三法印の究極の到達目標とは?- 三法印の発現段階と新時代の三法印

三法印については、「仏教であることの旗印」ということで、今までいくつかの記事で言及してまいりました。

仏教の旗印であるということは、すなわち、仏教が目指すもの、仏教の到達目標であると言えますね。

今回は、まずはストレートに「三法印とはそもそも何であるか?」について、ベーシックな仏教理論をおさらいしつつ、その後に、「新時代の三法印はいかにあるべきか」というアップデートを行ってまいります。

目次

三法印の原型(三相)

三法印の原初的なかたちは、初期仏典において、まず「三相(さんそう)」というかたちで現れています。

三相とは、「無常、苦、無我」の3つです。テクストを読んでみましょう。

比丘たちよ、色(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(『雑阿含経』1-9)

下線を引いた部分、「無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。」と、なかなかリズムがいいですね。

ただちょっとすぐには意味が取りづらいかもしれません。

”苦”を直接的に、「苦しみ」と捉えるのであれば、やや解釈を含めた読み方をしたほうが分かりやすいでしょう。

無常と無我のおおまかな意味は下記のとおりです。

  • 無常:移り変わっていくこと、変転・変化していくこと
  • 無我:それ自体では在ることができない、実体のないこと

そうすると、まず、「無常なるものは苦である」については、「移り変わっていくものに執着することは苦しみである」と解釈できます。

そして、「苦なるものは無我である。」は、「苦しみは、実体のないものに執着するところに現れてくる」というふうに解釈すると意味が通りやすいでしょう。

この世のあらゆるものは過ぎ去っていきます。物質も心の状態も富も名声も過ぎ去っていきます(無常)。また、どのようなもの、たとえば、コップひとつとっても、素材や重力、位置関係などさまざまな関係性のなかでたまたまそこに”在る”だけであって、それらの条件が少しでも変化すればもろくも崩れ去っていきます。

そうした、無常なるもの、無我なるものに執着して、苦しみを作っているのが私たち平凡人(凡夫)の姿です。

それゆえに、「今、自分は苦しみの中にあるな」と思うときは、無常・無我の理を思い起こし、「無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。」と唱えると、かなり気が楽になります。

上掲の引用文全体の解釈については、下記の記事で解説していますので、ご参照ください。

*参考記事:無常・苦・無我(三相)とは?仏教学通説の誤りを正す

さて、ほぼ最初期の仏典と呼ばれる『ダンマパダ(法句経)』にも、この無常・苦・無我についての言及があります。

中村元教授の『真理のことば』の翻訳でチェックしてみましょう

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる、これこそ人が清らかになる道である。

「一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる、これこそ人が清らかになる道である。

「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる、これこそ人が清らかになる道である。(『ダンマパダ(真理のことば)第20章277−279節)

ブッダの 真理のことば 感興のことば

引用文中に、「諸行無常」「一切皆苦」「諸法非我」と( )に入れて書かれていますが、これは中村元教授の訳注で、原典にはないものでしょう。

かんたんに言えば、この3つが「三法印」ということになりますが、より一般的には、「諸法非我」ではなくて「諸法無我」と呼びます。

「非我」となっているのは、中村教授の独特の解釈です。

「無我」としてしまうと、文字通り「我が無い」ということになってしまいます。

後述しますが、”我”というのも形成されたもの、無常・無我なものですから、「無い」と言えないこともないのですが、ただそうすると、「だから、魂は存在しないのだ」と主張する仏教学も出てくるのですね。それで中村教授は「非我」としているわけです。

この、無我=無霊魂説はかなり強力で、現代でも根強いです。仏教系の大学でもそのように教えているところがいまだに多いと聞きます。

しかし、この点については、個人的に「近代仏教学の最大の負の遺産」だと思っております。

魂も来世もないのであれば、仏教は宗教ではなくなってしまいますし、「自己を無い」と言い切ってしまうと、そもそも自己を磨く、修行する意味すらなくなってしまいます。

ところが上掲の『ダンマパダ』には下記の一節もあります。

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。(『ダンマパダ』第13章160節)

このように、「自己」というものをハッキリと肯定していますね。

また、来世、天界や地獄について言及している節も『ダンマパダ』にはたくさんありますので、やはり、原典をそのまま読んだとしても、無我=無霊魂説はおかしなことになってしまいます。

この点は超重要な論点ですので、別記事で仏教哲学的にも論駁しております。ぜひ、ご参照ください。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

三法印とはなにか?

