唯識(ゆいしき)は中観派の「空の思想」と並んで、大乗仏教教学の二大潮流のひとつです。
と言っても、中観派と対立するものではなく、むしろ、「空の思想」を新たに再解釈したものなのですけどね。
ともあれ、「唯識三年、倶舎八年」と言われるほど、理解がむずかしいと言われています。
*「倶舎(くしゃ)」は唯識を学ぶための補助教材だと思ってください。
実際、唯識について解説されている本を読んでも、それが入門書と謳っているものでさえ、専門用語がずらずらと出てきて、途端に分からなくなってしまうという塩梅でしょう。
そこで、今回は、なるべく専門用語を最小限に絞って、「唯識の全体像を理解する」を目標に解説していきたいと思います。
なお、この記事は岡野守也著『わかる唯識』に依っていることをあらかじめお断りしておきます。
当サイト(ネオ仏法)では珍しい「まとめ記事」で、とくにオリジナリティを出しておりませんが、この解釈のままで「今世紀以降通用する理論になっている」と判断しましたので、そのまま出しております。
なぜ、唯識か
唯識は、唯(ただ)、識(しき)と書きます。存在するものは、ただ心のみ、という意味です。
ところで、私たちは(今、検索してこの記事を読んでいるような人は)、仏教の教学をさまざまに学び、「なるほどなー、分かった!」と納得することがあるでしょう。
ところが、ちょっと時間が経つと、また煩悩がむくむくと頭をもたげてきて、「全然、悟ってない。分かったはずなのに、なぜだ…?」とがっくりしたりしませんか?
表面意識しか存在しないのであれば、このようなことは起きませんよね。文字通り、分かれば「分かった」状態が現出、維持できるはずです。
そうはならないということは、表面意識以外の世界、すなわち、意識下に潜在意識と言ってもいいですし、深層意識の世界が想定されることを物語っています。
そうした深層意識の世界を「マナ識(末那識)」、「アーラヤ識(阿頼耶識)」と唯識は名付けました。
おおまかにいえば、マナ識は「自分に執着する心」であり、アーラヤ識は「いのちに執着する心」です。
とりわけ、アーラヤ識、これは本来、「蔵」という意味ですが、ここに悠久のむかしから輪廻し、積み重ねてきたカルマが種子(しゅじ、しゅうじ)として保存されているとされています。
そしてこの種子(この場合は悪いカルマ)がある時にまたむくむくと表面意識に顔を出して、花を咲かせる(=煩悩を生じる)と、それがまた種子になってアーラヤ識に蓄えられてゆく…このような煩悩の循環がある。そんなふうに唯識は喝破しているわけですね、簡略化して言えば。
なので、教学を勉強したからと言って、すぐに煩悩がなくならないのは、ここに原因があるからなのです。アーラヤ識とマナ識の働きがある。広大な深層意識の空間です。
そうすると、煩悩をなくして清々しい心、仏の心を手に入れるためには、とりわけアーラヤ識に蓄えられている悪い種子を一掃して、良い種子に入れ替える修行が必要になる、いわば在庫の総取り替えが必要となるわけです。
だから、悟るのに時間がかかるのはしょうがない。
これを聞くと、どこかほっとしませんか?「時間がかかってもしょうがない、当たり前だ」ということが分かるからです。
まあこれを聞いても、「やはりでも、一気に悟りたい」あるいは「一気に救ってほしい」というニーズがあって、それで「念仏や題目を唱えれば極楽浄土に生まれることができる」といった考え方も出てくるのですけどね。
でも、私の個人的な感覚では、こうした浄土系の「極楽浄土へ行ける」というのは、完全に悟れる保証がついたということではなく、現代風に言えば、「とりあえずは最低限の天国へ還れる」ということだと思います。これは個人的な見解です。
そういうわけで、「迷いと悟りの構造論」を深層心理学的にシステマティックに追求したのが唯識学派であって、個人的には、これはかなりフラットというか、納得できる思想であり、実践行でもあると思います。
唯識はもとは瑜伽行(ヨーガ)を実践していた人たちによって、発見されたものですから、その意味で現代的に言えばとても臨床的・実証的であると言えると思います。
