四諦と八正道については今までいくつかの記事に書いてきました。
特に、以下の参考記事が、自分で言うのもなんですが、良くまとまっていると思います。
*参考記事1:四諦八正道のわかりやすい解説と覚え方
*参考記事2:八正道の順序と覚え方のコツ – 中道の実践とはなにか?
この2つの記事に共通しているのは、四諦および八正道の構造を時間的な縁起(時間論的縁起)で捉えている点です。
たとえば、正見・正思・正語…が八正道の順序ですが、これらは適当に8項目を並べてあるのではなく、時間的に縁起が生起する順序になっている、と解説いたしました。
こんな感じです。
- 正見:正しいものの見方ができるから、
- 正思:正しく思うことができて、
- 正語:結果、正しく語ることができる
このように、八正道の各項目が全部、正見から生起される順番になっているのですね。
そうすると、たとえば、誰かに悪口を言ってしまった場合、単に「正語」に照らし合わせて、「あ、悪いことを言ってしまった。不悪口に相当するな」でもちろん反省にはなっているのですが。
これだとちょっと対症療法的と言いますか、表面的な反省で終わったしまうきらいがあります。
すると、同じようなシチュエーションで、また悪口を言ってしまう危険性がある。
ところが、時間論的縁起を遡れば、
悪口を言ってしまった(正語)→それは、怒りなど悪口に相当する思いを抱いてしまったからだ(正思)→それは、自分のコンプレックスを他者に投影するというものの見方をしてしまったからだ(正見)
とこのように、正見=自身の根本的なものの見方に遡ることができます。
結果、根本の価値観(正見)にまで遡れるという、いわば「原因療法」で対処することができるようになるのです。
これはとくに正見を磨きにみがいていくという、別の言葉で言えば、「智慧の積み重ね」にもなるのですね。
この四諦八正道の捉え方はそういう意味で、かなり有効だと自負しています。
今回の記事では、もちろんそうした時間論的縁起の側面も踏まえますが、、今ひとつ、大乗仏教の大きな潮流である唯識思想を援用しつつ、存在論的縁起(空間的縁起)に基づいて八正道を分析してみたいと思います。
なお、時間論的縁起と存在論的縁起については下記の記事をご参照ください。
*参考記事:諸行無常と諸法無我の違いとは?- 「存在と時間」で考えるとわかりやすい
四諦の構造
四諦は、苦・集・滅・道の4つですね。
これら4つの構造については、時間論的縁起でまずは見ていけば良いかと思います。
- 苦:苦しみという結果
- 集:苦しみの原因
- 滅:涅槃を得るという結果
- 道:涅槃に至るための原因
というふうに、
結果→原因、結果→原因、という時間論的縁起(因果)を構造論として見て取ることができます。
苦
四諦の最初の項目はいきなり”苦”から始まっています。
これは有名な四苦八苦をその内容としています。
- 生苦(しょうく)
- 老苦(ろうく)
- 病苦(びょうく)
- 死苦(しく)
- 愛別離苦(あいべつりく)
- 怨憎会苦(おんぞうえく)
- 求不得苦(ぐふとくく)
- 五蘊取蘊(ごうんしゅく)
これらを突きつけられると、誰しも「あ、自分にこれこれが当てはまる!」と思えるのではないでしょうか。どころか、すべて当てはまっていないでしょうか?
これはいわば、「あなたは、これこれの病気なんですよ」という診断に当たるとも言えるかと思います。
普通の人を仏教では”凡夫”と言いますが、凡夫の凡夫たるゆえんは、「仏法から見たらそれ病気ですよ」というのを自覚していないところにあります。
そこで、バシッと「あなたは、四苦八苦に思い当たるところがあるでしょう?なので、仏法的に言えば病気にかかっていると言えるんですよ」と診断を下されるというわけです。
ところで、病気と言われても、「だって、生老病死はどうしたって逃れることはできないじゃないか」って思いますよね。
はい、その通りなのですが。
仏教の文脈で言う”苦”とは、単なるそれ自体の苦しみではなく、「思い通りにならない」という意味での苦しみなのです。
たとえば、死。ずっと生きていたいと思うのだけど、なかなかそうはいかず、長くてもせいぜい100年やそこらしか生きていることができません。
たとえば、愛別離苦。愛する人と別れる苦しみ、これも典型的ですよね。「絶対にこの人とは一緒にいたい、いつづけたい」と思うのだけど、やがて別れはやってくる。まさに思い通りになりません。
他の項目もみなそうです。思い通りになってほしいと思ってもならない苦しみです。
このように考えると、四苦八苦はじつは「求不得苦」にすべては集約される、と言うこともできるかと思います。「求めても得られない苦しみ」です。
集
”集める”という字の如く、これは苦しみの原因を意味しています。
原因とは一般的には、「執着があるからだ」と解説されていますよね。これが原因の診断です。
それでは、執着とは何でしょうか?
