六波羅蜜の実践 – 布施〜般若のダイナミクスで仏国土は成就する

六波羅蜜 実践

六波羅蜜(ろくはらみつ)は六波羅蜜多(ろくはらみた)、六度(ろくど)とも言いまして、仏陀になることを目指している菩薩の主要な修行課題とされています。

この世の成功はすべて過ぎ去っていきます。来世まで持ち越せるのは心だけですので、「心の成功」こそが唯一の色褪せない永遠の成功です。

そして、その永遠の成功であるメルクマールが「菩薩であること」であるのです。この世で菩薩であるような人は来世でも菩薩であるからです。

そういう意味で、菩薩の修行徳目・修行課題である六波羅蜜はつねに人生の指針としていきたいものです。

今回の論考では六波羅蜜を実践的側面から解説し、かつ現代的な新展開を提示してみたいと思います。

目次

六波羅蜜とは何か

まずは、六波羅蜜の標準的な定義から始めてみたいと思います。

「波羅蜜」とはサンスクリット語のパーラミターの音写で「完成」を意味しています。何の完成かというと「修行の完成」です。

波羅蜜は仏陀になるために菩薩が修める修行徳目ですので、修行の「完成」が求められているのですね。

六波羅蜜は下記の6つの修行徳目から成り立っています。

  1. 布施波羅蜜(檀那波羅蜜)
  2. 持戒波羅蜜
  3. 忍辱波羅蜜(羼提波羅蜜)
  4. 精進波羅蜜
  5. 禅定波羅蜜
  6. 般若波羅蜜(智慧波羅蜜)

それぞれ、順番に見ていきましょう。

布施波羅蜜(ふせはらみつ)/ 檀那波羅蜜(だんなはらみつ)

布施というと、現代人はすぐに金銭的な「お布施」をイメージするかと思います。それも完全に間違えではないのですが、本来の仏教用語としての”布施”はもっと広い意味を持っています。

布施は現代的に言えば、「愛を与えること」を指すと考えてよいでしょう。この場合の”愛”は仏教の文脈でいう「苦しみの元になる愛着」のことではなく、キリスト教的な隣人愛に近い”愛”です。

あえて仏教的に言い換えると、「慈悲の実践行」と考えてよいでしょう。

布施は伝統的に大きくは3種類挙げることができます。3種類ありますので、三施(さんせ)とも呼ばれます。

  1. 財施(ざいせ):金品を与えること
  2. 無畏施(むいせ):相手の恐怖心を取り除いてあげること
  3. 法施(ほうせ):仏法を伝えること

また、2番目の「無畏施」に含めることもありますが、与えるものがなくても誰にでもできる布施行として「無財の七施」という布施もあります。下記の7つです。

  1. 眼施(げんせ):優しいまなざし
  2. 和顔施(わげんせ):穏やかな顔
  3. 言辞施(ごんじせ):優しい言葉
  4. 身施(しんせ):身体を使っての手伝い
  5. 心施(しんせ):思いやりの心
  6. 床座施(しょうざせ):座席を譲る
  7. 房舎施(ぼうしゃせ):休息する部屋を与える

布施には無執着であることが要請されています。見返りを求めたらもうそれは布施になり得ないのです。

与える側と与える物と与えられる側、この三者ともに清らかであることが必要です。これを三輪清浄(さんりんしょうじょう)もしくは三輪空寂(さんりんくうじゃく)と言います。

三輪空寂については別記事でも解説したことがありますので、ご参照ください。

*参考記事:三輪空寂(三輪清浄/三輪体空)の意味とは?仏教的布施の真髄

いずれにしても、繰り返しますが、「見返りを求めずに与える」というのが布施波羅蜜の最重要ポイントです。

そういう意味でも、布施はキリスト教的な愛であるアガペーに近い概念だと思います。見返りを求めない愛、無償の愛です。

六波羅蜜の出発点が愛にある、というのはなかなか感慨深いものがあります。

一般的には仏教は悟りを求める「智慧の宗教」と考えられていますので、愛(慈悲)を出発ポイントに置くというのはまさに大乗仏教の精神ここにあり、と宣言されているかのようです。

持戒波羅蜜(じかいはらみつ)

持戒波羅蜜とは読んで字の如く、「戒律を持つこと」もっと言えば、「戒律を保つこと」を指します。

「仏教の修行とは何か?」と問われたら、「戒・定・慧(かい・じょう・え)の三学です」と即答できなければなりません。

  1. 戒:戒めを保ち(仏法に沿った行為を為し)
  2. 定:禅定によって内省を深め
  3. 慧:智慧を得る

という順序です。

三学のはじめに位置するくらい戒(あるいは戒律)は仏教において重視されています。

戒で有名なものはまず「五戒」があります。

  1. 不殺生:殺してはならない
  2. 不偸盗:盗んではならない
  3. 不邪淫:不倫をしてはならない
  4. 不妄語:嘘をついてはならない
  5. 不飲酒:酒を飲んではならない

