無我と輪廻転生 – 魂の永遠性についての考察

無我 輪廻

「無我と輪廻転生」がなぜ問題になるかというと、「仏教は無我を説いているのだから死後の霊魂を否定している」という言説がいまだにまかり通っており、そうすると、「魂という輪廻の主体がないのだから、輪廻説と矛盾してしまうのでは?」というところにあるのですね。

そして、この問題は現代に限らず、釈尊が亡くなったあと、教団がさまざまな部派に分裂した頃にも盛んに論じられた問題であります。

じつはこの問題については過去の記事でも少しずつ取り上げたことはあるのですが、今回はとくに表題通り、「無我と輪廻転生」という問題に焦点をあてて考察してみたいと思います。

目次

「無我だから魂はない」は誤りである理由

まず、無我について考察してみましょう。

「無我」をサンスクリット原語から考察してみる

無我のサンスクリット原語はカタカナ表記すると「アナートマン」と言います。

アナートマンとは、ア+アートマンの合成後です。それぞれ、

  • ア:否定の接頭語
  • アートマン:実体

という意味です。

なので、アナートマンとは直訳すれば、無我というより「非実体」という意味なのですね。

実際、仏教学の権威である故中村元教授は、「非我」と訳すことを提案しておられました。

実体とは、哲学で使う意味はおおよそ下記の3点に集約されます。

  • それ自体で存在できるもの
  • それ自体の本性を持つもの
  • 永遠不滅なもの

ですので、「無我=非実体」であるということは、これら3点を否定していることになるのですね。

無我が説かれるようになった経緯 – “ワタシ”は実体か?

ヒンズー教の前身であるバラモン教では、宇宙の最高原理であるブラフマン(梵天)と自己の本質であるアートマンは一体であり、それを自覚することにより、輪廻のくびきから解脱することができると説いておりました。

これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」と言います。

こうした”我”についての思想に対して、釈尊は「いや、我というのはそうではない、非実体・無我なのだ」とアンチテーゼ・新基軸を打ち出したのです。

それでは、なぜ釈尊は無我であると主張したのでしょうか。

上述した実体の定義に基づいて、私たち一人ひとりに当てはめて考えてみましょう。

まず、ワタシはワタシ自身で存在できるでしょうか?

ワタシが存在するのは親が産んでくれたからです。

そして、その親もそのまた親に産んでもらった・・・と究極まで考察すると138億年前のビッグバンにまで遡ることができます。時間的な経緯を考えると、ワタシはワタシ自身では存在できていません。

ビッグバン

また、ワタシが存在するためには、空気や水が必要です。

人間の身体は70%ほどは水でできていると言われています。水はワタシをたしかに構成しているのですが、では、水分を排泄したらその水はワタシなのでしょうか?

また、空気がなければ数分も生きていられるかどうか・・・ですよね。

このように空間軸で考えても、ワタシはワタシ自身では存在できていません。

それゆえに、実体の定義1の「それ自体で存在できるもの」の定義に適っていないのです。

さて、次に、ワタシは変わらぬ本性を持っているでしょうか?

家庭がある人であれば、配偶者から見たら夫や妻でありますが、子供から見たら親になります。

会社では課長であるかもしれません。趣味のサークルでは将棋の先生をしているかもしれません。

このようにワタシはワタシ自身の変わらない本性を持たず、関係性によってワタシの本性が変わっていきますので、実体の定義2である「それ自身の本性を持つもの」に適っていません。

また、ワタシは十年前のワタシと同じワタシでしょうか?・・・どころか、一秒前と比べても、その体内の構成物質やあるいは思考内容も変化していますよね。無常なのです。

ワタシは常に変化しているわけですから、実体の定義3の「永遠不滅なもの」の定義に適っていません。

結局、ワタシは実体の定義すべてに当てはまりませんでした。つまり、ワタシは非実体であることが分かります。釈尊の言うことが正しいのです。ワタシは無我なる存在であるのです。

釈尊はなぜ無我を説いたのか?

ただし、ワタシは現象としてはある、という側面を忘れてはいけません。

それがないと、修行論の根拠が成り立たなくなりますよね。

釈尊がなぜ無我を説いたかと言うと、まず、これは一言でいえば「執着を断つため」ということです。

ワタシを実体視するからこそ、ワタシに対するこだわりが生じ、結果、苦しみになります。

また、ワタシを実体視すると、

ワタシ – 他者(共同体)

という二元対立図式が生まれて、そこからまた他者や共同体への執着が生まれます。そして結果、苦しみが生じるということになります。

ところが、無我的観点から言えば、ワタシは他者や共同体と切り離しがたく縁起で結びついている現象であるのです。

そして、本来は、宇宙はひとつ(一如)であり、その内部に縁起の網が張り巡らされ、網と網の結び目にワタシや他者が現象としてある、という世界観になります。ここまでいくと、華厳や唯識の空の思想へ行きますけどね。

そうすると、他者というのは実は姿を変えたワタシに過ぎない、という覚りが生まれ、この自体一体の思想から布施の精神が生まれるのです。

布施はそれが良いことだからするという以上に、本来ワタシである他者に与えるわけですから、これはワタシがワタシに与えているのと同じことなのですね。

水が高いところから低いところへ流れるように、ひとつの宇宙のなかの充足したところから不足したところへ必要なものが移動しているだけだと言えるのです。

布施

慈悲の根拠はまさにこの自他一体の智慧の立場にあります。智慧と慈悲は宇宙の二大原理なのです。

死後の魂(霊魂)は存在しないのか?