さきにも説明した通り、「こうあって欲しい」という過剰な願い・欲求です。過剰であるというのは、無理筋を願っているから過剰なのです。
よく勘違いされていることでもあるのですが、釈尊は過剰な欲求を戒めたのであって、適正な欲求までダメ出ししたわけではないと思います。
たとえば、食欲をまったく否定したら数日から長くて数十日で死んでしまうでしょう。性欲をまったく否定したら地上から人類は姿を消してしまい、仏法の縁に触れることさえできなくなってしまいます。
ですので、ここはある意味、伝統仏教の修正に当たるのかもしれませんが、心理学者アドラーが言うように、神経症的欲求と自然的欲求は分けて考えたほうがいいと思います。
仏陀が否定したのは神経症的欲求の方なのです。
さて、なぜ神経症的欲求が起きるか?と言いますと、根本の根本は「我あり」というふうに自分を絶対視、実体視する価値観があるからだと言えます。
実体とは、哲学の定義で言えば、
- それ自体で存在できる
- それ自身の本性を持っている
- 永続性がある
この3点です。
一人称で示されているところの”ワタシ”というのは実体であるかどうか?
それに対して仏陀は、「実体ではない、無我である」と喝破したのでした。
無我はサンスクリット語でアナートマンといいますが、
- ア(接頭語):否定
- アートマン:実体
で、アナートマンになり、これが無我と翻訳されたわけです。
実体の否定ですから、直訳的に「非実体」と理解した方がいいかもしれません。
他から独立分離した実体としてのワタシなどというのはないのにも関わらず、実体視してしまうところから、
私−他者
という二項対立が生まれ、そこに執着、煩悩が生じると言う図式です。
ですから、苦しみの原因としての”集”は一言でいえば、「自己の実体視」と言えるわけです。
ワタシと他者が分離しておらず、本来ひとつのものであるならば、そこに執着は生まれません。執着がなければ、六大煩悩をはじめとする煩悩も生じません。理論的にはこうなることはお分かりですよね。
唯識の言葉で言えば、苦しみの原因は、自分と他者を分離したものと見てしまう、「分別知」にあると言えるのです。
分別ー文字通り、「分ける」ということろから、文字通りの分離感が生まれ、そこから孤独感や執着が生起してくるわけです。
そしてその根本には、自己の実体視がある、逆に言えば、自己が非実体(=無我)であることを知らないことにある、と言っていいのです。
滅
”滅”も文字通り、ですが、「苦しみが滅した状態」を指します。
医学で言えば、「こういう病気が治った状態になることができますよ」というインフォームに当たるでしょう。
では、どういう状態であれば「苦を滅し尽くすことができた」と言えるのか?
