諸葛孔明の兵法とネオ仏法

目次

軍略と哲学

一般的には、軍略と哲学というとまったく別物、という認識でしょう。実際に、適用する場も違いますしね。

しかし、ネオ仏法では、この軍略・哲学をいわば表裏一体のもの、もしくは補完関係にあるもの、と捉えています

これはそもそも、例の「実在と現象」の初歩的な理解に通じるところがありまして。

つまり、今われわれが現に地上に生命を持っている世界を「現象界」、肉体の死を迎えた後に赴く世界を「実在界」と、まずはざっくり分けます。

*この「実在と現象」の関係は究極的にはこれほど単純ではないですが、まずは第一歩としてこのように捉えるのが、実践的な意味では正しいかと思います。

そして、仏教・宗教にありがちな、「現象界を仮の世界、厭うべき世界として捉える」のではなく、現象界そのものにもっと積極的な意味を込めていく

それこそが「実在が(仮にわざわざ)現象している」ということの本当の意義でもあります。これがネオ仏法の立場です。

この、「現象界においても勝利していく」という意味合いにおいて、軍略というのは、実際の戦争の場だけではなく、実社会において、実生活において、十分に応用可能な考え方

という位置づけに置くことができます。

仏陀と孔明の共通点

仏陀と孔明を並べて論じること自体がどうなのか?という議論もあるかと思いますが、この両者は意外に根本的な共通点があります。

  • 第一点:正直である。ありのままに物事を眺めている
  • 第二点:トータルな設計図を持っている(体系的である)

まず、第一点のほうからお話します。

釈尊は、人生を「苦である」という認識から出発しました。

人は誰であっても、栄耀栄華を極めようが、「生老病死」を始めとした四苦八苦からは逃れられない、という認識です。

これはじつに当たり前な認識であるのですが、あまりにも当たり前過ぎて、意外に思想家・宗教家はスルーしていく人も多いです。

「苦」が人生の根本問題であるならば、四苦八苦を克服すること、言葉を換えれば「生死(しょうじ)を見極めること」なしに、悟り・智慧というのはありえない、ということ、

この「当たり前な正直さ」が仏陀の出発点ですね。

一方、孔明は有名な「天下三分の計」を説きました。

天下三分が完成した地図は下記の状態です。

 

 

 

 

 

三国のそれぞれのトップは、

  • 魏:曹操
  • 呉:孫権
  • 蜀:劉備

ですね。孔明は劉備の軍師になって、蜀の建国を手伝ったわけです。

ところが、孔明加入前の状態は、こんな感じで、

 

 

 

 

 

 

 

蜀はまだ劉備の領土ではありません。…どころか、劉備は地図の真ん中あたりにある荊州の劉表という王の食客に甘んじていた状態でした。

つまり、領土ゼロ。

関羽・張飛という豪傑を従え、数十年も戦さをやってきたのにこの有様です。

しかし、その当時衰えていた「漢王室を助けたい」「義のために、天下国家のために尽くしたい」という理想だけは本物でした。
*まあここは異論があるかもしれませんが、とりあえずその前提で進めます。

その時点でようやく劉備は孔明を軍師として迎えることになります。

そして、孔明が軍師になるにあたって、一番最初に提言したのが「天下三分の計」です。

「天下三分の計」というと、なにか、超常的な戦略と思ってしまいますが、実際はどうであるかというと。

要は、すでに北方の最大の版図は魏の曹操が押さえており、かつ、中国大陸の要衝の地はほとんどここに集中しています。

なので、「魏を倒すのはもう無理!」という、じつにあっけないくらい正直な判断をしているわけです。

ではどうするかというと、まず荊州を奪取し、そこを拠点にして、蜀を攻め取る。

蜀の国は僻地ではありますが、有名な函谷関(かんこくかん)などがあり、守るのには適していると。

そして、蜀・呉の同盟によって魏に当たること。その三国のバランスを守り抜くこと

これが天下三分の計です。

*もっとも、劉備の死後、蜀は人材不足になり、孔明は自ら生きているうちに魏を倒しておかないと、そもそも蜀の命脈は続かない、という判断から北伐(魏の討伐)に乗り出すことにはなります。