とくに、紀元後3-5世紀くらいに、マイトレーヤ(弥勒)、それからアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)によって理論化・体系化されました。
それでは、そうした唯識の思想と実践を順に見ていきましょう。
見出しとしては、
- 三性説
- 四智・八識
- 五位
- 六波羅蜜
というふうに並べてみました。
頭文字を並べてみると、「三、四、五、六」という並びになっています。
なので、時間が経って、「唯識ってなんだっけかな?」と思ったら、この「三、四、五、六」を手がかりにして思い出せれば便利ですね。
三性説(さんしょうせつ)
まずは、三性説からです。
これは、空(くう)思想を唯識的に再解釈したものと考えて良いと思います。
三性説とは
唯識では世界がどのように成り立っているのか?それを私たちがどのように認識しているのか?を3つに分類しております。
以下の3つです。
- 分別性(ふんべつしょう)
- 依他性(えたしょう)
- 真実性(しんじつしょう)
実は訳語としてはこれ以外にもあるのですが、術語が増えると混乱しますので、とりあえず三性説はこの3つの言葉で統一していきます。
以下、順番にご説明しましょう。
分別性
分別性とは「分ける」「別ける」と書いてありますが、これは文字通りで、物事を分けて(別けて)把握する仕方のことを指します。
悟っていない、一般的な私たち、これを仏教用語で「凡夫(ぼんぷ)」と言いますが、そうした私たちは世界をこのような分別性でもって眺めているはずです。
すなわち、私があって、彼(彼女)があって、コップがあって、机があって、空があって、草木があって……といった塩梅で世界を「分けて」「ばらばらに」見ているわけですね。
おおまかには、私と私以外を分けてしまっている。
こうした「私と私以外」という分別の心から、「私の欲しいもの、欲しくないもの」といった欲求が出てきて、やがて執着となり、結果、(手に入りきれない、あるいは過ぎ去ってゆくという)苦しみが訪れるわけです。
この流れは釈尊が教えている通りですね。
それゆえに、「あなたも、あなたが執着している対象も、無常でかつ無我である。かりそめの存在にしか過ぎないのだから、執着から離れるべきである」と釈尊は説いています。
依他性
次に、依他性です。
これは事物の「つながり」、仏教の術語では「縁」によって観てゆく行き方です。「他に依る」から依他性と言います。
どのような事物であっても、それ自体では存在できません、かならず縁起によって成り立っています。
たとえば、目の前にコップがあるとします。
そのコップはコップ自体で存在していますか?
まず、コップを支えている机があり、その机を支えている床があり、床をささえている土台があり、土台を支えている地面があり、地面を支えてる国土があり、国土を支えている地球があり、地球を支えている太陽系があり、太陽系を支えている銀河系があり、銀河系を支えている(物理次元の)全宇宙がある…、
というふうに「土台」ベースで観ても、コップ一つから全宇宙まで繋がっています。
さらに時間軸も含めてみれば、コップを売ったお店があり、お店に卸した問屋さんがあり、メーカーがあり、そこでは販促会議や企画会議などもあったでしょう。
さらにはコップをデザインした人がいて、そもそも「コップというものがあれば便利だな」といつの時代にかコップを発明した人がいる……というふうに縁起によって繋がっていきます。
このように空間軸、時間軸のどちら(あるいは両方)で考えても、コップはコップそれ自体で”在る”ことができない。他との無限な関係性に依って成り立っている。
コップは「それ自体で在ることはできない」、これを仏教用語で「無自性(むじしょう)」と言います。「自ずからなる性質が無い」ので無自性です。
それ自体で在ることができず(無自性)、他に依存して在る(依他性/依他起性)ので、「無我である」というふうになります。
無我とはこのような思想です。
とりわけ、大乗仏教ではこの無我の思想が、空(くう)の思想として結実します。無我と空はほとんど同義語として使われます。
