コーランは訳してはいけないのか?- アラビア語は神の言葉とは言えない理由

コーラン(クルアーン)は訳してはいけないのか?

コーラン(クルアーン)では翻訳はあくまで「注釈書」「解説書」という位置づけになっています。

この点、同じセム的一神教であっても、各国語に自由に翻訳されているキリスト教の聖書とはだいぶ事情が違います。

本稿では、「コーランはアラビア語でなければいけない」論に反証しつつ、かつ、イスラム教の今後の行方について提言を行ってみたいと思います。

目次

「コーランの翻訳は禁止」とはどこにも書かれていない

「コーランがアラビア語でムハンマドに啓示された」ということがウラマー(イスラム法学者たち)に重視されて、「翻訳されたものでは神の言葉そのものであるコーランを正しく伝えることはできない」と判断された経緯があります。

コーランは語源としては「読誦されるもの」という意味です。

その言葉通り、朗誦にとても適しており、実際に朗誦された時に言葉では言い表せないほどの美しい響きとなります。

Youtibeなどで検索してもその朗誦効果を味わうことができますが、一例を挙げてみましょう。

告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、(アハド)
もろ人の依りまつるアッラーぞ。(サマド)
子もなく親もなく、(ユーラド)
ならぶ者なき御神ぞ。」(アハド)
(112章全節・( )内は高田による追記)

それぞれの行の最後の単語が「アハド」「サマド」「ユーラド」「アハド」となっていて、これらはみな、「(ア)…ド」というふうに韻を踏んでいます。

とくに引用節のような初期(メッカ期)の文体は「サジュウ体」という押韻散文に近いとされていまして、朗読効果が高いものになっています。

こうした文体の美しさも「コーランは神の言葉である」ということの根拠になっているでしょう。

実際にこの朗読効果の美しさに惹かれてイスラムに入信する人も多いのです。

第二代正統カリフのウマルは当初はムハンマドの新宗教活動に大反対でしたが、妹が唱えるコーランの章句の美しさに心をうたれ、以後、敬虔なムスリムになったと伝えられています。

ただ、誤解されがちなのですが、「コーランは訳してはいけない、翻訳禁止」とはコーランやハディース(ムハンマドの言行録)のどこにも書かれてはいません

「コーラン」は本当に神の言葉か?

上述の通り、「コーランは神の言葉」とされているがゆえに、翻訳書は注釈書という位置付けで止まっています。

翻訳についてはそれはひとつの考えではありますが、私が危惧するのはむしろ、アラビア語を神の言葉と規定することは神の無限定性(全能性)に制限をかけることになるのではないか、という点です。

そういうわけで、「コーラン」そのものに依拠しつつ、「アラビア語が神の言葉」論に反駁してみたいと思います。

論点は3つです。

  1. 預言者によって啓示される言語に違いがある
  2. アッラーの手元に啓典の母体がある
  3. 一言語に限定することは神の全能性に齟齬をきたす

預言者によって啓示される言語に違いがある

イスラム教では、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書のイエス・キリストも歴代の預言者として認め、中でも

  • ノア(ヌーフ)
  • アブラハム(イブラーヒーム)
  • モーセ(ムーサー)
  • ナザレのイエス(イーサー)
  • ムハンマド(もしくはモハメッド)

を五大預言者として位置づけています。つまり、ムハンマド以外の4人も偉大な預言者として認められているわけですね。

それでは、その4人は果たしてアラビア語でアッラーから啓示を受けていたでしょうか?

また我ら(アッラー)は預言者たちの間にも恩寵の大小の違いをつけ、(例えば)ダーウド(ダビデ)には詩篇を授けた(17章57節)

この聖句を読む限り、ダビデは預言者の中でもひときアッラーに優遇されているというわけですね。

*翻訳は井筒俊彦訳のものを引用しています。

コーラン

それだけ優遇されているダビデにアッラーはなぜアラビア語ではなく、ヘブライ語で啓示を下したのでしょうか?

モーセはシナイ山においてアッラーから「十戒」を授かりました。この時もアラビア語ではなく、ヘブライ語であったはずですよね。

*ちなみに、興味深いのは、アッラーはモーセに対してはガブリエルを通じないで直接、啓示を降ろしています。ムハンマドに対してはガブリエル(ジブリール)を介しての啓示であったのに、です。

イエスはふつうにアラム語で神の福音を説いていました。

また、イスラム教がもっとも重視するアブラハムにしても、もちろんアラビア語ではないでしょう。イスラエルの言葉であったはずです。

このように、イスラム教自体が認めている代表的な予言者たちはアラビア語で啓示を受けてはいないのです。

このことからも、「アラビア語は神の言葉」論に疑問が持たれます。

アッラーの手元に啓典の母体がある

我らはこれをアラビア語のクルアーンにしておいた、お前たちにも分かるように。その(内容)はすべて我々の手元にある啓典の母体に載っているいと高くいとも賢きもの。(43章2節)

ここでも、わざわざ「アラビア語のクルアーンにしておいた」と明言されています。「しておいた」ということは逆に言えば、「しておかなくてもいい」状態にクルアーンの原型はあるということが分かります。

そして、「お前たちにも分かるように」とあります。これは決定的ですね。つまり、地上にいるアラブ人にも分かるようにわざわざアラビア語で啓示を降ろした、ということが示唆されています。

つまり、クルアーンの原型はアラビア語ではないということになりますよね。

一言語に限定することは神の全能性に齟齬をきたす

ここが一番、大事なところです。

イスラム教においてはもちろん、アッラーは全知全能、無限定な神とされていますよね。

ところが、数ある言語の中からアラビア語のみがアッラーの言語であるならば、これはひとつの「限定」であり、アッラーの無限定性(全能性)に齟齬をきたすことになってしまいます。

本稿は決してアラビア語を貶めるために書いているわけではありません。

唯一全能の神に「限定」をかけることに警鐘を鳴らすために書いてみました。

アッラーがまずはセム的一神教のなかで旧約の神、新約の神と同一の存在であるならば、アラビア語のみに重点を置くことはキリスト教との共生という観点からもマイナスに作用すると思うのです。

*ちなみにネオ仏法では、「ヤーヴェは民族神であり、エロヒム(エル・シャダイ)こそが旧約における普遍神である」という立場をとっています。

*参考記事:ヤハウェとエロヒムは別の神である – 民族神と最高神を区別したほうが良い理由

さらにアッラーが真に普遍神であるならば、セム的一神教の枠組みさえも超えるはずです。

唯一神信仰が国是になっているインドネシアでは仏教・儒教・ヒンズー教も「唯一神信仰の枠組みに含まれる」と解釈されています。

おそらく、ムハンマドにしても当時、仏教と交流があったならば仏教徒をも「啓典の民」と認定していたであろうと推測します。

このように、言語の点からも普遍神の証明をしていくことが、まずはキリスト教、イスラム教、仏教という世界三大宗教の共生の土台作りのためにも大事であると私は信じています。

それが宗教を理由とした国際紛争を根本から解決する糸口になってくると思います。

 

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