これが有名な”涅槃”なのです。解脱の結果としての涅槃です。
サンスクリット原語のカタカナ表記では、ニルヴァーナです。
- ニル:吹き消す
- ヴァーナ:炎
がもともとの意味です。「炎を吹き消すこと」。仏教の文脈で言えば、「煩悩の炎を吹き消すこと」ができた状態、これがニルヴァーナ、涅槃です。
煩悩が滅し尽くされた状態とは、別の言葉で言えば、分別知が消えた状態であると言えます。
これは逆に言えば、「無分別智(むふんべつち)」を得た状態であると言うことができます。
無分別智とは、すべては無常・無我・縁起・空・一如であるものの見方です。
一切はひとつであり、縁起によって分かちがたくつながっている、と分かればそこには執着はありません。
たとえば、足が石につまづいて転んでしまい、手が怪我したとします。
その場合、「お前のせいで怪我をした、どうしてくれる?」と手が足に詰め寄る・・・なんてことはないですよね。
仮に足のほうが重症であれば、手は自らが怪我をしていても足の介抱をするはずです。
それは、手と足は本来、ひとつ(一如)であるものの各部分であることが分かっているからです。
さて、無分別智で、「一切は空なり、一如なり」と悟ったとしても、世界にはやはりワタシもあればアナタもあり、花や木々もあり・・・というふうに一応は区別できる個別的な存在はあります。
ただし、これはあくまで区別であって、分離ではありません。縁起によってしっかりとつながっています。
ワタシは今、椅子に座っていますが、その椅子は床に支えられており、その床は建物に、建物は大地に、大地は国土に、国土は地球に、地球は太陽系に、太陽系は銀河系に、銀河系は大宇宙に、といったふうに、とりあえず物理次元の全宇宙までつながりがあることが確認できます。
これは空間的な縁起ですね。存在論的縁起です。
少し説明が長くなりましたが、このように、「一切皆空、一如、ひとつでありながら、それでいて一応は区別できるそれぞれの個別的存在はある。だが、それら個別的存在はばらばらに分離しているわけではなく、縁起でつながっている」という覚りが無分別智です。
より詳しく言えば、個別的な存在性までまた戻ってきていますので、この認識を後得無分別智(ごとくむふんべつち)とか般若後得智(はんにゃごとくち)と呼びます。
こうした後得無分別智においては、さきの足と手のたとえでみたように、根源がひとつでありつつ、それぞれがつながっています(縁起)ので、分離感はなく執着することも傷つけ合うこともありません。
唯識では、空・一如であることを「真実性」と呼び、縁起的に繋がっていることを「依他性」と呼び、その上で個別的な存在がそれぞれ現象としてあることを「分別性」と呼びます。
迷いのものの見方が、私や物がばらばらに分離独立してあるという見方(分別性)から始めて、それから他者と関わるという順番(依他性)で行くからそこに執着が生まれ、結果、苦しみとなります。
分別性→依他性
の順番です。
一方、ワタシを含むところの全宇宙が一如であり(真実性)、そのなかで無限の繋がりがあり(依他性)、その繋がりの糸の結び目に現象としてそれぞれ個別的な存在がある(分別性)と観みれば、執着は取れます。
真実性→依他性→分別性
の順番です。
この順序におけるものの見方が徹底的に腑に落ちたときに涅槃、ニルヴァーナが現出するのです。
道
そして、”道”ですね、これはご存じ、「八正道」を意味します。
「八正道を修すると病気は治りますよ、いかがですか?」というインフォームドコンセントです。
八正道を意味しているのですが、なぜ、「(八つの)正しい道」を実践すれば、ニルヴァーナに至ることができるのか、考えたことがありますでしょうか?
ここでは、「正しい」が何を指しているか?がポイントになります。
結論を申し上げれば、唯識の文脈では、「”正しい”とは無分別智(あるいは後得無分別智)が働いている状態」と言えるかと思います。
つまり、すべては無我・無常・縁起・空・一如であるという智慧が働いている状態、これを「正しい」と言っていると(唯識的には)解釈できるのです。
世界の実際の構造論に適っているからこそ「正しい」というわけです。
具体的には、八正道の項目でチェックしていきましょう。
八正道
八正道は「八つの正しい道」と書きます。
そしてその「正しさ」については、倫理的側面から考察をしたこともあります。
*参考記事:八正道における正しいとは何か?- 倫理の基礎づけとしての仏法
今回は上述した通り、「世界の真実の構造論に適っている」という意味での「正しさ」として解釈して参ります。
正見
八正道の一番始めでありつつ、かつ基本でもある正見です。
正見は一言でいえば、「縁起の理で物事を観察すること」を指します。
