お墓・仏壇にはスピリチュアル的に意味があるのか?

お墓参り スピリチュアル

先祖供養にからめて、「お墓・仏壇」のスピリチュアル的意義をネオ仏法的に解説していきます。

目次

釈尊没後しばらくは、そもそも仏像は作られていなかった

もともと、釈尊の仏教では、先祖供養についてそれほど深入りしていたわけではありません。葬式についても同様です。

むしろ、「バラモン人たちの職業まで奪ってはいけない」という釈尊特有の優しさから、こうした儀式的なものには手を出していなかった、という側面があります。

ただし、仏典には、十大弟子のひとり、目連(もくれん)の逸話が残っていまして。

「神通第一」と言われていた目連が母親を霊視したところ、餓鬼地獄に堕ちていたんですね。

そして、母親をなんとか救う方法は?ということで、釈尊にアドバイスを求めています。お盆の起源は仏典としてはこのあたりに根拠があるようです。

また、釈尊の時代はもとより、ずいぶん時代がくだってからも、そもそも「仏像を作る」という発想はありませんでした。

これは、偉大な存在(釈尊)をカタチあるものとして表現するのは畏れ多い、という価値観から出ていまして、当時は「法輪(ほうりん)」ですね、

教えが広がっていくさまを仏教では、「法輪を転じる」と呼んでいますが、その法輪を釈尊の象徴として礼拝していた、というのが当初のありようです。

法輪

The Dharmacakra, Wheel of Dharma. Vector Format.

その後、マケドニアのアレクサンドロスの東征をきっかけにギリシャ文明とインド文明の出会いがあるわけですが、

ギリシャ文明にあった彫刻ですね、これはみなさんご存知の通り、優れた芸術ですが、このギリシャ彫刻の影響を受けて、次第に仏像が作られるようになっていったと、こうした歴史的経緯があります。

なので、少なくとも釈尊の同時代においては、仏像および仏壇はもちろんありませんし、先祖供養も積極的に行っていたわけではありません

とくに先祖供養については、インド→中国へ大乗仏教が広がっていくにつれて、中国にもともとあった「孝」の思想ですね、これはもちろん儒教的価値観ですが、この思想の影響を受けて、仏教も変容していったのが歴史的経緯でしょう。

こうした”孝”の思想は、日本にももちろん伝わって影響を発揮していますが、日本は日本で、もともと「先祖を大事にする」という風習がありました。

まあ、日本に限らず古代文明では先祖をとても大事にする風習は洋の東西を問わずあったわけです。

映画『ロード・オブ・ザ・リング』では、セオデン王が戦死する間際に、「これでご先祖の前に恥ずかしくなく顔をだせるわ」みたいな(記憶で書いてますので、正確ではないです)セリフがありますが、

あれは、やはり、キリスト教以前のヨーロッパの原型ですね。

私が映画『ロード・オブ・ザ・リング』を観ていると、

  • ローハン:古代ケルト文明
  • ゴンドール:古代ゲルマン文明

の原型が記憶の古層から揺さぶられるような、そんな印象を受けます。
*ゴンドールには、「中世の騎士」、のイメージもあるでしょう。

パワースポットはいかにして出現するか?

それでは、じゃあ、変容した日本の仏教とそれに基づいた仏壇は、オリジナル仏教にはないものであるから意味がない、と言えるのか?

これは、実際のところ、「意味がないとは言えない」というのが私の考え方、感じ方です。

仏教に限らず、伊勢神宮とかいろいろなパワースポットというのが存在します。

伊勢神宮で言えば、これは物質的には、「ある土地にある木造建築が建っている」というだけのことですよね。

しかし、ある程度霊的な資質を持った人が伊勢神宮に参拝すると、光の洪水を浴びているような、個人差はあるでしょうが、そんな感覚に打たれることもあるでしょう。

伊勢神宮

では、下町の木造アパートと伊勢神宮のどこが違っているのか?ということですが、

これはまず、原初に「この場所を霊的な中心地にする」という建設者の念いがあり、

さらに、実際に建築された後、神職者が祭事を執り行い、そして、多くの信者が参拝し、尊崇の念を送り続けてきた、という事実ですね。

この念の積み重ねによって、地上と霊界の間に「架け橋ができた」とでも言いましょうか。

まあ、「高級霊域と通信可能な基地」と言っても良いですが、そうした磁場がだんだんと形成されていくことになります。

ただ、毎日伊勢神宮なり菩提寺に参拝できるわけではないですから、家庭内にもミニチュアの通信基地を設置しようと。

これがいわば、神棚であり、仏壇であるわけです。

仏教で言えば、家庭内仏壇→菩提寺→総本山→(その宗派の)高級霊域、といったふうに、まあ発電所から各家庭に、みたいなイメージですかね、これ。

なので、パワースポット全般に言えることですが、地上の人の信仰がたつと、その場所が霊界でもパラレルに、信仰を受け付ける場が出現する

そして、地上のとある場所が「霊的な磁場」となって、通信・交流可能な「場」になる、といった経緯をたどっていきます。

もっとも、パワースポットといっても、「良いパワースポット」と「悪いパワースポット」がありますので、注意は必要です。

この点、「霊的なバイブレーションを感じるから、とにかく素晴らしい」といった考え方には注意が必要です。

お墓・仏壇は結局、スピリチュアル的に意味があるのか?

