過ぎません。

その証拠に、柱を抜いてしまうだけでも、家は崩壊してしまうでしょう。

実際は、個別の家、たとえば「あなたの家」というものを考えた場合、瓦ひとつを取り除いただけでも、その瓦一つ分だけ「存在の在り方」が変化してしまったことになります。

厳密に言えば、瓦ひとつを取り除く前とは違う”家”になってしまいますよね。

このように、存在というものはさまざまな構成要素が仮に集まり(仮和合)、また、相互に依存(いそん)しながら、たまたま「ある状態」が現出しているに過ぎないのです。

存在というものは、固定的なものではなく、相互依存によって「たまたまその状態にある」というに過ぎないということです。

こうした相互依存のありかたを、仏教用語では、”依他起性(えたきしょう)”とも呼びます。

「家」のたとえで考えてみましたが、これはすべてに当てはまることです。自動車や楽器など、ご自分のお好きなモノで確かめてみましょう。

色即是空と空即是色の違い

「色即是空と空即是色の違い」については、本質的には違いはないと考えて良いでしょう。

  • かたちあるものは実体ではない→色即是空
  • 実体ではないものがかたちをとっている→空即是色

というふうに、順序としては逆になっていますが、本質的には同じことを言っています。

ただ、後述するように「実践論的な解釈」としては、まずは”色即是空”によって、「この世のあらゆるものは空である」といったん否定し、

その後に視点を変え、空即是色で、「そうは言っても、かたちをとっているからには意味がある。菩薩は涅槃に安住せずにこの世の救済に勤しむ」と再肯定する、というふうに、あえて違いを見出していくのもひとつの解釈としてあり得ると思っています。

また、別の解釈では、

  • 色即是空:形あるものはすべて空性・一如に還元される
  • 空即是色:一如なるものが多様な個別的な形をとって現れている

というふうに、「本質が一なるものに還元しつつ、一方、一なる本質が多様性をとって現出している」と、あえてエネルギーの方向性の違いを強調し、いわば、次元をまたいだ”一即多多即一”のサイクル状態を表現している、という解釈も成り立つかもしれません。

本質を同じくするものが”色”と”空”というかたちで現れているに過ぎない…ということで、仏教的には「色と空は不二(ふに)である」という言い方をすることもあります。

不二=「二つではない、本来ひとつのものである」ということですね。

不二の思想は、色心不二(しきしんふに)=身体も心も本質を同じくするもの、といったふうに色々使われています。

こうした教え=法門を「不二法門(ふにほうもん)」と言います。

この解釈では、「空即是色」を法華経で言うところの「諸法実相」的に捉えているとも言えます。

すなわち、「一如(空)なるものは現象化することによって、一如であること、その実在性を担保しているのだ」という理解です。

たとえば、現象としてのコップの背後に「水分を入れる容れ物」というコップの理念があります。

その「水分を入れる容れ物」というコップの理念がたまたま現象化していちいちのコップになっているのですね。

そうすると、

理念 – 現象

というプラトン的な二元論でまずは把握されることになるのですが。

考えてみれば、「水分を入れる容れ物」という理念の段階にとどまっていたら、これは事実上「使えない」と言いますか、何の意味もないとも言えます。

やはり、具象的ないちいちのコップとなっていることによっては、理念(この場合は「水分を入れる容れ物」)は理念であることの自己実現をなしているわけです。

このように考えると、「現象化することがすなわち理念そのものなのだ」というふうに「現象界全肯定の思想」が出てきます。

これが仏教においては、「諸法実相」の思想になっているわけです。

ところで、空を「一如」と捉えることは若干、異端的に感じられる方も多いでしょう。

ただ実際に、多くの般若経典では、「諸法空性」と「諸法実相」がほぼ同義語で使われていることがありますので、あながち異端的とも言えないのです。

むしろ、仏教のベスト盤たる『般若心経』は法華経的「全肯定」の価値観もそのうちに包含していると見てとることもできそうですね。

色即是空 空即是色をサンスクリット原語から探ってみる

やはり、”空”の理解は言葉では難しいのです。

わりあい親切な解説書では、たとえば以下のように説明しています。

”空”のサンスクリット語は”シューンヤ(シューニャ)”で、文字通りには、「からっぽ」という意味です。

*ちなみに、”色”のサンスクリット語は”ルーパ”です。これは原意から「物質」という意味です。

インドでは「からっぽがある」という不思議な言い回しをするのですね。数字のゼロもインドで発見されましたが、まさにその”ゼロ”の感覚です。実際に、”シューンヤ”はゼロという意味も含んでおります。

「ないのだけど、ゼロがある」といったふうに、0(ゼロ)は不思議な数字です。

”空”についていくつかの著作がある仏教学者・立川武蔵氏は『般若心経の新しい読み方』で以下のように指摘されています。

「空」は、中に入っているべきもの(とっくりにおいては酒)が想定されていて、それが「無」あるいは「存在しない」ときに「空」という表現をわれわれは用いていると言えましょう。
(第六章 「色即是空、空即是色」- インド人の解釈)

ここのところは、要は、「中身がないのだけれど、この場合の”ない”は単なるナッシングではなく、容器に満たされるべき何モノかが可能性として想定されてくる」ということだと思うのですね。

上記のゼロと同じで、ゼロがあることにより、たとえば、10,30.100,1000…というふうに無限の数の”拡がり”が想定されてくる、ということでありましょう。

そういう意味で、”空”は単純にナッシングであるとは言えず、むしろ、無限のサムシングを可能性として含んでいるもの、ということになりますね。

実際に、”空”は「空っぽ」であると同時に、サンスクリット原語では、風船のように「膨れる」という意味が含まれているようです。

ここでも、可能態としてのゼロ。「無限のサムシングを可能化するところのゼロ」という理解が成立するでしょう。

色即是空 空即是色は量子力学から証明されつつある

あるいは、最近は素粒子物理学や量子力学から”空”を語ることも流行っているようです。

物質は原子からできていますが、その原子もさらに微細な17個の素粒子から形作られている。

そのように考えると、物質というものは確固たるように見えながら、その実、総粒子というミクロの構成要素が仮に集まってできている、スカスカのモノであると言えますね。

ここのところは、”五蘊皆空”のところでご説明したように、「存在というものは、さまざまな構成要素が集まって、仮に”今ここ”に在るように見えている」という仏教理論と整合性を図ることができるところでしょう。

あらゆる存在は、現象に過ぎない。ゆえに執着する必要はない

固定的・不変的実体が”有る”という価値観が苦しみの根源

さて、冒頭の解釈にもう一度、戻りましょう。

  • 色即是空:形あるもの(物質)はすなわちこれ、実体性を欠くのであり
  • 空即是色:実体性を欠いたものがたまたま、形あるもの(物質)として現れている

「実体性を欠く」というのは、さらに噛み砕いて言えば、「それ自体では存在できないので、永遠不滅の存在とはいえない、本当の存在とは言えない」ということです。

もう少し哲学的な表現をするならば、色即是空は「あらゆる存在は、現象に過ぎない」というふうに理解しても良いと思います。

私たちは、物質的、物体的なものに執着をして苦しみを作っています。お金とかクルマとか、食べ物とか…挙げていけばきりがないくらいです。

なぜ執着をするかというと、それらが「ある」と思っているからです。

ところがそうした物質的なものは自らのコントロール外のものですから、ついつい振り回されてしまいます。

これは自分や周囲の人を観察してみれば、よく分かることです。

(価値あるものが)あると思う→だけど思い通りにならない→だけど欲しい(執着)→ああ、苦しい

というふうに、苦しみの元をたどってみれば、「ある」という意識です。

なので、苦しみを滅するために、その正反対の概念であるところの「ない」、すなわち、「空である!」というぶった切りをいれていくわけです。

ないものには執着のしようがないからです。ゆえに、苦しみもなくなると。

大乗仏教において、”空”の物の見方、すなわち”空観(くうがん)”が大切にされているのは、このように「苦しみの根っこを断つ」という効能があるからなのです。

なので、空なる物の見方を得ること、空観がなぜ大切なのか?をまとめると、下記のようになります。

「あらゆる現象は本来的なものではない。なぜなら、それ自体で存在できるものは何一つなく(無我)、一切は流動的だからである(無常)、それを知った時に苦しみの根源である執着を断ち、平安な境地を得ることができるのである(涅槃)」

このように、(のちほどまた触れますが)”空”のなかには、

  • 無常:諸行無常
  • 無我:諸法無我
  • 涅槃:涅槃寂静

の三法印が含まれている。そのように解釈することができます。

一切法(いっさいほう)=三科の否定

般若心経では、「あらゆる現象は空である」という真理を繰り返しくり返し、畳み込むように述べているわけですが、その「あらゆる現象」をいろいろな角度で列挙しているのですね。

「あらゆる現象」を仏教では、”一切法(いっさいほう)”と言いますが、これは大別して

  • 五蘊(ごうん)
  • 十二処(じゅうにしょ)
  • 十八界(じゅうはちかい)

の3つに分類されています。

お経では三科の否定は、

  • 無色無受想行識:”五蘊”の否定
  • 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法:”十二処”の否定
  • 無眼界乃至無意識界:”十八界”の否定

と、順に綴られているわけです。

「すべてはの現象(一切法=三科)は本来的なものではない、空である。ゆえに執着する必要はないのだ。そう思ったときに苦しみの根本を断つことができる。」

これが般若心経が教えている内容なのです。

涅槃(ねはん)に安住しない菩薩。甦る菩薩

さらに、「色即是空 空即是色」をもっと実践論的に解釈する方向性もあります。さきに述べましたように「色即是空と空即是色の違い」を強調する方向です。

”色”すなわち物質は、人間の存在にとっては”肉体”に相当しますよね。

そこで、”色即是空”を「肉身の菩薩が、空なる真実の在り方に還っていくこと」とまずは解釈します。これは簡潔に言えば、肉体の死を迎え、精神だけの存在となり、涅槃に入るということです。

ところが菩薩の誓願(願い)は、一切の衆生を救済することにありますから、そのまま涅槃に安住することを良しとしない。

「”涅槃”に安住することをあえて拒否し(権利放棄)、ふたたび、”色”すなわち肉身の菩薩として衆生済度のために顕現するのだ、これが”空即是色”である」と解釈するのです。

この解釈は、もともと『般若心経』が意図していた「色即是空 空即是色」の思想からは離れているかもしれませんが、これはこれで非常に実践論的な真理でもありますね。

こういう風に、あえて「色即是空 空即是色 の違い」を強調する使い方もひとつだと思います。

色即是空 空即是色=諸行無常+諸法無我+涅槃寂静

さて、”空”の解説としてはこれで十分なのかもしれませんが、本音を言うと、これでもまだモヤモヤが残りませんか?

私は残ります(笑)。

というのも、

たしかに、「ない」「実体ではない」ということで執着は断てるかもしれませんが、一方、「ああ、何もかも、ないのだ…」「どうせないのだから…」というふうに、空観はニヒリズム・虚無主義に流れていく危険性もでてくる。

実際、仏教をニヒリズム、虚無主義だと思いこんでいる欧米の学者もひと昔前はいたそうです。

そしてその直感はある意味、あたっていると言えます。

”空”の理解を、「実体ではない」「現象に過ぎない」「ゆえに、ないものに執着をするなかれ」で止まっていると、

たしかに、執着を断つというメリットはあるのですが、反面、ニヒリズムに流れそうなデメリットも確かにありますよね。ここのところが”もやもや”の原因になっているわけです。

そこで、ネオ仏法では”ニヒリズム的空”を克服していこうと思います。

前項では、”空”理解は、

空=無常+無我

の式で理解すればよい、とお話しました。

ところが、「無常」「無我」とくれば、もうひとつ思い浮かびませんか?

仏教の三法印は、

  1. 諸行無常(しょぎょうむじょう)
  2. 諸法無我(しょほうむが)
  3. 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

の3つでした。

無常と無我はむろん、1番めと2番めに相当します。

でも、あともうひとつ、「涅槃寂静」が残っています。

そこで、”空”理解に、涅槃寂静も代入してゆく方向性を考えてみます。

式としては、

空=無常+無我+涅槃

ということになります。

要は、”空”というのは、三法印の悟りを一字で表現したものだ、と。そういう解釈です。

”空”はそもそも、色→空、空→色、…と循環するさま全体をも表していますので、式の完成形としては、

空=「色即是空 空即是色」=無常+無我+涅槃(三法印)

というふうにも解釈できます。

色即是空 空即是色で”生きる意味”まで見抜いていく

では、涅槃とは何か?もっと深堀りしてみましょう。

伝統的には、「無常、無我を克服して輪廻から解脱すること」と解釈されています。

ところが、この考え方のベースにあるのは、「輪廻は悪であり、かつ、釈尊は魂もあの世も否定した」という思想です。

しかし、ネオ仏法ではこの解釈は採りません。

仏典をつぶさに読めば、あの世・来世を前提にしなければ話が通じなくなる法話はたくさんあります。

そもそも、魂・あの世がないのであれば、仏教の基本説法である施論・戒論・生天論(三論)が成り立ちません。

施論・戒論・生天論とは、

  • 施論:善を行い
  • 戒論:悪を戒めれば
  • 生天論:天界へ生まれることができる

という説法です。

これは在家向けの基本説法ですが、あの世・魂がないのであれば(無霊魂説)、いったい何が天界へ赴くのか?サッパリ分からなくなってしまいます。

方便・たとえ話として捉えるには、あまりにも直接的過ぎるでしょう。

妄語(もうご/ウソをつく)を戒めていた釈尊が基本説法にそのような方便を盛り込むとは考えにくい。

それよりも、「魂・あの世はある」と考えたほうがスッキリします。

このような無霊魂説は、実際はシンプルに「今の近代的文明の世界で「あの世・魂」など、荒唐無稽である」という思い込みがまず前提に入っているのではないでしょうか?

無霊魂説を唱えている人は、この「前提となっている価値観」をどれほど検証したのでしょうか?

八正道の始めである「正見」は、如実知見(にょじつちけん)すなわち、「物事をありのままに白紙に戻して考える」が出発点であるはずです。

時代性・地域性に左右される先入観・偏見を白紙に戻して、ありのままに見つめていくのが正見の出発点です。

あの世・魂を否定する涅槃解釈は、ここの正見の点検が不十分であると思わざるを得ません。

涅槃とは、過去世・現世・未来世を通じて、正しい真理認識のもとに自らの人生を観察し、生ききることができる状態。その結果としての平安な境地のことである、というのがネオ仏法の解釈です。

そのように考えると、涅槃は幸福論そのものであることに気づきます。

さて、それでは、空(くう)に涅槃解釈を代入するとどうなるか?

「空とは結局のところ、究極の実在である真理が流転するさまを表現している」ということだと思います。

つまり、

色即是空⇢空即是色⇢色即是空⇢空即是色⇢………、

というふうに、延々と連なり、流転していくのです。

そういう意味では、「色即是空 空即是色」は、

仏の本源的なエネルギーが現象界に多様な存在として現れ(空即是色)、多様な存在がふたたび仏の本源的なエネルギーに還元されてゆく(色即是空)

という解釈も可能です。

いわば、実在界と現象界を貫いた「エネルギー保存の法則」ということになります。

真理全体は実在(=実際に有る)なのですが、その内実の個々の現象を採り上げてみると、無常であり、無我である。現象に過ぎない(=無いとも言える)。

まずはこのように解釈してこそ、有無の中道が成立していきます。

従来の「空解釈」は「それ自体では存在できない、ゆえに空である」というふうに、あくまで「現象とは本来無いのだ」という視点のみの解釈に偏っているように思えるのです。

「有無の中道」からいけば、もう一方の論理、すなわち「実在という全体性は有るのだ」という視点も獲得していく必要があります。

存在の論理において、

  • 現象:一切は”無い”。なぜなら、それ自体で存在できるものはないから
  • 実在:仏(真理)は全体である。全体は”有る”

ということになります。

この存在論こそが空の本質であり、かつ、そのように存在を認識できる個人のあり方・幸福論がまさしく涅槃であります。

したがって、

”色即是空 空即是色”とは、究極の実在が自己展開するさまを指しており、その目的は幸福論にあるのだ、というところ、「生きる意味」まで見抜いていきます。

ここまで”空”の意味内容を更新していくことが、本記事のテーマでもあるところの「般若心経の悟りを超えて」の第一段階に相当するものである、と自負しています。

本項では一応、論理的に”空”をご説明しましたが、仏教は哲学ではなく宗教ですので、生活の中で実際に”空”を体得していくことが大事です。ただ、そのためには”論理”を理解することが前提です。

  • 智解(ちかい):知識、論理として理解すること
  • 体解(たいかい):実体験をもって腑に落とすこと

この両輪が大事です。

本記事を通して、ここからまたさらに奥の奥へ分け入っていくつもりです。ご期待くださいね。

”我”を構成しているものはすべて実体ではない

受想行識 亦復如是

読み:じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ

現代語訳:感受作用、表象作用、意思作用、認識作用もまた同じ(空性)である

「受想行識(じゅそうぎょうしき)」とは、”五蘊(ごうん)”のうちの4つを指すのでした。

亦復如是(やくぶにょぜ)」とは、「またかくのごとし」つまり、「それもまた同じである」という意味です。

すなわち、

受想行識も、「色即是空 空即是色」と同じように理解せよ、ということですね。

したがって、

「色即是空」を受けて、五蘊(ごうん)を並べていけばよい、ということになります。

つまり、

  1. 色即是空 空即是色
  2. 受即是空 空即是受
  3. 想即是空 空即是想
  4. 行即是空 空即是行
  5. 識即是空 空即是識

となります。

2.以降を現代語訳しておきますと、

2. 感受作用も実体ではない(空性である)、実体ではないものが(空性が)感受作用を形成している

3. 表象作用も実体ではない(空性である)、実体ではないものが(空性が)表象作用を形成している

4. 意思作用も実体ではない(空性である)、実体ではないものが(空性が)意思作用を形成している

5. 認識作用も実体ではない(空性である)、実体ではないものが(空性が)認識作用を形成している

と、このようになります。

なんだか難しくなってた!という方は2つだけに分けて理解しておきましょう

五蘊は、ざっくり2種類に分けると、

  • 色:肉体(物体)
  • 受想行識:精神

です。

肉体+精神で、とりあえずは人間のすべてが構成されています。

この2種類だけで現代語訳しますと、

  • 肉体はこれ空性であり、空性がすなわち肉体である
  • 精神はこれ空性であり、空性がすなわち精神である

というふうになるわけですね。

「何もかも空性である(実体ではない)」とまとめてもいいのですが、「〇〇は空性である」「△△も空性である」……というふうに、順番にぶった切っていくと勢いがついて、より執着がとれそう(?)です。

262文字しかないのに同じことを?という疑問もありますが、実はこのあとにもう一度出てきます(笑)。

なぜこれだけ「空性である(実体ではない)」にこだわるのか?

「念押しで執着を断ってほしい」と言えばそれまでですが、ちょっとした歴史的経緯もからんでいるかもしれません。

この点に関しましては、次項の「諸法空相」のところで詳しくご説明いたしますね。

当時の”ネオ仏法”であった大乗仏教

舍利子 是諸法空相

読み:しゃりし ぜしょほうくうそう

現代語訳:シャーリプトラよ、このようにあらゆる存在は空なる相(すがた)であるのだ

舍利子は、サンスクリット語読みで「シャーリプトラ」、「智慧第一」と呼ばれる釈尊の一番弟子でしたね。

「般若心経」および大乗仏典におけるシャーリプトラの位置づけについては、先ほど詳しく論じましたが、今回はまた別の角度からもお話していくことになりそうです。

さて、

諸法空相(しょほうくうそう)という、また難しげな言葉が出てきました。

「法」という単語は仏教ではかなりの頻度で出てきます。

そして、「法」という言葉自体がさまざまな意味で使われていますので、ますます分かりづらくなっているのですが、

「法」は大きくは、

  • 根本原理(教え)
  • 存在

この2つの意味だけ押さえておけばだいたい理解できるようになります。

「仏法」というのは、「仏陀の説く根本原理=教え」という意味です。

インドではもともと、日本人が考えるような「宗教」という概念が希薄です。

「私は、〇〇宗に属しています」という言い方はせずに、そのかわりに、「私は、〇〇の法(ダルマ)を信奉しています」という言い方をするのですね。

「私は仏法を信じています」というのは、「私は仏陀の説く根本原理を信奉しています」ということになります。

「根本原理」に従って、物事が「在る」と理解しますので、結局、根本原理=存在、という理解の方向へ行っているわけです。

「諸法空相」の「法」は、後者の「存在」の意味だと理解していきましょう。

「諸法空相」すなわち、「もろもろの存在は空なる相(すがた)であるのだ」ということです。

それでは、「空なる相」とはなにか?