こうした無我なるものの見方が依他性ということになります。
真実性
最後に3つ目の「真実性」です。
これは全存在は本来、一なるものである、というものの見方です。一如(いちにょ)と言ったりもします。スピリチュアル的に言えば「ワンネス」と言っても良いでしょう。
世界は依他性で展開しているが、その展開しているところの全体性がある、その全体性をまるっと一なるものとして把握する。
いや、事物が集まって一なるものになっているという順番ではなく、「元が一なるものなのだ」「一如なのだ」と把握する、この把握の仕方が真実性です。
この真実性そのものを”空(くう)”という言葉で表すことができます。
すなわち、事物は依他性で成り立っているが、その依他性の全体性が想定されるわけですね、それは空であり、同時に一如でもある。
ところが全体性である空の内部には”仮に”さまざまな名称で呼ばれるところのさまざまな事物が展開している、そして、それらの事物は互いに依他性の関係にあります。
このように、順序としては、仏の真実の世界は「一つ」なんだと、それが真実の在り方であるとまず観る。
その後に、その一如なる世界の内部で生きとし生けるもの、あるいはいのちないものも含めて仮に存在し(分別性)、それらが違いに縁起によって成り立っている(依他性)、というふうに観ることができます。
悟りのものの見方とは
ざっと言えば、こういう感じになるのですが、分別性から依他性を見る、という順番だと、「私とモノがバラバラにあって、その上で私はこれこれと関係を持ちたい」ということですから、これは執着になりやすいですよね。
分別性→依他性→苦
という流れです。
一方で、真実性から依他性、そして分別性という順番だと、「元は一如であるが、仮にさまざまな事物として分かれている、そして分かれていると言ってもそれらは相互依存の関係にあり、互いに生かし合っているのだ」というふうに、これは悟りのものの見方になります。
順序としては、
真実性→依他性→分別性→楽(悟りの幸福、解脱・涅槃)
となり、ここに一如であるが、その内部で命あるものもないものもすべてが関係し合い、計らいなく、あるがままにある、という世界が現出し、世界はそのままで常楽我浄(じょうらくがじょう)であるという悟り(涅槃)を得ることができる。
この順序における三性のものの見方、これは唯識的に再解釈された空の思想と言ってもよいと思いますが、唯識はそういった仏の境地目指している菩薩のために説かれていると言っても良いでしょう。
四智・八識(しち・はっしき)
次に四智・八識です。
3、4、…の順番で覚えやすくするために「四智」をさきに持ってきていますが、ここではまず八識のご説明をいたします。ここのところが唯識の最大のオリジナリティです。
八識とは
まず、原始仏教でも言われていることですが、私たちには六識があります。眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識・舌識・身識・意識の6つです。
このうち、はじめの5つを「前五識」と言います。意識は前五識をまとめる統覚作用を持っていますので、区別して「第六識」とします。
- 前五識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識
- 第六識:意識
と、このようになっています。ここまでがいわゆる「表面意識」ですね。その下に深層意識であるマナ識とアーラヤ識があるとされています。
- 第七識:マナ識
- 第八識:アーラヤ識
ここまでが八識です。
以下、順番にご説明いたします。
前五識・意識
前五識は解説するまでもないと思います。身体感覚に基づいた心の働きです。
それらを第六識である意識が総合して、あれこれと考え、判断しているわけです。
ちなみに、意識は日常語で使われるように「い」にアクセントを置かずに、フラットに「いしき」と読みます。