さて、上述した「三相」を元にして、仏教の旗印である三法印が成立しました。冒頭に述べました通り、旗印である以上は、三法印はすなわち「仏教の到達目標である」と言えるわけです。

三法印の成立

三相がいかに三法印として整備され、成立したかについてはなかなか確定的なことは言えませんが、龍樹(ナーガールジュナ)の『大智度論』に三法印の言及が見られます。

仏は三法を説いて法印となす。
いわく一切有為法無常印、一切法無我印、涅槃寂滅印なり。(『大智度論』巻32)

三法印の内容とは

それでは、三法印の内容をチェックしてみましょう。

かんたんに定義すれば、下記のとおりとなります。

  • 諸行無常(しょぎょうむじょう):一切の存在は移り変わり、変転変化していくものである
  • 諸法無我(しょほうむが):一切の存在はそれ自体で在ることができない
  • 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう):無常・無我の理を悟り、執着を断つことによって安らぎを得ることができる

まず、諸行無常については、とくに解説はいらないでしょう。日本人にはこうした無常観はとても馴染みが深く、平家物語の冒頭にも登場しますね。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

次に、諸法無我です。これは諸行無常に比べると、理解が難しいところだと思います。

諸法無我の「法」とは、この場合、「存在」くらいの意味です。

「法」はサンスクリット語では「ダルマ」、パーリ語では「ダンマ」となりますが、もともとの意味は「保たれたもの」ということで、そこから、存在・教え…など様々な用法へ転化していったのですね。

無我は「我が無い」と書きますが、この場合の”我”は「実体」という意味に解釈すればよいでしょう。

実体というのは哲学用語ですが、一言でいえば、「それ自体で存在する、永遠不滅のもの」ということです。

ところが、私たちの住んでいるこの世、現象界では、いかなる存在であっても、「それ自体で存在する、永遠不滅のもの」などはありません。

先にコップのたとえでご説明したように、コップひとつとっても、それは様々な素材・部位が今、仮に合わさって存在しているものです。

コップが乗っているところの机、あるいは空気、重力などの様々な条件に支えられて、かろうじて存在しているのであり、条件が少しでも変われば、壊れていきますよね。永遠不滅のものではあり得ない。

このように、あらゆる存在は相互依存によって、かろうじて”在る”ように観えているだけなのです。相互依存性、これを仏教哲学では「相依性(そうえせい)」などと言います。

このように考えると、諸行無常・諸法無我のどちらも、「実体ではない、変化していく、仮りそめの存在である」という点では共通している思想です。

では、諸行無常と諸法無我のどこに違いがあるのかと言うと、諸行無常は「変転・変化していく」という時間軸のなかで把握されているのに対し、諸法無我は「関係性の中で存在している」という空間軸のなかで把握されている、というふうに理解すれば良いでしょう。

どのような存在であっても、この時間軸と空間軸が交差する一点に、「今・ここ」にかろうじて有ることを許されている仮りそめの存在であるということです。

ところが、私たち平凡人はそうした仮りそめの存在に愛着・執着をして苦しんでいます。

モノだけではなく、富や名声も仮りそめのものです。自身や他者の肉体や心の動きですら、常に変転変化の中にあるのに、肉体と肉体に基づく欲求、”煩悩”によって苦しみを作っていますよね。

まさに、「無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である」というわけです。

ということは、苦しみの根源を断つには、無常と無我の理(ことわり)を知り、執着を断てばよいのだ、ということになります。

執着を断つことによって、一切の束縛から開放され(解脱)、心の平安を得ることができます。この境地がまさに「涅槃寂静」なのです。

涅槃はサンスクリット語で”ニルヴァーナ”、パーリ語で”ニッパーナ”と言いますが、原義は「(煩悩の)火を吹き消した状態」を指します。ここに、心の平安・安らぎがあるのです。現代風に言えば、「幸福論」ということになります。