「空」は一般的には、「実体ではない、本当の存在ではない」と理解されていることは何度か申し上げました。

そうすると、「諸法空相」とは、「もろもろの存在は、実体ではないものが様々な相(すがた)をとっているのだ」ということになります。

ここで前回のお話の後半に残しておいた疑問にお答えしておきます。

なぜ般若心経はしつこく”空性”にこだわるのか?その歴史的経緯は?という疑問でしたね。

実は、このことは大乗仏教がいかにして成立したか?成立する必然性があったのか?と深い関わりがあるのです。

釈尊の入滅後、仏陀の教団は根本分裂を経て、枝末分裂(しまつぶんれつ)へ、さまざまな教派に分かれていきました。

こうした様々な教派が覇を競っている時代を「部派仏教」の時代と言います。

この部派仏教の中で最大勢力を誇っていたのが、「説一切有部(せついっさいうぐ)」という学派です。

詳しい説明はここでは省きますが、説一切有部は「一切が有ると説く」という字の並びから何となく想像がつきそうですよね。

説一切有部は存在の構成要素を分類して(五位七十五法といいます)、それぞれは過去・未来・現在を通じて「有る」と説いたのでした。
*これを「三世実有法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)」と言います

この説では、「この世の存在の構成要素の組み合わせで様々な精神や物体が出来ている」ということですので、これは結局唯物論になってしまいます。

学問的には、「説一切有部は最大部派のひとつで、これこれこういう思想なのでした…」と、他の部派と並べて解説すれば済むかもしれません。

しかし、真理スピリチュアル的にはやはり「仏陀の目から見てどうであるのか?」という価値判断をしていかなければなりません。

そして、価値判断的には、やはり唯物論はバツ(=悪)という判定になってしまいます。

結局、唯物論は刹那主義かニヒリズムのどちらかにたどり着いていきますし、そもそも真理ではありません。

なので、部派仏教の中でも特にこの「説一切有部」とどうしても思想的に対決しなければならなかった、という事情がありました。

そこで、「一切は有る」に対して、「一切は実体ではない」という意味を込めた「空(くう)」の概念をぶつけていったわけです。

こういう「思想的対決」の経緯があります。

また、説一切有部は「上座部(じょうざぶ)」という部派の一派です。

上座部は現在の、別名、南伝仏教。大乗仏教から「小乗仏教」と呼ばれている宗派へ至っています。

最近では、「上座仏教」と呼ばれることのほうが多いようです。

上座部は長老派とも呼ばれていまして、舎利子(シャーリプトラ)は最高の長老として最も尊敬されていたのでした。

大乗仏典の多くで、そして般若心経でも、シャーリプトラを「格下」扱いで登場させているのは、上座部(長老派)に対するあてつけの意味もあります。

般若心経では、観自在菩薩が舎利子(シャーリプトラ)に「舎利子よ」と説法するスタイルをとっていますね。

これも、「菩薩の悟りに比べたら、智慧第一と呼ばれている最大の長老も敵わないんですよ」というアピールがあるわけですね。

まあ…当時はそういうカウンターパンチが必要という判断で繰り出していたのですが、やはり、舎利子(シャーリプトラ)に失礼ではあったと思います。

やはり、舎利子(シャーリプトラ)は釈尊の十大弟子の筆頭であり、偉大な方であるのは間違いありません。

ネオ仏法では、「結局、空(くう)というのは三法印のことなのだ」と主張しております。

空=諸行無常+諸法無我+涅槃寂静

の理解です。

三法印というのは、仏法の中心中の中心ですので、「釈尊の時代に、誰がこの教えを一番理解できていたか?」と問えば、「それは<智慧第一>の舎利子(シャーリプトラ)でしょう」という答えが順当でしょう。

つまり、用語と時代を違えているだけで、本来的な「空」の真意の理解が一番深いのは舎利子(シャーリプトラ)であったはずですね。

大乗仏教運動は宗教改革、一種の革命でありますが、革命というのはつねに「原点に帰ろう」という復古運動の側面を持っています。

ルターの聖書主義しかり、明治維新の王政復古しかり、です。

つまり、紀元前後に勃興してきた大乗仏教というのは「新しくてかつ復古でもある」という意味で、まさしくその当時の「ネオ仏法」であったのです。

少し、般若心経の本文からは外れたようですが、「こういう経緯があった」ということで、トータルな理解の足しにしていただければと思います。

否定論法で究極の真理を浮かび上がらせてゆく

不生不滅 不垢不浄 不増不減

読み:ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん

現代語訳:(新たに)生じることもなければ滅することもない、穢れることもなければ浄くなることもない、増えることもなければ減ることもない

ここの箇所は、前項の、「シャーリプトラよ、このようにあらゆる存在は空なる相(すがた)であるのだ」という言葉の続きです。「したがって、」という言葉を補って理解するとわかりやすいでしょう。

「あらゆる存在は空なる相(すがた)であるのだ(したがって、)(新たに)生じることもなければ滅することもない、穢れることもなければ浄くなることもない、増えることもなければ減ることもない」

という流れです。

「不○不△」という形式が3つ並べられています。「不」を基準に数えれば、6つの否定が並べられています。

これは、龍樹菩薩の「八不(はっぷ)」を踏まえつつ、3つに絞った表現であると思われます。

「不○不△」という論理の展開の仕方は、いわゆる「否定論法」にあたります。

否定論法は、「真理とはなにか?」を探求する際に欠くことのできない論法です。

なぜか?

肯定論法、「○は△△である」という叙述の仕方は結論が確定できるという安心感はあるのですが、一方、「〜である」と落ち着いてしまうことにより、ひとつの”静的(スタティックな)な状態”’に陥ってしまうことになります。

これ以上の”スペース”がなくなってしまうのですね。

スペースがなくなってしまうということは、これは「限定性をかける」ということになりますので、実際は真理という実体に想定されているところの”無限性、永遠性”と矛盾してしまいます。

一方、「〇〇ではない」という否定論法においては、「〇〇ではないけれど、△△かもしれない」「〇〇ではないけれど、次に☓☓が現れてくる」といったふうに、スペースとそれに伴う持続可能性がでてくることになります。

この持続可能性が真理の永遠性・無限性を担保することになるわけです。

さて、それでは、本文の6つの否定論法を見ていきましょう。

不生不滅

「(新たに)生じてくるわけではなく、滅するのではない」ということですね。

そもそも、従来の般若心経解釈、すなわち、空≒無我=実体ではない、ということでいけば、

実体性がないのであるから、つまり本来的には「無い」のであるから、「生じた、滅した」ということ自体がありえないことになります。

第一義的にはその解釈でOKだと思います。

そしてここでも、上座仏教へのアンチテーゼがぶつけられていることに気づきます。

初期仏教以来の”無常観”で言えば、存在はすべて変化のうちにあり、「生滅」を繰り返してゆく、という考え方をとります。

これは「生滅がある」という考え方ですよね。

これに対して、「いやいや、「空」という究極の真理の目から見れば、「生滅すら無い」”不生不滅”であるのだ」とカウンターパンチを繰り出しているわけです。

不垢不浄

これも上記と同じように考えればよいです。

本来、実体性がないものに、「汚くなった、キレイになった」と言っても無意味ですよ、ということですね。

初期仏教では、無常観を鍛えるため、とりわけ「情欲」を抑える修行として、「不浄観」という観法を実践しておりました。

「女性が(男性が)美しいと言ったって、その美しさも時々刻々と変化しているではないか、やがて年老いて死んで髑髏(どくろ)になるではないか」

「皮を1枚めくってみれば、それでも美しいだろうか?とても見れたものではないだろう?」

というふうに、要は、「一見きれいに見えるけど、汚い(不浄)じゃないか」という観察を行って、執着を断つ修行をしていたわけです。

なので、初期仏教を継承していると自負している上座仏教にとっては、「生滅がある(無常である)」「不浄である」という教えはとても大事な教えなのですね。

それに対して、不生不滅!!不垢不浄!!と、ズバッと切り込み、

「より高度な”空”の悟りにおいては「不生不滅」「不垢不浄」であるのだ」

と”大乗の悟りの優位性”をアピールしているわけです。

不増不減

これももちろん、同じ論法で理解すればよいです。

ありとあらゆるものは実体がないのであるから、そもそも「増えた、減った」という論自体が成り立たない、ということになります。

「無いものは無いんで!」という開き直り(?)っぽいです。

般若心経の悟りを超えて

さきにで展開された”空解釈”において、「般若心経の悟り」をひとつ超えていると自負しておりますが、さらに本項でもう一段超えて突き放していくつもりです。

上述した6つの否定、”六不”においては、「あらゆるものは実体ではない」という空性の悟りが前提になっているのでした。

ところが、ネオ仏法は空理解においても、「有無の中道」をとります。

すなわち、

現象においては、個々の存在は実体ではない(従来の空解釈)

で良いのですが、

空とは結局のところ、究極の実在である真理が流転するさまを表現している、ということだと思います。

真理全体は実在(=実際に有る)なのですが、その内実の個々の現象を採り上げてみると、無常であり、無我である。現象に過ぎない(=無いとも言える)。

…というふうに、空は

  • 現象にウエイトを置くと、「無い」といえる
  • 実在にウエイトを置くと、「有る」といえる

というふうに有無の中道で解釈していきます。

ひとまとめで表現しますと、

「真理は真理自身を発展の中におくために、その内部に個々の現象を創造し、現象相互に矛盾をあえて在らしめることによって、弁証法的な新たな付加価値を生じせしめている」

ということになります。

これは、実体の定義そのものの更新、すなわち、

実体=変化の背後にあって変化しないもの、永遠の存在

という従来の”実体の定義”をも更新していることに気づきます。ある意味で、西洋哲学史そのものを更新しています。

実体は、「変化の背後」にあるのではなく、自らを変化・自己展開させていくことにより、つねに新たな付加価値を生じさせ、持続的な発展を可能にしている、ということです。

ここでまた大きなおおきなポイントに気づきます。すぐ上の文章で、「つねに新たな付加価値を生じさせ」のところです。

つまり、付加価値がつねに生産されているのであれば、<実在>そのもののエネルギー総量もつねに増え続けている、ということです。

これは超重要な考えであり、ネオ仏法の中心中の中心の論理です。

<実在>のエネルギー総量が増え続けているのであれば、「不増不減」ではなく、「増」であるはずです。

<実在>の側から観察すれば、ですね。ここのポイントが「般若心経の悟りを超えて」の第二段階に相当します。

けっこう、難しく思われますか?

しかし哲学書をある程度読み慣れている方から見れば、それほど難解な論理展開ではないでしょう。むしろ、拍子抜けするほどかんたんに説明できていると思います。

あえて、傲慢に宣言させて頂くとすれば、

本項で展開した内容は、2024年現在までの地球の文明の中で最高の知の到達点である、と自負しています。

この価値がおわかりになる方は、ぜひ、繰り返し読んで理解を深めてみてください。

あなたの魂にとって、最高の”知の月桂冠”になることでしょう。

釈尊の教説を次々と否定していく驚き!

空と無はどう違うか?

是故空中 無色無受想行識

読み:ぜこくうちゅう むしきむじゅそうぎょうしき

現代語訳:それゆえに空の悟りにおいては、肉体は無い。感受作用、表象作用、意思作用、認識作用も無い。

「是故」は「かくなるゆえに」ということですので、前回の「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」という”空”の有り様の説明を受けているわけです。

「空中」は、「空の中」と直訳すると意味が取りづらいですので、「空の悟りにおいては」と意訳しました。

さて、またまたまた五蘊が出てきましたね。五蘊の説明はそろそろよろしいかと思います。

問題は、”無”でしょう。

ここまでは、「五蘊皆空」というふうに、”空”で説明されてきましたが、ここではとうとう”無い”とまでハッキリ言われてしまいます。

そうすると、「空と無はどう違うのか?」というのが問題になってきますね。

私も何冊か般若心経解説本を読んだのですが、ここのところは今ひとつスッキリしませんでした。

これはなぜかと言うと、”空”が「からっぽ」という、ほとんど「無い」と同じような解釈のされ方をされているので、”無”と区別がつきづらくなっているためであるように思われます。

ネオ仏法では、”空”を、

  • 全体(実在)としては有るが、
  • 個々の部分(現象)としては無常かつ無我なので実体ではない。
  • 実在は現象することによって、己を自己実現してゆく。そこに実在にとっても現象にとっても幸福論が現れてくる。これが涅槃である

と解釈しています。

なので、単に「からっぽ」とか「からっぽがある」とか、そういう説明はしていません。

「無い」というのとは明らかに違います。

それでは、空と無はどう違うのか?

”無”というのは、「一段上の認識から見ると仮の存在であり、”無い”とも言える」という意味にとります。

ネオ仏法では、「存在というものも一義的なものではなくて、段階がある」、言葉を変えれば、「実在性に諸段階がある」という説を展開しております。

本文に戻りまして、「無色無受想行識」でしたね。

五蘊(色受想行識)とは人間存在を5つの構成要素に分解したものですが、この五蘊を”無い”と言い切っているわけです。

「無い、と言われても、現に私は今ここにあるんだから困る!」という気持ちは当然のことで、五蘊は現象としては有るのです。

これすら”無い”と言ってしまったら、私たちの存在の根拠がなくなってしまいます。ネオ仏法ではここはむしろ積極的に肯定していきます。

五蘊は現象としては”有る”が、より高い段階の真理である”空”の立場からは、仮のものである、”無い”とも言える、というのがここの「是故空中 無色無受想行識」の本当の意味です。

有るとも言えるし無いとも言える、という「有無の中道」で見ていきます。

これらは観念の遊びとして、「有るとも言えるし、無いとも言える」と解釈してるわけではありません。

般若心経が”無い”にあえてウエイトを置いているのは、存在の分析のためだけではなく、「執着を断つため」という明確な目的があるのです。

今までも何度も述べてきたことですが、人間の苦しみはすべて”自我”から出てきています。

私の収入、私の地位、私の名声、私の恋人、私の配偶者、私の子ども、私の車、…私の修行…といったふうに、”私の俺の”というところから執着が出てきて、これらが得られない苦しみ、あるいは維持できるかという不安ですね。

この「私の〇〇」というところが苦しみの根源になっているわけです。

そうであるならば、いっそ、”私”というのをなくしてはどうか?という提案なのです。

「だってそもそも私(=色受想行識)なんて無いんだから」「えっ!」

ということですね(笑)。

さて、また一方では、(現象としては)有る、という理解も大事です。

仮のものではあるが、今、現に地上に有るのであるから、そこに意味とミッションを見いだしていくわけです。

ここで、「人生の意味とミッション」と知っていることが大事になってくるのですね。

”有無の中道”でもって、「仮のものなんだ!」と執着を絶ちつつ、しかして、「意味とミッションを見いだしてプラスを生み出していこう!」と前進していくこと。

これは真の意味での涅槃そのものでもあります。

六根も無い

無眼耳鼻舌身意

読み:むげんにびぜっしんい

現代語訳:目も耳も鼻も舌も身体も心も無い

前項の、「是故空中」を受けています。

「かくなるゆえに、空の悟りにおいては、目も耳も鼻も舌も身体も心も無い」ということですね。

「目も耳も…ありますけど?」と言い返したくなりますが、これは前項でご説明したとおり、

「空という高い段階の悟りから観ると、目や耳…などは仮の存在であり、無いとも言える」ということです。

眼耳鼻舌身意は合計6つありますので、総称して”六根(ろっこん)”といいます。

人間を構成要素に分解するという意味では五蘊に似ていますね。

五蘊が心作用を中心に分解しているのに対し、六根は身作用を中心に器官別に分解していきます。

書いて字のごとし…なのでだいたいおわかりかと思います。

それぞれ、

  • 眼:視覚
  • 耳:聴覚
  • 鼻:嗅覚
  • 舌:味覚
  • 身:触覚
  • 意:心作用

となります。

五蘊(色受想行識)とどう対応しているか?と申しますと、

  • 色:眼耳鼻舌身
  • 受想行識:意

と、こうなります。

六根については、おもに「認識作用」を問題にするときに使います。このことは次項以降でご説明いたします。

少し予習しておきましょうか。

感覚器官にはそれぞれ対象がありますよね。

眼(視覚)に対しては”景色”がある、といったふうに、六根についてそれぞれに6つの対象があります。これを”六境(ろっきょう)”と言います。

  • 六根:認識の主体
  • 六境:認識の客体

というふうに、認識論においての主体と客体(対象)を表しています。

この六根の思想もやはり存在の分析にとどまらず、「執着を断つ」ために使います。

私たちは、目で見たもの、耳で聞いたもの…(以下、同様)を対象に執着を作りますね。

その執着の元を断つわけです。「そもそも目なんて本来、無いではないか!なにを執着することがあろうか!」というふうに。

逆に言えば、本当に大切なもの、真理はこれらの感覚器官では捉えることができません。

このテーマを、キリスト教最大の教父アウグスティヌスが主著『告白録』第10巻第6章にて、美しい文章をもって展開しています。

少し長いですが、美しい詩になっていますので引用しておきます。この詩を味わいつつ、本稿を閉じましょう。

*詩の中でアウグスティヌスが呼びかけている「あなた」とは主なる神そのものです。

ところでわたしはあなたを愛するとき、

わたしは何を愛しているのでしょうか。

物体の美しい形でもなく、

過ぎ行く時間の飾りでもなく、

目に心地よい眩しい光の美しさでもなく、

花や香油や香料のかぐわしい香りでもなく、

マナや蜜のよい味でもなく、

肉の抱擁を受け喜びにひたる肢体でもありません。

わたしがわたしの神を愛するとき、

このようなものを愛しているのではありません。

(中略)

そこでは場所を捉えない光がわたしの魂を照らし、

時間に奪い取られない声が響き、

風に吹き散らされない香りが漂い、

食べても減らない糧が提供され、

飽きることを知らない抱擁があります。

わたしがわたしの神を愛するとき、

わたしが愛するのはこのようなものです。

六境も十八界も無い

無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

読み:むしきしょうこうみそくほう むげんかいないしむいしきかい

現代語訳:かたちも音も香りも味も手触りも存在も無い かたちの認識もなく、以下同様であり、意識すらもないのである

前々項の、「是故空中」を受けています。

「かくなるゆえに、空の悟りにおいては、かたちも香りも〜無い。〜意識もない」と続いているわけですね。

前々項、前項、本項で仏教の認識論が1セットで説かれています。前項ですこし予習をしましたが、ここでもキチンとご説明いたします。

認識をするためには、認識の主体と認識の客体が必要です。

たとえば、コップを眺める、という行為においては、

  • 認識の主体:眼
  • 認識の客体:コップ

というふうになっておりますね。

前々項で申し上げたとおり、認識の主体を六根(ろっこん)と言うのでした。これは人間の感覚器官にあたります。

それに対して、認識の客体も対応するように6つあります。これを六境(ろっきょう)と言います。これは前回のお話でした。

まとめますと、

  • 認識の主体(六根):眼耳鼻舌身意
  • 認識の客体(六境):色声香味触法

と、このようになります。

眼には色(物体)が、意(心)には法(存在)が、それぞれ対応しているわけです。残りの4つずつは漢字でお分かりですよね。

少し分かりにくいのは、意(心)と法(存在)の関係でしょう。

この場合の、法(存在)というのは、外界の事物のことではありません。

そうではなくて、「法」は私たちの心のなかに浮かんでくるところの様々な概念・イメージのことです。

私たち人間は、かたちや音、匂いなど外界の事物を認識の対象とすることはできますが、これは動物たちも同じです。

人間は考える葦である (『パンセ』パスカル)

という言葉もございますが、人間の人間たるゆえんは、心のなかにさまざまな概念やイメージなどを思い浮かべることができる、というところにあります。

*動物にも原初的なものはあるでしょうが、それでも本能の枠組み内であるはずです

たとえば、「自分は菩薩になりたいなあ」という場合、

  • 認識の主体:心
  • 認識の客体:菩薩のイメージ、菩薩とはこれこれこういうものだという概念

という構造になっておりますね。

心のなかのイメージや概念について、あれこれ思いをめぐらせることができます。

これが、意(心)と法(存在)の関係です。

この認識の主体(六根)と認識の客体(六境)を総称して十二処(じゅうにしょ)とも言います。

ここまではお分かりですよね。若干、漢字が多く出てくるだけで、構図としてはとてもシンプルだと思います。

仏教の認識論が面白いのはむしろここからです。

たとえば、私たちがひとつのコップを眺めるとします。そうすると、図式的には、

  • 認識の主体:眼
  • 認識の客体:コップ(”色”に相当)

ということになりますが、実際のところ、たんに眺めているだけではなくて、そこに”関係性”が生じます。

「コップに天然水でも入れて飲もうか」とか、こういう思いもまたひとつの”世界”になりますよね。

また、そもそも、私たちは対象であるところのコップをどれだけまっさらに認識できているのでしょうか?

