無住処涅槃とは何か? – 菩薩は究極の自由を得ている

無住処涅槃 意味

仏教とりわけ仏教の深層心理学ともいえる唯識派では、涅槃にも4種類あるとしています(四種涅槃)。

そのなかの一つが、菩薩が目指すべき涅槃である「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」です。

今回の記事では、無住処涅槃を手がかりにしながら、「菩薩は最終的にどういった境地を目指しているのか?」を明らかにしていきたいと思います。

目次

涅槃とは何か?

まず、涅槃(ねはん)とはそのそも何か、を探っていきましょう。

涅槃を原語から探ってみる

「涅槃」はサンスクリット原語では”ニルヴァーナ”でありますが、パーリ語寄りの”ニッパーナ”の音写が「涅槃」なのです。

ニルヴァーナ(ニッパーナ)はもともと「吹き消すこと」を意味しています。何を吹き消すかと言いますと、仏教の文脈では「煩悩の火を吹き消すこと」です。

「煩悩の火を吹き消して現れる清々しい境地」。これが涅槃そのものであり、かつ悟りが目指すところでもあります。

ちなみに、「解脱」も涅槃と同じような意味で使われておりまして、それで間違いではないのですが、解脱が「執着を断ち切る」というダイナミクスに重点を置いているのに対して、涅槃は「執着を絶った結果、現れてくる境地」という心的ステイタスに重点を置いてると言ってもよいかと思います。

ブラーフマニズムから釈迦仏教へと流れる涅槃観

インドでは釈迦仏教以前から「生死輪廻の軛(くびき)からいかに逃れるか?」がテーマであったと言っても過言ではありません。

死ぬことが怖いだけではなく、「生まれること」をそもそもおそれたのです。

なぜかというと、生まれることは死の始まりでもあるからです。「天人五衰(てんにんごすい)」という言葉もありますよね。

釈迦仏教の有名な四苦は「生老病死」ですが、そのうちの「生」は「生きる苦しみ」ではなくて「生まれる苦しみ」を言っています。

したがって、釈迦仏教においても、(少なくとも建前としては)、「生死輪廻の苦しみからの脱却」が主要なテーマであったと言っても良いでしょうし、インドのブラーフマニズムが目指していたものもそうした解脱、そして解脱の結果としての涅槃の境地であったわけです。

唯識における涅槃とは

とまれ、涅槃というのは現代的に言えば広く「幸福論」と言ってもいいですが、それは浅薄な幸福論ではなく、個を深掘りして普遍にたどり着くと言った、最終的には世界の構造論への洞察も含まれるものだと思います。

その世界の構造論への洞察は、唯識においては「真実性」とか「円成実性(えんじょうじつしょう)」と呼ばれるものです。

世界の真相は(私たちがふだん認識しているように)個物がバラバラにあるのではない。

そうではなくて、存在とはすべて縁起によって成り立っているということ、そしてその無限に張り巡らされた縁起の総体が一如であり、空である、そうしたものの見方ですね。

そうした真実性から、事物の繋がりを観察する依他性へと入ることによって、「全体でありながら、かつ、(全体の内部で)さまざまな個物がそれぞれに花を咲かせているという分別性へと至る。

真実性→依他性→分別性

という観察です。これが三性説(さんしょうせつ)です。

逆に言えば、凡夫である私たちは、まず「私と私以外」というふうに、自分や事物をバラバラに分離したものと見ている(分別性)。

そうした分離したワタシからさまざまな個物(他者、モノ)へ関わろうとする(依他性)から執着が生まれ、そこに”苦”の状態が現出する。

分別性→依他性

という観察の順番です。これが凡夫の観察の順序。

このものの見方が誤謬であると気づき、真実のものの見方を獲得しようとする旅、そうした自己のありようが、まさに「菩薩」であるということなのです。

さらに、菩薩が真実性的な観察を心の底の底からできるようになったとき、心の構造もまた4つの智慧に変換されるというのが唯識の主張するところです。

唯識では心の構造を八識で捉えます。

五感である眼識・耳識・鼻識・舌識・身識。これは前五識と呼ばれます。

それから、それらの統覚作用でありさまざまな思考をする意識。これが第六識です。

そして、「自分に執着する心」であるマナ識(末那識)、ここからが深層意識です。これが第七識。

さらにその奥に「命に執着する心」であるアーラヤ識(阿頼耶識)があるとされます。これが第八識。

とりわけ、マナ識の「自分に執着する心」ががっしりと根を張っているから、表層である意識もワガママなものの見方をしてしまう。そしてさまざまな煩悩に振り回されれしまうわけですね。