この第六識である意識にはさまざまな煩悩が現れてきます。それを随煩悩(ずいぼんのう)と言ったりしますが、根本にあるのは「六大煩悩」とも呼ばれる「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」であると言われています。
これらは唯識の記事を読むような読者には解説は不要でしょうから省略いたしますね。
マナ識(末那識)
さらに、唯識ではこの表面意識の下に現代風に言えば、深層意識的な領域があるとしています。その領域の第一はマナ識(末那識)と呼ばれます。これが第七識です。
マナ識はかんたんに言えば、「自分に執着する心」です。自我意識ですね。
この「私と私以外を区別する」自我意識、マナ識ががっしりとあるから、その影響を受けて第六識の意識はつねに自分を中心に物事を考え、判断してしまうわけです。
前述した六大煩悩のさらに”根本煩悩”がここのマナ識にあるとされます。それは下記の4つです。
- 我癡(がち):自分があると思う愚かさ
- 我見(がけん):自分があるという物の見方
- 我慢(がまん):自分を誇る心
- 我愛(があい):自分かわいさの心
これら4つの根本煩悩が「自分に執着する心」としてマナ識にあるとされています。それがつねに第六識の意識に影響を与えていると。
近代的自我はヒューマニズムやさまざまな主義を生み出しましたが、結局、ふたつの世界大戦をはじめとする戦争・紛争、それから環境破壊なども止めることができませんでした。
その理由として、意識でどのような高邁な理論を考えていても、その根っこに「私の、私の…」といったマナ識の分別する心が働いており、それが世界の分断を生んでいるからと考えられるのではないでしょうか。
アーラヤ識(阿頼耶識)
そして、マナ識のさらに奥にアーラヤ識(阿頼耶識)を想定します。これが第八識です。
アーラヤ識はかんたんに言えば、「命に執着する心」です。
このいわば「命と命でないものを分ける心」がマナ識の「自分に執着する心」に影響を与え、さらに表面の意識に影響を与えているという構造です。
「アーラヤ」はサンスクリット語で”蔵”という意味です。
ここにさきに申し上げた通り、輪廻を想定した悠久の昔からのカルマが種子(しゅうじ)として溜め込まれている。
そしてその種子がある時にマナ識を通じて意識に現れ、花を咲かす(煩悩を生じる)。そしてそれらの煩悩がまた種子となって、アーラヤ識に溜め込まれてゆく、と、こうした悪循環があります。
唯識では、このアーラヤ識が輪廻転生の主体であるとされています。
煩悩の発生原因がかなりシステマティックに理論化されています。ここまでを「迷いの八識」と言っていいでしょう。
四智への転換
さて、「迷いの八識」のままでは、表面意識でいくらあがこうとも、状況は根本的に解決されることはありません。
それは、表面の意識よりも、深層のマナ識、アーラヤ識のほうが広大な領域を持っているためです。
なので、根本解決をするためには、文字通り根っこであるアーラヤ識の状態を良くしなければならないことになります。
無常、無我、空、一如…などの真理を徹底的に知り、実践することによって、真理の種子をアーラヤ識に送り込むほかはないわけです。
悠久の昔からのカルマが溜め込まれている、と聞くと絶望しそうですが、福音としては、「真理の種子のほうがちからが強い」とされていることがあります。
だからとにかく倦まず弛まず善の種子を撒き続けるしかないのですね。
アーラヤ識に善の種を蒔く作業がまさにのちに解説する予定の六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践行なのです。
六波羅蜜の実践行を経て、アーラヤ識にある種子がぜんぶ善の種子に入れ替わったとき、「識の変容」が起こるとされています。
「迷いの八識」が「悟りの四智」へと転換してゆく。このありさまを「転識得智(てんじきとくち)」と言います。文字通り、迷いの識が転じて智を得ることになるのですね。その智慧が四智(しち)と呼ばれています。
まず、根本にあるアーラヤ識は「大円鏡智(だいえんきょうち)」という智慧に変わります。