ここはカントの認識論にとても近くなりますが、

私たちは、コップを眺めるときに、対象であるコップそのものというよりも、私たちの感覚器官に飛び込んできたコップの影像とでも言うべきものを見ているのではないでしょうか?

そう考えると、「眺める」という行為ひとつとっても、一筋縄ではいかないことがわかります。

かならず、感覚器官と対象との間にひとつの”世界”が形成されてくることになるからです。

この世界のことを「識(しき)」と言います。

六根と六境の間、それぞれに世界=識が形成されますので、合計6つの世界があることになりますね。なので、「六識(ろくしき)」と言います。

先の「コップを眺める」という行為でいけば、世界は、

  1. 認識の主体(六根):眼
  2. 認識の客体(六境):色(コップ)
  3. 主体と客体との関係性で作り上げる世界(六識):眼識(コップの影像)

の3通り形成されています。

それぞれがひとつの世界とも言えますので、おのおのを、眼界・色界・眼識界と呼びます。

それでは、六根、六境、六識を”世界”として分類・整理してみましょう

  1. 眼界ー眼識界ー色界
  2. 耳界ー耳識界ー声界
  3. 鼻界ー鼻識界ー香界
  4. 舌界ー舌識界ー味界
  5. 身界ー身識界ー触界
  6. 意界ー意識界ー法界

という、合計18通りの世界があることになります。これを十八界と言います。

仏教がいかに高度な哲学体系を備えているか、感嘆するばかりですね。2千数百年前にこのようなことが考えられていたのですから、カントも真っ青です。

さて、ではこのように”認識の世界”を分類していったいなんの効能があるのか?と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。

実はここでもやはり、「執着を断つ」ということ、もうひとつは「できるだけ物事を白紙に戻して観察できるようにする」ということ、大きくはこの2つの効能があると思われます。

たとえば、綺麗な人を見て「美人だなあ、いいなあ」と思うとき、私たちは美人さんそのものを見ているというよりも、私たちの感覚器官の影像を見ているだけ、ということになります。決して対象まるごとを見ているわけではないですよね。

なので、「これは相手そのものではなくて、私の心に映じているところの影像に過ぎないのだ」と思うことにより、過度の執着を断つことができます。

また、「相手の言葉に傷ついた」という場合。

「本当に、相手の言葉そのものを受け取っているのだろうか?」という反省も入ります。

この場合でも、自分の感覚器官(耳)と、飛び込んできた相手の声の間にひとつの世界ができているわけですね(耳識界)。

さらに、「音としての声」だけではなく、相手が言わんとしていること(法)に対して、「自分はこの言葉をこう解釈する」という心の働きの世界(意識界)がまた生まれてきます。

このように考えていくと、「相手の言わんとしていることをそのまま受け止められているのだろうか」とか、

仮に相手に悪意があるにしても、それは相手の問題であって、

「”自分ごと”として傷つく必要はあるのだろうか?」「どのように受け止めるか、は私の自由ではないか」というふうに、ストア主義的に切り返していくことができます

なので、この十八界の思想は、

  • 世界をキチンと分類して把握することそのものの喜び
  • 物事を白紙に戻して考え、かつ、執着を断つことのできる喜び

という2つの効能(?)があるのです。

私たちはともすると、「体系的な哲学なんてなんの役に立つんだか!」とか、あるいは逆に、「人間どう生きるべきかなんて説教は勘弁!」といったふうに、

自分の得意分野に応じて、”体系哲学”と”実存哲学”を分けて天秤にかける傾向があります。

しかし、仏教では、少なくともネオ仏法では、体系哲学と実存哲学の両者を総合していくことができます。

体系的であるからこそ、幅広い実存的な発想を持つことができますし、実存的に考えられるからこそ、体系的に把握する喜びをより味わうことができるわけです。

さて、般若心経に戻りましょう。

般若心経では、さきに解説したような「せっかくの認識論」を「無である!」と切り捨てています。

何ともったいない…?

無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

”乃至”は、「途中も同様である」との意味です。なので、ぜんぶ丁寧に書き出すと、ちゃんと6つになります。

眼識界 耳識界 鼻識界 舌識界 身識界 意識界

というふうに。

「無眼界」は実際には「無限識界」だと思います。そうしないと揃わないですからね。

おそらく、リズム的に「無眼界」と読んだほうが滑らかなので、省略バージョンを用いたのでしょう

で、「無い!」という、バッサリ!の話でしたね。

この件はもう何度かお話したように、

空(くう)という、さらに高度な悟りからみると、せっかくの(?)仏教の認識論(十八界)も仮のものであり、本来無いとも言える

ということですね。

これは、空の悟りが一段も二段も上なんだ!というアピールもありますが、もうひとつは、「修行論へこだわりへの戒め」かと思われます。

十八界は素晴らしい思想ですが、どんな立派な思想であっても、あまりにこだわり続けていると、文字通りの執着になってしまいます。

「良いものに対する執着ならいいじゃないか」という説もありますが、まあそれは執着の仕方にもよりますよね。

もう頭がパンパンになって、眼が三角になるほどであるならば、やっぱり行き過ぎであり、中道からはハズレている、という判定になるかと思います。

なので、実践論的な見地からは、

十八界の思想で

  • 物事を多角的に眺める練習
  • 物事を白紙に眺める練習
  • 物事の”受け取り方”を選択する練習

などを行っていくと、とても霊的にプラスになるのは確かですが、「なんか執着になってきたな…」と疲れてきたら、「一切皆空!」とバッサリと切り捨てて、スッキリした中道の気分を取り戻すと。

そういうバランスかと思います。

実在、真理にも段階性がありますので、それを使いこなしていくということですね。

本項も相当に高度なお話になっていると思います。ここまで飽きずに読めるだけでも常人ではないです。

十二因縁も無い

無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

読み:むむみょうやくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん

現代語訳:無明がないので、(したがって)無明を尽くすこともない。(同様につきつめると)”老死”も無いので、老死を尽くすことも無いのである

8個しか漢字がないのに、半数が”無”です。

暗号めいているようで、また、じーっと見ていると、(古い世代の方はお分かりかと思いますが)なにやらインベーダーっぽく見えますね。

ここのところは、”十二因縁(じゅうにいんねん)”という仏教の基本教説を「無いのだ!」と、ぶった切っているところです。

十二因縁とはなにか?と申しますと、

「なにゆえに、人生に”生老病死”があるのか?苦しみがあるのか?その生起するする順を12パーツに分けてご説明しますよ」

という教説です。

別名、十二支縁起(じゅうにしえんぎ)とも呼ばれています。

”無無明亦無無明尽”だけでも暗号みたいなのに、さらに12個も漢字が…と思うとうんざりしそうですが、

「あなたの苦しみがどうやって生じているのか?12パーツに分けて順にご説明しますよ」と言われれば、「それじゃ聞いてみようかな?」となりませんか?

今から12パーツ並べますが、「やっぱり漢字はうざい」という方は、現代語訳のところだけ繋げて読んでみてください。

また、12パーツをおおまかに、「過去世・現世・未来世」に分類しておきます。

【過去世】1-3

無明(むみょう)

智慧のない状態があって、

行(ぎょう)

それに基づいた行為(カルマ)があって、
*”カルマ”はもともと、「行い」の意。

識(しき)

個性が決定する。それが、生まれ変わりの意識・主体になる。

【現世】4-10

名色(みょうしき)

(そして生まれ変わって)胎児になり、

六処(ろくしょ)

感覚器官ができてくる(眼・耳・鼻・舌・身・意)。

触(そく)

感覚器官が外界を感知するようになって、

受(じゅ)

次第に感受性がハッキリしてきて、

愛(あい)

好悪がハッキリしてくる。

取(しゅ)

そして、「あれが好き!」「あれが嫌い!」という執着が生まれて、

有(う)

それが心のクセ・傾向(カルマ)になる。現世での個性が確定する。それが次の生まれ変わりの主体になる。

【未来世】11-12

生(しょう)

また生まれることになり(再び、迷いの輪廻の始まり)、

老死(ろうし)

老いて死ぬことになる。

と、こうした12パーツの構成になっております。

現代語訳のところを繋げてみれば論理的であり、けっこう、分かりやすいでしょう?

このように、因果(原因と結果)が三世(過去世・現世・未来世)にわたって連なっているさまを”三世両重因果(さんぜりょうじゅういんが)”と言います。

*”識”については、一般には「現世」に入れますが、ネオ仏法では少し解釈を変えて「過去世」に分類しています。

十二因縁(十二支縁起)については、まだまだ他の解釈もありますが、今回採用した「胎生学的解釈」と呼ばれているものが一番論理的にスッキリ通ると思います。

これ以外の説は読んでいても、「んん〜!???」となるものがほとんどで。

なぜそうなるかというと、やっぱり「輪廻、魂を認めたくない」という思考から十二因縁を解釈しようとしているのが原因です。

そして、難解になってしまうのを、「難しいでしょう?分からないでしょう?まあ、悟りというものは奥が深く、かつ、言葉では説明できないものなんですよ」と開き直るのですが、実際は、「解説している本人もわかっていないだけ」というケースがほとんどなのですね。

上記のように、無明があるから、次の”行”が出てくる、そして、その次の”識”が出来て…(省略)…”生””老死”があることになる

というふうに、順番に観察することを”順観(じゅんかん)”と言います。

この12パーツをもとに考えてみますと、結局、(苦しみの)輪廻の根本は、1.無明にあることが分かります。

…ということは、無明をなくしてしまえば、残りの11パーツも消すことができる、ということになりますよね?

そういうわけで、初期仏教以来、仏教の修行の中心は、「無明を滅ぼすこと」、逆に言えば、「智慧の獲得」に主眼が置かれているわけです。

ここのところ、

無明がなければ、次の”行”もない。なので、その次の”識”もない…(省略)…”生””老死”もない

というふうに、「始めの”無明”さえなくせば、残りの11パーツはなくなりますよね」という物の見方を”逆観(ぎゃくかん)”と言います。

般若心経では、そこをさらにラディカルに(?)

「いやー、そもそも”無明”なんて無い!んですから。だから、無明をなくす(=尽くす)」ことも必要ないってことですよ」

と、マウンティングして論を展開しているわけです。

これがまさに、冒頭のインベーダー、無無明亦無無明尽 の訳文となっております。

  • 無無明…”無明”なんて無い
  • 亦無無明尽…したがって、無明をなくす(=尽くす)ことも無いのだ

ということですね。

さて、意味と解説はこの通りなのですが、ネオ仏法としてはここの部分について、もう一言、二言、一席ぶちたいところではあります。

さて、次に、「乃至無老死 亦無老死尽」のところです。

さきにご説明した通り、「”無明”を無くせば、その後も無いじゃないか」「いや、そもそもその”無明”が無いんだから!」

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

という、丁々発止(?)でした。

ここでは例の、”乃至(ないし)”が入っています。これは、「その後も同様に考えるので省略しますよ」という意味でしたね。

上の図で行くと、”行”〜”生”までは同様に考える。

すなわち、「”行”が無ければ、”識”以降も無い」「”名色”が無ければ、”六処”以降も無い………(以下、同様)」ということです。

そして一番最後の、「老死も無い」に行くのです。

「老死がそもそも無いのだから、老死を無くす(=尽くす)こともない」ということですね。

これまでの復習にもなりますが、結局のところ、

「苦しみの輪廻の原因は、十二因縁の一番最初の”無明”にある」「ゆえに、”無明”を滅すれば(=尽くせば)、言葉を変えれば、”智慧”を獲得すれば、苦しみの輪廻から脱出する(=解脱する)ことができるのだ」

と、十二因縁の思想はこのような解釈をすればいい、ということになります。

しかし、般若心経では、

「いやいや、そもそもその”無明”が無いんだから!(無無明)」というツッコミで、相手(上座仏教/小乗仏教)の立っているところの土台そのものにケリを入れる、という技を使っておりまして。

だから結局、

「そう考えていくと、十二因縁の一番最後の”老死”だって無いんだから、老死を無くす(=尽くす)必要すら無いのだよ」

というのが、”乃至無老死 亦無老死尽”の意味、ということになりますね。

これは例の通り、

「”空”という一段高度な悟りから観れば、あなたがた(上座仏教/小乗仏教)が大切に思っているところの”十二因縁”だって仮のもの。無い、と言えるのだよ」

というマウンティングです。

では、ネオ仏法的には、どう判断するか、ということになりますが、

やはり、「”空”の悟りから行けば、一切の現象は仮のもの、本来無いと言える」というのは確かなことではあります。

ただし、「仮のもの」とは言え、実際に現象として様々な事象が”有り”、そして、釈尊が(今回の十二因縁を含め)様々な修行方法を提示していた事実が’有る”のは間違いないことですね。

なので、何でもかんでも「現象は仮のもの、無いのだ!」と切り捨てていくことは、やはり一方の極論であると考えます。

「なにゆえに現象(現象界)がさまざまに展開しているのか?」ということをさらに考えていくと、

「仮のものではあっても、そこに取り組んでいくうちに”智慧の発現”や”愛の循環”が起こりえる。これこそが現象界が”有る”ことの目的ではないか?」

というふうに、さらに奥の奥の「現象世界の目的論、意味論」まで見抜いていくことができます。

したがって、基本的にはやはり、十二因縁の修行すなわち、

  • 無明を克服し、
  • マイナスのカルマをなるべく作らない
  • 迷いに基づいた輪廻転生を打ち止めにしていく

ということはやはり大事な修行だと考えていくのが正論です。

ただし、一方では、「さらに上位の真理、実在論として”空の論理”が有る」という真理の奥行きですね、ここを見抜いていくことが大事、ということになります。

つまり、ここでも、

  • 十二因縁は有る:修行論として有る
  • 十二因縁は無い:本質論としては方便であり、無いと言える

という、”有無の中道”で観ていくのが正解、という立場をとります。

そして、十二因縁については、もう一点、補足しておくべき重要な事柄があります。

それは「輪廻転生をいかに捉えるか?輪廻を打ち止めにするのが本当に正解なのか?」という問題です。

従来の仏教および仏教学では、

  • 輪廻をしている状態が苦しみ
  • 輪廻から脱するのが解脱(=苦しみの克服)

という理解です。

しかしこの理解では、「なぜ、苦しみにしか過ぎない輪廻というシステムが用意されているのか?」という目的論的な疑問に答えることが出来ません。

輪廻がそれ自体が悪い、ということになると、毎度毎度地上に生まれてくる事自体に悪が潜んでいることになります。

ここはやはり十二因縁をもっと奥まで見抜いて、

悪いのは輪廻そのものではなく、”無明”に基づく「迷いの輪廻」が良くないということなのだ。

そうではなく、地上に生まれてくる意味とミッションを生きながらにして見抜き、輪廻という新しい経験の場を最大限に活用し、智慧の獲得と慈悲の発現の場に変えていく。

すなわち、「迷いの輪廻」から「智慧の輪廻」への大転換を図るのが正解である。またこれこそが”解脱”のほんとうの意味である。

…という理解が、ネオ仏法的なポジショニングです。

輪廻というシステムが用意されている以上、そこになにか意味があるはずだ、ということを考えていくのです。

神は(仏は)無駄なシステムを作らないはずだ、ということですね。

そして実際に、輪廻は悪どころか、「智慧の発現と慈悲の発揮」という大宇宙が創造された目的とも合致してくるのであり、これは文字通りシステマティックな善である、というふうにも解釈できるのです。

ある意味では、”無明”からはじまる「迷いの輪廻」ですら、「こうすればかくなる」「無明で始めれば苦しみになる」という体験学習であるとさえ言えます。

このように考えると、宇宙にはなにひとつ無駄なものはない、ということが言えます。

…というか、そこまで見抜いていくことが、「奥の奥なる智慧」であり、「般若心経の悟りをはるかに超えていく」契機になります。

真理の奥行きがここまで開陳されるのは稀なることです。

いま、この文章を「なるほど」と思いながら読める人は、やはり過去世からの精進の蓄積がある人であり、最高に幸運な魂である。

この幸運は王侯貴族の位とも代えがたいもの(比較になりませんが)と思っていいです。

四諦八正道も無い

無苦集滅道

読み:むくしゅうめつどう

現代語訳:苦集滅道(の四諦)も無い

例のごとく、”是故空中”=「かくなるゆえに”空”の悟りにおいては」を受けて、初期仏教の基本教説のひとつ、四諦(したい)を「本来、無い!」と、ぶった切っています。

”苦集滅道”(くしゅうめつどう/くじゅうめつどう)=四諦は仏教の基本中の基本の教えです。

釈尊の最初の説法を初転法輪(しょてんぽうりん)と言いますが、その時に説かれたのは、”中道”と、今回の”四諦”、そして苦集滅道の”道”に相当する”八正道”です。

四諦は四聖諦(ししょうたい)とも言います。”諦”は「真理」という意味です。

なので、四諦とは、「4つの真理」ということになります。

以下、4つを順番に見ていきますが、4つの真理は「人生の苦の克服」のために説かれていますので、

結局、四諦とは「人生の苦を超克するための4つの真理」という意味です。

それでは、四諦を順番に見ていきましょう。

苦諦(くたい)

四諦のトップは、”苦諦”です。「人生は苦しみである、という真理」です。

いきなり深刻な根本原理を突きつけられましたね。

釈尊は、「人生は喜びに満ちている!」「ワクワクが大事!」などと言うタイプの方ではなかったことが明らかです。

「どんなに巧く自己実現を成し遂げたとしても、生老病死、他の苦しみからは逃れられない」と、まずは冷静に分析します。

有名な”四苦八苦”です。

これも丁寧に見ていきましょう。

  1. 生:苦しみに満ちているこの世界に生まれてくる苦しみ
  2. 老:やがて年老いてゆく苦しみ
  3. 病:病気になる苦しみ
  4. 死:逃れられない死の苦しみ、またそれを予見する苦しみ
  5. 愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ
  6. 怨憎会苦(おんぞうえく):嫌いな人と会う苦しみ
  7. 求不得苦(ぐふとくく):求めても得られない苦しみ
  8. 五蘊盛苦(ごうんじょうく):五官(感覚器官)の欲求が突き上げてくる苦しみ

と、この8つです。

8つめの「五蘊盛苦」については、「要するに五蘊(ごうん)が苦しみの根源なのだ」という解釈のほうが一般的かもしれませんが、8つ並列にならべてあることを鑑みて、今回の解釈を採ります。

最初の生老病死の4つを”四苦”、四苦と残りの4つを合わせて”八苦”。俗に”四苦八苦”と言います。

「大変で四苦八苦してます!」って慣用表現はここから来ているのですね。

集諦(じったい)

”集”=「集める」といのは、なにを集めるかと言うと、「原因を集める」ということです。

上の”苦諦”につながっていますので、ここでは、「苦しみの原因を集めた(=突き止めた)真理」という意味です。

そして、「苦しみの原因」は、「執着にある」と釈尊は喝破します。

四苦八苦はある意味において、7つめの”求不得苦”に収斂されます。

「求めても得られない苦しみ」ですね。

「〜でありたいのに、そうはならない苦しみ」です。

たとえば、「老いる苦しみ」と言っても、はじめから「老いても全然問題ない。ノープロブレム!むしろ歓迎」と心の底から思えるのであれば、苦しみではなくなります。

ところが、なかなか本心からそうは思えない。

どうしても、「老いたくない」「いつまでも若々しくありたい」「美貌を維持したい」…と思ってしまうからこそ、それが叶えられない苦しみになっています。

まさに「求めても得られない苦しみ」です。

この「〜したい」「〜したくない」と、過度に思ってしまうことが執着ですね。

滅諦(めったい)

”滅”とは「滅ぼす」「滅する」ということです。

何を滅するかと言いますと、もちろん、”苦しみ”です。

「苦しみの原因が執着にあるのであれば、執着を無くせば良い。そうすれば、苦の超克は可能であり、それは真理である」という教えです。

道諦(どうたい)

執着が苦しみの原因であるならば、どのように(=WAY)それを滅却していくのか?