そうすると、そうした迷いの思い・行為がカルマとなり、種子(しゅうじ)となって、アーラヤ識に蓄えられてゆく。そしていつかまたその種子が表面にのそっと花開いてしまう(苦)。

こうした悪循環があるので、この循環を良い循環に変えることが肝要であると唯識は説きます。

すなわち、ワタシも事物も無我であり空であり一如であると知り、それを六波羅蜜、とりわけ禅定波羅蜜によって、徹底的に文字通り心の底の底まで納得させる。アーラヤ識に良き種子を撒き続けていくわけですね。

あるいは、アーラヤ識を悟りの香りでまぶしていく、これを「薫習(くんじゅう)」と言いますが、できるだけ多くの真理を聞き(多聞薫習(たもんくんじゅう))、アーラヤ識の浄化をなしていく。

これを続けることによって、アーラヤ識の悪しき種子を善き種子に総入れ替えする。それには無限とも思われる時間がかかると言われていますが…。

でもこれが完成した時に、「迷いの八識」は「悟りの四智」へと転換する、とされています。これを「転識得智(てんじきとくち)」と言います。

まとめると、

  • 前五識→成所作智(じょうしょさち)
  • 意識→妙観察智(みょうかんざっち)
  • マナ識→平等正智(びょうどうしょうち)
  • アーラヤ識→大円鏡智(だいえんきょうち)

となります。

こうした四智への転換の完成が唯識的に再解釈された”涅槃”と言って良いでしょう。

唯識思想については、下記にまとめていますので、参考になさってください。

*参考記事:唯識とは何か?ー 簡単に分かりやすく解説バージョン

「無住処涅槃」とはまさにこうした唯識思想のなかで主張された涅槃なのです。

四種涅槃(ししゅねはん)

唯識では涅槃に4種ありとします。

  1. 本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)
  2. 無住処涅槃(むじゅうしょねはん)
  3. 有余涅槃(うよねはん)
  4. 無余涅槃(むよねはん)

そして、このうち菩薩の涅槃はどれか、について『摂大乗論世親釈』ではズバリと言い切っています。格調高いので漢文読み下しで引用します。

諸々の菩薩の惑滅(わくめつ)は即ち是れ無住処涅槃なり。

「惑滅」はここでは煩悩を滅することを指します。それはつまり”涅槃”と同義語ですが、このあと「即ち是れ無住処涅槃なり」と言い切るために(調子を調えるために)、あえて涅槃という言葉を使わず「惑滅」としているのですね。

それはともかく、ここでハッキリと「菩薩にとっての涅槃は無住処涅槃である」と言い切っているわけです。

結論から先に言ってしまいましたが、4つの涅槃について順に見ていきましょう。

本来清浄涅槃

「本来清浄涅槃」とは涅槃の究極のありようであり、また同時に根本宇宙の真相でもあります。

ここで言う「清浄」は<汚れ – 清浄>の二項対立を超えた清浄、いわば「絶対清浄」とでも言うべきものです。

世界の真相は空であり一如であり、そのうちに無限の縁起が張り巡らされて、その縁起の糸の結び目にかろうじてさまざまな個物がそれぞれ存在しているのです。

これは三性説における「真実性」とまったく同じことを言っていますね。

つまり、本来清浄涅槃とは、菩薩が修行の果てに最終的に悟入することができる涅槃、如来・仏の立場としての涅槃であると言っても良いでしょう。

有余涅槃

順序が前後しますが、「有余涅槃」について解説をします。これは「有余依涅槃(うよえねはん)」とも言います。

「余」とは何が余るかとうと、これは「肉体」のことを指しています。

すなわち、「まだ肉体が残っている状態での涅槃」という意味です。

ブラーフマニズムから釈迦仏教へ至るまで、修行者たちは生死輪廻を厭い、そこからの脱却を目指していたと上述いたしました。

狙うべきは、繰り返しになりますが、「生死輪廻の軛(くびき)から自由になること」、これに尽きるのです。そのための悟りであり解脱であったのです。

ですので、言うまでもないことですが、この有余涅槃の根底にある思想は、「生死輪廻は厭うべきものである」という思想です。

有余涅槃では、涅槃は達成したものの、まだ肉体が残っている状態ですので、まだ完全な涅槃の一歩手前といったところでしょう。

無余涅槃

それに対し「無余涅槃」では、肉体を完全に失った、つまり肉体の死を迎えた涅槃のことを指します。

生前にすでに涅槃の境地を達成しておりますので、無余涅槃はその完成形となるのです。

有余涅槃と無余涅槃(とりわけ無余涅槃)が小乗仏教のひとたち、あるいは声聞・縁覚の二乗が目指すべき涅槃であるとされていました。

ここにおいて、「生死輪廻からの解脱」という最終目標が達成されているからです。

無住処涅槃

上述した二乗(声聞・縁覚)の涅槃観へのカウンターパンチとして想定されたのがまさに「無住処涅槃」です。これは菩薩が目指すべき涅槃で、とりわけ唯識学派で称揚された涅槃です。