この5つですね。これは本来は在家向けの戒です。

5番目の不飲酒がちょっと不思議な気もしまして、仏教が北方へ伝播するにつれて重視されなくなってきます。酒を「般若湯」などと言い換えて、僧侶でも堂々と飲んでいたりします。

これはつまり、当時のインドのお酒の質が悪く、飲むと生活がぶち壊しになるおそれがあったから制定されたという経緯があります。

なので、現代的に言えば、「麻薬や賭博など身をもち崩すものに手を出さない」という解釈でよろしいかと思います。

戒は他にも戒を守る主体によってさまざまな種類がありますが、ここでは割愛します。

それから、戒には「これをしてはならない」という止持戒(しじかい)と、「積極的に善を為していこう」という自主的な作持戒(さじかい)の二種類があります。

上述した五戒の内容はある意味、常識的なものですので、自ら「これこれこうした善を為していこう!」という作持戒を決めるといいですね。これは現代的に、無限の応用の余地があると思います。

戒の現代的運用については別記事で詳述していますので参考になさってください。

参考記事:五戒、十善戒(五戒十善)とは? – 仏教の戒律を現代生活に応用するコツ

忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)/羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)

忍辱とは「耐え忍ぶこと」を指します。

法施などを行なっていると、「化学万能の時代に仏教なんて!」などと嘲笑われることもあるでしょう。それでなくとも、現世は生きているだけでもなかなか大変で文字通り「我慢ならない」ことも多いのが常です。

そこで、「耐え忍びの完成」が要請されてくるのです。

ただ、「耐え忍ぶこと」は単に我慢することとは違います。

我慢しているということは毒を受けてしまっているということですよね。

そうではなくて、毒がやってきても、その毒をさらりと受け流すことが肝要です。

さらに言えば、その毒からさえも学びを得てしまう、という方向を採ることができればベストだと言えるでしょう。

ストア哲学などで言われるように、「あなたの価値はあなたの思っている内容そのもの」であるのです。

そうであるならば、嘲りを受けてもそれ自体はあなたの価値とは何の関係もありません。

むしろ、嘲りからさえも学びを得ることができれば、あなたの価値は「嘲りからも学びを得ることができる人」ということになります。

忍辱のコツは、自分に対しても他人に対しても「時間を与えること」にあると思います。

自分が今すぐできることが相手もすぐできるとは限りません。逆も真なりです。しかし、悠久の時間の流れから見れば、自分も他者もいずれは進化していくようになっているのですね。

すべては過程に過ぎない。そう思うと自も他も許せるようになってきます。これが耐え忍びのコツです。

精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)

仏教の宗派には他力系のものもありますが、仏陀・釈尊がもともと説いていたのは「自らが自らを救う(悟る)」教えであることは間違いはないでしょう。

もっとも、当サイトは他力系を否定するものではありません。

そうではなく、自力も他力も「絶対力」というパワーのもとに総合されうると考えています。

*参考記事:聖道門と浄土門の意味と違い – 自力と他力を総合する絶対力とは?

ただそうはいっても、日々の修行の基本姿勢としては「自らなすべきことをなす」が基本だと思うのです。

仏教の教えの要諦を短い偈にまとめている「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」は下記のように説きます。

  • 諸悪莫作(しょあくまくさ) :もろもろの悪を作すこと莫(な)く
  • 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) :もろもろの善を行い
  • 自浄其意(じじょうごい) :自ら其の意(こころ)を浄くす
  • 是諸仏教(ぜしょぶっきょう) : 是がもろもろの仏の教えなり

この偈文でわかるように、日々、「悪をなさず、善を行う」そして「自らの心を清める」というのはまさしく自力であり、精進であります。

霊的に言えば、むしろ、「自ら為せることを為している人にこそ他力の力が及ぶ」という法則も働いています。

また、菩薩の誓いである「四弘誓願(しぐぜいがん)」では、以下のように説かれています。

  • 衆生無辺誓願度 (しゅじょう むへん せいがんど) :生命(いのち)あるものは限りなけれども、誓って導かんことを願う
  • 煩悩無尽誓願断 (ぼんのう むじん せいがんだん):悩みは尽きることはなけれども、誓って断ち切らんことを願う
  • 法門無量誓願学 (ほうもん むりょう せいがんがく):教えの数は計りなけれども、誓って学び知ることを願う
  • 仏道無上誓願成 (ぶつどう むじょう せいがんじょう):さとりの道は遥かなれども、誓って成し遂げんことを願う

この4つの誓願もすべて「精進の誓い」となっていますよね。

禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)