縁起とはつながりであり、また別の言葉で言えば「関係性」です。縁起とは関係性の哲学なのです。
まずは自分自身について考えてみると、ワタシはワタシ自体では存在できません。
空間的には、水や空気やさまざまなものとの繋がり、関係性において、ワタシはあります。
時間的には、親があり、そのまた親があり、そのまたまた親があり…とずっと遡れば、137億年前のビッグバンにまで遡ることができます。
そうした空間の横糸、時間の縦糸の結び目として、かろうじて「今ここ」に現象としての私が存在しているのです。
縁起的であるということはワタシに限らず、それ以外の他者やさまざまな個物においても同様です。
このように考えると、大宇宙には時間的にも空間的にも縁起が張り巡らされており、その縁起の結び目として、現象として個別的存在がかろうじて存在している。そして、その縁起の総体、全体性を空とか一如と呼んでいるのです。
いや、一如・真如・空である全体が先(真実性)で、そのあとに無限のつながりの糸(縁起)が張り巡らされて(依他性)、その縁起の糸の結び目に現象としてのそれぞれの個物ががる(分別性)、という順番が正しい見方でしたね。
真実性→依他性→分別性
という順番です。唯識的にはこの三性のものの見方を獲得することが智慧であり、正見であると言えるのです。
正思惟
正思または正思惟(しょうしゆい)とは「正しく思う、考えること」を意味します。
伝統的には、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の心の三毒、あるいは拡大して、慢・疑・悪見(まん・ぎ・あっけん)を加えた六大煩悩から離れていることを指します。
なぜこれらがいけないかというと、四諦の”集”のところで述べたように、これら煩悩の根本に「他者あるいは全体から分離独立した実体視された我」があるからです。
無我の正反対ですね。
ワタシ – 他者(あるいは、全体)
というふうにワタシを実体視するところから(無我であることに無知であるところから)、ワタシと他者(あるいは全体)との分離が生まれます。
そして、ワタシが一番可愛いものですから、対象化された他者に対してさまざまな執着が起きり、結果、苦しみとなる、という順番になっています。
唯識的に言えば、表層意識の六大煩悩の下にマナ識(第七識)という深層意識があり、そこに意識的な六大煩悩を生み出しているところの4つの根本煩悩があるとされています。
- 我癡(がち):自己が無我であることを知らないこと
- 我見(がけん):我があるという見解
- 我慢(がまん) :我と他者を比べて誇ること
- 我愛(があい):我を可愛いがること
この4つのうち一番基礎にあるのは、やはり、我癡でしょう。自己が無我であることを知らないこと。
表層意識における”痴”(おろかな心)もやはり「自己が無我であることを(知識的に)知らないこと」であるのに対し、我癡においてはマナ識という深層意識にまで「自己が無我であることを(体感的に)知らないこと」が根を張っているのですね。だから文字通り、根深い。
しかしとりあえずは、このことを知識として知っていることが大事です。
表層意識の六大煩悩、さらにそこから生まれる20種類の随煩悩があるとされますが、すべての根本はこのマナ識の我癡(とそれに付随する我見・我慢・我愛)にあるのです。
たとえば、慢心というのも、
我があると思う心(我癡)→他者と比べて我を誇る心(我慢)→表層意識の慢心
となって現れてくるという具合です。
根本的な治療としては、布施や瞑想に代表される六波羅蜜の実践によって、徐々に”無我観”を腑に落としていくことが大事です。
ですが、正思惟の反省としては、六大煩悩のどれに該当するか、そしてマナ識の我癡に根本の問題がある、ということの確認ですね、これを行っていきましょう。
正語
正語は「正しく語ること」。
この「正しく」というのも、もちろん、分別知ではなく無分別智に基づいた有り様を指します。
すなわち、ワタシも他者もともに無我であり、分かち難くつながりあっている(存在論的縁起)ということです。
本来、ひとつのものが、たまたま「ワタシと他者」というふうに分かれているに過ぎない。でも、ご縁があってそれぞれ個性を持って現れているので、自分自身を愛するように他者を愛そう、愛語をかけよう。
あるいは、愛語を心がけるべきだったのに、そうできなかった瞬間がなかったかどうか?の反省です。
- 不妄語(ふもうご):嘘をつかなかったか
- 不悪口(ふあっく):悪口を言わなかったか
- 不両舌(ふりょうぜつ):二枚舌を使わなかったか
- 不綺語(ふきご):無駄話をしなかったか
これら4項目のチェックです。
たとえば、不妄語。悪口を言うとはどういうことか?