次に死後の生命について考察してみます。

ここのところが、無我と輪廻転生の接点になります。

というのも、輪廻するためには輪廻の主体が必要であり、その主体こそが魂(霊魂)であるからです。

もっとも、輪廻の主体を(たとえば唯識思想においては)「アーラヤ識」と捉える考えもあります。

このことについては後述します。

ここでは、「無我は死後の魂を必然的に否定する思想であるのかどうか」を再検討してみたいと思います。

無我=無霊魂説の立場に立つ人は、ほぼ必ず、「釈尊は永遠不滅の存在を想定しなかったので(つまり、実体の第3の定義による)、魂はあり得ない」と主張します。

しかし、本当にそうなのでしょうか・・・?

仏教に「断常の中道」という考えがあります。これは中道論のひとつです。

肉体の死を契機に生命は絶たれてしまうという考えを「断見」と言います。一方で、死後も生前と同じような形態で生命が存続するという考えを「常見」と呼びます。

釈尊は、この常見と断見の二辺を離れた中道を説いたのです。まさしく断常の中道です。

中道

とすると、肉体の死後、魂はないという考えは明らかに断見(断滅論)に陥っていますよね。

なので、ここのところだけ考えても、無我=無霊魂説はおかしいということが分かるのです。

では一方、常見のほうはどうか?魂の存在を認めると常見になってしまうのでしょうか?

ここのところは、実体の第3の定義「永遠不滅の存在」というところに抵触しなければいいのです。

魂があるからといって、それは「永遠不滅の存在」を認めたことになるのでしょうか?

たとえば、昨日のワタシと今日のワタシは厳密に言えば違っていますよね。

それと同様に、肉体の死後、魂があったとしても、それが生前と同じ形態であるとは限らないのです。・・・というか、明らかに生存形態は変わっていくことでしょう。

なにせ、超厳密に言えば1秒前の自分と今の自分であっても、多少は(たとえば細胞レベルで見るならば)生存形態は変わっているからです。

なので、魂を認めたからといって、それは実体の第3の定義には別に抵触しないのです。なぜなら、無常の法則により、生前と死後では生存形態が変わりますし、「思いの内容」も常に変化しているからです。

ゆえに、繰り返しますが。ここではまさに断常の中道で考えれば良いわけですね。

一言でいえば、「魂は持続しつつ、変化する」で十分に断常の中道に適っています。

魂は、

  • 持続しつつ:断見の否定
  • 変化する:常見の否定

で、断常の中道に適っていますよね。

つまり、死後の魂も生前の生命と同じように、「実体ではないが現象としてある」で良いのです。

死後の魂

仏典には六道など死後の世界を語った記述が山ほどあります。

それらをすべて「釈尊は教学に未熟な在家の人々を導く方便として語った」と片づけるよりも、シンプルに「魂はある」と考えた方がスッキリと筋が通ります。

そうでないと、基本説法の三論(施論戒論生天論)もまるっきり嘘つきになってしまいますよね。

いくら釈尊が方便を使ったからといって、基本説法にまで持ち込むと考えることはかなり無理筋でしょう。

要は、無我=無霊魂説を唱える人というのは、シンプルに近現代の「科学主義」に毒されているのです。

まず、「魂ナンテソンナモノハアリエナイ」という思い込みが先にあり、その後、懸命に教学を継ぎ接ぎでつなげて論理化しようとしているに過ぎないのです。

ここのところ、もう少し詳細に考察した記事がありますので、参考になさってください。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

輪廻転生とは何か

輪廻を否定したがる人の「科学主義」

前項で「死後の魂はある」というお話をしました。

魂があるということですので、輪廻の主体はあることになり、少なくとも仏教的世界観では輪廻転生という生命の神秘が想定されるのです。

仏典には、「来世は天界に生まれる」など、輪廻の話が沢山出てきます。

この輪廻の思想は仏教以外の(現代における)ヒンズー教などとも共有しています。現代のインド人もよほど知性が高い人であっても多くは輪廻を信じております。

輪廻

また時折り、「仏教は輪廻を否定した」という方もいらっしゃるのですが、それは無我イコール無霊魂説を信奉しているがゆえに「だから、輪廻もないんだ。仏典で輪廻に言及している箇所は方便なんだ」と無理やり(無理筋)の教学を解釈しているに過ぎないのですね。

やはり、ここにあるのも、「輪廻ナンテアルワケガナイ」という近代科学主義に毒された思い込みに過ぎません。

科学主義は科学とは違います。

科学はつねに未知なるものに開かれていて、謙虚なのです。

一方で、「科学主義」は「すべてが物質に還元できる」というひとつのビリーフ(信念)の体系にしか過ぎません。

そして、そうした信念は「世俗主義」といっても良いですが、人類の永い歴史のなかでほんのここ2-300年の文明実験に過ぎないことを知っておいた方がいいでしょう。

輪廻の主体はアーラヤ識?