先ほど三学のところで、戒・定・慧の3つをご紹介しましたが、その2つ目の”定”が禅定波羅蜜にあたります。

定の次に慧が来るように、六波羅蜜においても禅定波羅蜜の次に般若波羅蜜(智慧波羅蜜)が位置しています。それほどまでに「定に入る」ことは重要なのステップなのですね。

禅定にはさまざまな種類がありますが、私は小乗仏教(上座仏教)における「八正道」を組み込んでしまえばいい、と考えています。

そうすれば、六波羅蜜と八正道は「あれか、これか」ではなく、一仏乗として一体のものとして実践することができますよね。

*参考記事:六波羅蜜と八正道の違いと共通点 – 一仏乗として同体に把握すれば良い

ここにおいて、小乗と大乗は順接なものとして理解することが可能になってきます。

世界的ベストセラー『7つの習慣』においては、7つの習慣のうち前半の3つを「私的幸福」とし、残りの4つを「公的幸福」に分類されています。

7つの習慣

これは、私的幸福があってこその公的幸福である、ということで、仏教に置き換えるとすれば、小乗(私的幸福)あってこその大乗(公的幸福)である、と言い換えることもできると思うのです。

イエス・キリストが聖書で語っているように、

盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう(マタイによる福音書15章14節)

であるのです。

般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)/智慧波羅蜜(ちえはらみつ)

さて、いよいよラストの般若波羅蜜です。別名、智慧波羅蜜。

伝統的な仏教教学では、

  • 5つの波羅蜜の結果として般若波羅蜜が現出してくる
  • 般若波羅蜜をベースとして残りの5つの波羅蜜は成立する

といったふうに2通り論じられているようです。

ここの理解の仕方については後ほど解説をしていきたいと思います。

般若波羅蜜(智慧波羅蜜)が言うところの「般若」「智慧」とは何か?

これは日常的に使われる”知恵”とも、あるいは分析的・学問的な知とも違っています。

修行をベースにした直感知、真の意味での悟性に裏打ちされた智慧であるのです。

有名な「般若心経」において、般若の智慧が説かれています。

そこでは、「色即是空 空即是色」といった、一見、二項対立的な概念をを総合して把握していきます。これは分析知だけでは理解不能な領分です。

二元性一元論と言っても良いかと思いますが、一見、対立的に立ち現れてくるものを、より上位の概念で統合していくのです。

こうしたいわば「統合知」とでもいった智慧が般若の智慧なのです。

あえて言葉でご説明すればこの通りなのですが、般若の智慧を理解するためには修行を通して実感的に体得する必要があります。

無限ループの六波羅蜜は「発展繁栄」を肯定する思想へアップデートされる

ここの項目が新時代の六波羅蜜になっていきます。まさに「ネオ仏法」です。ネオ仏法の使命そのものです。

既述したように従来の六波羅蜜は、

  • 5つの波羅蜜の結果として般若波羅蜜が現出してくる
  • 般若波羅蜜をベースとして残りの5つの波羅蜜は成立する

といったふうに2通りの論じられ方があります。

このどちらにも共通しているのが、六波羅蜜の流れを静的(スタティック)なものとして捉えているということです。

布施波羅蜜から始まって、残りの4つの波羅蜜の実践があり、そしてラストに般若波羅蜜の悟りを得て、めでたしめでたし、と言ったふうな。

私は六波羅蜜を単なる”6つの修行課題”といったスタティックな項目とは考えません。

つまり、

布施波羅蜜→残り4つ波羅蜜→般若波羅→布施波羅蜜→残り4つ波羅蜜→般若波羅→布施波羅蜜……

といったふうに6つの波羅蜜を無限ループで自己展開させていくのです。

般若波羅蜜で得た新たな知見をベースにまた布施波羅蜜へ戻っていくのです。そのことによって、布施波羅蜜はより高度な波羅蜜として機能していくようになります。布施のアップグレードです。

波羅蜜=完成も動的に、ダイナミックに把握していくのです。

このように、6つの波羅蜜をスパイラル状に実践していく時、そこに無限の発展があります。

六波羅蜜

私は新時代の仏法ひいては真理というものは、現世における発展繁栄をも肯定するものでなければならないと思っています。

もちろん、自我的な欲望に基づいた発展では困るのですが、そうではなく、いわば「無我なる発展」です。

そして無我なる発展の彼方に見えてくるものこそ、「仏国土の成就」であるのです。

いや、彼方に見えるというよりも、無限ループ六波羅蜜実践の最中にすでに仏国度は解像度を徐々に上げているのです。

「仏国土」というものも、「これで完成、お終い」といったふうなスタティックなものではなく、無限な拡大プロセスにあるダイナミクス的仏国土があり得るのです。

布施は慈悲、般若は智慧、と言い換えることもできます。

慈悲と智慧は個人の修行課題であると同時に宇宙を動かしているところの二大原理でもあります。

じつは仏教の根幹である”縁起”も慈悲と智慧に集約されていきます。

参考記事:縁起の法とは何か – ダルマを「存在と時間」に分けて解釈してみる

このように考えると、慈悲と智慧の自己展開により仏国土が拡大していく原動力が新時代の無限ループ六波羅蜜であると言えると思います。

この発展繁栄は来世だけではなく現世においても現出してくるでしょう。

まさに、

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ(「主の祈り」)

であるのです。

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