ですので、涅槃寂静こそが三法印、ひいては仏教の到達目標そのものである、と言うことができます。

以上が従来の仏教および仏教学における「三法印の意味と到達目標」の解説でした。

涅槃(ニルヴァーナ)理解の更新

さて、ここからが、三法印のアップデート作業に入ることになります。

無常・無我の理(ことわり)を知り、現世的な執着を断ち、涅槃という究極の安らぎを得る。これでもちろん間違いはないのです。

ただ、私が個人的に「ここが不十分だ」あるいは「ここが正しく仏陀の真意を伝えていない」というところがあります。それがまさに”涅槃”のさらなる理解にあるのです。

仏教者(僧侶など)も仏教学者も、「涅槃に入ったらどうなるのか?」ということが十分に理解できていません。

一切の束縛(執着・愛着)から開放され(=解脱)、涅槃に入れば「輪廻の軛から逃れることができる」と解釈しています。

たしかに、仏典を読むと、そのように読めてしまう箇所があるのは確かです。

結論から言えば、仏陀が本当に説いていたのは、「涅槃に入ると輪廻の軛から開放される」ということではありません。少なくとも、それでは理解が不十分なのです。

輪廻は苦しいばかりではありません。

人間は心のあり方によって一定の波動を発しています。あの世(実在界)においては、波動の似通った者同士が惹かれ合い、集まって一定の”世界”を創り上げています。

それが、大まかに分類すれば、「天国・地獄」と呼ばれるものであり、また、そうした横割り構造だけではなく、趣味趣向の違いによる縦割り構造もあります。

要は、「気が合う人とだけ一緒に居ることができる」のが実在界なのです。

それはとても気が楽ではあるのですが、一方、刺激に乏しい面がありますよね。

ところが、現世では肉体を持っておりますので、波動の違う人とも会うことができます。…というより、会わざるを得なくなっています。

これが四苦八苦で言うところの、怨憎会苦(おんぞうえく)、「嫌な人と会う苦しみ」を引き起こしているのですけどね。

ただ、そうした人と会うことも何かしら学びがあることは事実なのです。また一方で、来世では波動が違いすぎて会えないような素晴らしい人とも会うことができるのが現世のメリットなのです。

そのようなメリットこそが、この世(現象界)の存在意義なのです。

こうした「波動理論」については下記の記事で詳しく述べていますので、ぜひお読みください。スピリチュアルにおける今までの疑問がみるみる氷解していくという体験をされるはずです。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

それゆえに、輪廻にもより積極的な意味合いを求めることができるのが真相なのです。

仏陀・釈尊が説いていたのは、あくまでカルマに突き動かされるように欲の世界(欲界)を次々に輪廻する苦しみからの脱却であったのです。輪廻そのものの否定ではありません。

ここのところが、仏陀の教えが口伝で伝えられているうちに抜け落ちていってしまったのです。

涅槃というのは「心の安らぎ」と上述しましたが、さらに言うならば、「不死を知る」ということでもあるのです。不死を知るとは逆に言えば、永遠の生命を知るということでもあります。

この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようにはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。(『真理のことば(ダンマパダ/法句経)第4章46節』)

このように、本来、私たちが居た世界、安らぎに満ちた実在世界における真実の自己のありかたを取り戻す、というのが、本当の涅槃なのです。

この世で肉体を持ちながら、無常・無我の理を悟り、さらに真実の世界へ参入していく ー これこそが仏陀の説いた涅槃です。

涅槃について書いているとまるまる数記事になってしまいますので、今回はここまでにしておきますが、「涅槃観の更新」については、下記の記事で詳述しておりますので参考になさってください。

*参考記事:解脱と涅槃の違い – 仏国土論としての涅槃まで見抜いていく

従来の三法印のまとめ – 「苦・三法印」と「捨・三法印」

ところで、三法印は仏教の旗印ではあるのですが、三法印ではなく「四法印」を立てることがあります。

四法印とは、

  • 諸行無常
  • 諸法無我
  • 一切皆苦(一切行苦)
  • 涅槃寂静

この4つです。

涅槃寂静が心の平安、すなわち幸福論であるのに対し、同時に、「一切皆苦」が並んでいるのは矛盾ではないか?と思われる向きもあるでしょう。

ハイ、私もそう思います(笑)。というか、四法印というのはちょっと、仏教の旗印としての整理がついていないのかな、と思うところもあります。

結局、無常・無我に翻弄されて苦しみを作っている状態、これが一切皆苦(一切行苦)なのです。

なので、これはさきに述べた「無常・苦・無我」の「三相」の相当します。

ゆえに、私は第一段階の三法印として、

  • 諸行無常
  • 諸法無我
  • 一切行苦

と再整理すべきであると思います。

*参考記事:三法印と四法印の違い – 一切皆苦と涅槃寂静でどう違ってくるのか?