荊州の守備を関羽に任せるに当たり、孔明は「貴公はどのように荊州を守るか?」と関羽に聞いています。

関羽は、「身命を賭して守り抜く」といった具合に答えているのですが、孔明は、「それではダメだ。北は曹操を防ぎ東は孫権と和せよ」とシンプルにアドバイスしています。

この言葉も、天下三分の計そのものですね。
*もっとも、関羽はこの言葉を守れませんでした。

このように、孔明の基本戦略は、あっけないくらい正直なものの見方が基礎になっていることが分かります。

次に、第二点:トータルな設計図を持っている(体系的である)

のところです。

仏陀の思想がトータルで体系的なものであったのか?ということについては、現在、「そうではなかった」という異論があるかと思います。

「無常・苦・無我」や「十二因縁」「四諦八正道」という、仏陀の根本説法についても、元来は断片的なものであって、トータルなものは後世の弟子たちによって整えられていった、という考え方が主流であるかもしれません。

まあ、「十二支縁起」など、12項目に分けて細かく…というのはさすがにそういう面があったとは思います。

しかし、私の見方では、具体的な説法の場では、「対機説法(たいきせっぽう)」(=相手の機根に合わせて必要な説法をするという意味)をしておりましたので、断片的であったかもしれませんが、

仏陀の思想としては、45年間の悟りの深まりと布教活動によって、トータルな思想体系は備えていた、と見ています。

最初の説法(初転法輪)ですでに、四諦八正道が語られている、というのもある程度、真実であるかと思います。

実際に、「無常・苦・無我」という考えからは、諸行無常(時間論)・諸法無我(空間論)・涅槃寂静(時間と空間を総合し、苦を克服した状態)というトータル思想を導き出すことができますし、

そのことは別の論考で書いておりますが、これは私自身の考えというよりも、仏陀の悟りとして、すでに仏陀在世中にそうしたトータルな思想構成力を備えていた、というふうに私は見ています。

孔明については、もちろん、「天下三分の計」がトータルな設計図になっており、これが最高戦略です。

そしてこの最高戦略を達成するために、個々の戦術が組まれております。

なので、

「トータル(全体)から個へ」という道順は、仏陀と孔明に共通するところかな、と思います。

仏陀においては、トータルな思想体系があり、ただし、個別的な対機説法としてそれぞれに説法を組み立てていた。

また、孔明においても、「天下三分の計」というトータル戦略から、個々の戦術が組み立てられていた、ということですね。

ちなみに、「三国志を勉強してみたい」という方は、もはや古典的な本ですが、吉川英治の『三国志』がお薦めです。

20世紀は相対主義全盛の時代でしたので、「孔明もひとりの人間だった」的な本が沢山でましたが、これは何ていうか、共産主義的な「結果平等」の影響からくる「引きずり下ろし」ですね。

作り話はもちろんありますが、スピリチュアル的に見て、トータルな「孔明の全体像」はむしろ、作り話コミの『三国志』のほうが事実というより「真実」という意味で、正確です。

