自由と平等は、現代では(少なくとも民主主義社会では)当たり前の権利として説かれていますが、実感として、「自分は自由を満喫しており、平等を享受している」と思える人はほとんどいないのではないでしょうか。
自由と平等というのは、もともとは、フランス革命の理念、すなわち、「自由・平等・博愛」として掲げられ、それが、ナポレオンによって(結果的には)ヨーロッパ大陸に拡がっていった、というのが歴史的な経緯ですね。
話は逸れますが、軍事というものが一概に悪いとは言えない、というのは、こうした文化の伝播という面からも言えることでして、
古くは、古代ギリシャのマケドニアというところから、アレクサンダー(アレクサンドロス)大王がインドのあたりまで大遠征をして、一大帝国を築きました。
これだけだったら、「ああ、軍事的な征服事業があったのね」で終わってしまいそうですが、
アレクサンドロスの遠征によって、当時の東西文明の雄である、ギリシャ文明とインド文明が出会うことになり、結果、”ヘレニズム”という東西文明を総合した文明が誕生することになったのです。
仏教ではもともと、「仏陀を姿形に刻むのは畏れ多い」ということで、仏像などは作られていなかったのですが、このヘレニズム文明のおかげで、(この場合は、ギリシャ彫刻の影響で)仏像も作られるようになりました。
ギリシャ文明とインド文明の出会いの場所はあえて特定するならば、”ガンダーラ”という地方になりますので、ガンダーラ美術と呼ばれています。
なので、最初期の仏像であるガンダーラ仏は、現代の美的感覚から言っても、”イケメン”に見えますよね。
というのも、現代の私たちの美的感覚は、直接的には、ルネッサンスあたりに起源があると思いますが、
ルネッサンスというのは、文字どおり、「再生」という意味で、何を再生するのかというと、「古代ギリシャ・ローマ(の人間性開放)」を再生しよう!という運動だったのです。
なので、ギリシャ彫刻の影響を受けているガンダーラ仏がイケメンに見えるわけですね。
フランス革命の「自由・平等・博愛」はそれぞれ両立しうるのか?
さて、まず、”平等”ということから考えてみると、世の中はまるっきり平等になっていませんね。生まれ落ちた国も、家庭環境も違いますし、容姿の良し悪しがあり、家の資産状態も違います。
また、基本的には、”自由”を発揮していくと、各人それぞれの資質・努力・才能の違いにより、格差が拡がっていく傾向があります。
格差が広がるということは、平等というよりむしろ不平等を促進することになるのは自明の理です。
そうすると、”自由・平等”というと、耳に聞こえは良いのですが、この2つの概念は互いに矛盾をきたしていることがわかります。
そこで、”博愛”という概念が必要になってくるのです。
つまり、自由を発揮した結果、成功者になった者は、”博愛”という一種の貴族的精神、これは”ノブレス・オブリージュ”と呼ばれるものですね、義務概念です。
ノブレス・オブリージュによって、たとえば所得の再分配がなされたり、あるいは成功者がより大きな社会的責任を負うことによって、なるべく格差を縮めていく方向性をとるわけです。
博愛によって、自由と平等をなるべく両立させていく方向性です。
かのルドルフ・シュタイナーも”友愛”という概念で自由と平等を架橋しようとしました。
しかし、とは言っても、いつもいつもノブレス・オブリージュもしくは友愛が発揮されるとは限りませんし、民主主義国家であっても、やはり格差社会が根強く残っています。
なので現実問題としては、やはり依然として、自由と平等はなかなか両立し得ていない、というのが現状であると思われます。
機会の平等と自由の発揮
こうした矛盾は結局のところ、”平等”というのが”結果平等”と考えられがちであるところに問題があるように思われます。
各人が自由を発揮していけば、だんだんと格差が出てきますので、どうあっても結果としての平等からは離れていくことになりますよね。
なので、”平等”という概念を、結果論ではなく”機会としての平等”と捉えていくことが肝要です。
機会(チャンス)は平等であるけれども、そのチャンスをいかに活かせるか?というのは自由の問題です。
そしてその結果、格差が生じたとしても、それは”努力相応”の世界が現れているわけですので、これは公平な結果であると言えるでしょう。
このように、自由と平等を「機会(チャンス)の平等と自由の発揮」と捉えていくのが正解でしょう。
むろん、そこに”博愛”というノブレス・オブリージュが発揮されれば、結果としての格差も多少は縮小していく方向にはなるでしょう。
自由と平等の矛盾を真に解決するのは”輪廻転生”
さて、とは言っても、やはりまだモヤモヤが残るところはありますよね。
…というのも、「機会(チャンス)の平等」と上で述べましたが、私たちの社会を見渡してみると、各々の人たちはそれほど理想的に機会(チャンス)の平等を得ているわけではないことは自明の理です。
単純な話し、生まれによって、たとえば、資産家の子供として生まれたか?貧しい家に生まれたか?によって、機会の平等はもろくも崩れ去っています。
また、各人一人ひとり、才能や容姿の違いもあります。
なので、機会(チャンス)の平等と言っても、それは現実問題としてはまったく機能していないように思われますよね。
そこで登場するのが、意外にも輪廻転生の思想なのです。
人間は永遠の生命を持っていて、輪廻転生の過程にある、と考えると、まったく別の風景が視えてくることになります。
簡単に言ってしまえば、「算数がすぐできるようになる子は、過去世でも算数をちゃんと勉強していたから」ということなのです。
これ、すごく腑に落ちませんか?
そう、
今世だけで考えてみると、不平等に見えても、「過去世からの蓄積の差なんですよ」ということであれば、「機会は平等であったけれども、努力相応の差が出ている」という”公平”の観点が入ってきますよね。
神に創造された時点では平等であったけれども、各人が数限りない輪廻転生を繰り返していくうちに、その過程で差が出てしまっているのだ、という考え方です。
ここではじめて、自由と平等が架橋されることになります。
繰り返しますが、今世だけを見ているから機会(チャンス)の平等が実現されていない不平等な世界であると思われてしまうのですが、
輪廻転生という観点を入れると、「機会は平等であったけれども、数限りない転生の過程でどれだけ自由を発揮してきたか?どの分野で自由を発揮してきたか?」で公平な世界が展開していることが分かります。
なので、タイトル通り、「自由と平等の矛盾・対立を解消するのは”輪廻転生”の思想」なのです。
また、輪廻転生を信じることによって、いくつかの大きなメリットを得ることができます。
大きくは、下記の3点を挙げることができます。
- 嫉妬心から開放される
- 課題にチャレンジする機会が増える
- 数多くの紛争解決の糸口ともなる
これら3点については、下記の記事で詳述しておりますので、ぜひお読みください。
*参考記事:リインカーネーションの意味 – 無限の輪廻転生に有限の花を咲かせる
そういうわけで、スピリチュアリズムを受け入れがたい…という人であっても、本当は、損得勘定で考えただけでも、輪廻転生の思想は受け入れたほうが幸福に暮らせるのです。
それで結果的に、仮に、ですよ、
輪廻とか来世がなかったとしても、「騙された!」と感じる自分がそもそも消滅しているのであれば、「悔しいと思う自分」もない、ということになるわけじゃないですか。
以上の考察で、本当の意味で「自由と平等」を理解する、享受するためには、輪廻転生を受け入れないと無理だ、ということがお分かりになられたのではないかと思います。
べつの観点から言えば、
当サイトでよく言っている”縁起の法”(原因と結果の法則)は、輪廻転生の思想のなかで、しっかり保証・担保されているということになります。
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