それはやはり基本的に、「自己が無我であること」に無知であったというのが根本にありますね。
そこから、自己を実体視する価値観が生まれ、さらにそこから、自分と他者が分離しているという思いになっている。
さらにそこから、相手が自分の思い通りであって欲しいのに、そうなっていないという怒りの心が生まれ(正思ができていない)、結果、悪口を言ってしまった、という流れになります。
これは一例ですが、他の項目も流れを見ていけば、、かならず、「自己が無我であることへの無知」が根っこにあるはずです。
そこをチェックすることによって、逆に、少しでも「自分と他者とは縁起的なつながり(存在論的縁起)で存在しているのだ、そして宇宙的視点から見れば、本来、ひとつなのだ」という無分別智的ものの見方へ修正していくと言うことです。
この反省行もニルヴァーナに資する意味で「正しい」行になるというわけです。
正業
正業(しょうごう)とは、正しい行為のことです。
仏教用語で”業”というときは、行為だけでなく行為の結果生じるカルマをも指します。
逆に言えば、何か行為をしたときに、それ1回きりで終わりというわけでなく、その行為はカルマとして(唯識的に言えば)自らの深層心理の第八識であるアーラヤ識に種子(しゅうじ)となって蓄えられていきます。
そしてなにかの機会にふと、その種子が表面意識に芽を吹いてきます。
だから、行為(じつは思いも含まれるのですが)というのは怖いのですね。
行為→カルマの種子→アーラヤ識へ貯蔵→表層意識で芽を吹く(=行為)→カルマの種子→アーラヤ識へ貯蔵
と、こんなふうに良いカルマも悪いカルマも循環していく傾向があります。
「悪いことをした人の最大の報いはまた悪いことをしてしまうことだ」といった趣旨の名言がどこかにあったかと思うのですが、まさにその通りなのです。
とくに確信犯的に悪いことをするような人は、こうした真理にも耳を傾けることなく、アーラヤ識的な悪循環がマックスで行われてしまう危険性があります。
さて、正業の反省としては、伝統的には五戒のなかの、
- 殺生を行うなかれ(不殺生)
- 盗むなかれ(不偸盗)
- 男女の道を乱すなかれ(不邪淫)
という三つの徳目の反省ということになるわけですが、とくに2つ目までは現代の一般市民であればあまり反省の材料にはなりにくいでしょう。
したがって、私個人としては拡大解釈して、六波羅蜜の布施波羅蜜・忍辱波羅蜜など行為に関わるところを正業の反省として当てはめて良いのではないか、と思っています。
*参考記事:六波羅蜜の実践 – 布施〜般若のダイナミクスで仏国土は成就する
そして、この正業についても、遡ってみれば、「自己が無我(非実体)であること知らない」ということろにぶつかると思います。
自己を実在視するところから、
ワタシ→他者
という分離が生まれます。
そこを起点として、さまざまな煩悩・随煩悩の思いが起こり、結果、行為に出てしまうと言う順序です。
したがって、最終的には、自と他は関わり合いのなかにあり、本来一体なのだ、という縁起・空・一如のものの見方ができているかどうか、という反省に遡ることができます。
正命
「正命(しょうみょう)」とは、現代風に言えば「正しい生活」のことです。
伝統教学では、身・口・意(しん・く・い)のバランス・調和がとれた状態を指します。
それぞれ、
- 身業:正業
- 口業:正語
- 意業:正思惟
このように対応しておりますので、正思惟・正語・正業がバランス良く調和した生活を指す、と理解していいでしょう。
この正命にはまた、現代的には「仕事」なども入ると見ていいです。それも生活の一部ですからね。
生活と仕事はまさに社会性そのものであり、他者あるいは共同体との関わりそのものです。
アドラー的に言えば、「共同体感覚」が欠如していると、不幸感覚が強くなります。
共同体感覚の欠如の根本にはやはり、自分を実体視する価値観があると言えるでしょう。
自己を絶対視(逆に言えば、自己が無我であることを知らない)するから、
自分 – 他者(共同体)
というふうに、ばらばらに分離した感覚に陥ります。
そして、そこから他者や共同体への執着が生まれ、結果、苦しみとなります。
それゆえに、反省の材料としては、生活・仕事の面でどこかバランスを欠いていないか、をチェックして、バランスを欠いているのであれば、「自己を実体視し過ぎていないか?」の価値観を再確認しつつ、「自分も無常・無我であり、他者や共同体との関わり(存在論的縁起)に生きているのだ」と自ら言い聞かせてみましょう。
また、生活や仕事の進め方でより調和的に直せるところは直していきましょう。
これももちろん、それが「倫理的に正しいから」というのもありますが、より根本には「自も他も本来はひとつであり、縁起によってつながりながら、仮にそれぞれ現れている」という真実の世界観を再獲得し、それによって幸福感(ニルヴァーナ)を得ることが目的です。