私はこの状態の三法印を「苦・三法印」と名付けたいと思います。

これは私たち、平凡人(凡夫)のあり方です。ほとんどの人がそういう状態にあるでしょう。

そこで、仏陀は、「無常・無我の理をよく知れば、一切行苦から脱却し、涅槃寂静を得ることができるのだ」という論の運びをしていると思うのですね。

そして、一切行苦から脱却し、心の平安を実現した状態が、

  • 諸行無常
  • 諸法無我
  • 涅槃寂静

の三法印ということなのです。このように再整理したほうが分かりやすいと思われます。

無常・無我の理を知る以前が一切行苦であり、無常・無我の理を知り、執着を捨てた段階が涅槃寂静である。

俗な言い方をすれば、「使用前」が一切行苦であり、「使用後」が涅槃寂静ということになります。

このように、無常・無我の理を知り、執着を捨て、涅槃寂静を実現していく段階の三法印を私は「捨・三法印」と命名したいと思います。執着を捨てるという意味での「捨」です。

この「捨・三法印」において、「死王に見られない」永遠の生命、実在界に立脚した幸福感をまず手にすることができます。

三法印のアップデート(1)「知・三法印」

さて、三法印についての基本的なところは上述しましたが、まだまだ考察する余地はあると思っています。

「無常・無我の理を知り、涅槃(安らぎを得る)」という捨・三法印は、一言でいえば現世否定です。

ところが、わざわざ地上に生まれてくる以上は、現世には現世なりの意味を汲み取るべきだと思うのですね。

その一端を「波動理論」で上述しましたが、ここでは三法印をもとに考察してみましょう。

仏教の基本思想の骨格は「縁起」にあります。より具体的には「因縁生起」ということになります。

物事の生起は、

  • 因:直接原因
  • 縁:間接原因

によって惹起されるという思想です。

ですので、諸行無常、「常に変転・変化する」と言っても、でたらめに変化していくわけではなく、きちっと縁起の法に従って変化していっているのですね。

また、諸法無我は、「それ自体では存在できない」といういわば「関係性の哲学」ですが、この関係性も縁起の法に則っているわけです。

つまり、以下のように整理できます。

  • 諸行無常:時間軸における縁起
  • 諸法無我:空間軸における縁起

ハイデガーの「存在と時間」に合わせて整理し直しますと、

  • 諸行無常:時間論的縁起
  • 諸法無我:存在論的縁起

というふうに再定義しても良いでしょう。

*参考記事:諸行無常と諸法無我の違いとは?- 「存在と時間」で考えるとわかりやすい

ところで、時間軸における縁起(時間論的縁起)からは何が感得できるでしょうか?時間論的縁起は、通俗哲学で言うところの、「原因と結果の法則」です。

私たちはこの「原因と結果の法則」を内省することによって、”智慧”を得ることができます。

一方、存在軸における縁起(存在論的縁起)からは何が感得できるかと申しますと、これは一言でいえば”慈悲”なのです。

関係性の中にはもちろん、悪なるものもありますが、実際は現世的な悪(相対悪)というものも、最終的には絶対善のうちに回収されるからです。

*参考記事:神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?

諸行無常から智慧を、諸法無我から慈悲を感得し、涅槃寂静に入る。これは先の「捨・三法印」から比べると一段と進化した三法印のあり方です。

私はこの段階の三法印を「知・三法印」と命名したいと思います。「捨・三法印」に比べると、現世により積極的な意味合いを認めている段階の三法印です。

ここで「知る」というのは知識的に知るだけでは不十分です。もっとぐぐっと臓腑に落としていかなければならない。

そのために、瞑想が必要だと考えます。

三法印の瞑想については、若干、古い記事ですが、下記をご参照ください。

*参考記事:
三法印瞑想でこころの安らぎを得る(諸行無常編)
三法印瞑想でこころの安らぎを得る(諸法無我編)
三法印瞑想でこころの安らぎを得る(涅槃寂静編)

ここで大事になってくるのは、瞑想において「知・三法印」の理解が深まってくると、自然に「感謝」が湧き上がってくるということです。

たとえば、今、あなたの目の前、身の回りには何がありますか?