WAY=方法、道です。

つまり、”道諦”とは、「執着をなくし、苦しみを超克する方法の真理」です。

そして、その道が”八正道”、8つの正しい道、というわけです。

通常の仏教書では、ここで8つを順番に解説していきます。

それはそれでもちろん間違いではないのですが、なんとなくどこかはぐらかされたような気持ちになったことのある方はいらっしゃいませんか?

はぐらかされた、というのは、「正しく〇〇する、というお説はごもっともだけど、それで執着なくなりますか?」という”はぐらかされ感”です。

そこでこの”分かりにくさ”が、「仏法は言葉ではとうてい説明できない妙なる、奥深いものなのです」ということで丸め込まれて(?)しまいます。

しかし、釈尊という方は”はぐらかし”をされるような方ではありませんでした。

真理はたしかに「腑に落とす」「体得する」ものではあるのですが、言葉で説明できないか?というと、そうではなく、知性的な意味では”言葉で説明できる”ものなのです。

その”説明”の最重要部分が抜け落ちているから分かりにくくなっているわけで、大事なところが抜け落ちているから、”末法の世”でもあるのですけどね。

ネオ仏法は、その”最重要部分の抜け落ち”を説明することができます。ある意味、「復元できるから”ネオ仏法”」なのです。

それではその”抜け落ち”のところをご説明していきます。

八正道は8つの「正しい道」を示しています。

疑問点は、なぜその「正しい道」を実践すれば執着を断ち、人生の苦を超克できるのか?今までの仏教/仏教書の解説では、いまいちピンとこないところだと思います。

「人生の苦」を超克するということは、言葉を換えれば、「死を克服する」ということ。キリスト教的に言えば、復活思想で”永生”の確信を得るということなのです。

これが仏陀の言う、「不死の門は開かれた」の本当の意味です。

それでは、「永生の確信」とは何か?

永生というからには、「この世が全てではない」と知ることです。

さらに、「来世を知る(信じる)ことによって、その逆照射によって、この世の意義を発見すること」です。

霊的な世界が本来の世界であり、この世が魂の向上のための仮の世界であることを知っていくことです。

「魂の向上のための方便の世界の出来事」という物の見方のパラダイムシフト。これによって初めて、四苦八苦を乗り越えていくことができるのです。

一般のパラダイムでは、四苦八苦とがっぷり四つに組み合っているから”執着”になり、それが苦しみの原因になってしまっている、という構図になっています。

そこで、

「四苦八苦は方便である」という、より上位の”霊的パラダイム”を取り入れることによって、苦しみを智慧に転化する契機に変えてしまうのです。

この霊的価値観へのパラダイムシフトを自己の価値観の中心に据えることが、八正道の一番めの”正見”、すなわち「正しい見解」の基礎部分なのです。

ここが現代にいたるまでの仏教/仏教学に抜け落ちているのですね。だから、苦集滅道が分かりづらくなっている。

正見以降の八正道については、次項でご説明いたします。

ひるがえって、

般若心経では、「無苦集滅道」すなわち、「四諦は無い!」とぶった切っております。

これは結局、霊的世界・仏中心の世界が本来のパラダイムなので、この世の存在そのものが仮のものである、と。

ということは、この世における修行であるところの”苦集滅道”も仮のものなのだ、という思想なのですね。

しかし、仮のものであるからと言って、無視してもかまわない、ということにはなりません。

そこまで否定してしまうと、そもそも何のために娑婆世界(地上世界)が存在しているのか、その存在の意義まで否定することになってしまいます。

なので結局、地上世界の存在意義を認め、修行効率を高めていくために四諦の行をなしていく方向が正解であり、一方で、地上世界そのものがそもそも仮のものである、本来のものではない。ゆえに、修行も方便的なものである(無苦集滅道)という視点も忘れない、というバランスですね。

そういう意味で、”有苦集滅道”と”無苦集滅道”の両者を見ていくという、ここでも、”有無の中道”が大事です。

般若心経はあくまで、”無苦集滅道”という「実在側からの視点」を強調している経文なのです。

八正道は実は十正道だった!?

無智亦無得

読み:むちやくむとく

現代語訳:智慧も無ければ、また(新たに)得ることも無い

前項は四諦と八正道の”正見”までご説明いたしました。

四諦は結局、「人生の苦を超克し、さらに智慧に転化するための真理」ですので、最終的には”智慧を得る”ことに重点があるわけです。

ところが、般若心経では、「苦集滅道(=四諦)も本来的には無い」と実在の視点から否定していきますので、求める果実としての”智慧”も無いし、ということは、そもそも”得る”こともないのだ……と、ここまでの否定が入ってくるのですね。

それが今回の”無智亦無得”の意味です。

もちろん、前項でご説明したように、これはあくまで”実在側”からの視点、あるいは、”より上位の真理”の視点から、「無い」と言っているわけであって、

実践面においてはやはり、四諦は大事ですし、四諦の結果得られる”智慧”は人生の意味そのものと言えるくらい大事なことです。

いやむしろ、より上位の視点から視るからこそ、”本来、無い”苦集滅道(四諦)と智慧の獲得の重要性が逆説的に、ますますハッキリと見えてくる側面がある、と言えるでしょう。

さて、前項に引き続いて八正道について述べていきます。

八正道は、文字通り、「8つの正しい道」です。

正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)

これが八正道です。

そしてあまり知られていませんが、最後の”正定”のあとに、「正智(しょうち)・正解脱(しょうげだつ)」の2つをプラスして、合計、”十正道”とする考え方もあります。

これは結局、「八正道の実践の結果、正智=正しい智慧を獲得することができる。そしてその結果、正解脱=正しい解脱をなしていくのだ」という構造になっています。

解脱というのは、「智慧の獲得によって一切の執着から解き放たれて、自由自在な心境を得る」ということです。

八正道が手段であり、正智・正解脱が目的である、というふうにも言えるでしょう。

そもそも、四諦は苦しみの超克のための4つの真理ですから、まさに”正解脱”でゴールイン!ということになるわけです。

今回の、”無智亦無得”はつまり、

実在の側から見た上位の視点、空の視点から、”無智亦無得”とぶった切っているのは、まさにここの正智→正解脱の部分なのですね。

繰り返しになりますが、「本来、無い!」とぶった切りを入れるからこそ、正智→正解脱という実践的な流れの重要性がさらに観えてくるのです。

ここでも、”無智亦無得”と”有智亦有得”の2つの視点、有無の中道で観ていくことです。

それでは、”八正道プラス2”=十正道を詳しく観ていきましょう。まずは、8つの”正しい道”の流れを掴んでいくことにしましょう。

以下の説明文をつなげて読んでみてください。

  1. 正見:正しい価値観を持つことができれば
  2. 正思:正しく思うことができる。
  3. 正語:なので、正しく語り、
  4. 正業:正しく行為することができる。
  5. 正命:ゆえに、”思い”と”言葉”と”行い”のバランスの取れた生活を営むことができる。
  6. 正精進:(そうした生活をベースに、)正しく精進・学びを積み重ねていく。
  7. 正念:(精進の方向性の)念いは”仏陀の教え・悟り”をいつも心に保持して、かつ目標にしていくことである。
  8. 正定:(そうすれば)正しい精神統一に入ることができる。
  9. 正智:(精神統一の中で)正しい智慧を獲得することができるので、
  10. 正解脱:その智慧をもって人生の”苦”を超克し、真の意味での自由を手に入れることができるのだ。

と、このように論理的な流れになっています。

通常は、八正道というと、8つバラバラに説明されることが多いのですが、それでは「何のために”8つ”なのか?それぞれの関係はどうなっているのか?」よく分からなくなってしまいますよね。

なので、まず上記のように、論理的な流れを掴んでみてください。

8つ(あるいは10)の流れは論理的につながっていますので、どこかに破綻があるということは、とりもなおさず、一番ベースになっている”正見”すなわち、「正しい価値観」がまだ腑に落ちていない、ということを意味しています。

たとえば、「どうもつい大風呂敷を広げてしまう、強がりを言ってしまう」という”正語”に問題がある場合、

強がりを言わないと内面の安定がとれないという心の思いがあるはずです。これは”正思”に問題があるということですね。

で、

なぜ強がりを言わないと内面の安定がとれないか?というと、正思の前提である正見=価値観に問題がある、ということになります。

たとえば、「自己の評価は本来は仏陀の教えに照らしてどうか?という”絶対軸”で決まるはずなのに、やはりまだ「他者の評価で自己の価値が決まる」という”相対軸”に固執してしまっているのだな…」という内省です。

このように、八正道はつねに”正見”という「価値観」の点検にまでさかのぼっていかないと浅いものになってしまいます。

そのために、上記のような”論理的な8つの流れ”をまず掴んでいくことが大事なのです。

これも従来の仏教/仏教書ではなかなか教えてくれないところです。

ただし、八正道の項目を個々に点検していくこともやはり大事です。これをしっかり押さえておかないと”漏れ”がでるからなのですけどね。

たとえば、”正語”は伝統的には下記の4つを点検します。

  1. 不妄語(ふもうご):嘘をつかなかったか?
  2. 不悪口(ふあっく):悪口をいわなかったか?
  3. 不両舌(ふりょうぜつ):二枚舌を使わなかったか?
  4. 不綺語(ふきご):おべんちゃらや無駄話をしなかったか?

このように、キチンと点検項目が挙げられているからこそ、「あ、あの時、〇〇さんを褒めたつもりだったけど、実際はおべんちゃらだったのではないか?」

と、チェックしていくことができます。項目がなければ、スルーしてしまうことも多いでしょう。

菩薩とは、仏とは何か?

有無の中道を歩むべし

以無所得故

読み:いむしょとくこ

現代語訳:得るものがないので、

「以無所得故」は、漢字の通り直訳すれば、「得るところがないゆえをもって」となります。

このままでは翻訳がこなれていないので、「得るものがないので」とあっさりめに現代語訳しておきました。

ここのところは前項の”無智亦無得”、「智慧も無ければ、また(新たに)得ることも無い」を受けていると考えて良いと思います。

つまり、八正道の実践の結果、正智(しょうち)を得る、ということについて、般若の智慧・空の悟りから言えば、「本来、無いと言える」とぶった切りを入れているわけですね。

なぜそのようにぶった切れるかと言うと、智慧というのは本来、究極の実在(久遠実成の仏陀)に属しているものですから、イチ現象である我々が八正道の修行をして「正智を得た」と思っても、

それは新たに得たというよりも、「本来、あったものを発見したに過ぎない」「ゆえに、究極の目から見れば、とくに何か付け加えられているわけではないのだ」という論理です。

これはかなり奥深いものの見方です。

般若心経および般若経典類というのは、このように、「”究極の空の悟り”から照らすと物事はどう在るか?」ということを徹底的に追求した経典なのです。

そして結論的には、(現代的に言うと)「一切は現象に過ぎない、本来、無いのだ」とぶった切りを入れていくわけです。

そしてこのようにぶった切るからこそ、「執着を離れていくことができる」という構造になっているわけですね。

般若心経ではさらに、上座仏教(小乗仏教)で肝要とされている基本教義(十八界、十二因縁、四諦八正道)まで「本来、無い」と言い切ってしまっています。

釈尊が初転法輪から終生説き続けた”四諦八正道”まで否定してしてしまうのはどうなのか?という見方はもちろんあります。

現代上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ氏の般若心経解説本を読むと、般若心経に対してほとんどキレまくっているという印象です。

それはそうですよね。上座仏教が大切に思っている教義・人物(シャーリプトラ)がつぎつぎにコケにされているように感じられたとしても当然でしょう。

この点について、ネオ仏法ではどう考えるか?と言いますと、”有無の中道”で観ていくのが正解、と思っています。

つまり、

  • 釈尊が説いた基本教説、十八界・十二因縁・四諦八正道の修行は大事であるという”有”の見方
  • それら基本教義ですら、方便に過ぎない。実際は真理がさまざまに”現象”として流転しているに過ぎない、という”無”の見方(これが般若心経の立場です)

この2つの”有”と”無”の双方を観ていく、大事にしていくということです。有無の中道です。

あとはこの”有無の中道”のバランスの問題があります。

中道だからといって、それぞれの見方にかける時間を半分半分にすればよいか?というと、そういうわけでもありません。

かける時間の問題ではなく、あくまで、「物の見方の中道」を求めているわけです。

なので、もし”有”の見方が強すぎた場合、経典読誦の折りにはむしろ”無”の見方に重心をおいておくほうがバランス上得策ということになります。

私たちはこの世で肉体を持っている以上、どうしても自我意識に基づいた執着に執われる傾向があります。

執着の前提になっているのはやはり、過剰な”有る”という意識であることは間違いありません。

そういうわけで、「肉体を持っているハンデ」を考慮に入れると、やはり、「無である、本来なし」という”無”の見方に重心を置いたほうが、結果的に”有無の中道”に近づいていくことになります。

したがって、般若心経の本文に書かれているように、繰り返し、「無である、本来は無いのだ!」と自分に言い聞かせるくらいが丁度いい、ということになりますね。

人間は魂修行を始めたらはじめたで、今度はその”修行”そのものに執着を覚え、苦しみを作ることがあります。

そうした”修行への執着”からも離れ、バランスの良い取り組みに戻すためには、ときには、「四諦すらも本来は無いのだ!」という心の余裕を持つことはやはり有効です。

ここの”有無の中道”には、実はまだこれよりもさらに奥の深い見方が存在します。

ここを提示できるからこそ、「「般若心経」の悟りを超えて」というタイトルをつけているわけです。

菩薩とは何か?

菩提薩埵

読み:ぼだいさった

現代語訳:菩薩は

”菩提薩埵(ぼだいさった)”と何やら難しげですが、実は”菩薩”というのは、この”菩提薩埵”を約めて2文字にした言葉なのです。

サンスクリット語読みでは、

菩提薩埵=ボーディサットヴァと読みます。この言葉は、

  • ボーディ:悟り
  • サットヴァ:衆生

ということで、「悟りを求める衆生」という意味なのですね。

”ボーディサットヴァ”は、もともと、初期仏教において、「悟りを開く(成道)前の釈尊」を表すのに使っていた言葉です。

大乗仏教の時代になってから、

  • (釈尊と同じ)仏陀の悟りを求める人
  • とくに”利他”に生きる修行者

という意味合いで使われるようになりました。

この”菩薩”という言葉・概念そのものが、上座仏教(小乗仏教)へのアンチテーゼでもありました。

上座仏教での修行の階梯を一言でいえば、「声聞(しょうもん)から阿羅漢(アラカン)へ」というものでした。

大乗仏教を興した側からみると、当時の上座仏教(小乗仏教)は、「自分の悟りだけを考えていて慈悲の実践に欠けるのではないか?」と思われるところがあったのですね。

そこで、この”菩薩”という概念を中心に打ち出して、

  • 仏陀の悟りを目指すこと
  • 自利だけではなく利他の実践に重きをおいてゆく

という修行スタイルを選ぶようになったのでした。

これは”宗教改革”であると、同時に、「仏陀・釈尊の本来の精神へ還ろう!」という復古運動の側面がありました。

と、言いますか、すべて真なる改革・革命というのは、「本来の精神に立ち返る」という意味での復古運動を伴うものなのです。

ルターの宗教改革も、「聖書のみ」ということで、これはカトリックで余分についた贅肉を削ぎ落としてオリジナルに還ろう、ということですよね。

明治維新も富国強兵と洋化政策を進めながら、同時に、”王政復古”という国体のオリジナルへの復帰を伴っていました。

ネオ仏法でよく用いている”十界論(じっかいろん)”、これはいわば「実在界の出世段階論」とでも言うべきものですが、この中では、”声聞”の上に”菩薩”を置いていますよね。

なぜ菩薩が声聞の上なのか?と言いますと、声聞はいまだ”自利”という自分の悟りのみを求めている。

一方、菩薩は”利他”すなわち愛の実践業へ重心をシフトしているから優れているのだ、と考えられたわけです。

実際に、釈尊のオリジナルでは伝道も大きく展開しておりましたので、決して「一人悟り」のみを目指していたわけではない、と。

そういう意味での復古運動でもあったということです。

この点につきまして、ネオ仏法ではどう考えるか?と言いますと。

大乗仏教的な、「利他行中心」という考えにも若干、無理があるのではないかと考えています。

大乗仏教ではよく、「自らの成仏は捨ててでも〜」などという言い回しを使うのですが、ここには若干、責任回避の姿勢が入ってくる危険性があると思います。

他人を救う前に、自分を救えていることがやはり前提に入るべきだし、「自分を磨きつつ、その成果を他者への愛に転化していくのが順序である」というふうに考えます。

よく使われる言葉で言い換えると、”自利利他(じりりた)”が大事、ということです。

つまり、「小乗か大乗か」という「あれか、これか」ではなくて、「小乗かつ大乗の中道で観ていく」ということですね。

小乗と大乗の本質部分を弁証法的に総合していくということです。

ベストセラーの『7つの習慣』(スティーブン・コヴィー著)、これは私は現代人にとって必読書だと考えていますが、

7つの習慣の第1の習慣〜第3の習慣は”私的成功”と呼ばれています。一方、第4の習慣から第6の習慣は”公的成功”と呼ばれています。

「私的成功は公的成功に先立つ」と著者のスティーブン・コヴィー氏は言っております。

そして、第7の習慣の「刃を研ぐ」で、私的成功と公的成功を循環的に回していくことを図っている。

この私的成功と公的成功をリンクしていく思想というのは、まさに”小乗かつ大乗”、あるいは、”自利利他”そのものである、と把握することができるでしょう。

なので、声聞を軽蔑しつつ菩薩である、というのは、これは言わば”無茶なショートカット”であろう、とネオ仏法では考えています。

やはり、『7つの習慣』的に言えば「私的成功から公的成功」、すなわち、「声聞から菩薩へ」という順序が大事だと思っています。

”菩薩論”は論理的に考えれば上述の通りなのですが、「では、菩薩っていったいどういう存在なのか?」ということを、次項でもう少し実態論的に語ってみたいと思います。

菩薩とはどのような存在なのか?