ここでも、「正しさ」とは、そうした真実の世界の構造論に適っているか?が基準になっていることがポイントなのです。
正精進
6つ目は「正精進」。「正しい精進」です。
この「精進」は仏道についての精進・努力を意味しています。
輪廻があり、来世があったとしても、今生の人生は有限であることに変わりはありません。
ぼーっと生きてたり、気晴らしに時間を使っていたら、あっという間に日が暮れてしまいます。
そこで、有限の時間の内実を「いかに、真理価値を高めた生き方ができるか」が問われているのです。
とくに菩薩である、あるいは菩薩になりたい人であれば、この「時間の真理価値を高める努力」は無限の工夫の余地があります。
仏陀の1時間とあなたの1時間では、おそらく内容が違っているはずです。
なので、仏陀の悟りを目指すのであれば(それが菩薩なのですが)、そのように「仏陀であればこの1時間、1日をどのように使うか」という振り返りはあったほうがいいでしょう。
菩薩にも(唯識的に言えば)通達位以上の段階になったいわば「実力菩薩」と、それ以前の段階の「迷いの菩薩」では実力的にかなり差があります。
迷いの菩薩の段階ではまだ凡夫へ退転することが多いように思われます。
一時期、「菩薩でありたい!」と決意しても、時間が経つにつれ、「日常圧」にやられて、だんだんと気力が削がれていくのですね。そして凡夫に後戻りしてしまう。
このパターンはとても多く、かつもったいないことですので、時折、「菩提心の反省」をして、「仏道精進する気持ちが薄れてないかどうか」をチェックしていきましょう。
正念
正念とは文字通りには「正しく念じること」ということですが、何を念じるか?が問題です。
伝統的には、
- 仏陀の教えを正しく記憶すること
- 仏陀の教えにいつも気づいていること
が正念の内容だとされています。
ここでもやはり、仏陀の教えの根本である無常・無我・縁起・空などにいつも気づいている(意識できている)かどうかがポイントになります。
そのためには、そもそも前提条件として、教えをきちんと記憶している必要があるということですね。
やはり、私たちは日常生活を送っていると、いろいろなことに忙殺されがちで、つい仏法のことなど忘れてしまう傾向があります。
なかなか完璧に、「いつも仏法に気づいている」というわけにはいきませんが、それを理想型として、「いつでも思い出せるようにしておく」ことが大事かと思います。
今一つは、とくに禅定を通じて、無常・無我・空・縁起などをできるだけ心の奥の奥まで落とし込んでいくということです。
唯識的には、表層意識の意識(第六識)で真理を学習したとしても、深層意識であるマナ識(第七識)では「自分にこだわる心」ががっしりと根を張っていますので、なかなかここまで真理が浸透していきません。
ただ、多聞薫習(たもんくんじゅう)と言いますが、できるだけ多くの機会に真理を聞いたりするだけで、アーラヤ識(第八識)が浄化されていきます。
すると、それにつれて、マナ識も少しずつ自我意識がほぐれていき、表層意識にも影響を及ぼしていきます。
言葉を変えれば、無常・無我・縁起・空…などが深層意識にまで腑に落ちていくというプロセスがあるわけで、そうすると、「いつも正しく気づいている」状態に近づいていると言えます。
正定
八正道の最後は正定、「正しく定に入る」です。これは禅定、坐禅を指します。
インドの宗教は全般にこうした禅定、広く言えば、ヨーガですね、これを非常に重要視しています。
古くは、紀元前1500年ごろのインダス文明、モヘンジョダロの遺跡から禅定のポーズをした土偶が出土されており、その頃から禅定が行われていたと推定されています。
禅定がなぜそれほど大事か、というと、これは真理を体感に落とす作業だからです。体感に落として初めて知識は智慧に変わります。
まあそういう意味では、正語〜正念も知識を智慧に変えるための実践行であるわけなのですけどね。
唯識的には、禅定状態の時はマナ識が働いていない状態とされますので、無常・無我・空・縁起などの真理をアーラヤ識にインストールしやすい状態にあると言えます。
結局は、アーラヤ識を浄化し、それによってマナ識の「自分にこだわる心」をほぐしていきます。
そして、全ては一なる宇宙であり、ワタシを含めた全存在は縁起によってつながっており、かつ、それぞれが現象としての個性を開花させているのだ、というものの見方をマスターしていくわけです。
そういう意味では、正定は正見の深まりのチェック機能も果たしていると言えます。
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