「無住処」となっていますが、「住」とは「執着する、あるいは住する」という意味です。

そうすると、「無住処涅槃」は「涅槃にも執着せず住しない涅槃」ということになりますね。なんだか涅槃でありながら涅槃でないようなニュアンスです。

でもここに大乗仏教の真骨頂があるのです。

大乗仏教の理想は自利利他円満にあるのでしたね。

なのに、「衆生を放っておいて自分だけ涅槃に入ってしまうのはいかがなものか?自分は涅槃に住せず、生死の世界に戻って衆生を救うのだ」といったふうに、菩薩の心意気が込められた涅槃が「無住処涅槃」なのです。

無住処涅槃とは何か?

それでは、「無住処涅槃」についてもっと噛み砕いて見ていきましょう。

『摂大乗論釈』(世親著)に下記の言葉があります。

菩薩は生死輪廻の異なることを見ず。般若によりて生死に住せず、慈悲によりて涅槃に住せず。

菩薩の要件、もしくは菩薩の目指す智慧とは「無分別智」なのでした。

無分別智とは、一切の存在が本来ひとつである(一如)というものの見方です。「我あり、彼あり」という「分ける」考え方を採らない。

これはさきの三性説のなかの「真実性」とまったく同じことですね。

それゆえに、無分別智は空観でもあり、「般若の智慧」でもあります。

ちなみに、世界は一如であるが、一応、その内部には縁起によって個別的な存在が仮に現れている、というより突っ込んだものの見方は、「般若後得智(はんにゃごとくち)」とも呼ばれます。

これは、

真実性(無分別智)→依他性(縁起)→分別性(般若後得智)

というふうに整理できます。

とまれ、菩薩は分別知を離れ、無分別智に依っているがゆえに、涅槃と生死輪廻を「分けて」観ないのです。

これが前半の、「菩薩は生死輪廻の異なることを見ず」の意味です。

さて、小乗仏教の二乗(声聞、縁覚)においては、「生死を厭い、輪廻転生からの解脱」を願うのでした。そして、涅槃に入ってしまえば、もう二度と、輪廻はしないという思いでいるわけです。

一方、大乗の菩薩であっても、解脱を達成すれば、その智慧のちからによって、生死輪廻の世界にとどまる必要はないのです。

これが「般若によりて生死に住せず」の意味です。

「住」とは文字通り「住む」ということと「執着しない」ということを指します。

ただ大乗の菩薩は、迷える衆生救済の思いが止まず、生死輪廻から外れた涅槃に留まることをよしとしません。衆生救済のためにあえて無余涅槃の権利を放棄して、再び生死の世界に戻ってくる。

これが、「慈悲によりて涅槃に住せず」の意味です。

それゆえに、『摂大乗論釈』は以下のように続けます。

もし生死を分別すればすなわち生死に住し、もし涅槃を分別すればすなわち涅槃に住す。

ここまで来ればもうお分かりですね。

繰り返しになりますが、菩薩は無分別智を得ているがゆえに生死輪廻と涅槃を別物とは観ない、ということです。

別の言葉で言えば、涅槃を得つつ生死の世界を自由に行き来できるということです。「住せず」執着を離れているから、自由でいられるのです。

『般若心経』の以下の一節を思い出します。

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙

菩薩は般若の智慧(無分別智)に依るがゆえに、心に引っかかりが無い、究極の自由を得ていると言うわけです。格好いいですよね。

心無罣礙

この世の成功はすべて過ぎ去っていきます。

どんなに財産を得ても、美貌を得ても、地位や名誉を得ても、死を契機としてそれらは無常の風に吹き飛ばされてしまいます。

その「無常の風」に打ち勝つことができるのは、心の勝利だけなのです。

なぜなら、心、魂は肉体の死後も続いていくからです。

だから、生死を超越した菩薩であること、そして菩薩の涅槃である「無住処涅槃」こそが真実の、唯一の人生の勝利であるとも言えます。

もう一度、『摂大乗論釈』の言葉を味わってみましょう。

諸々の菩薩の惑滅(わくめつ)は即ち是れ無住処涅槃なり。

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