テーラワーダ仏教批判の第四回目です。
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今回の「涅槃論」がおそらくは、上座仏教(テーラワーダ仏教)が釈尊の本意を誤解しているところの最大の論点である、と考えています。
涅槃=甘露=不死の等式
涅槃は、仏教の旗印である三法印もしくは四法印のひとつです。
三法印は、
- 諸行無常:もろもろの現象は過ぎ去ってゆく
- 諸法無我:もろもろの存在はそれ自体では存在することが出来ない
- 涅槃寂静:煩悩から解脱し、平安な境地に至る
ということになりますが、これに
- 一切行苦(一切皆苦);一切の現象は苦である
を付け加えて、四法印と呼ぶこともあります。
三法印と四法印については、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。
*参考記事:三法印と四法印はどのように関係してくるのか? – 一切皆苦と涅槃寂静をめぐる考察
それ以外で、涅槃にまつわるターム(用語)を整理しておきます。
- 解脱:無明(=智慧のない状態)から脱して、輪廻転生から解放されること
- 涅槃:解脱した結果、得られる平安な境地
- 阿羅漢:涅槃の境地を手に入れた修行の位(くらい)、最高位
と、まとめるとこういうふうになるかと思います。
要は、「輪廻転生から外れることが涅槃であり、それこそが仏教が目指すところである」ということになりますね。
まあたしかに、ふつうに初期仏教の経典(パーリ聖典/阿含経典)を読んでいると、そのように読めてしまいます。
「もはや、迷いの生は尽きた。二度と生まれることはない」といった文言が沢山あります。
これは、釈尊の時代以前からの幸福論についても考えなくてはいけないところです。
つまり、
「地獄・餓鬼・畜生…などの輪廻はもとより、天界の住人であってもやはり、寿命は尽きてしまい、また天界に生まれられるかどうかはわからない。なので、根本的には、輪廻の流れを断ち切ってそこから脱出するのが幸福なことである」
という考え方が基礎になっています。
そして、釈尊の仏教もこの前提を活かした上で、修行の方法論を組み立てていったのは事実だろうとは思います。
しかし、(もはや文献的には証明しきれませんが)釈尊の本意はそういうことではありません。
仏典にわずかに残されている手がかりとしては、”「迷いの」生は尽きた”という表現です。
ここから汲み取るべきは、迷い・無明に基づいた輪廻が苦しみなのである、ということです。
逆に言えば、迷い・無明から脱していれば、輪廻そのものも苦であるとは言えない、という解釈が成り立ちます。
そして、私が提唱しているネオ仏法は、まずは基礎的にはこの考え方を採ります。
*そして、さらに積極的に輪廻を評価していく方向へ行きます。
なので、釈尊としては当時の人々が「これが幸福なことである」と切に望んでいたことをベースにして法を説いていたのは事実であるけれども、本意としてはそういうことではなかった、ということです。
そして、残念ながら、釈尊の本意は現在伝えられている初期経典から直接に読み取ること(文献・字句解釈によっては)は不可能である、という事実があります。
上座仏教(テーラワーダ仏教)としては、釈尊の直説をそのまま保持している、という立場でありましょうが、実際は、釈尊の教法が口伝で伝えられていくうちに、どんどん抜け落ちていくものがあった。
逆に、釈尊の本意から外れているものが追加・増広されているところもあった、ということです。
その代表的なものが今回のテーマである「涅槃論」なんです。
「そうは言っても、釈尊没後、すぐに第一結集を行われており、仏法が後世誤解されないように手は打たれていた」ということは歴史的事実ではありますが、
涅槃経を注意深く読むと、後半の方で、マハーカーシャパが先導した第一結集の内容そのものに同意できない高弟がいた、という描写がありますね。
そしてそれは、ひとりふたりではなく、「それはちょっと違うんではないか?」と考えた高弟が他にも居た可能性を示唆しています。
なので、第一結集は、多聞第一という言われた阿難(アーナンダ)が経の部分を唱えて、参加者が認めたものを「仏説」として採用した、ということになっていますが、
ここのところも、やはり、弟子たちによって法の解釈にずいぶん幅があった、ということを考慮に入れないといけないところで。
さらに、上述したように、第一結集後、口伝で伝えられていくうちに、けっこう大事な部分が抜け落ちていくことがあったのですね。
上座仏教(テーラワーダ仏教)の側からすると、「大乗仏教は明らかに創作であるので仏説ではない」という、大乗非仏説論が強力であり、またその大乗非仏説論に対しては、学問的には打ち返すことがなかなか難しいです。
ただ一方、パーリ仏典のほうもずいぶんと増広があった、ということも学問的に指摘されているところはあるようです。
さらに、もう一点、”涅槃”解釈の手がかりを仏教学的に考察してみます。
原始経典には”涅槃”の同義語として30種類以上の用語が使われていることが分かっています。
そのなかで、”甘露(かんろ)”という用語に注目してみます。
この”甘露”は、仏教以前のバラモン教でも使用されていおり、”不死”という意味で使われておりました。仏教でもそれを踏襲して、甘露・不死を涅槃の同義語として使っていたということなのですね。