それらのひとつひとつを瞑想状態で連想していくと、あらゆるものに「智慧と慈悲」が込められていることがしみじみと分かってくるでしょう。

コップひとつとっても、それを設計した人がいて、個々のコップを製造した業者がいて、さらにそれを販売した人たちがいる。そうした流れを経て、今、あなたの前に「あなたのコップ」が在ります。

たったひとつのコップであっても、数多くの人の智慧と慈悲の積み重ねで、「今ここ」にコップが現出しており、あなたは紅茶を楽しむことができるのです。

コップを乗せているところのテーブルもそうでしょう。

身の回りのものすべてがそうなのです。先人と同時代に生きている様々な人たちの創意工夫・努力によって、あなたは生かされているのです。そして彼らにも、さまざまな人生ドラマがあったことでしょう。

また、空気や水などの環境もあなたが作り出したものではなく、与えられているものです。

あなたの肉体も、祖先から連綿と受け継いできたものです。

さらに、本当のあなたであるところのあなたの魂ですら、仏から頂いたものです。

このように考えていくと、すべてがすでに与えられ、生かされている自分に気づいていきます。そして、自然に感謝の思いが湧き上がってきます。

これこそが、「知・三法印」、本当に「知る」ということなのです。

この現世においても、仏の智慧と慈悲が自己展開している世界であることを知る。自らも仏子として生かされていることを知る。現世の再聖化です。

「捨・三法印」でいったん現世否定をし、実在界の価値観を取り戻したら、それを持ってもう一度、現世に舞い戻り、現世に積極的な意味を見出すのです。

ここにおいて、「知・三法印」において、私的幸福が完成されることになるのです。

三法印のアップデート(2)「行・三法印」

「知・三法印」が深まってくると、「すべてはすでに与えられているのだ。与えっきりの世界に自分は生きているのだ」と、自然に感謝の思いが湧き上がってきます。

感謝の思いに満たされると、今度は「自分も、人と世と仏のために何か貢献していきたい」という報恩の思いが出てきます。

感謝から報恩へ。これが自然な流れなのです。

ネオ仏法では、「人生の意味とミッション」はそれぞれ「智慧の獲得と慈悲の実践にあり、それを基盤とした幸福論を追求すべきである」と提唱しています。

しかし、これを知っても感情的にはなかなか慈悲の実践には行きづらいところがありますよね。

それゆえに、感謝→報恩という順序が大事になってくるのです。

報恩の具体化が慈悲の実践であり、慈悲を真に実践するためには智慧がなくてはなりません。

ここにおいて、人ははじめて自らの「人生の意味とミッション」に取り組むことができるのです。

このことを三法印に関連付けてみましょう。

今まで定義してきた苦・三法印から知・三法印までは、世界の成り立ちを知っていくという、いわば、受動的な三法印です。

しかし、感謝から報恩行へと転化していくときに、同時に三法印もより積極的・能動的なものにアップデートしていくことが可能なのです。

たとえば、諸行無常は「一切の事物は変転・変化していく」ということでしたが、それらを受動的に観ずるだけでなく、「自らが善き変化を引き起こしていく」という積極的な諸行無常があり得るはずです。

また、諸法無我は関係性の哲学ですが、これも「自らが善き関係を構築していく」という、より積極的な諸法無我になり得ますよね。

そしてこれら積極的な無常と無我の実践において、世界は仏国土へと近づいていきます。

つまり、公的幸福としての涅槃寂静です。

このように、

  • 諸行無常:智慧を持ってイノベーションを企画していく
  • 諸法無我:積極的に慈悲の関係性を構築していく
  • 涅槃寂静:ポジティブな無常・無我の実践により、公的幸福(仏国土)を実現していく

という、いわば、「ポジティブ三法印」が可能となってきます。

私はこの段階の三法印を「行・三法印」と名付けたいと思います。

知・三法印から行・三法印へ ー ここにおいて、陽明学で言うところの「知行合一」が成し遂げられます。

以上、本稿では従来の三法印をお浚いしつつ、新時代の三法印へとアップデートを行いました。

整理しますと、

  1. 苦・三法印
  2. 捨・三法印
  3. 知・三法印
  4. 行・三法印

この順序となります。

一般に、形而上学と実践哲学はなかなか相容れないものですが、ネオ仏法では、形而上学の純化が進むにつれて実践性も増していくという特徴を持っています。

形而上学と実践哲学の弁証法的総合(中道的発展)です。

この記事をきっかけに、三法印の発展段階を駆け上っていかれる方が増え、もって、世界の仏国土化が進んでいくことを願っています。

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