ただ、吉川三国志は文庫版で全8巻で、「忙しくてそこまでは読み通せる自信がない」という方もいらっしゃるでしょう。

Kindle版では無料で読めます。

そういう方には、いっそ、横山光輝の漫画『三国志』がお薦めです。ま、漫画とはいえ、全60巻なんですけどね…。

正直、私はこちらの漫画のほうをよく読み返しています(笑)。

戦略と戦術の関係とは

上述したように、一番大きな目標が「戦略」であり、その戦略を達成するための個々の打ちてが「戦術」ということになります。

ただし、

ネオ仏法として、「実在性に諸段階がある」というふうにご説明しておりまして。

「実在というものも、より上位の実在から見ると現象である。現象も、より下位の現象から見ると実在であると言える」というふうに書いたことがあります。

これと同じように、

ある戦術も、より下位の戦術から見れば「戦略」となり、ある戦略も、より上位の戦略から見れば「戦術である」ということが言えるかと思います。

たとえば、「プロ野球の選手になりたい」という戦略を立てるとします。

そうすると、「高校も野球の強いところに入学して活躍したほうがスカウト的に有利だろう」という戦術が成り立ちますね。

ところが、「野球の強い高校に入学する」ための色々な準備や勉強があります。

その準備・勉強から見れば、「野球の強い高校に入学する」は戦略に当たります。

また、準備・勉強にしても、「そもそも、中間テストで良い成績を取るには」といったより下位の戦術から見れば、今度は準備・勉強自体が「戦略」に変わっていきます。

このように、哲学的に「実在性に諸段階がある」ということは、軍略的に言えば、「戦略性に諸段階がある」と言い換えることもできるでしょう。

どこを押さえれば勝ちになるか?どこを押さえれば負けないか?

私たちの仕事や生活に軍略を活用していくのであれば、やはり、上述したように「基本戦略」「大戦略」を持つことが大事です。

これは有名な『7つの習慣』の第二の習慣で、「自分の葬式の場面を想像して、参列者にどんな人だったと言われたいか?それがあなたの使命である」といったふうなことが書かれていますよね。

これが人生の基本戦略になります。

これを考えることなくして、日々の忙しさにかまけて時間を過ごしていくと、あっという間に人生は過ぎ去っていきます。

ただし、その基本戦略をおおごとに捉えすぎないのもやはり大事だと思うんですね。

「思い・願いは無限の可能性を持っている!」とポジティブ思考で組み立てようとすると、文字通り、「夢物語」な戦略になってしまいます。

なので、自分の実力・適正・志向・現在地点から考えて、ある程度、妥当性のある戦略を立てたほうが勝ちやすいのは事実です。

また、実際にそのほうが進化の速度という意味でも早くなると思いますね。

なので、仏陀・孔明的な「正直な目」というのがまず必要です。

次に、

どこを押さえれば自分は人生に勝ったと言えるのか?これを考えてみることです。

そしてさらに、「負けない戦い」を考える段階があります。

これは私のビジネス系ブログをお読みになったことがある方にとっては、よく聞く物言いですよね(笑)。

やはり、人生にはいろいろと不慮な事態も起こってきます。

なので、「ここが崩されても、こちらを守り抜けば少なくとも負けにはならない」ということも考えておいたほうが良いです。

仕事であっても、会社や事業には寿命というものがあります。

それが永遠に続くと思っていると、あるときに足をすくわれることもありえます。

なので、松下幸之助の「ダム経営」ではないですが、不測の事態が起きても対処できるようにしておくこと。

また、事業や仕事・生活が順調なときにこそ、次の種を育てておくこと。

そういう考え方や打ち手を意識していると、第一陣が突破されても、まだ第二陣、第三陣がある、という安心感があります。

つまり、「勝てるとまでいかなくても、少なくとも負けない」という状態をなるべくデフォルトに近づけるようにするわけです。

その「負けていない」状態がデフォルトになっていれば、あるときに勝利すれば、それがすなわち、「勝ち」ということになりますよね。

まとめますと、

  1. 大戦略を持つこと
  2. 勝ちポイントはどこかを見つけること
  3. 負けないポイントも見極めること

ということになりますね。

また、「戦略性の諸段階」で上述したとおり、どちらが戦略でどれが戦術なのか?という見極めも当然、大事だと思います。

言い換えれば、「何が大で、何が小であるか?」ということですね。

当サイトではよく、「菩薩界を目指しましょう!」と申し上げていますが、菩薩界は当然、リーダーの世界です。

そして、リーダーとはまさしく、「物事の大と小を峻別できる人」なんですよ。

「何が幹で、何が枝葉なのか?」「何が本質で、何が些末なのか?」を見抜ける人がリーダーです。

仏陀と孔明を並べて論じる、という破天荒な(?)論考でしたが、参考になれば幸いです。

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