依般若波羅蜜多故

読み:えはんにゃはらみたこ

現代語訳:般若の智慧に依るがゆえに

前項の「菩提薩埵(ぼだいさった)」が主語になっています。

「菩薩は般若の智慧に依るがゆえに〜」ということですね。「般若の智慧」は”空の悟り”と言い換えても良いでしょう。

”空の悟り”は、「真実在(一如)から観れば、一切は現象に過ぎない」という認識です。

さて、前項に引き続き、「菩薩とは何か?どういう存在か?」というお話をいたします。

前項では、「声聞をクリアしてこその利他(菩薩行)である」というお話をいたしました。

しかしこの「声聞をクリアして」という部分にもいくつか落とし穴があるように思えます。

代表的なものを2つ挙げますと、

  1. 利他行を行わない言い訳に”声聞”を使う
  2. 自己実現に夢中になり過ぎてしまう

と、この2点かな、と思います。

については、やはりバランスの問題です。

イエス・キリストも聖書の中で、

盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう(マタイ15:14)

と述べています。

したがって、やはり順序としては、”目開き”になってから人を導くべき、ということになりますが、これが「行動しない」言い訳として使われがちなのですね。

「どれだけ目が見えているのか?まだまだ足りないのか?」を追求したら永遠に近い時間がかかってしまいます。

どこまで行っても、「いや、まだまだ視えるようになるはずだ。まだ足りない。人を導くのはそれからだ」というふうに、いつまでも行動に移さないパターンに入ってしまいます。

そうでなく、

おおまかに”自分づくり”を決意して実践に移しているのであれば、その過程で得た智慧を他者に分かち合う段階に入ったほうが良いと思うのです。

ほんの少しでも目が開いているのであれば、その視える範囲で持って人を導くことはできるはずですね。

なので、「完全に視えるように」ということばかり考えていると、いつまでたっても愛の実践ができない人になってしまいます。

これは、「菩薩の準備段階の声聞」という考えから言っても、「何の準備にもなっていない」ということになってしまいますよね。

そういうわけで、やはり、「声聞かつ菩薩行」「小乗かつ大乗」の中道で行動していくのが正解なのです。

次に、2.「自己実現に夢中になり過ぎてしまう」についてです。

これは声聞の手前の”天界”にむしろ多い傾向ではあります。

天界は自己実現の世界でありますので、それはむろん悪いことではないのですけどね。

ビジネスでも、たとえば「営業の成績を継続的に上げ続ける」というのは自己実現でありますが、長期視点で営業成績を上げていくためには、やっぱり「顧客視点に立つ」という利他的発想が必要です。

なので、自己実現を突き詰めるという天界の段階において、じつは「利他が有効である」という悟りが必要であり、その意味で、天界においてすでに「菩薩の準備段階」が始まっていると言えます。

それでは、天界と声聞とではどう違うか?ということになりますが。

結局、「天界の自己実現の真理含有率を上げていくのが声聞」と定義してもよろしいかと思います。

そのためには、そもそもの「真理の学び」が必要なので、勉強のために一人の時間を大切にしたり、また、瞑想などを行うわけですね。

しかし声聞の落とし穴は先も言いましたがまさにここにありまして。

勉強していると、「勉強しているだけで立派」といふうに思ってしまい、利他からどんどん遠ざかってしまうという陥穽が待ち構えています。

ここのところがまさに、小乗へのアンチテーゼとして大乗運動が起きてきた理由でもあります。

「声聞の落とし穴」は以上述べたとおりなのですが、さて、では、「菩薩はどうなのか?」と申しますと、

”天界 – 声聞”が基礎になっているのは、順序としては間違いはないわけです。

つまり、「天界的な自己実現能力と、声聞的な真理知識の両者を併(あわ)せ持ち、かつ、利他行に重心をシフトしているのが菩薩である」ということになります。

キリスト教的に”天使”と言ってもいいですけどね。

「利他行に重心をシフトしている」ということはどういうことであるか?と言いますと、「自己実現能力は持ち合わせていながら(つまり、自分の専門領域において”仕事ができる”ということ)、中心的な関心事が利他にある」ということなんです。

これは逆に言えば、「自分のことにはほとんど執われていない」ということになります。

「他者や世の中のため、後世のために何を贈り物とするか、どれだけの貢献をなすことができるか、貢献の質を上げることができないか」ということが関心の中心にあり、「自分が他者からどう見えているか、自分がどれだけ自己実現しているか」についてはほとんど関心がないのです。

簡単に言えば、「菩薩は自分のことを考えている時間が少ない」ということです。

なので、一日を振り返って(一週間、一ヶ月、一年でも良いですが)、「自分のこと」「自分の自己実現のこと」で一杯いっぱいであれば、それはやはり、まだまだ菩薩の境地には至っていない、ということです。

ましてや、その”自分ごと”が、「他者を羨む思い」や「世の中や環境への不満」でいっぱいであるならば、これは菩薩どころか、地獄領域へ踏み込んでないかどうか?という問題になってしまっています。

このように考えていくと、「実力菩薩」というのはけっこう大変だな、ということがお分かりだと思います。

そして、”自分ごと”から離れていくために、じつは「空の悟り」が必要なのですね、ここで般若心経に戻るわけです。

すなわち、「一切皆空」「一切は現象に過ぎず、”無い”といえる」「自己も現象に過ぎない」と悟れるからこそ、”自分ごと”からテイクオフしていくことができる、という構造になっています。

逆に言えば、自己と他者を結ぶ縁起すなわち愛こそが実在、という悟り、認識です。

だから利他へ関心をシフトしていくことができる。

今回は、菩薩の心境と行動原理、そしてそのベースになっている空(くう)の悟り、ですね。

菩薩論についてはまだ語り足りないところがありますが、また別の機会にお話していきたいと思います。

『般若心経』は有無の中道で実践すべし

心無罣礙

読み:しんむけいげ

現代語訳:心にひっかかりはない

罣礙(けいげ)は、

  • 罣=障(さわ)り
  • 礙=妨げ

の語句の組み合わせです。

”無罣礙”と否定形ですので、「障りや妨げが無く」ということですね。

現代語訳ではかんたんに、「(心に)ひっかかりがなく」と訳してみました。「(心に)とらわれがなく」でも良いでしょう。

「心にひっかりがない、とらわれがない」という状態はそれ自体が悟りの境地でもあります。

仏教用語では、この境地を”涅槃(ねはん)”と表現しています。

なぜなら、四諦のところで勉強したように、「苦しみの原因は執着にある」「執着、とらわれから離れれば”苦”を滅することができる」と喝破したのが釈尊の悟りであるからです。

そのために、”道(どう)”、すなわち八正道という修行方法が提示されていたのですね。

したがって、一切の執着・執われから解放されることはまさに「目的を達した」ということになります。

その結果、「心にとらわれがない、ひっかりがない涅槃の境地」を得ることができる、という構造になっています。

ただし、般若心経では、「四諦八正道ですら、空の悟りから観れば現象に過ぎず、無いと言える」と別の方面から突き詰めていきます。

つまり、この地上に生を受けて修行していくこと、魂の向上に努めることそのものが”神仕組み(仏仕組み)”であって、方便に過ぎないのだ、と言っているわけです。

そして、その悟りからストレートに「苦からの脱却」が図れる、と主張しています。

「心の執われ」を別の言葉で言うと、「自分自身や、いろいろな存在に対する執着」ということになるわけですけどね。

これを仏教用語で、

  • 我執(がしゅう)…自己が有るという執われ
  • 法執(ほうしゅう)…存在が有るという執われ

と表現することもあります

釈尊はこれに対するアンチテーゼとして、”無我”を説いたわけです。

そうすると結局、「四諦八正道とは無我修行である」とも言えるわけですね。

無我=四諦八正道

です。

ところで、”空(くう)”は大乗仏教でよく使われる用語ですが、釈尊の時代も、使用頻度は少ないですが、”無我”と同じような意味で使われておりました。

空=無我

の図式です。

…ということは総合すると、

空=無我=四諦八正道

という図式が成り立つことになりますね。

そうすると、「あら不思議」という感じで、「無い!」と一刀両断していた四諦八正道が「有る!」に戻ってくることになります。

経文にはもちろんそんなことは書いておりませんが、仏教哲学的に突き詰めていくとそういう結論になります。

ここでも、”無い – 有る”の”有無の中道”が成立しています。

要は、真理をどういったパースペクティブ(角度)から眺めるか?の違いであって、まとめますと

  • 実在側(空の悟り)から観れば、四諦八正道すら現象に過ぎず、”無い!”と言える
  • 現象側(地上世界の修行)から観れば、四諦八正道は実在へ近づくために必要な修行、すなわち、”有る!”と言える

ということになります。

このように、一切を中道(弁証法)で観ていくのが仏教的観察でありまして、そう考えていくと、

『般若心経』という経典はあえて、「実在から観れば、〇〇は無い!△△も無い!」というふうに、実在から現象を眺めた視点を提示している教えなのだ、とも言えますね。

なので、実践面で留意すべきは、実在側からの視点である「無い!」のぶった切りをしつつ、現象側からの視点、「有る!」すなわち、四諦八正道の無我修業をするのも大事、という方向も大切にしていくことです。

ただし、人間は地上にいる限り、つまり、”現象側”におりますので、どうしても”実在側”からの視点を忘れがちになります。

そういう意味で、『般若心経』読誦で、”実在側”の視点を思い起こすことが大事になってくるわけです。

聖書に365回も出てくる「恐れるな」

無罣礙故 無有恐怖

読み:むけいげこ むうくふ

現代語訳:心にひっかかりがないゆえに、恐れもないのだ

前項、前々項、前々々項の「菩薩は(般若の智慧に依るがゆえに)心にひっかかりがない」を受けています。

”無有恐怖”は直訳すれば、「恐れが有ることがない」となりますが、これは訳としてはこなれないですよね。

”無恐怖”で良いのではないか?と思ってしまいますが…、まあ意味的にはその通りなのですが、あえて漢字4文字に整えることで、リズムを整えているわけです。

ここらへん、玄奘の翻訳センスを感じるところです。

「恐れ」というのはみなさんも体感的にお分かりかと思いますが、マイナスの感情のなかでももっともやっかいで、かつ、根っこにある感情であるように思われます。

恐れによって、その防衛本能によって、自我意識が強化され、さらにさまざまな悪感情が生まれる契機になってしまうのですね。

「臭いものは元から断つべし」という観点から言えば、結局、もろもろの悪感情を断つためには恐れを断つに敷くはない、ということになります。

菩薩はなにゆえに恐れがないかと言うと、般若心経では、

依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

と書かれておりますので、結局、「般若の智慧に依っているから〜〜恐れがないのだ」という流れになっています。

少し話が変わるようですが、聖書では「恐れるな」という言葉が合計365回も出てくるそうです。

ユダヤ教・キリスト教というセム系一神教の伝統でも、「恐れは悪感情のなかでも一番やっかいなもの」という見方をしている証左でもあるでしょう。

そして、聖書において、”恐れ”を克服するにはどうすればよいか?という手がかりですね、これを探してみるといくつか出てくるのですが、ひとつ挙げてみましょう。

たとえば、旧約の詩篇には、

神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。
(詩篇56:11-12)

とあります。

般若心経の論理と比較してみますと、

  • 般若の智慧に依れば……恐れはない
  • 神に依れば……恐れはない

と、このようになりますね。

そうすると、ネオ仏法あるいは”宗教多元主義”の観点からは、

般若の智慧=神(唯一神)

という等式が成立することになります。

”宗教多元主義”というワードを出したので、提唱者のジョン・ヒックの言葉を引用しておきます。

宗教多元主義とは、<自我中心から実在中心への人間存在の変革>がすべての偉大な宗教的伝統のコンテクスト内において、さまざまに異なるしかたで生じつつあるものと認める見解のことなのである。(『宗教多元主義』(ジョン・ヒック著)第三章「宗教多元主義の哲学」より)

若干、学者的な言い回しで難解ですが、当サイトの記事を読み慣れている人が読めば、「ネオ仏法と路線が似ているな」と思われることでしょう。

実際、その通りです。

ジョン・ヒックの宗教多元主義については、いずれ集中的に取り上げる機会を設けたいと思います。

話しを戻しまして、

般若の智慧=神(唯一神)

の図式ですね。

結局これは、<究極の実在>を非人格的なものと観るか、あるいは、人格的なものと観るか、その見方の違いに過ぎない、と言えるでしょう。

<究極の実在>そのものは人間の理性、認識能力では捉えきることはできません。ただ、「在る」ということが想定されるだけです。

ただ、<実在>の側から、人間に対してどのように関わりを持ってくるか?あるいは、逆に、人間(<現象>)の側から、<実在>をどのように把握するか?

これによって、非人格的な存在(今回のトピックに沿えば、”般若の智慧”)として受け止めたり、逆に、キリスト教的に人格的な存在と受け止めたりする。

こういう違いが出ているのですね。

ただし、実際はキリスト教神学においては、<究極の実在>である唯一神は、”父と子と聖霊”という三位一体という顕現の仕方をする、と説明されています。

私たちがキリスト教的な神を人格神として捉える場合、この三位一体の”三位”として現れるところの”父なる神”あるいは”子なるキリスト”のことを言っているわけです。

わざわざこのことを解説しているのには理由がありまして。

真理スピリチュアリズムの中には、

「キリスト教あるいはイスラム教的な”人格神”という神の把握の仕方はまだまだ未熟な段階であり、仏教や道教における”非人格的な法則”として把握する仕方のほうがレベルが高い」

と主張する方々がいらっしゃるからです。

これは、キリスト教あるいはキリスト教神学への理解の不十分さから生じている見解でありまして、そうではなく、”三位”として現れる前段階の”一者”は、ただ<究極の神的実在>として把握されております。

キリスト教神学はもともとはギリシャ哲学に通暁(つうぎょう)している教父たちが作り上げたものですので、けっこう手強いのです。

少なくとも、東洋哲学の側から一蹴できるようなレベルではない、ということは知っておいてほうが良いでしょう。

さて、”恐れの克服”について、ですが、

なぜ、般若の智慧に依れば恐れを克服できるか?と言いますと、般若の智慧はこれまで述べてきたように、一言で言えば、「一切を空(くう)と観る」「一切を現象に過ぎないと観る」ということであります。

これは、般若心経の文脈では、「無い!」のぶった切りで表現されていますね。

人は、「有る」と思うからこそ、さまざまな物事に恐れが生じるているわけで、「無い」ということが分かれば、「無いものを恐れようがない」というふうに切り替えができますよね。

こういう構造になっております。

ただし、いったん「無い!」とぶった切って恐れを克服した後は、「現象は現象としては有る」という見方にもう一度切り替えて、「それでは、現象が有るのにはどうした意味があるのか?」

「現象としてではあっても、自我ではなく自己を伸ばす過程にこそ、究極の神的実在が宇宙を創造した意図があるのではないか?」と見抜いていくことですね。

ここまで見抜いていければ、それこそこのシリーズ名であるところの、「般若心経の悟りを超えて」いるレベルに至っている、と言ってもよろしいかと思います。

智慧のちからで心の三毒を追放する!

遠離一切顛倒夢想

読み:おんりいっさいてんどうむそう

現代語訳:一切の間違ったものの見方、迷いから遠く離れ、

漢字8文字ですが、4+4ということでリズム的には流れが良いです。

”遠離一切顛倒夢想”を分解して意味を探ってみます。

  • 遠離:遠く離れている
  • 一切:いっさいの
  • 顛倒:物事を逆さまに見ること
  • 夢想:迷い

これらをまとめて意訳して、「一切の間違ったものの見方、迷いから遠く離れ、」としてみました。

「間違ったものの見方」を仏教用語では”悪見(あっけん)”と言います。これは文字通り、八正道の一番めの”正見”と対置されるものですね。

「迷い」というのは仏教ではさまざまな種類を挙げています。

上の”悪見”と”さまざまな迷い”をまとめて、”六大煩悩(ろくだいぼんのう)”と言い表します。一つずつ挙げてみましょう。

貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)の6つです。それぞれの意味は、

  1. 貪…貪(むさぼ)りの心
  2. 瞋…怒りの心
  3. 痴…愚かな心
  4. 慢…慢心
  5. 疑…(特に仏法を)疑う心
  6. 悪見…間違った見解

とこうなります。

始めの3つ、貪・瞋・痴を”心の三毒”と言うこともあります。勝間和代さんなども、よく、「心の三毒を追放しよう!」と仰っていますね。

勝間和代さんが心の三毒という場合、貪瞋痴の”痴”を「愚痴」と捉えていらっしゃるようです。(個人的には)その捉え方でも良いと思いますし、また心境をチェックするにもやりやすいでしょう。

「愚かな心」というと、ちょっと茫漠としていて、「いったいどこが愚かなのか?」「愚かであればそもそも愚かであることに気づかないのでは?」なんて疑問も出てきそうですね。

そこで今回は、まず、”心の三毒”について、ちょっと別の角度から解説してみます。

貪・瞋・痴は3つ並列されていますが、むしろ、

「痴=愚かさ=(仏法に)無智であること、をベースにして貪と瞋が出てくる」と整理すると分かりやすいです。

つまり、愚かであること(無智であること)がベースになって、次の2種類の煩悩を引き起こすという理解です。

  • 貪…貪りの心:相手から取り込もうとする心
  • 瞋…怒りの心:相手を排撃しようとする心

というふうに整理します。

そうすると、貪と瞋では悪エネルギーの方向が真逆であることが分かります。

あなたをAとし、相手をBとしましょうか。

  • 貪:A←B
  • 瞋・A→B

と、こういう真逆な悪エネルギーの流れになっています。

この2つはともに、「自尊心を相手に依存している」という点で共通していることが分かります。

自我が脆(もろ)いからこそ、「相手がもっとこうしてくれたらいいのに!(貪)」あるいは「あいつのせいでこうなった!(瞋)」という思いが出てきます。

あるいは、もっと単純に、

  • 貪…相手が好きすぎてどうにもならない
  • 瞋…相手が嫌いすぎてどうにもならない

という理解でもいいです。

こちらの理解でもやはり、「自分の価値は相手によって左右されている」という”他人軸”がベースになっていることが分かります。

自存(じそん)ではなくて依存(いそん)の状態です。

そうすると、以下の図式になります。

貪:相手から取り込む心

痴(他人軸)

瞋:相手を排撃する心

と、このように整理すると分かりやすくなってくるでしょう?

”痴”は”無明”と置き換えてもいいですが、これが悪感情のベースになっているということは、逆に言えば、悪感情を解消する根本の薬は、「智慧を獲得すること」ということになります。

この場合の智慧は世間的な知恵ではなくて、もっと根源的な智慧です。

たとえば、「心のなかで思っていることが実はあなたの価値、ひいては、あなたそのものなのだ」という真理があります。

この智慧に照らしてみると、貪(相手から取り込もうとする心)・瞋(相手を排撃しようとする心)という心の在り方そのものが、「自分の価値を下げている」という事実に気づくことができます。

貪と瞋の状態になっているときは、「相手からもっとこうしてもらえば自分の価値が上がる」「相手を攻撃すれば自分の価値を保てる」という、いわば、”錯誤の幸福感”が根源にあります。

ところが、その思いが真実に適っていないがゆえに、ますます自分の価値を下げ、不幸感覚が増していくという悪循環に陥ることになります。

ちなみに、”痴”を「他人軸」と書きましたが、では、智慧の状態は「自分軸」なのか?というと、それも真理に適っていません。

自分軸というのも、「我あり」という自我の強化の方向へ行きます。そもそも、自分というのは”軸”にできるほど頼りになるものなのでしょうか?