まず少なくとも仏教史の流れでは「輪廻はある」という大前提があり、それを当為のものとして、「では、無我なのになぜ輪廻するのか」という教学化に励んでいたといっても過言ではないのです。

それは仏教界外部からも「人間が無常・無我であると言うのであれば、輪廻の主体がないではないか?仏教は事実上、魂や来世を否定しているのではないか、それで宗教と言えるのか?」という批判にさらされていたのですね。

それに対して、涙ぐましいほどさまざまな理屈をつけて(魂以外の)輪廻の主体を考えてきたのですが、そのなかでの仏教側からの決定版(?)が唯識思想におけるアーラヤ識でした。

アーラヤ識は、人間の深層心理の最奥とでも言うべき場所で、ここは無常・無我であるがゆえに、輪廻転生の主体になりうる、と考えられたのでした。

実際、唯識思想を解説している本でもそのように主張されています。「アーラヤ識は無常であるがゆえに永遠不滅の実態であるとは言えない。しかし、カルマの種子を蓄えている場所で、それが来世のあり方を決めるので、こここそが輪廻の主体になるのだ」と。

しかし、アーラヤ識が「無常であるから」という理由で合格であるなら、魂であっても無常なわけですよね。

さきに見た通り、生前の我と死後の我とでは生存形態は変わると考えられますので無常だと言えるわけです。

ですから、やはり、「魂は”現象として”有る」でいいのです。より正確に言えば、「魂も実体では無いが、現象として有る」という「有無の中道」で十分、通じるはずです。

なので、わざわざ輪廻の主体を”発見”するまでもなかったと言えると思うのですが・・・。

それはともかくとして、唯識思想そのものは”空”を論理化した中観派と並んで大乗仏教の一大潮流であり、迷いと悟りの構造を明確化したという意味できわめて優れた学説です。

以下の記事で唯識思想を簡略にまとめましたので、興味ある方はお読みください。

*参考記事:唯識とは何か?ー 簡単に分かりやすく解説バージョン

結論:無我であっても輪廻転生は成立する

上述した通り、「断常の中道」でいけば、無我説と魂(霊魂)の存在は両立可能であることが分かりました。

もう一つ、経典から根拠を補強しておきましょうか。

アートマンが存在する、と断定すると常見に陥る
アートマンが存在しない、と断定すると断見に陥る
(サンユッタ・ニカーヤ(相応部)44・10)

これはもうかなりハッキリ書かれています。ここでも断常の中道です。

  • アートマン:実体
  • アナートマン:非実体

ということでしたね。

釈尊はこの両極端を離れて中道に入ったのです。

したがって、

  • 実体としての死後の生命はないと言える(無い
  • 非自体すなわち現象としては死後の生命はあると言える(有る

この「有無の中道」を歩んだというふうにも解釈できるでしょう。

そういうわけで、(現象としての)魂という輪廻の主体がありますので、輪廻転生は成立するという結論になります。

解脱と輪廻転生

次に、なぜ衆生は輪廻しているのか?解脱と輪廻の関係はどうなっているのか?について考察してみたいと思います。

原始釈迦仏教の時代は、「輪廻することは苦しいことであり、輪廻から逃れたい」という欲求が平均的なインド人の望みでした。

ですので、釈迦仏教に限らす、さまざまな思想家たちは「いかにして輪廻の枠から外れるか、二度と苦しみの輪廻をしないで済むか」という教えを説いていたのですね。

これがいわゆる”解脱”です。

解脱

釈尊も一応はそのニーズに合わせるために、四諦八正道などの教えでもって、「これを実践すれば解脱することができる」という主張をしていたのでした。

ただ今ままでもいくつかの記事に書いてきたのですが、釈尊にとって、「輪廻の枠組みから外れる」という物言いはあくまで方便で、実際のところは、「苦しみの輪廻から解脱して、主体的な輪廻を選択することができる」というのが本当の趣旨だったのだと私は思っています。

ここのところ、文献的には証明が難しいところで、たしかにさまざまな経典では「これが最後の生である。二度と生まれ変わることはない」といった決まり文句が書かれています。

なので、あくまで私の霊的洞察力でそのように解釈している、ということで、やはり学問的には証明はできません。

ここではとりあえず、「輪廻からの解脱」を前提に話を進めてみましょう。

 

(以下、執筆中)

 

 

 

 

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