なので、この涅槃=甘露=不死の解釈に従えば、涅槃というものが肉体の死を契機にして、なにか生命活動を停止してしまうような意味ではないことが分かります。
*参考文献:『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著)
ましてや、「釈尊は無我を説いたのだからだから魂はない、死後の生命はない」などという解釈がいかに皮相的なものであるか、この涅槃=甘露解釈でもお分かりになることでしょう。
*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す
「迷い」の輪廻から脱して、「智慧」の輪廻に入るのが涅槃
なので、結論部分はすでに述べてしまいましたが、ひとことで言えば、
「迷い」の輪廻から脱して、「智慧」の輪廻に入るのが涅槃」というのが釈尊の本意であった、
ということです。
ネオ仏法的な用語で言えば、
実在界の観点でもって、現象界の意義を知ること。それが智慧。
つまり、
実在界に住んでいると似たような波動を発している人同士がひとつの世界に生きており、楽ではあるが学びが少なくなってくる(単純に飽きてくるという側面も)。
なので、時折、現象界に生まれて、新しい知見・スキル・経験をゲットしていく、ということです。これが(付加価値的な)智慧の側面であり。
また、その智慧を他者に布施していくこと、が慈悲に生きるということでもあります。
そして、智慧×慈悲=仕事量 を最大化するように現象界を生ききり、それをお土産に、より高次な実在界に還るようにする、それが本物の成功論である、
ということになります。
このように、
実在の視点から現象をしっかりと認識して、真実の成功論・幸福論を実現していくこと、それが真なる智慧であり、その智慧の中に生きている状態が涅槃
ということです。
そもそも、上座仏教で捉えているところの「涅槃」は具体的に、どのような状態なのでしょうか?
「無常・無我を観じ、そこから脱却した(=解脱)状態」であるとするならば、これは「生命活動そのものを停止した状態を言っているのか?」と思われても仕方がないでしょう。
なぜなら、生命活動が存続しているのであれば、「動き」があるわけですから、いまだに「無常・無我からは脱却していない」ということになります。
そして、生命活動を停止している状態が涅槃であるのであれば、これは結局、唯物論、「死んだらすべてナッシングになる」と言っているのと同じことになりますし、
そうであるならば、修行するよりも自殺したほうが話が早いじゃないか、という結論になってしまいますよね。
やはり、上座仏教の涅槃観そのものに、根本的な問題があるということです。
近代化に適応できない上座仏教(テーラワーダ仏教)
上座仏教では、そもそも現象界を輪廻の一環として否定的に捉えています。
*ただし、現世に「人」として生まれてきたことにより、仏法に出会い、解脱→涅槃のきっかけを掴むことができる、という限定的な意味合いは認めることになります。
そうすると、「近代化も何もあったものじゃない」ということになります。
むしろ、「近代化で生きやすくなるのであれば、余計に、輪廻から脱出するモチベーションが削がれる」なんて考え方も成り立つかもしれません。
そして、実際に、上座仏教国はなかなか近代化に対応できおりませんし、意外に犯罪や暴動の発生率も高いです。
これはやはり、「何か、どこかが違っているのではないか?」というフラストレーションから来ている側面もあると思います。
そういう意味からも、
「仏陀・釈尊の涅槃論はそもそもそういうものではない。迷い・無明に基づいた輪廻からの脱出を説いていたのであって、輪廻そのものの意義を否定していたわけではない」
ということをキチンとお伝えできたら、と思っています。
新時代への準備として、”諸法実相”をさらに超えること
大乗仏教の方では、もう少し現世に意味合いは認めていますし、大乗仏教の哲学からは、諸法実相(しょほうじっそう/法華経)ということで、「われわれが住んでいるところの現象世界もすなわち実在の現れなのだ」という考え方が出てきます。
なので、むろん、上座仏教よりは、現象界の意味合いを肯定的に捉えているとは言えますね。
*そういう意味で、実際には、大乗仏教のほうが釈尊の本意を忠実に再現している、という側面があるのです。
ただし、「菩薩が衆生の救済のためにあえて涅槃に安住せず、現実世界に生まれてくる」といったふうに、
ベースとしては、上座仏教の涅槃論を援用していますので、やはり、現世肯定といっても、かなり限定的な肯定にとどまる、という面は否めません。
日本は近代化に成功はしていますが、やはり贔屓目に見ても、いま主流であるところの鎌倉以来の仏教あるいは密教などが、宗教的な根拠として近代化に寄与しているとは言い難い、と思っています。
少なくとも、不十分です。
なので、ネオ仏法としては、ここの「現象論」「涅槃論」をさらにラディカルに、「仏智に基づいた現象界での勝利は、すなわち実在としての勝利でもある」ということで、
現象界のもろもろの事象ですね。政治・経済・経営・医療・芸術…といった各分野に、宗教哲学的な根拠と方向性を与え、「仏智を前提としているならば、むしろ現象界における進化は善である」というところまで踏み込んだ理論を提示していきたいと考えています。
ネオ仏法の体系的な理論については、下記の記事(シリーズ)をごん参照ください。
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