智慧の立場は、他人軸でもなく自分軸でもなく、永遠不滅の実体である真理を軸にすること、つまり、”絶対軸”とでもいうべきものです。

さて、般若心経のコンテクストに戻してみましょうか。

さきの、”錯誤の幸福感”にしても、「”私”という実体(=本当に存在するもの)がある」という価値観から、「私のもの、私の自尊心……」という迷いが出てきます。

そこで、般若心経では、”空(くう)”という物の見方、空観(くうがん)ですね、

「一切は現象に過ぎず、あなたが執着している対象なんて、実は”無い!”」とぶった切っているわけです。

あなた自身についても、”五蘊皆空”、つまり、「あなたの肉体も精神作用も現象に過ぎないのだ」というふうに、自分に対する執着(我執)を断ち切りに行っているのです。

この空観も根源的な智慧です。

空観によって、”痴”(=愚かさ)を打ち砕き、”遠離一切顛倒夢想”の状態へ。つまり、「一切の間違ったものの見方、迷いから遠く離れ」ていくことができる。

こういう構造になっているのですね。

涅槃はいかにして実現できるか?

究竟涅槃

読み:くぎょうねはん

現代語訳:涅槃を窮(きわ)め尽くすことができるのだ

”究竟”とは、「最後に行き着くところ。窮め尽くした最高・無上の」という意味です。

直訳すると、「究竟涅槃する」となりますが、若干意味が取りづらいので、「涅槃を窮め尽くすことができるのだ」と訳しました。

コンテクスト(文脈)的には、「菩薩は、般若の智慧(=空観)によって、〜〜 一切の迷妄を離れ、涅槃を窮め尽くすことができるのだ」という流れです。

では、涅槃とはなにか?ということが問題になります。

般若心経の解説書を読んでも、「執われのない自由自在な境地〜」というふうにコンテクスト的に解説しているか、

あるいは、「一切の感覚的世界を離れた境地」という説明の仕方で、もちろん、間違いではないのですが、どうにも消化不良のところがありますよね。

「で、涅槃って結局、どういう状態なの?」というところが、サッパリ分からないのです

これはやはり、「涅槃をどこまでも言葉の上でしか捉えることができていない」というのが原因です。

涅槃とはもともと、パーリ語の”ニッパーナ”(サンスクリット語では”ニルヴァーナ”)の音写で、「(煩悩の)火を吹き消すこと」という意味です。

煩悩の火を吹き消したあとに現れてくる清々しい境地ですね。

なので、上述の「執われのない自由自在な境地」という定義はまったく正解ではあります。

問題は、

  1. どうして般若の智慧によって、涅槃の境地に至ることができるのか
  2. 涅槃の境地とはもっと具体的にどういう状態を言うのか

というあたりでしょう。

1.については、一切を空(くう)である、現象に過ぎない。般若の智慧から観れば「無い」と言える。無いものに執着することができるだろうか?できはしまい。…というのが優等生的な答えではあります。

もちろん、これは正解です。

しかし反面、「無い!」!無い!」といくら唱えていても、なかなか煩悩の火を吹き消すことができない、というのも私たち凡夫の常ではありますね。

これは結局、いまだ現象界の立場から、空想的に、実在に立脚した”つもり”でいるので、なかなか煩悩から脱却するのが難しくなっているのです。

般若の智慧、空観(くうがん)というものは、それだけではなく、もっと我が身に向き合うように叩きつけていかないと、なかなか身につけることは難しいです。

ではどうすれば、我が身に向き合えるのか?

それはやはり、実存としての自己、生涯の先にあるところの”死”に向き合うことです。

概念的な死ではなく、実存的な死ですね。こうした自分固有の死と正面から対決することが肝要です。

それではいかにして、実存的な死の克服が有る得るか?

それは、「死を超えた価値観」を味方につけることです。これがキィポイントです。

言葉を換えれば、不死・永生の立場に立つことです。

本来のあるべき世界、実在界ですね、かんたんに言えば「あの世」ということになりますが、あの世の存在を信じ、自己の生命があの世においても存続していくこと、これを信じる。

そして、本来的世界であるところの実在界の観点から、今の現象界にいる自分を逆照射してみる。

言い換えれば、実在界の価値観・真理スピリチュアルの価値観でもって現象界を生きていけること。および、その心理的状態が涅槃なのです。

実在界ということろは、地獄領域以外は、程度の差はあれ調和した世界ですので、肉体は現象界(この世)にあっても、こころ・精神が実在界に立脚していれば、こころの調和は実現することができるのですね。

涅槃にも段階論がある

さて、実在界・真理スピリチュアルの価値観でもって現象界を生きていけること、またその平穏な心理状態が涅槃である、というお話をいたしました。

実際は、悟りを得た人が肉体の死を迎え、その後の平安な状態へ移行することも涅槃の定義のひとつではあります。

「肉体が残っていない=肉体を余らせていない」ので、無余涅槃(むよねはん)と言います。

一方、「肉体を持ったまま=肉体を余らせているまま」の涅槃を、有余涅槃(うよねはん)と言います。

今回、申し上げているのは、後者の方、有余涅槃について、です。

実際は、有余涅槃が出来ていなければ、無余涅槃もありえませんので、あまり区分する意味はないとも言えます。

ただやはり私たちは現象界において、さまざまなマイナス条件のもとで生きておりますので、そうしたマイナス条件のなかでも真理スピリチュアル価値観を維持することができるという有余涅槃ですね、

これはやはり相当価値が高いと言えるでしょう。

その心境を”平均打率”として維持しきったご褒美に無余涅槃がある、と言うことも可能であるかもしれません。

話を戻しまして。

実在界の真理スピリチュアル的価値観をもって現象界を生きていける境地が涅槃である、ということでしたね。

これは言い換えれば、自分が本来所属していた実在界の境地を現象界においても味わえる、ということでもあります。

ところが、実際は、”実在界のどこの段階に所属していたか?”という観点もありますよね。

たとえば、天界出身の人が現象界においても天界の境地を味わえる。これも涅槃であると言えます。

その他の段階論においても同じです。
*もっとも、地獄領域(地獄・餓鬼・畜生・修羅)は除きます。

ということは、実際のところは、「涅槃にも段階論がある」ということが言えそうです。

天界的涅槃、声聞的涅槃、菩薩的涅槃…という具合です。

これは従来の仏教学にはなかっであろう、新しい涅槃観です。

かんたんに言えば、「それぞれの人に、その人なりの涅槃がある」ということです。

やはり、究極の悟り、仏陀の悟りを今回の人生だけでゲットする涅槃、というのははっきりと無理があります。

ただし、「元々、天界出身だった人が今世がんばって声聞的涅槃を実現する」ということはあり得るでしょう。

あり得る、というよりも、現象界が修行の場であるならば、むしろその方向を目指すべきです。

それでこそ、現象界が用意されている意義があるというものです。

いわば、アップデート涅槃、とでも言いましょうか。

むしろ、その観点において、究竟涅槃。涅槃を窮め尽くす、ということにポイントを置くのが良いでしょう。

究極の悟り、仏陀の悟りを最終目標に置きながらも、今回の人生でベストな悟りの状態、その心境を維持していくということです。

今回の主要論点は、ここですね、アップデート涅槃。自分なりの涅槃を善方向へ更新していくこと、でした。

多仏思想の展開

三世諸仏

読み:さんぜしょぶつ

現代語訳:過去・現在・未来のもろもろの仏陀は

現代語訳としては、「過去・現在・未来」としましたが、仏教では一般に、「過去・未来・現在」の順に記述するパターンが多いです。

釈尊が菩提樹下で悟りを開いた時、「三明(さんみょう)を得た」と言われております。

三明とは、過去・未来・現在を明らかにする力・パワー。具体的には、六神通(ろくじんつう)のなかの、

  • 宿命(しゅくみょう):過去世を見通すちから
  • 天眼(てんげん):未来世を見通すちから
  • 漏尽(ろじん):煩悩を滅尽して智慧を発揮するちから

と定義されております。

このように、過去→未来→現在 という順番で、最終的には”今ここ”の智慧を重視するのが仏教の立場であると言えるでしょう。

最初から話がそれているようですが、仏教の時間論を知る上で大事な考え方です。

”三世諸仏”は、「過去にも、現在にも、未来にも仏陀は現成(げんじょう)する」という思想をベースにしていますが、

オリジナルは、まず”過去七仏”の思想が根拠になっていると思われます。

具体的な名称はここでは触れませんが、過去から現在に至るまで、釈尊を含めたところの七仏がいる、という思想ですね。

なぜこうした思想を打ち出したかと言うと、「釈尊の説いている法は決して新奇なものではなく、永遠の真理なのだ」という証明のためです。

そのために、「過去の仏陀たちも同じ法を説いていたのだ」と展開しているわけです。

過去七仏が説いた永遠の真理、ということでは、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)が有名です。

  • 諸悪莫作(しょあくまくさ) …もろもろの悪を作すこと莫く(なく)
  • 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) …もろもろの善を行い
  • 自浄其意(じじょうごい) … 自ら其の意(こころ)を浄くす
  • 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) … 是がもろもろの仏の教えなり

過去七仏は、過去から現在に至るまでの7人の仏陀たち」ということで、時間軸における仏陀の出現を表明しているわけですが、

釈尊没後は、大乗仏教において、「未来世にも仏陀は出現する」という思想へと展開していきました。

有名なのは、「弥勒菩薩が56億7千万年後に仏陀として下生する」という弥勒信仰です。

まあ、具体的な”56億7千万年”という数値に拘る必要はないとは思いますが…、

こうした時間軸における多仏信仰が今回の「三世諸仏」という言葉に凝縮されているのですね。

これは要するに、般若波羅蜜多は永遠の真理なのですよ、という前フリでもあります。

さて、

時間軸における多仏信仰が可能であるならば、空間軸における多仏信仰が出てくるのも必然的な流れです。

東西南北、いや、十方世界に仏陀はいらっしゃるのだ、という信仰です。

有名なのは、西方世界の阿弥陀仏ですね。このようにして、全時空間 ー仏教用語では三世十方(さんぜじっぽう)と言いますがー に、仏陀がいらっしゃるという多仏信仰へと拡大していきます。

エキュメニカルな可能性をはらむ多仏信仰

こうした多仏信仰というのは、キリスト教やイスラム教などのセム的一神教からみると、一種の多神教と映るでしょう。

たとえば、キリスト教の教理、「真の神がイエスとしてただ一度受肉した」という論理からは、イエスに対する信仰のみが救済の根拠になっています。

しかし、今後、宇宙時代を迎えるにあたって、大宇宙の中から見れば砂粒にも等しい地球だけに、それも数十億年の歴史のなかのほんの数年、しかもパレスチナ地方のみに”神の子”が生まれたという考えはだんだんに説得力を失っていくでしょう。

そうすると、元はキリスト教の宣教に役立っていた「受肉は1回限り」という思想が、今後は逆に、キリスト教という宗教の耐用年数を縮める役目を果たすことが予想されます。

それよりも、

「神的実在は歴史の過程において、折に触れて人類に働きかけを行っている。イエス・キリストの受肉はその最高の証のひとつである」

というふうに、論理を転換していったほうが、キリスト教という宗教の救済力を担保する役割を果たしていくことになると思われます。

すでにキリスト教の姿を大きく変容させた教会一致的(エキュメニカル)精神が世界の諸宗教の関係にもますます大きな影響を及ぼすものと予想される。そこで、おそらく全世界的な宗教一致的(エキュメニカル)精神が増大しうるであろう。(『神は多くの名前をもつ』(ジョン・ヒック著)より)

つまり、仏教を含むところの他宗教においても、唯一神は歴史的な働きかけを行っており、今も現にその働きかけは続いている、という思考です。

その文脈で行けば、”三世諸仏”ですね、過去現在未来十方世界に仏陀はいらっしゃるという大乗仏教の思考様式は、むしろ先進的でさえあると思われます。

多神教の問題点、デメリットは、いつも人間中心・自我中心の発想へ傾いてしまうところにあります。

いわゆる、ご利益信仰。当サイトでいうところの”呪術スピリチュアル”です。

呪術スピリチュアルについて一概にダメだとは言いませんが、私が一定の制限をかけている理由はここにあります。

結局、自我中心の発想は真理ではありえないですし、また、究極において人間の幸福に資するものではありません。せいぜいがいっときの気休めにしかなりません。

多仏信仰がこうした呪術スピリチュアルに傾く危険性について、大乗仏教はすでに”一即多多即一”の回答を示しています。おもに華厳経の思想です。

すなわち、神的実在は一なるものであると同時に多でもありうる、という思想です。

そうすると、”現象”としての自我は否定しつつ、つまり、呪術スピリチュアルへの傾倒を防ぎつつ、かつ、神的”実在”の働きかけは、時間的にも空間的にも無限である、という解釈が成立することになります。

見出しにかかげた、「エキュメニカル(=宗教一致)な可能性をはらむ多仏信仰」はそういう意味です。

般若心経からはずいぶん離れた記述になっていますが、私は”三世諸仏”の一句からここまでの真理の守備範囲を引き出せると思っております。

そうであってこそ、夜郎自大的な偏狭な宗教の縄張り意識を打破していくことが可能になっていくと考えます。

仏陀より、般若の智慧のほうが上!?

依般若波羅蜜多故

読み:えはんにゃはらみたこ

現代語訳:般若の智慧に依るがゆえに、

主語は、”三世諸仏”です。

「過去・現在・未来のもろもろの仏陀たちは、般若の智慧に依るがゆえに」という流れです。

ここのところを単純に解釈すると、「”仏陀たち”は”般若の智慧”に依拠して〜」となるわけですから、

仏陀たち<般若の智慧

というふうに、「仏陀より、般若の智慧のほうが上位にある」と読めてしまいますね。

これは、キリスト教・イスラム教などのセム的一神教からみると、摩訶不思議な光景でしょう。

仏教が、”法中心”の宗教と言われる所以(ゆえん)です。

ただし、この解釈はまだまだ表面的なものと言えると思います。

ここの主語の”仏陀たち”というのは、究極の仏陀・久遠実成の仏陀というよりも、「菩薩時代から修行を重ねて仏陀になった存在」のことです。

仏教的には三身説というのがありまして、そのなかでも応身(おうじん)と呼ばれる存在です。

応身とは、地上へ下生し、菩薩として修行を重ね仏陀になった存在のことを言います。

キリスト教の教理で言えば、”受肉”に近い概念です。

なので、「三世諸仏 依般若波羅蜜多故」=仏陀たちも般若の智慧に依って(学んで)、というのは、厳密に言えば、

応身としての(菩薩時代の)仏陀たちは、般若の智慧を学んで仏陀となったのだ、ということになります。

究極的には、法と仏陀・唯一神を区別する必要はなくなる

一般的には、仏教とキリスト教/イスラム教を比較して、

  • 仏教:法中心の宗教
  • キリスト教/イスラム教:人格神中心の宗教

との解釈が多いですよね。

これはもちろん、間違えとまで言うつもりはありませんが、しかし、ネオ仏法的には、「まだまだ奥がある」と考えています。

まず、仏教的には、

法をみるものは我をみる。我をみるものは法をみる
(『サンユッタ・ニカーヤ』「ヴァッカリ」)

と説かれているように、法と仏陀は同一視されています。

このサンユッタ・ニカーヤで説かれているところの”我”=仏陀は、今地上にあるゴータマ・ブッダの本質であるところの”久遠実成の仏陀”、法身仏としての仏陀、ということでしょう。

あるいは、別の捉え方として、

現象としての”我”=応身仏を見るものは、実在としての”法”=法身仏を見ることと同義である、というふうにも理解することができます。

三身説には、これら応身、法身の他に、報身(ほうじん)という形態もあります。

報身は、「仏陀になるための修行という種を蒔き、その報いとして仏陀となった存在」のことです。

報身はさらに、「他者の利益(りやく)を提供する仏」という定義もあります。むずかしくなるので覚えなくてもいいですが、これを他受用報身(たじゅゆうほうじん)と言います。

この報身は、応身とどう違うかと言いますと、「他者への利益」と定義されているように、「仏が衆生へ利益という作用を及ぼす」という側面に注目しているわけですね。

*ただし、自ら法悦、法の喜びにひたる仏のことを自受用報身(じじゅようほうじん)と呼ぶこともあります。

作用というのは、言葉を換えれば、”働きかけ”のことでもあります。

つまり、仏が衆生に利益という働きかけを行う形態ですね、これを報身と呼んでいるわけです。

そのように”働きかけ”あるいは”作用”という側面に注目すると、報身はキリスト教理でいうところの”聖霊”とほぼ同じ理解をしていくことができます。

三身説をまとめますと、「本質としては法身であるが、地上に下生すると応身になり、利益を供与する役割としては報身と呼ばれる」という理解の仕方です。

  • 法身:法としての存在。仏陀の本質。久遠実成の仏陀
  • 応身:地上に下生した仏陀
  • 報身:利益を供与する仏陀

というふうにまずは、整理しておきます。

また、WIKIの三身説を参照すると、三身をそれぞれ、

  1. 法身:盧遮那仏(久遠実成の仏陀と同義と考えて良いです)
  2. 報身:阿弥陀仏
  3. 応身:釈迦仏

としても整理されています。

このうち、報身の阿弥陀仏に注目すると、来世(あの世)におけるいわば主宰神としての存在、ということですよね。阿弥陀仏は実際に”救済”という働きかけをします。

つまり、報身には、

  • 人格神的報身
  • 作用的報身

の二種の理解の仕方があるというわけです。

これらの考え方を再び整理してみますと、

  1. 法身:法としての存在。仏陀の本質。久遠実成の仏陀
  2. 人格的報身:来世における主宰神としての仏陀
  3. 作用的報身:衆生に利益を供する仏陀
  4. 応身:地上に下生した仏陀

となります。

この整理の仕方はかなりネオ仏法的なオリジナルな整理の仕方ですが、理論的には筋が通っているでしょう。

なぜ、このような整理の仕方をしているか?と言いますと、キリスト教の三位一体との整合性をとるためです。

実際に照合してみましょう。

  1. 法身:法としての存在。仏陀の本質。久遠実成の仏陀→三位一体の”一”としての在り方
  2. 人格的報身:来世における主宰神としての仏陀→父の位格
  3. 作用的報身:衆生に利益を供する仏陀→聖霊の位格
  4. 応身:地上に下生した仏陀→子の位格

という具合です。

もちろん、ピタリと一致しているとは言い難いのではないか?という反論はあると思います。

応身としての釈迦仏は、人格的報身としての仏陀を”天の父”という具合に把握していたわけではないですからね。

ただこうした差異は、神的実在が歴史的・文化的なコンテクストのなかで、「どのように人類に顕現・応答していくか?」、という問題であって、本質的な差異ではないと私には思えます。

これらの理論を「依般若波羅蜜多故」にからめていきますと…、

”般若の智慧”を法身仏として把握し、”三世諸仏”を応身仏と把握していくわけですね。

どちらが偉いという問題ではなく、「顕現の仕方」の問題です。

逆に、キリスト教的に言えば、3つの位格を総合した一なる神というのは、三身説で言うところの法身に相当する、ということです。

キリスト教の神を人格神として捉える向きが一般的ですが、三位一体論に沿って言えば、3つの位格・ペルソナを総合した一なる存在は、法としての本質的存在として把握されうる、ということです。

今回も『般若心経』からはずいぶんと逸れたようではありますが、

新時代に適合する法理論として、「三世諸仏 依般若波羅蜜多故」をエキュメニカル(宗教一致的)に解釈する方向性は、非常に大事な考え方になってくると思われます。

シニフィアンとシニフィエ

得阿耨多羅三藐三菩提

読み:とくあのくたらさんみゃくさんぼだい

現代語訳:最高の悟りを得ることができるのだ

主語は、”三世諸仏”です。

流れとしては、「過去・現在・未来の仏陀たちは、般若の智慧に依るがゆえに、最高の悟りを得ることができるのだ」となります。

”阿耨多羅三藐三菩提”は、字面だけでみると、摩訶不思議かつ難解で逃げ出しそうになりますが、これは、サンスクリット語の”アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ”の音写です。

”無上正等覚(むじょうしょうとうがく)””無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)”などとと意訳するときもあります。

言葉の対応関係としては、

  • 阿耨多羅:無上
  • 三藐:正
  • 三:等
  • 菩提:覚

となります。

”正等覚”は、”正覚”とも言いますが、要は、「仏陀の悟り」のことです。

なので、無上正等覚は、直訳すれば、「この上ない仏陀の悟り」ということになります。菩薩たちは、日々、この仏陀の境地を目指して修行をしているのですね。

”無上正等覚”という立派な意訳語があるのであれば、得阿耨多羅三藐三菩提ではなく、”得無上正等覚”となぜ玄奘は翻訳しなかったのか?