もともと、アーラヤ識は「命に執着する心」なのでした。そこでは命と命でないものを分けて、それがマナ識に影響を与え、「自分に執着する心」を強化してしまうのでした。
ここには明らかに、「自と他を分ける心」があると言えます。
六波羅蜜の修行により、その「自と他を分ける心」は、「世界は本来は一如でり、空である」という実相の悟りに転換されてゆく。
宇宙の一如、真如のあり方を大きくまどかに鏡に映すように映し出す智慧に変容していきますので、「大円鏡智」と言うのです。
アーラヤ識が大円鏡智に変わると、マナ識は自他を差別相でみる見方から自他一体のものの見方へと転換します。これを「平等正智(びょうどうしょうち)」と言います。マナ識は平等正智へと変わるのです。
そうすると次に、意識は事物を正しく観察できる「妙観察智(みょうかんざっち)」へと変容します。
さらに、前五識は、作(な)されるべきときに物事を成すという「成所作智(じょうしょさち)」という智慧へ変容するのです。
まとめると、以下の通りです。「迷いの八識」から「智慧の四智」への転識得智です。
- 前五識→成所作智
- 意識→妙観察智
- マナ識→平等正智
- アーラヤ識→大円鏡智
この転識得智により得られた四智が唯識的に表現された悟りそのものであり、またべつの言葉で言えば、解脱・涅槃であるのです。
こうした四智への大転換は今日明日なされるものではありませんが、ともかくも長いながい六波羅蜜の実習を繰り返すことで徐々に転換していくと思って良いでしょう。
ですので、転識得智が完全に完了してから(完全に悟ってから)、涅槃の幸福感を得る、というのではあまりに気が長すぎる話になってしまいますが、段階を踏んで、煩悩からくる苦しみから徐々に少しずつ解放されてゆく、ということなのです。
ここに大きな希望がありますよね。
五位(ごい)
それでは、どのような段階を踏んで転識得智されてゆくのか、その悟りの道筋を唯識では以下の5段階に分けています。
- 資糧位(しりょうい)
- 加行位(けぎょうい)
- 通達位(つうだつい)
- 修習位(しゅじゅうい)
- 究竟位(くきょうい)
究極の悟りを得るのは最後の究竟位ということになりますが、ここに達するまで三カルパかかると言われています。
カルパとは何か?「すごく長い時間」ということですが、インドでは次のような喩えで表現しています。
王様が像に乗って1日に行軍する距離、その長さを一辺とする縦×横×高さの岩山があるとします。
その岩山に100年に一度、天女が羽衣をまとって軽やかに舞い降りてきます。
そして、岩山に羽衣がふわっと触れると。
すると、超極小単位ではありますが、岩山がすり減ります。
これを繰り返して岩山が完全になくなる時間を1カルパとするのです。
それで、3カルパですから、究竟位に達するまでその3倍の長さかかると言うわけです…。
想像がつくのか、つかないのか分からないくらいの膨大な時間ですね。
まあ…、インド人は昔から誇張した表現が好きですので、実際にその長さかどうかはさておき、とまれ、かなり時間がかかることは確かです。
上記の5段階で言えば、資糧位から通達位まで1カルパ、そこから究竟位まで2カルパ、という分類です。
それでは、五段階をそれぞれご説明していきましょう。
資糧位
まずそもそも第一段階の資糧位にも至らない段階を「凡夫(ぼんぷ)」と呼びます。これはもう唯識はおろか、真理にすら興味もなく、従って実践する気も起きない、という段階です。
資糧位のスタート地点から、私たちは「菩薩」と呼ばれるようになるのです。
もっとも菩薩と言っても、通達位に達するまでは「凡夫の菩薩」と言い、いわば「実力菩薩」とは区別されています。とはいえ、凡夫の菩薩であっても、菩薩は菩薩です。
当サイト(ネオ仏法)で繰り返し「菩薩になりましょう!」と呼びかけているのは、ここですね、まずは「凡夫の菩薩」を目指しましょう!という意味なんです。
「資糧位」は文字的には(現代風に言えば)「資金と食糧を集めている段階」です。
悟りを旅に例えれば、旅に必要な資金と食料を集めていると。これはすなわち、実習のために必要な教学を学んでいる段階と言えるでしょう。