上記の考察をもとに考えると、

地上世界とあの世の世界の霊人のニーズが一致した結果、お墓や仏壇が重視されている面がありますので、その「大事だ」という思いがあるからこそ、結果的に大事になってしまっている、という順序だと思います。

つまり、”事後的”にスピリチュアル的に意味ができてしまったという順序です。

仏壇については、上述したように、本来は「高級霊域と交流するための家庭内基地」という理解がよろしいかと思います。

実際、本来の仏壇は、先祖の位牌を祀るというのではなく、文字通り「仏壇」ですから、第一義的には仏陀への信仰の場ですね。大乗仏教では、釈尊であったり、阿弥陀如来であったり、様々ですが、

基本は、仏像を安置し、そして念を向けていく。これ、文字通り、「念仏」ですね。これがやはり中心であるべきだと思います。

なので、仏壇というのは、家の中でもっとも抹香臭い場ではなくて、もっとも光を放つ場、として、芸術的にはですよ、「家庭内で一番お洒落な場」であってもいいくらいですね。

芸術も神仏(真実在)の表現形態であり、「お洒落れ」も神仏の一顕現であるところの個を表現する、ということでいけば、当然、そういう発想も成り立ちます。

読者の中で空間芸術が得意な方がいらっしゃれば、こういった風な、新時代の仏法にふさわしい仏壇を作って頂けるとありがたいのにな、と思います。

あるいは、仏像・仏画もそうですね。

なので、仏壇の前で先祖供養を執り行うのもひとつのあり方ではありますが、本当は、第一義的には、仏陀への信仰の場であるべきだと思います。

「ひとつのあり方」と書きましたが、

逆に、先祖供養については、上記の信仰がきっちりとたって、「高級霊域との交流の場」が確立されているのであれば、霊的な安全度からいっても、仏壇の前で執り行ったほうが良いですね。

あとは、お墓ですね。

お墓はそのものは、まずこれは「菩提寺」の敷地の一部にあるものですので、やはり本当は菩提寺においても、仏陀(くどいようですが、さまざまなブッダがおりますが)への信仰が中心にあるべきで。

遺骨を菩提寺内に安置するのは、元来は、亡くなった家族・親族も仏陀とともに居て欲しい、という願いですね。こうした高級な霊域にあって欲しい、という願い。

これが本来的なあり方だろうな、と思います。そして、その願いとともに、先祖の安息の場の”象徴”としてお墓がある、と。

 *参考記事:戒名・葬式・読経はいらないのか?スピリチュアル的に検証してみた

なので、現代では仏壇もお墓も法事と言いますか、先祖供養中心になっていますが、やはり、順序が違う感じはしますね。

先祖供養はそもそも必要か?

得意の「そもそも論」に来ました(笑)。

いやしかし、今回のそもそも論は一概に否定していくつもりではないのです。

やはり、まず、家族・親族・先祖あっての自分ですからね。

少なくとも、地上に降りて生まれるためには肉体が必要で、その肉体を連綿と提供してゆく流れ。この流れの川上にご先祖がいらっしゃるわけです。

なので、やはり感謝の思いをもつべきですし、ときおり、そうした念を送るのは大切なことかと思います。

しかし一方で、先祖供養のやりすぎも、文字通り「やり過ぎ」なのも事実です。

家族・親族・先祖といっても、本来、霊的な存在としては自分とは別個の存在ですし、運命を形作るにあたっては、まずは、自分は自分の因果の法(原因・結果の法則)に目を向けるのが原則です。

逆に言えば、この「因果の法」に反してくると、これは、「先祖供養のやり過ぎ」という判断になりますし、また、実際に実害も出てしまうことがあります。というか、このケース、じつに多いです。

というのも、

「今日も先祖供養しなきゃ、明日も!」とやっていると、これは、いわば、「先祖に毎日電話をかけている」ようなものなので、縁は強化されますが、

問題は、先祖が迷っている(地獄領域に堕ちている/地縛霊になっている)ケースです。

この場合、あまりに先祖に意識を向けすぎると、これは単純に「憑依現象」が起きることになります。

とくに、「今の自分の不幸を何とかするために先祖供養をする」という想いが危ないですね。

*参考記事:「先祖の因縁を断ち切る」はあり得ない理由

こういう念いで供養をしていると、先祖の方も、

「今、自分が苦しい世界にいるのは子孫の供養が足りないせいだ」と、こういうふうに思うようになってきます。

すると、子孫も先祖もお互い、他責の状態になってしまいます。

他責

因果の法は、原因・結果の法則ですから、これは主体性の原理に直結しなければ意味がないんです。

そして、自己責任論であるからこそ、そもそもこの世(現象界)での修行が成り立つ、という構造になっています。

これが、上記のような「お互いに他責し合う」という状態になると、先祖の方もますます迷いが深くなり、子孫のほうも死後、迷っている先祖と同じ世界(地獄領域)に赴くことになります。