単純に、”阿耨多羅三藐三菩提”のほうが有り難みがありそうな感じもしますけどね。意外にそういう側面もあるかもしれません。

ただまあ、本当のところはむしろ、「翻訳しきれない」「翻訳しないほうがベターである」と判断したのでしょう。

”近代言語学の父”と呼ばれている哲学者ソシュールは、言語を”シニフィアン””シニフィエ”という二種類に分けて考察しています。

それぞれ、

  • シニフィアン:文字や音声
  • シニフィエ:イメージ、概念、意味内容

ということです。

初めて聞く方は、この定義では「なんのことやら?」となってしまいますよね。

シニフィアン/シニフィエは、ひとことで言ってしまえば、「言葉と、言葉が指し示している対象に直接的な関連はない」ということです。

たとえば、”猫”という文字、あるいは音声があります。

もしこの”猫”が実際の猫そのものとイコールで、絶対的な音声・文字であるとすれば、全人類がみな”猫”という言葉を使うはずです。

ところが、英米人は”CAT”と言いますよね?

母語を異にすれば、猫そのものをなんと呼ぶか?には、それこそ言語の種類の数だけの呼び方があります。

つまり、

私たちが、文字を書いたり、発音したりするところの”猫”と、実際の”猫”には必然的な関係はないということです。

あくまで、その言語を使用している民族の合意によって、”猫”と呼び習わしているだけですよね。

  • シニフィアン:”猫”という文字や音声
  • シニフィエ:”猫”そのもの

という対応関係です。

話を戻しまして、

翻訳として、”無上正等覚”。私たち日本人であれば、「無上の悟り」と言ってしまうと、「なんとなく分かった気がしてしまう」という危険性があります。

「あ、無上の悟りのことね、知ってる知ってる」と、深く考えることなしにスルーしてしまう危険性です。

ところが、”阿耨多羅三藐三菩提”と漢字をずらずら並べられると、一瞬、「えっ!?」となってしまいますよね。

この「えっ!?」という驚きは、「…無上の悟りとは、そのそも何ぞや?」と改めて考察する契機になるでしょう

中国人、日本人…にとっては、”阿耨多羅三藐三菩提”という文字・音声はひとつの異化作用として迫ってきます。

これによって私たちは、「”無上の悟り”と、かんたんに分かった気になってしまってはいけないな」という知的謙虚さが生まれますね。

玄奘がサンスクリット語を意訳せずに音写する時は、そのように、「あえて異化作用を引き起こさせ、言葉が指し示している内容(シニフィエ)を考察してもらいたい」という願いもあったのだと思います。

無上の悟り、この上のない仏陀の悟りとは?

上記のシニフィアン/シニフィエで言えば、「無上の悟りとは…………〇〇である」とこれから解説しても、〇〇がまたひとつのシニフィアンになってしまうのですけどね。

しかしまあ、そう言っていては記事が書けませんので、できるだけ接近してみましょう。

…というより、今回は”無上の悟り”の内容というよりも、「無上の悟りを得るとは、そもそもどういうことであるのか?」について考えてみたいと思います。

前述しましたが、”無上の悟り”とは、「この上ない悟り」という意味でしたね。

そして、”この上ない”と言うと、文字通り、「もう、これ以上はない」というスタティック(静的)な状態をイメージしてしまいます。

そして現実にも、多くの僧侶・修行者たちも、”無上の悟り”をそのようにイメージしていることでしょう。

しかし、考えてみれば、「この上ない」というのは、言ってみれば、「頭打ちである」というひとつの制約になってしまいますよね。

仏陀の悟りが広大無辺のものであるならば、”制約”というのは、「広大無辺ではない、限りがある」という矛盾に陥ることになってしまいます。

これはやはり、悟りというものをスタティックな状態であると誤認しているところから生じる錯覚であると思います。

もちろん、「ある一定の悟りを得た」という…、たとえば、「声聞の悟りに達した」というふうな、いくつかのメルクマール・指標は存在するでしょう。

そうした指標があるからこそ、目標設定がしやすい、というメリットもあります。

しかしやはり、”菩薩の悟り”にしても、”仏陀の悟り”にしても、常に上へ上へと更新していると解すべきではないでしょうか?

大宇宙の一なる神(実在)は、自らの発展を望まれて、自己に内部に”現象”を生じせしめたのです。

そして、「自己内部に無数の”現象”を創造した」目的は、一なる神(実在)そのものが拡大・発展を成し遂げていくのが目的です。

一の内部に、私たちや一人ひとり…無数の多があります。

一即多多即一です。

そして、たとえば今これを読んでいるあなたの認識がひとつ増えた、とすれば、言葉を換えれば、あなた(現象)が智慧をひとつゲットしたとするならば、

それは”全体”であるところの一なる神(実在)も、そのあなたが獲得した智慧の分だけ増量することになります。

この増量すなわち、発展・拡大が、大宇宙創造の目的そのものです。

ここのところは、それこそ私たち人間に許されている”無上の”認識でもありますので、「ちょっとまだ分かりにくい」という方は、上記の参考記事2つをぜひ繰り返しくりかえし読むことをお勧めいたします。

まさしくここが、「般若心経の悟りを超えて」いるところだからです。

さて、もっと私たち一人ひとりに引き寄せて論じるとするならば、私たちの”悟り”というのも、「これで悟ったからおしまい!」というようなスタティックなものではないのです。

江戸時代中期の禅僧、白隠禅師が「小悟は数知れず」と名言を残していますが、悟りというものは常に認識力を更新し続けているというダイナミクス(動き)そのものでもあるのです。

私たちは、ともすれば、「悟った」「悟っていない」というふうに二分法で考えてしまいます。

こうした二元論は、物事を考察するのにとても便利ではあるのですが、究極のものでないのも確かなのです。

やはり、「悟った」「悟っていない」という二分法ではなく、悟り(認識力)を常に更新している動的な状態が理想です。

習慣論などでもそうです。

すぐに習慣が破綻してしまう原因のひとつが、「私はできている」「私はできていない」という二分法の考察にあると思えます。

「あーあ…今日も出来ていない、目標をクリアできていない。もうこれ以上、努力を続けてもなあ…」という具合に、努力の習慣が破綻してしまうのですね。

そうではなく、

「昨日よりは一ミリでも出来ている、出来つつある自分」という動的な自分にアイデンティティを求めれば良いのです。

「一かゼロか」というデジタルではなく、「一へと続く限りない」アナログな動きです。ここにアイデンティティと誇りを置くこと。

これによって初めて、「継続していこう!」というモチベーションも生まれてくるというものです。

こうした「二分法の陥穽」は他にもいくらでもあります。

  • 「稼げてる自分」「稼げてない自分」
  • 「精神が安定している自分」「精神が安定していない自分」

…などなど。

大宇宙創造の目的まで喝破していくことももちろん素晴らしいですが、もっと身近に、

「自分もまたスタティックな状態に陥っていないか?真理とはダイナミクスにあったのではなかったか?」

と、時に自問自答してみると、幸福感は増大していきます。

幸福感も、結果ではなく、過程(ダイナミクス)に存するからです。

結局、「般若波羅多」はマントラ(真言)なの?

”故(ゆえに)”は、今までの説法全体を指す

故知般若波羅蜜多

読み:こちはんにゃはらみた

現代語訳:それゆえに(シャールプトラよ)知るべきである。般若波羅蜜多(智慧の完成)は、

故知般若波羅蜜多の”故知”は、「ゆえに知るべし」ですが、「ゆえに」がいったいどこからどこまでを指しているのか、諸説あるところでしょう。

今回は、「観自在菩薩がずっとシャーリプトラへ説法していた内容全体を指す」と捉えていきます。

したがいまして、現代語訳部分にも(シャーリプトラよ)と補足を入れております。

さて、

現代語訳全体としては、「それゆえに(シャールプトラよ)知るべきである」としましたが、いったい何を知るべきなのか?は次節以降に続いていきます。

いったいどこが「般若心経の悟りを超えて」いるのか?

”故に”が「今まで説法していた内容全体を指す」という観点から、今回は本記事の重要な論点を振り返ってみます。

とくに、サブタイトルが「般若心経の悟りを超えて」としていますが、いったいどのあたりが”超えて”いるのか?という点に絞ってみます。

結論としては大きく、以下の3点が「般若心経の悟りを超えて」いる部分です。

  1. ”実在性の諸段階”の論理により、小乗仏教の修行論をも救い出している
  2. ”空の論理”のアップデート。空=無常+無我+涅槃 の解釈
  3. ”現象界創造の目的論”まで踏み込んでいる

それではそれぞれを詳しく見ていきましょう。

1. ”実在性の諸段階”の論理により、小乗仏教の修行をも救い出している

まず、”空”と”無”の関係性を説明するところから入ったのでした。

一般の般若心経解説本では、ここの「空と無の違い」が今ひとつスッキリしません。

比較的、親切な解説本では以下のような説明になっています。

空の原義はサンスクリット語で”シューニャ”=空っぽ、である。インドでは「空っぽがある」という変わった言い回しをする…、とか。

奥が深いような、はぐらかされているような説明です。みなさんはこれで腑に落ちますか?私はこれでは分からないです。

心理学では”アハ体験”と言いますが、文字通り、AHA!というふうに、「あ!そっか!そういうことだったんだ!」という嬉しくなるレベル。すとーん!と腑に落ちるレベル。

私は、本当に”分かった”という基準をここに置いています。

多くの解説書、あるいは思想・哲学書が難解なのは、実際は書いている本人が当該の真理について腑に落ちていないケースがほとんどなのです(もちろん読み手の方に最低限の知識と読解力を要請するところがありますが)。

話を戻しまして、実在性の諸段階論ですね。

一般的には、

実在 – 現象

というふうに二元論で解説することが多いですし、私もそれを踏まえてご説明することもあります。

ただこの二元論はあくまで便宜的なものであり、実際はこのような単純な図式ではないのですね。

実在とは「本当に存在するもの」、現象とは「実在が仮に現れたもの」という意味ですが、実際は、”実在”というものもいくつかの段階があるのです。現象についても同じです。

つまり、より上位の実在から見れば、下位の実在も現象に過ぎない、ということ。

同様に、より下位の現象から見上げると、上位の現象は”実在”と言いうる、ということです。

ここでいう、より上位の実在から見れば、下位の実在も現象に過ぎないということ、つまり、仮の存在であること、”無い”とも言えること。これがまさしく、”無”の本当の意味でもあるのです。

般若心経では、釈尊が提唱した修行法や観想法をこれでもか!というくらいに、「無い!」と否定してきましたね。

しかしこれは、さまざまな修行法や観想法が間違っているという意味ではなく、「”空”という、より上位の真理から見れば、地上で行うさまざまな修行法・観想法も方便に過ぎないのだ」という意味なのです。

  • 空:より上位の真理から観れば、
  • 無:仮のものであり、現象に過ぎない。方便であり、無いと言える

ということです。

なので、釈尊が提示したさまざまな修行法・観想法は要らない!というのは表面的な解釈でありまして、否むしろ、”空”というより上位の真理から眺めるからこそ、これらの修行法・観想法の意味合いと重要性がよく分かるようになるという側面が大きいのです。

それですから、結論的には、空観を保持しつつも、地上での修行論・観想法を大事にしていくという方向がベストです。

般若心経の本文ではダイレクトにはこういうことは書いていませんが、空と無の論理を演繹していくとこのような結論を引き出していくことができます。

2. ”空の論理”のアップデート。空=無常+無我+涅槃 の解釈

”空”は一般的には”無我”に近い意味で解釈されることが多いですし、実際に釈尊の時代では、それほど区別なく使用されておりました。

なので、

空=無我

の図式です。

つまり、あらゆる事象はそれ自体では存在できない。相依(あいよ)って存在しているでしょう。このように実体を欠いているさまを”無我”といい、あるいは大乗仏教では”空”と呼んでいるわけです。

”空”の場合は、ここの「相依っているところの事象全体」を指すこともあります。無我よりは若干、守備範囲が広いイメージです。

また、「この相依っている事象全体という状態こそが真理である」ということから、真理そのものを指すこともあるでしょう。

そうすると、

空はもともとは無我に近い意味合いで、どちらかというと、”無い”に近いニュアンスだったものが、時代と地域を経ていくうちに、「事象全体である」「真理そのものである」というふうに、”有る”というニュアンスに変わってきているとも言えます。

上述の「無我に近い空」は、「相依って存在しているのだから実体性を欠く」という、どちらかというと、存在論的・空間論的観点から”存在”というものを眺めています。

ところで、存在にはもうひとつ、”時間”という側面がありますよね。あらゆる存在はひとときも休まることなく変転変化していきます。仏教ではこれを”無常”と言うのでした。

”空”理解が「事象全体を指す」のであれば、時間論的側面も入っていると解釈したほうが良いでしょう。

つまり、「相依って存在している」という静止したイメージだけではなく、「相依って在りつつも、常に変転・変化していく」という動的なイメージです。

空理解に”無常”を織り込んでいくわけです。

そうすると、

空=無我+無常

という図式になりました。

無我、無常、と来れば、仏教を学んでいる人であれば、”三法印”を思い出すでしょう。

三法印とはすなわち、

  • 諸法無我
  • 諸行無常
  • 涅槃寂静

の3つです。

簡略化すれば、

  • 無我
  • 無常
  • 涅槃

となりますので、上記の、

空=無我+無常

の図式では、三法印のうち、ふたつが使用されていることになります。

そうすると、「では、涅槃はどうなのだ?」という観点があります。

いくつかの記事で書きましたが、とくに近現代の仏教理解において、”涅槃”は鬼門になっております。

というのも、無常と無我は上述の説明を読めばお分かりの通り、この世(現象界)の観点からも説明がついてしまうのですが、”涅槃”についてはどうしても、あの世(実在界)の観点が入らないと、理解ができないからです。

近現代は唯物論がずいぶんと優勢になってきましたので、”涅槃”がますます分からなくなってきているのです。

”涅槃”とは一言でいえば、

「実在界の観点から現象界を眺めることによって、現象界におけるさまざまな事象の意味合いを見抜き、智慧と慈悲に生きられること。そしてその結果、得られる平安な境地」

という意味なのです。ネオ仏法では涅槃をそのように定義します。釈尊も当時(約2500年前)、用語は違っても、そのような意味合いで説いていたと思います。

したがって、死んでから涅槃があるのではなく、むしろ、この身このままで涅槃に入ることができるし、むしろ修行論の観点からはそのような涅槃のほうが望ましい、ということになります。

無常であり、無我な世界のなかでそのまま翻弄されるのではなく、無常・無我を見抜くことによって執着を絶ち、むしろ智慧と慈悲に変えることによって、真実の幸福感を得る、ということです。

そう、涅槃は仏法における幸福論なのです。あるいは、目的論であるとも言えます。

なぜと言うに、涅槃という観点があるからこそ、なぜ世界は無常であり無我であるのか、そのように創られているのか、という神的実在の意図を見抜いていくことができるからです。

涅槃という幸福論のために、無常・無我なる現象界、空なる現象界が創造されたのです。

ここにおいて涅槃を空理解に織り込んでいくことが可能ですし、むしろ、涅槃は空理解のための最後の1ピースであるとも言えます。

そうすると、図式としては、

空=無我+無常+涅槃

となりますね。この図式において、空理解が完成します。

「無常で無我だからむなしい…」といったニヒリズムを克服することが可能になってきます。

弟子のレベルでここまで空理解を突き詰められたことはいまだかつてありません。これがまさしく、「空の論理のアップデート」なのです。

3.”現象界創造の目的論”まで踏み込んでいる

ここのところは、じつはすでに述べております。2.の解説の中に、下記の文章がありますね。

涅槃という幸福論のために、無常・無我なる現象界、空なる現象界が創造されたのです。

従来の仏教哲学では、「なぜ世界は無常であり無我であるのか?」という目的論まで踏み込めておりませんでした。

「とにかく、世界はこのようであるのだ」という受動的な無常・無我理解で止まっておりました。

ネオ仏法では、もっとダイナミックに、「世界はなぜこのようにあるのか?」という、より能動的、合目的的なレベルまで踏み込んでいきます。

なぜ、無常かつ無我な世界が在るのか?

この問いは、「なぜ、世界は現象しているのか?」という問いと同義です。現象しているからこそ、無常であり無我な在り様が現出しているからです。

それでは、なぜ世界は現象しているのか?

現象の大本は実在にあります。

  • 実在:実際に存在するもの
  • 現象:実在が形(象)として現れたもの

だからです。

ということは、”根本の問い”は、「実在はなぜ現象しているのか?」ということになります。これが最大限に突き詰めた問いです。

実在というものは、ときに”創造神”と呼ばれたり、久遠実成の仏陀(法身仏)と呼ばれたり、道(タオ)と呼ばれたりしています。ヘーゲルは”絶対精神”と呼びました。

各々の宗教や哲学、道徳論などでさまざまな名称で呼ばれています。

もう一度、問います。「実在はなぜ現象しているのか?」

わざわざ現象しなくとも、実在のままであれば良いように思われます。

宗教的にいえば、神はなぜ世界を創造したのか?という問いと同じです。イメージとしてはこちらが分かりやすいので、こちらの問いを手がかりに考えていきましょう。

まず、神が全能者であるならば、神は”全体”でなければなりません。

ある領域は神であり、その他の領域は神でない、とすると、神に限定がかかることになり、全能性が損なわれます。

したがって、神は(あるいは、真理は)全体であるのです。私たち一人ひとり、万象万物を自らの内に含むところの全体です。これが第一テーゼです。

つぎに、

神があらゆる善の根本であるならば、かならず”発展”というものを要請するはずです。善が拡大していことはより大きな善であるからです。ゆえに、「神は発展を要請する」。これが第二テーゼです。

まとめてみましょう。

  • 第一テーゼ:神は(真理は)全体である
  • 第二テーゼ:神は(真理は)発展を要請する

しかしこの第一テーゼと第二テーゼはともに真理であるはずなのに一見、矛盾をきたしているように思われます。

つまり、”発展する”というのは、「発展の余地がある」、ということでもあり、そうすると、神の外部に”余地”があることになってしまいます。

そうすると、「第一テーゼ:神は(真理は)全体である」とぶつかってしまいますね。神は(真理)は全体ではなくなってしまう。

この矛盾を解決する方向はたった一つです。

それは、「神は(真理は)全体でありつつ、自己拡大をなしている」という在り方です。

ここのところが三段論法になっています。

まとめてみます。

  • 第一テーゼ:神は(真理は)全体である
  • 第二テーゼ:神は(真理は)発展を要請する
  • 第三テーゼ:したがって、神は(真理は)自己拡大をする

では、神は(真理は)いかにして自己拡大を成すのでしょうか?