教学を学んで「分かった!」とうのは、まだまだ準備段階に過ぎないということですね。
とはいえ、最低限の教学がなければそもそも実践のしようがないですから、これは必須の段階であると言えます。
だから、ネオ仏法の記事を読んでも、「漢字が多くて大変だな」とか思われるかもしれませんが、これでもかなり現代風に分かりやすく、かつ絞り込んで解説しているつもりですので、まずは教学を頑張って参りましょう。
加行位
加行位も読んで字の如く、「行を加える段階」のことを指します。
いよいよ、悟りに向けての実習・実践を行なっている段階です。
実習とは何か?と言えば、それはあとで解説する「六波羅蜜」の実践ということになります。これが大乗の菩薩の修行の王道です。
通達位
通達位も読んで字の如くですね「通じて達した段階」ということ、一定の悟りを得た段階です。
この通達位に至るまで1カルパかかるのは上述した通りです。
ここでは、まだ究極の悟りではありませんが、真実性である空や一如をある程度「あ、こういうことか!」と体感として掴む段階です。「ある程度」ですよ…。
人によっては一定の神秘的体験もします。
なので、逆に言えば、たとえば禅定中に「大宇宙の根本仏と一体になった!」という体験をしたとしても、それはまだ完全な悟りと言えるか?はじつに怪しい。究竟位ではないのではないか、という疑いを持たなければならない。
禅定を解けば、また自我がむくむくと…というのでは、これはまだ究竟位ではない、ということです。
とはいえ、メルクマールとしては一定の悟りに達したとは言える段階です。
この加行位の入り口から究竟位まで2カルパかかるのは上述した通りです。
修習位
これも読んで字の如くです。さらに六波羅蜜の実習を積み重ねてアーラヤ識を浄化していく段階です。
まあ…この先の段階がどうであるとは、実感的に私には解説はできません。とにかく、究竟位に至るまで実践を続けていくのみ、ということです。
究竟位
究竟位。究極の悟りを得て、「迷いの八識」が「悟りへの四智」に完全に転換する段階です。
大円鏡智、平等正智、妙観察智、成所作智の4つが完全に身につく段階。
三性でいえば、真実性を体得した段階であり、かつ、真実性→依他性→分別性という観察もできる。
一切は空であり一如であるが、それが仮に現象としてさまざまに張り巡らされた縁起で連なる個別性がある、そうした現象にも一定の意味を見出せる段階です。
どうして、真実性が真実性のままではいけないのか?依他性→分別性という個別性をわざわざ認識できなければいけないのか?またそうした現象世界がなぜあるのか?という目的論までは唯識ひいては従来の大乗仏教では喝破できていませんでした。
ここのところを是非、知りたい!という方は下記の記事をお読みください。
*参考記事:ワンネス、仏教、宇宙。そしてネオ仏法の悟りへ
以上、かなりざっとですが、五位の解説でした。
六波羅蜜(ろくはらみつ)
さて、いよいよ六波羅蜜です。大乗の菩薩の修行徳目であります。
これを実習・完成することにより、唯識では「迷いの八識」が「悟りの四智」へ転換されるとされています。
波羅蜜は「波羅蜜多(はらみた)」を簡略化したもので、サンスクリット語の「パーラミタ」の音写です。
パーラミタは、「到彼岸」という意味がまずあり、これは「迷いの此岸から悟りの彼岸へ至ること」を意味します。
今一つは、「完成」という意味もあります。言うまでもなく、これは「悟りの完成」のことですね。
ですので、たとえば、布施波羅蜜であれば、「施しの完成」と表記することもあります。
六波羅蜜は下記の6つです。
- 布施波羅蜜(ふせはらみつ)
- 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)
- 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)
- 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)
- 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)