実際、明治以降の新宗教・新新宗教には先祖供養タイプのものが多いですが、はっきり申し上げて、その多くが「悪霊の生産工場になっている」のが現状です。

これは私も実体験したことがありまして。

母が父の病気治しのために、ある宗教団体に入って、先祖供養を始めたことがあるんですね。*ただし、その宗教は今から考えると、教義的にはそんなにわるいものではなかったと思います

で、仏壇の前で家族が集って、過去帳を手にとって、先祖ひとりひとりの名前を読み上げるんですよ。

その上でお経をあげる、というスタイルだったのですが、

私については、先祖の名前を順に読み上げる、という段階で、冷気がぞくぞく!っとくる感じがしました。

だけでなく、身体が勝手に動いてしまう現象が起きまして、母が、「あんた、なにやってんの??」みたいな。

これは今から考えると、(というか、もうその時点で気づいたのですが)、呼ばれた代々の先祖のなかには迷っている方もいらっしゃるわけで、

それだけでなく、おそらくは、住んでおられる領域(はっきり言えば、地獄界)の「お友だち」まで連れてきてしまったと思われます。

そういうわけで、部屋中、迷っているお友達だらけ、になってしまったことがあります。

もっとも、こう言うと、「それは供養の仕方が間違っている」とか、いろいろあると思いますが。

先祖供養型の(悪い)宗教の上手い(巧みな)ところをひとつ指摘しておきますね。

それは、たしかに先祖供養をすると、一時的に身軽になったような、運命が好転したような気がするときもあると思うんです。

文字通り、「憑き物が落ちた」というやつです。「悪霊がいなくなった!」という。

しかし、これ、地上に置き換えて考えると、ですね…、

チンピラに絡まれていたので、ヤクザに頼んで追い払ってもらったと。

で、チンピラが去ってホッと一息、もつかの間、今度はヤクザに因縁をつけあれるようになった、みたいな。

そして今度は、「それも困る」ということで、「もっともっと供養が足りない!」ということで続けると、

最後はヤクザの親玉に捕まってしまった、と言ったふうなアレですかね。もう抜けようがない状態になってしまう。

まあ例えて言えば、こんな感じだと思います。

そういうわけで、先祖供養に行き過ぎるのもまた問題あり、なんですね。

そもそも、よほど修行が進んでいる方でないと、誰が迷っていて誰が迷っていないか、の区別もつきませんし。

じゃあ分からないから全員呼びますか…となると、上記の弊害が起きてきますからね。

なので、「程良く」と申しますか、

やはり、万能なのは、「感謝の念」です。

感謝

感謝の念はそもそも地獄霊とバイブレーションが合いませんので、オールマイティな先祖供養法です。

ただ、それにしても、「毎日、朝晩やる」というのも行き過ぎだと思いますよ。

やはり、先の「因果の法」を中心に据えて考えると、基本は自分で自分を正し、そして、「今、身の回りに地上で生きている人に慈悲を発揮する」のが原則です。

あの世のことはあの世の霊人に原則、任せたほうが良いです。

また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。

 イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。

 そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。(マタイによる福音書8章:21-22節)

「イエ」の考えの変容の結果…

前半で、地上と霊界はパラレルになっている、と書きました。

地上の価値観が変わると、パラレルに霊界の価値観も変わっていきます。

これは結局、誰しもいつかは死にますからね。

地上で自動車に乗っていた人が、霊界に還ったからといって、馬に乗ったりはしないんですよ、移動の際に。
*もっとも霊界の自動車というのも、念によって仮に現象として現れているものです

道具にしてこうですので、価値観はもっと根本的な変化を引き起こします。

やはり、現代、とくに都市部では、もうあまり、「イエ」(家)という価値観は希薄になってきていますよね。

「夫婦別姓」の論調もありますし、逆に、「家系を絶やさないために婿を」とかの考えは違和感が、という人が増えていると思います。

家系に関する意識が変われば、当然、先祖に対する意識も変わります

そして、そういう現代人が霊界に還ると、地上にいる子孫に対する意識も希薄になります。

まあ、孫・ひ孫くらいまではあるかもしれませんが、これも人それぞれで、少なくとも、昔に比べると、ずいぶんと先祖・子孫という価値観も変わっていっていますね。

そうすると、結果、先祖供養の発想・考えもやはり今後、変わっていくのかな、と思います。

この「イエ」(家)の思想の変容が良いものであるのかどうか?は、また別のトピックになりますので、今回は触れませんが、

しかし、個人主義が進んでくるとどうしてもそうした変容は避けがたいものとして起きてきますよね。

以上、まとまりがあったかどうか、分かりませんが、何か参考になれば幸いです。

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