神が(真理が)”お一人様”で静かに、スタティックな状態にとどまっていたら、発展というのは在りえません。

そこで、神は(真理は)自らの内部に現象を起こすことを発明されたのです。

現象を起こすことによって、各々の現象の間に一時的な葛藤・矛盾が引き起こされます。

現象Aと現象Bに矛盾が生じた場合、これはときに”悪”というかたちをとることさえありますが、それはあくまでも一時的な有り様に過ぎず、一定の時間が経過すると、相互の矛盾が昇華され、新たな付加価値が産出されることになります。

弁証法の論理ですね。これは、仏教的には中道論です。

自らの内部に新たな付加価値が生じたということは、神自らも(その付加価値分だけ)発展しているのと同じなのです、ここが理解のキモになっています。

たとえば、私たちの身体の内部で細胞分裂が起きて、仮にですよ、たった一つだけ細胞が増えたとします。

これは、細胞にとってもプラス1ですが、私たちの身体全体にとってもプラス1になるでしょう?

これと同じことです。お分かりでしょうか?

まとめてみましょう。

神は(真理は)全体であり、かつ、発展を望まれた。その自己実現のために自己内部に現象を引き起こした(=世界の創造)。無常であり無我な世界が現出した。

無常・無我(=現象)から新たな智慧と慈悲という付加価値が創出され、そこには”涅槃”というポジティブな幸福論が付随する。

この発展に付随する幸福論が世界創造の目的であるのです。

この結論から般若の智慧を再検証してみると、般若心経に書かれている”不増不減”というのも空理解のひとつの段階に過ぎないことが分かります。

上述したとおり、新たな付加価値(智慧×慈悲)の産出がなされているという創造の目的論まで踏み込むと、エネルギー総量は増えていることが分かります。

ここのところが物質世界に投影されると、インフレーション宇宙論になるのかもしれません。

今回の論考は、ネオ仏法思想の中核に当たる部分の再確認でもあります。

すこし難しいかもしれませんが、哲学的な思考という意味では、現段階の地球文明における最高の達成のひとつであると自負しております。

ぜひ繰り返し熟読玩味されることをお勧めいたします。

”呪(しゅ)”はマントラ、真言であるのか?

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦

読み:ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいく

現代語訳:大いなる真言であり、大いなる明知の真言であり、この上ない真言であり、比べるものなき真言であり、すべての苦しみを取り除く

主語は前項で取り上げた”般若波羅蜜多”、すなわち、”般若の智慧”です。

「是大明呪……」に使われている”是”は、英語で言えば、”is ” に相当するでしょう。

般若の智慧 is 大明呪

といったふうですね。

なので、”是”は、「〜である」ということで、直訳的には、「般若の智慧は、大いなる真言である」となります。

”呪”は、マントラ・真言のことです。

実際は、”能除一切苦”のところも原語(サンスクリット語)では末尾に”マントラ”となっていますので、合計5つのマントラ(真言)が紹介されていることになります。

さて、今回採りあげた部分は、仏教を多少勉強したことのある方であれば、「えっ!?」と驚く場面でもあります。

今までずっと、空観(くうがん)について、「これでもか!」と説諭してきたにも関わらず、いきなり、「般若の智慧は〜マントラ(真言)である」と述べているからです。

表面的な理解では、「般若の智慧は〜マントラ(真言)であるのだから、言葉それ自体にパワーがあり、それを唱えていればよいのだ」となりそうです。

実際にこのあと、有名な「ぎゃーてぃ、ぎゃーてぃ」が続きますしね。

そうすると、空観の理解すら不要になってしまいそうです。まさに、”ちゃぶ台返し”であります。

「それなら、最初からマントラ(真言)を教えてくれれば良かったのに…」と文句を言いたくなるかもしれません。

実際に、密教系の僧侶が書いた般若心経解説本では、「ほれ見たことか!」とばかり、「般若の智慧とは結局、マントラ(真言)のことなのだ」と説明されていたりします。

マントラとヴィディヤー

まあ、ここのところは結構むつかしいところでありまして、般若経典類編纂の歴史、ひいては仏教史そのものにも関わってくる問題でもあるのです。

まず、結論的に申し上げれば、「マントラ(真言)を唱えていれば、万事めでたし」ということではありません。

理解の鍵は3つめの”是大明呪”にあります。

現代語訳では、「大いなる明知の真言であり」としました。ここの”明知”と訳した部分ですね、これはサンスクリット語ではヴィディヤーといいまして、知識・学問という意味です。

もちろん、些末な知識・学問ではなく、「悟りに関する知」「悟りの知」という意味でしょう。

初期の般若経典で重視されたのは、マントラではなく、このヴィディヤーです。

そうすると、『般若心経』の大元になっている般若経の意図としては、

般若の智慧 is ヴィディヤー(悟りの知)

ということになります。少なくとも、初期の般若経ではそういうことだったのでしょう。

般若経典類は仏教史を反映している

般若経については、ひとつの経典ではなく、”般若経典類”というべく数多くの「般若系の経典」があります。数百年にわたって般若系の経典がどんどん作られていったのです。

それほど長い期間に経典が制作・編集されていったということは、どうしてもその時時の”仏教のトレンド”の影響を受けることになるのですね。

般若経典類というのは、仏教史そのものを反映しているとも言えるでしょう。

なので、『般若心経』が編纂されていた当時の仏教史はどのような状況であったか?ということを知る必要があります。

それは一言でいえば、「密教がブームになりつつあった」という状況でありました。

釈尊の仏教の以前には、インドでは”バラモン教”が主流であったのですが、仏教を始めとするさまざまな新宗教に次第に押されていったのでした。

そこでバラモン教では巻き返しを図って、インドの土着的な”ご利益パワー”を取り入れ、現在でも残っているところの”ヒンズー教”に変質していったのです。

そして今度は、仏教側がヒンズー教に押されるようになってきました。「仏教より、ヒンズー教のほうがご利益ありそうで、良いんでない?」という具合です。

そうすると、仏教のほうも「負けてられん!」ということで、ご利益・呪術的な要素を取り入れて密教化していった、という流れなのです。

そうした密教化の流れ、ですね。一種の妥協と言いますか、人気取りと言ったらアレですが、やはりここでも「密教的マーケティング志向」が『般若心経』に混入していった、という事情なのでした。

般若経以外でも、たとえば法華経などでも、「法華経を受持しているだけで功徳がある」という方向へ行きましたよね。

そういう事情で、『般若心経』においても、「般若心経のコトバそのものにパワーがあるんですよ!」とばかりに、

「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦」

と並べているわけです。

現代語訳では、「大いなる真言であり、大いなる明知の真言であり、この上ない真言であり、比べるものなき真言であり…」としましたが、要は、「すげー!すげー!」と言っているようなものです。

「すげー真言!」「ヤバイ真言!」です。

では実際のところはどうなのか?ネオ仏法的にはどう考えるのか?というところですが。

あまりにご利益的な部分に重点を置くのはやはり修行論としてはどうか?という一定の疑問はありますね。

しかし実際は、やはり真理のコトバというものには、それ相応の言霊と言いますか、法力があるのも事実です。

ただし、その法力は、経典の内容をどれだけ理解できているのか?に比例しているということに留意しておくべきでしょう。

空海『般若心経秘鍵』の解釈

じつはかの空海も般若心経の解釈本を執筆しています。角川ソフィア文庫から『空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ』(加藤精一 編集) という分かりやすい解説書も出ております。

空海「般若心経秘鍵」 ビギナーズ

天才的な体系家らしく、般若心経全文を仏教史の発展段階として整理しており、なかなか興味深いです。

もちろん、空海は日本真言宗の創始者ですので、「真言宗が最高!ベスト!」の結論になっているのは言うまでもありません。

今回の、「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」の部分はどう解釈しているか?と言いますと、

  • 是大神呪:声聞乗のマントラ
  • 是大明呪:縁覚乗のマントラ
  • 是無上呪:大乗諸教のマントラ
  • 是無等等呪:真言密教のマントラ

というふうに、呪(マントラ)の発展段階として捉えています。

「声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)」など段階論については下記の記事を参照してください。

*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論

真言密教が仏教史の頂点であるのかどうか?はさておき、『般若心経』そのものがたしかに仏教の教説をベスト盤的に網羅しておりますので、このように発展段階論的に味読するのも一興かと思いますね。

仏教とキリスト教を総合する可能性

真実不虚

読み:しんじつふこ

現代語訳:偽りではなく真実である。

”真実不虚”の主語は、前々項(故知般若波羅蜜多)で出てきた「般若波羅蜜多(智慧の完成)は」です。

現代語訳としては、「偽りではなく真実である」ということで、つまりは「般若波羅蜜多(智慧の完成)は真理である」と言っているわけですね。

深い意味が込められていると言うより、いわゆる”念押し”という箇所で、述語の末尾として、リズムと形式を整えています。

なので、あまり深入りする必要はなく、スルーしても良いのですが、せっかく「般若心経の悟りを超えて」と銘打っていますので、もっと深い意味を付与しておきましょう。

般若波羅蜜多(智慧の完成)は、いわゆる”空観(くうがん)”、「空なるモノの見方」であると縷々述べてきました。

そして、”空なる”ということは、一般的な解説としては、「あらゆる存在は実体性を欠く。ゆえに執着するに値しない」ということです。

”無い”ものに執着をする必要はありません。そもそも、「苦しみの根源は執着にある」というのが仏教の思考の中心点です。

ここのところは、四諦八正道、すなわち苦集滅道(くしゅうめつどう)のなかの”集”と”滅”ですね、

  • 集:苦しみの原因は執着にある
  • 滅:執着を滅すれば涅槃(=幸福論)にいたる

という流れと軌を一にしております。

幸福論に至るからこそ、前回の論考で採りあげた”能除一切苦”、すなわち、「すべての苦しみを取り除く」ことができるわけです。

”苦”の状態がなぜ現れてくるかと言うと、それは真実でないものを”有る”というふうに執われている。つまりは、人間が本来的なあり方から離れてしまっているからです。

そこで、空観という真理をふたたび取り戻して、本来性へと回帰する必要があるのです。

ネオ仏法では、エキュメニカルな思考を大事にしていますので、ここのところもエキュメニカルに捉え直しておきましょう。

*”エキュメニカル”とは、狭義には「教会一致」ということで、さまざまなキリスト教諸派を総合していこうとする思考・運動のことですが、ネオ仏法ではもっと幅広く、「さまざま宗教・哲学・思想を総合していく思考・運動」と捉えています。

「本来性」という言葉を使いましたので、対義語の「非本来性」とともに意味合いを確認してみましょう。

  • 非本来性:本来的なあり方から離れている
  • 本来性:本来的なありかたを取り戻す

仏教(大乗仏教)において肝要なことは上述のとおり、「空観を取り戻す」ことであり、それが本来性への回帰である、ということになります。

本来性へ回帰することによって、涅槃つまり幸福論を手にすることができるわけですね。

ここのところをキリスト教との整合性で考えていくと、”罪”あるいは”原罪”の状態から「義とされる」状態へ回帰するということに相当すると思われます。

キリスト教的な文脈で”罪”というのは、じつは「的外れ」というのが原義なのです。これは言い換えれば、”非本来性”ということですよね。

では、キリスト教において、”罪”の状態から”義”の状態への回帰、本来性への回帰はいかになされるのか?

これは、「信仰による」。あるいは、神の側から見れば「恩寵による」というのが答えになります。

少なくともプロテスタント的には、これが答えと行っても良いでしょう。

それでは「信仰とはなにか?」ということが次に問題になります。

結論から言えば、これは「神(神的実在)中心の世界観を手に入れる」ということなのだと思います。

私たちは信仰を持たない状態においては、自分中心、自我中心の世界観のなかにありますよね。

それは、地動説のように「自我を中心にまわりの世界が展開している」かのような価値観です。

それに対して、信仰とは結局のところ、「神を中心に自己や他者が展開している」という天動説的な価値観なのです。

よく、「回心する」という言い方をしますよね。「改心」ではなくて「回心」、コンバートです。つまり、観の展開がなされるということです。

自我中心の世界観から神中心の世界観へコンバート(回心)すること、これが「信仰を得る」ということであり、その過程そのもの、あるいは、その結果得られる幸福感が”恩寵”を得ている状態であるのです。

まとめてみましょう。

キリスト教の文脈においては、「信仰があるかないか」によって、

  • 非本来性:自我中心の世界観(罪の状態)
  • 本来性:神中心の世界観(義の状態)

これら2通りの状態がある。

これが仏教(大乗仏教)においては、「空観を手に入れるかどうか」によって、

  • 非本来性:自我中心の世界観(苦の状態)
  • 本来性:法中心の世界観(解脱の状態)

これら2通りの状態がある。

と、いうことになります。

そして、経典に曰く、

法を見るものは仏を見る

でありますので、仏教においては、

  • 非本来性:自我中心の世界観(苦の状態)
  • 本来性:仏中心の世界観(解脱の状態)

と言い換えることができます。

そうすると、「本来性への回帰」ということでは、

  • キリスト教的本来性:神中心の世界観(義の状態)
  • 仏教的本来性:仏中心の世界観(解脱の状態)

というふうに、ほんとんどニアリーイコールになります。

といいますのも、仏陀の本質部分を「久遠実成の仏陀」と言いますが、これはもうキリスト教(セム的一神教)における唯一神とほとんど同じなんですよね。

違いといえば、「世界創造を行うか、行わないか」くらいですが、これもネオ仏法的にいえば、「世界創造をあえて語っているか、あえて語っていないか」だけの違い、ということになります。

仏教とキリスト教というと、違いばかりが強調されるきらいがあり、そうした書物や論文はいくらでもあるでしょう。

しかしこれは、あくまで「人間の側から見た」違いに過ぎないのです。

仏(神)の側から、あるいは、菩薩(天使)の側から見れば同じ風景が「観えている」のです。

地上に教え(法)を下ろすときに、時代性や地域性、民族性などを考慮して「下ろし方」「見せ方」を変えているに過ぎないのです。

「天使博士」と言われたトマス・アクィナスによると、「神あるいは天使の知性」と「人間の知性の違い」は、「全体を一度で把握できるか」、「部分のみを把握しているか」、の違いです。

人間は真理全体の一部のみを知性認識して、せいぜいが「部分と部分」を理性的推論(純粋理性)によってつなぎ合わせ、「より全体に近い認識」を得ていく過程にあるわけですね。

それに対して、仏(神)は知性そのものであり、菩薩(天使)は知性全体をいちどきに把握することができます。これが大きな違いです。哲学的には、全体への”純粋直観”と言っても良いでしょう。

たとえれば、シャルトル大聖堂そのものが仏(神)であり、シャルトル大聖堂の全景をいちどきに認識できるのが菩薩(天使)であり、シャルトル大聖堂の部分(尖塔のみ、扉のみ、など)を認識しているのが人間なのです。

「尖塔のみ」とか「扉のみ」しか見えていないので、「仏教とキリスト教は違う」といった意見がたくさん出てくるのですね。

これももちろん、「部分的には」真理であるのですが、全体として把握できる菩薩(天使)から観れば、「同じシャルトル大聖堂をどの角度から見ているか」の違いに過ぎない、ということです。

”真実不虚”から、派生してずいぶん遠くへ来てしまったようですが、今回はエキュメニカルな立場、ネオ仏法的な立場から論じてみました。

言語観においても中道を行く

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経

読み:こせつはんにゃはらみたしゅ そくせつしゅわっ ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじーそわか はんにゃしんぎょう

現代語訳:それゆえに、般若波羅蜜多のマントラを説こう。すなわち曰く、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸にまったく往ける者よ、幸あれ)」

「故説般若波羅蜜多呪」は前々項、前項の「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」を受けて、「それでは、その般若波羅蜜のマントラを説きましょうか」と続けているわけです。

さて、有名な「ぎゃーてー」の真言が出てきましたね。

まずは、意味的に解きほぐしてみましょう。

サンスクリット原語をカタカナで表記すると下記の意味となります。

  • ガテー:行った
  • パーラ:向こう岸に
  • サン(サム):完全に、全く
  • ボーディ:悟り
  • スヴァーハー:幸あれ

これらを組み合わせると、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸にまったく往ける者よ、幸あれ」という日本語訳が可能になります。これは故中村元教授の訳を使わせて頂きました。

読誦するときは、読み下し文の「ぎゃーてー」でもいいですが、より本場の雰囲気を味わいたいという人は「ガテー」から始めて読むのもなかなか本格的な味わいがあるでしょう。

あるいは、日本語訳を思い浮かべながら読み上げるのもひとつです。

さて、真言であるということは、「ぎゃーてー〜」には明らかに日常言語を超えたパワーがあると前提されていることになります。

このことは、「シニフィアンとシニフィエ」のところで述べた解説と一見、矛盾するようです。

実際、仏教史ではほとんどの期間、このシニフィアンとシニフィエというソシュール的立場に立ってきたと言ってもいいでしょう。

それに実は、仏教にはソシュールに先立つこと数百年以上前にそうした洞察に到達していたのです。

  • 能詮(のうせん):記号表記(アビダーナ)
  • 所詮(しょせん):意味されるもの(アビデーヤ)

という言語学的分析がすでにあったものです。

「所詮」は日常語になっていますよね、こんなところに仏教用語が潜んでいたとは。

で、これはソシュールとまったく同じことを言っていますよね。

  • 能詮:シニフィアン
  • 所詮:シニフィエ

という対応関係にあります。

また、古くは仏陀の「指月の譬え」というのものがあります。これは、「仏陀は月を指し示すが月を見せることはできない。月を見るのは修行者自身である」という意味です。

つまり、仏陀はぎりぎりまで言語化してくれるが、結局、悟りそのものは自ら体得しなければならないものであり、言語では表現し尽くすことはできないのだ、ということを言いたいのですね。

悟りは言語では語り尽くすことはできないという意味で、禅宗では「不立文字」という言葉もあるくらいです。

このように考えると、原始仏教の時代からその後の仏教史のほとんどの期間では、仏教としてはシニフィアン- シニフィエ的に悟りを捉えていたと言っても良いでしょう。

ただ、そうはいっても、経緯についてはすでに述べましたが、インド民衆の需要により、仏教でも次第に呪術的な言語の使用、つまり、言葉の実体視へと重心がシフトしてきたのです。

これは密教の興隆と機を一にしています。

では結局、仏教としては、

  • シニフィアン – シニフィエ
  • 真言(言霊)思想

このどちらに立場に立つのか、ということになりますが。

結論的には、両者の中道を行く、ということで良いと思います。

「呪術は釈尊が否定したのでは?」という意見もあるかもしれませんが、実はそうでもないのです。

釈尊自身も疫病を鎮めるために呪文を唱えたり、あるいは弟子に呪文を教えたことがあります(アングリマーラの例など)。

これは正語のなかの真実語の延長として理解できるでしょう。

また実際にこうした真実語は後代になってから、「防護呪(パリッタ)」と言いまして、一群の呪術的経典の中に組み込まれていったという経緯があります。

テーラヴァーダ仏教(上座部仏教)は現在では、欧米やあるいは逆輸入(?)されるかたちで日本などでも「心理学・科学などとも両立する整然とした教えの体系」というふうに受け止められていますが、実はここのところもそんなに話は簡単ではないのですね。

現在では、スリランカやタイ、ミャンマーなどの上座部仏教国で僧侶たちが日頃唱えているお経の8割までが実はこのパリッタであると言われています。

また、日本などと同様に地鎮祭などでも僧侶に来てもらい、このパリッタを唱えてもらっているようです。

そういうわけで、『般若心経』においては、おもに本文で「空観の智慧」を説きつつ、末尾の「陀羅尼(真言)の慈悲」を併置している、と理解してもいいでしょう。

ひとつの経文で自力・他力の双方を味わうことができるというのも『般若心経』のお得感と言いますか、懐の広さとも言えるでしょう。

自身の心境によって重点を使い分けてもいいでしょうし、あるいは、「一切皆空!」というふうに空観を畳みかけて、末文の真言で止めを刺す、みたいな(笑)。

あるいは真言を一種の”誓願”として理解するのもひとつでしょう。

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