- 般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)
六波羅蜜の一般的理解についてはじつは過去記事で詳述していますので、そちらをご参照いただければと思います。
*参考記事:六波羅蜜の実践 – 布施〜般若のダイナミクスで仏国土は成就する
今回は唯識的な角度から六波羅蜜を学んでみたいと思います。布施と忍辱、禅定に絞ってまいります。
三性説においては、正しい見方・智慧の見方は、まずは「真実性」から物事を観察するということでした。
これは、「一切が空であり、一如である」というものの見方でしたね。ここには、「本来、我なし、彼なし」というふうに分別知を離れています。いわゆる、「無分別智」の段階に至っているのです。
そうでありますから、たとえば、布施波羅蜜においても、「”私が”与えるのだ」という理解の仕方では、真の布施波羅蜜の修行にならないことになってしまいます。これでは、分別知の段階に留まってしまいますよね。
まずは、「一切は一如である、ひとつである」という真実性の理解があり、だけれども、「縁起によって(依他性)仮に、「我あり、彼あり」という個物がそれぞれに現れているに過ぎないのだ(分別性)という理解の順序をするのでしたね。
真実性→依他性→分別性
という順序です。
このように、いったん真実性に至るが、またもう一度分別性へ戻ってくる。こうした智慧のあり方を「後得無分別智(ごとくむふんべつち)」あるいは「般若後得智(はんにゃごとくち)」という言葉で表現します。
それが真実の世界観であるならば、六波羅蜜の実践もやはり、
真実性→依他性→分別性
の順序でなければ、かえって「”私”が〜〜しているのだ」という分別知を強化してしまう危険性があります。
ですから、財施(財物を布施すること)でいえば、「豊かさは本来、宇宙に満ち満ちているのだけれども(真実性)、たまたま何かの縁で(依他性)私のところにあるだけなのだ(分別性)。だから、一如のなかで、足りるところから足らざるところへ、水が高きから低きへ流れるように移動していくだけなのだ」と、このような感覚で布施をするのが、真の布施行ということになるのです。
忍辱波羅蜜で言えば。「”私”が我慢するのが修行である」では、本当の意味での六波羅蜜にはならないのです。
たとえば、足が石に躓いて転んでしまい、手が怪我をしたとします。
この場合、「足のせいで手は怪我したが、ここはまあ忍辱波羅蜜があるので足を引っ叩くのは止めておこう、我慢我慢…」となるでしょうか?
そうではなく、足も手も自分の一部ですから、もし足の方が大怪我であったならば、手は足の介抱をしますよね。これが自然な流れです。
これがなぜ自然であるかというと、この場合、ワタシという一如の中に(真実性)、補い合うために(依他性)、役割的に手足が分かれている(分別性)に過ぎないからです。
なので、他人に悪口を言われた場合も同じことなのです。
痩せ我慢をして言い返さない、やり返さないのではなく、悪口を言い返してしまったら、(本来、私も彼も一如であるがゆえに)、それは私が私に言い返した、やり返した、と同じことになってしまうのです。
そうすると、ますます痛みが増えていくことになりますよね。本来、一如ですから。
ですから、「一如の世界をなるべく調和の状態に保つべく忍辱する」というのが本来の忍辱波羅蜜である、ということになるのです。
忍辱波羅蜜は他の波羅蜜に比べても難易度が高いです。
他の波羅蜜は、自我意識をもとに実践していても、気持ちよく出来てしまいます。
ワタシが布施をした、ワタシが禅定をした…と、このように、「ワタシが…〇〇をした」ということで「ワタシは修行が進んでいる」みたいに気持ちよく出来ちゃうんですね。
忍辱波羅蜜の場合のみ、この「ワタシ」を取らない限り、「なんでワタシが我慢しなきゃならないんだ」という具合に、なかなか気分良く行えないのです。
そういう意味では、忍辱波羅蜜は波羅蜜が本当にできているかどうかの試金石でもある、と言って良いでしょう。
禅定波羅蜜は、六波羅蜜のなかでもかなり重要度が高いです。
真実性を体得するためには、世界が一如であることをマナ識、アラヤ識レベルまで腑に落としていく必要があります。
そのために姿勢を調え、呼吸を調えて、潜在意識に開かれた状態を作るという禅定は、真実性の体得のためにとても有効なのです。
マインドフルネスなどの呼吸瞑想をやるだけでも、だいぶ違ってきますので、1日5分くらいからでも実践することをお勧めいたします。
*参考記事:マインドフルネス瞑想の効能と実践
他の波羅蜜も真実性を習得するのを目的に実習すべきなのです。そうでないと、本来の六波羅蜜の実践になりません。
もう一度、書きますが、
真実性という無分別知を得るため、さらにそこから依他性→分別性の流れを生かす智慧(般若後得智)を得るために、六波羅蜜の実践があるのだ、ということです。
さて、以上、「唯識を簡単にわかりやすく解説バージョン」ということでしたが、いかがでしたでしょうか。
まだまだ難しい…と思われるたかもしれませんが、かなり絞り込んでポイントに集中して書かれていますので、繰り返し読んでいただければ理解が深まることと思います。
コメント
コメント一覧 (2件)
>Kさま
コメントありがとうございます。
仏教は基本的に運命論の立場は取りません。
「カルマ」という言い方はあるのですが、これは一般的に信じられているような「自分の外部にカルマという運命・宿命的なものがあり、影響を与えている」ということではなく、あくまで、過去世を含めた自分の思いと行為が現世に影響を与えている、という意味ですので、運命論とは真逆なのです。
ですので、「善因楽果、悪因苦果」が基本です。
こんにちは。不勉強で申し訳ないのですけれども(汗)釈尊は、運命についてどう仏教徒に説明されていたのでしょうか。とある方の本を買いまして。どうやら、運命論と自由意思のどちらも機能している。人の知性では理解できない、システム(仕組み)が働いているのが宇宙の、神秘で人の知性では到底理解できない、コトが起きている。と スピリチュアル部門ブロク上位
の方はそう説明されていたのですが。まず。かみさまがいて、その神様がそのブログ上位の
方の出版している本を手に取りパラパラとめくり、もし間違ったことを書いてあった場合。
スピリチュアル部門のランキング上位な方の本ですから、
読むかたも、たくさんいるわけで。ただでさえ
影響力のある上位のかたの本に間違いがあれば
本を買ったかたの考えが歪まないように、誰よりもまず、神様がなにかしらの方法で、止めると思うのですが、(そこは、神様もスルーなのでしょうか。)で、じぶんも運命論と自由意思が、
成り立つには、で考えてみました。つまるところ、(人生、二週目説) が、沸いてきました。
一度、自由意思で、地球で暮らします。(この時
運命はありません。あり得ません。) で、間違いもするでしょう。生きてますから。で、一度目の人生が終わると、一度目の人生とまったく
何一つ変わらない人生が、地球で始まります。
(二回目の人生))で、一度目の自由意思のみで、生きた人生と、何ら変わらないまったく同じ、人生。が、一度目と違うのは 、自由意思で、
運命を変えることが出きるという点です。
なにもしなければ、一度目と同じことが起きる
運命通り(一度目と同じ出来事が起きる)でも、
人には自由意思があたえられてますので、運命通りの人生を、自由意思で行動し多少なりとも
変化させれば、運命を変えた。というふうにすれば、まがりなりにも、自由意思と運命論。の両立が、成り立つのではと、おもいました。
うる星やつらのアニメの、ビューティフルドリーマーという映画版を見てて、思いつきました。つまりは、一度目の人生と、同じことをすると運命。自由意思で違うことすれば、運命を変えたということになる。ps,そのブログ上位の方は(人生は 楽しむために地球に生まれてきた)と本で書かれていたので,こちらのサイトとは、真逆ですね難しいです。
運命はあるし、変えることもできる。
釈尊は、運命論についてどのようなことを、仏教徒に説法を説いていたのでしょうか。
よろしければ、聞きたいです